1901(明治34)年
9月17日
連合軍の北京撤兵完了。
9月17日
この日の子規『仰臥漫録』に「ニ、三日前にちぎりし夕顔(実物大)」の絵あり
9月18日
元老伊藤博文、ロシアとの交渉のため横浜港出発(公式はイェール大學記念式典出席)。日露協商交渉を意図(ロシアとの戦争回避。「満鮮交換論」者)。日英同盟を進めようとする桂太郎にとっては雑音。
10月21日ワシントンでルーズベルト大統領と会見。
23日イェール大学で称号授与。
11月4日パリ着。
9月18日
『時事新報』、埼玉県の企業家関根イトの女工虐待に関する裁判を報道。女工虐待問題批判の世論高まる。
9月18日
「九月十八日午後、虚子がきた。このとき虚子は、九段坂上の富士見町に転居したことを告げた。家賃十六円という。子規は初耳である。ほかに「ホトトギス」事務所を猿楽町に借りている。こちらは四円五十銭という。「ホトトギス」と俳書の刊行だけでここまできたのは、虚子の才覚には違いない。感心する。感心はするけれども、かすかな不快の念がともなうのをおさえられない。
上根岸の「吾盧(わがろ)」の家賃は六円五十銭にすぎない。」(関川夏央、前掲書)
9月19日
澤田美喜、誕生。エリザベス・サンダース・ホーム創建者。
9月19日
9月19日の子規『仰臥漫録』
「家賃くらべ
虚子(九段上)十六円。飄亭(番町)九円。碧梧桐(猿楽町)七円五十銭。四方太(浅嘉町)五円十五銭。鼠骨・豹軒同居(上野源泉院)二円五十銭
吾盧(わがろ)(上根岸鶯横町)六円五十銭 ホトトギス事務所 四円五十銭 把栗(大久保)四円、秀真(本所緑町)四円(畳建具なし)
「自分は一つの梅干を二度にも三度にも食ふ。それでもまだ捨てるのが憎い。梅干の核(たね)は幾度吸(す)はぶつても猶酸味を帯びて居る。それをはきだめに捨ててしまふといふのが如何にも憎くてたまらぬ」
「これを読んだ虚子が、自分へのあてつけと思ったのは当然であった。『仰臥漫録』は、つねに子規の枕頭に置いてあり、訪問者は自由に見ることができた。これはおもしろい、という感想が大勢を占めたが、虚子は『仰臥漫録』が子規の自分に対する「不平を洩らす為の記録ではないか」(『柿二つ』)とさえ疑った。」(関川夏央、前掲書)
9月20日
石光真清大尉(変名「菊池正三」)、ハルピンで「菊池写真館」開業。支配人は山本逸馬(甲武鉄道信濃町駅長)、他に東京の「小川写真館」から技師2人を雇用。石光は日本郵船ウラジオストク支店長寺見機一を通じて東清鉄道運輸部長ワホウスキーと交渉し土地貸与・営業許可の助力を得、また、東清鉄道指定写真館にしてもらう厚遇をえる。写真館には東清鉄道から建設状況・地形・風景など、またロシア満州派遣軍の報告用軍事施設撮影などの注文が入る。
9月20日
川俣事件、控訴審始まる。
10月5日、判事・検事・弁護士・記者、現地検証。毎日新聞記者松本英子ルポ「鉱毒地の惨状」。
9月20日
9月20日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「夕刻左千夫本所の与平鮨一折を携えて来る
上野の森の梟しばし鳴いてすぐ止む
虚子より『ホトトギス』先月分のとして十円送り来る
律は理窟づめの女なり 同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に課したることなどは少しも分らず 例へは「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜぬなり (・・・・・)故に若し食ひたいと思ふときは「団子買ふて来い」と直接に命令せざるべからず 直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし その理窟っぽいこと言語道断なり 彼の同情なきは誰に対しても同じことなれどもただカナリヤに対してのみは真の同情あるが如し 彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にても二時間にても只何もせずに眺めて居るなり しかし病人の側には少しにても永く留まるを厭ふなり 時々同情といふことを説いて聞かすれども同情のない者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方なきことなり」
「幼年期の兄が近所の悪童らにいじめられて泣いて帰ると、仇をとりに石をつかんで駆け出したという逸話を残す律は、士族の娘ではあったが、その時代の松山の平均的な女子のように小学校の尋常科四年で公教育を終え、やがて嫁した。最初の夫は軍人、二番目は教員であった。どちらの結婚生活も短かった。
二番目の夫とともにあった明治二十八年、子規大喀血の報に接した律は、神戸の病院を出たら兄は松山に帰ってくるはずだと考え、兄の介抱のため一日おきに実家へ帰らせてもらうと夫に宣言した。夫が渋るとそのまま離婚した。五尺に満たぬ貧弱な体の夫にもともと不満だったという見立てもあるが、律が兄を優先するのは自然な反射のごときものであった。
その後、律は母八重とともに上京、兄の死まで根岸で三人暮らしをつづける。律の結婚歴は別に秘密というのでもなかっただろうが、碧梧桐、虚子らの松山出身者らを除けば知る者はほとんどいなかった。
叫喚する兄を、まさに「木石の如」く受けとめ、毎日一時間かけて膿だらけの繃帯をとりかえる。便をとり、大量の汚れものを庭先の井戸端で日ごと洗う。そのうえ、あらゆる家事をほとんど言葉なく着実にこなす。兄の看病のためにこの世にあるかのような律に有夫の時代があったとは、ましてそれが二度におよんでいたとは、誰も想像しなかったのである。
律は硬い輪郭線を持った女性であった。そしてたいていの人にはその輪郭線しか見えなかった。
この日、律についてしるす子規の筆致は過剰に冷静である。非情とさえいえる。」(関川夏央、前掲書)
つづく
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