2024年12月26日木曜日

大杉栄とその時代年表(356) 1901(明治34)年9月12日~15日 中江兆民、僅か10日間で『続一年有半』脱稿 「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」(幸徳秋水)

 

子規『仰臥漫録』9月12日「昨日床屋の持て来てくれた盆栽」

大杉栄とその時代年表(355) 1901(明治34)年9月7日~10日 「気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。」(関川夏央) より続く

1901(明治34)年

9月12日

この日の子規『仰臥漫録』に「昨日床屋の持て来てくれた盆栽」の絵あり。


「午後沼津の麓の手紙来る

麓留守宅より鰻の蒲焼贈り来る

高浜より使い、茶一かん、青林檎ニ、三十 金一円持来る 茶は故政夫氏のくやみかえし、林檎は野辺地の山口某より贈り来るもの、金円は臍斎(せいさい)より病気見舞い」(『仰臥漫録』)


9月12日

ロンドンの漱石


「九月十二日(木)、寺田寅彦・野々口勝太郎から手紙来る。寺田寅彦宛手紙に、下宿の老嬢の文学的教養とフランス語を自由に話すことに驚いたと伝え、「學問をやるならコスモボリタンのものに限り候英文學なんかは縁の下の力持日本へ帰つても英吉利に居つてもあたまの上がる瀬は無之候」「僕は留學期限を一年のばして仏蘭西へ行き度が聞居られさうにもない」と書く。(この頃、フランスへ留学することを本気で考えていたらしいが、希望がかなえられず失望する。この日の新聞(不詳)で Sie Arthur Ruker (リュッカー教授)が、 The British Association for the Advancement of Science (イギリス科学振興協会)で行った ""Atomic Theory"" (原子論)に関する演説を読み、興味覚える。)」(荒正人、前掲書)



9月12日 漱石の寺田寅彦宛の手紙。


「同氏(池田菊苗)とは色々話をしたが頗る立派な学者だ化学者として同氏の造詣は僕には分らないが、大なる頭の学者であるといふ事は慥かである同氏は僕の友人の中で尊敬すべき一人と思ふ」と池田菊苗を評し、「君の事をよく話して置たから暇があったら是非訪問して話をし給へ君の専門上其他に大に利益がある事と信ずる」と記す。(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))


9月13日

那桐清国特使参内。北清事変について陳謝の国書提出。

9月13日

兆民は、岡田の勧告と医療処置を受け入れ、9月13日より筆を執り、わずか10日間で脱稿した。『続一年有半』である。秋水はこう伝えている。

「令閏始め一同が、そんなにお書きなさると一倍病気に触りましやう、お苦しいでしやうと言ても、書なくても苦しさは同じだ、病気の療治は、身体を割出しでなくて、著述を割出しである、書ねば此世に用はない、直ぐに死でも善いのだと答へて、セツセと書く、疲れゝば休む、眠る、目が覚めれば書くといふ風であった」

9月13日

この日の『仰臥漫録』に「朝顔」の絵と句あり。

9月13日

9月13日~14日 ロンドンの漱石


「九月十三日(金)、 Dr. Furnivall (ファニヴァル博士)に逢う。

九月十四日(土)、午後、 Wimbledon Common (ウィンブルドン共有地)に行き、桑原金之助(推定)の宅に一寸立寄る。七時三十分帰宅する。桜井房記から手紙届く。」(荒正人、前掲書)


9月14日 漱石に五高校長桜井房記からの手紙が届き、以前周旋を依頼しておいた留学期限延長とフランスに移る件が不許可になったと伝えられる。更に、東京転任の希望すらも覚束ない様子を伝えられる。


「フランス留学の希望は強かったらしい。フランス語は、大学予備門で建築家を志した時に学んでいたと想定される。ロンドンでも勉強していたものと想像される。かなり自信があったらしい。」(関川夏央、前掲書)

9月14日

清国、学校改革令発布。

9月14日

「九月十四日午前二時頃、子規は耐えがたい腹痛で目覚めた。深夜に絶叫号泣。ついで「下痢水射三度許(ばかり)」とある。

隣家の医師を叩き起こそうとしたが、あいにく旅行中で留守という。電話を借りて、やや離れた場所に住む医師に連絡をとった。夜が明けてやや痛みも鎮まった頃、代診の若い医師がやってきた。疲労困懸。」(関川夏央、前掲書)

9月14日

マッキンレー米大統領、没。副大統領セオドア・ルーズベルト、大統領就任(~1909年3月)。

9月15日

この日の子規『仰臥漫録』


「昨夜疲れて善く眠る

(略)

夕暮前やや苦し 喰いすぎのためか」


9月中旬

元軍医総監・男爵の石黒忠悳(1845~1941)、中江兆民を見舞う。石黒は、兆民中江篤介なる人物が不治の病に倒れたとの報を聞き、30年前、自分に診察を頼んだ一青年が中江篤介と名乗っていたことを思い出し、堺で療養する兆民に、見舞いかたがた問合わせの書状を送った。これに対し兆民は、診察を乞うたのは間違いなく自分だと返書。帰京した兆民を石黒は、確認されるだけでも、9月中旬、10月下旬、11月15日頃、12月初旬と、4回見舞う。告別式にも参列。

この石黒の見舞訪問や石黒と兆民の奇縁が新聞に報道されたことが、森鴎外に微妙な波紋を投げかける。

「逢ひたくて逢はずにしまふ人は沢山ある(中略)。中江篤介君なんぞは、先方が一度私を料理屋に呼んで馳走をしてくれたことがあるのに、私は一度も尋ねて行ったことがない。それが不治の病になったと聞いて、私はすぐに行きたいと思つた。そのうちに一年有半の大評判で、知らない人がぞろぞろ慰問に出掛けるやうになつた。私はとうとう行かずにしまった」と、鴎外の「長谷川辰之助」(『二葉亭四迷』(坪内逍遥・内田魯庵編)にある。兆民の療養時、鴎外は第一二師団軍医部長として小倉に滞在していたから、容易には兆民を見舞うことはできなかったかも知れないが、必ずしも見舞いが不可能ではなかったはず。鴎外は石黒に穏やかならぬ感情を抱いていたといわれ、鴎外には石黒は煙たい存在で、石黒も鴎外に全幅の信頼を寄せていたわけではないようだ。


つづく

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