1901(明治34)年
9月3日
この日の子規『仰臥漫録』より
朝、ぬく飯2椀、佃煮、梅干、牛乳5勺ココア入り、菓子パン数個
昼、粥3椀、「鰹のさしみに蠅の卵あり それがため半分程食う」、味噌汁1椀、煎餅3枚、水レモン1杯
夕、粥2椀、わらさ煮旨からず、三度豆、芋、鮨少し、糸蒟蒻、「総て旨からず 佃煮にて食う」、梨1つ
9月3日
ロンドンの漱石
「九月三日(火)、村上直次郎、パリから(推定)来る。」(荒正人、前掲書)
9月4日
蔵相、全国地方長官に、会社銀行設立に関し内訓。
9月4日
「九月四日は目覚めて「日本」と、わざわざ送らせている松山の「海南新聞」を含む五紙を読み、朝食には、佃煮と梅干をあてに雑炊三椀。ほかにココア入り牛乳を一合と菓子パン二個。
昼は、鰹の刺身、みそ汁、佃煮で粥三椀。それに葡萄酒一杯と梨二つである。
間食には、律に買いに行かせた芋坂団子を四串食べ、麦湯一杯を飲んだ。ほかに塩煎餅三枚と茶を一杯。
夕食は、なまり節とキャベツのひたしで粥を三椀。それに梨一つ。
これが平均的な一日の食事の量と内容だ。・・・・・」(関川夏央、前掲書)
この日の子規『仰臥漫録』より
「家庭の快楽ということいくら云うても分からず
物思ふ窓にぶらりと糸瓜哉
肋骨の贈り来りし美人画は羅(うすもの)に肉の透きたる処にて裸体画の如し
裸体画の鏡に映る朝の秋
美女立てり秋海棠の如きかな」
9月5日
第一銀行、韓国度支部(大蔵省)に対し租税を抵当として50万円を貸付ける契約に調印。'02年、3回にわたり35万円貸付。
9月5日
この日
「午前 陸妻君巴さんとおしまさんとをつれて来る 陸氏の持帰りたる朝鮮少女の服を巴さんに着せて見せんとなり」(子規『仰臥漫録』)。
子規はその姿を写生し、「芙蓉よりも朝顔よりもうつくしく」と書き込んでいる。羯南の娘たちは、門人たちとは別にどれだけ子規を慰め得たか。」(森まゆみ『子規の音』)
9月6日
「九月六日の間食には上等の西瓜を買わせ、十五切れ食べた。」(関川夏央、前掲書)
この日の子規『仰臥漫録』より
「午後 おいくさん、巴さん、おしまさん三人来り
西洋の廻燈籠をまわして遊ぶ 皆鰕茶の袴なり
左千夫来る 昨夜興津より来りしなりと 山北の鮎鮨御土産に買い来りしが新橋着遅くかつ雨なりし故こちらに寄らずに帰りたりと 興津行は『週報』課題松の歌を作りしに行きしなりと〈今日は太白という八幡梨を持参〉」
9月6日
米、ウィリアム・マッキンレー大統領、バッファローでポーランド系二世の無政府主義者に狙撃。14日に死亡。
9月7日
辛丑条約(北京議定書)締結。11ヶ国全権との間。清は賠償金4億5千万両(7億3,882万707米ドル)の39年分割払い(年利4分、元利合計9億8200万両。ロシア29%・フランス15.8%・ドイツ20%・イギリス11.2%・日本7.7%・アメリカ7.3%。1940年迄払い続ける)、大沽砲台の撤去、北京公使館区の各国軍隊駐留、関税の改定、外国公使館の武装化、清国人官吏92人の処罰などを受け入れる。清国の半植民地化が進む。
前年8月15日、西太后は北京から逃走する途中で義和団を弾圧する上諭を出したが、同時に列強との和議を図るよう李鴻章に指示を出した。その時後々有名となる次のことばを用いている。
「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目はつけるな)。列強との交渉は慶親王奕劻及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が担ったが、敗戦国という立場上列強の言いなりとならざるを得ず、非常に厳しい条件が付せられた。またそれは西太后の地位を守るための代償という意味合いもあった。
義和団の乱の責任は端郡王載漪や剛毅ら数人の重臣と地方官僚50人ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。1901年9月7日に締結された条約中、もっとも過酷だったのは賠償金の額であった。清朝の歳入が8800万両強であったにもかかわらず、課された賠償金の総額は4億5000万両、利息を含めると9億8000万両にも上った。このしわ寄せは庶民にいき、「掃清滅洋」という清朝を敵視するスローガンは、義和団以外にも広がりを見せるようになる。
連合軍は首都北京及び紫禁城を占領し、北京議定書によって清国は賠償金(庚子賠款(英語版))を支払い、北京周辺の護衛は外国部隊が任務にあたることになった。
大日本帝国は北京と天津に清国駐屯軍 (後に支那駐屯軍)を設置した。これはのちの日中戦争初期の主力部隊となる。
賠償金の返却
あまりにも過酷な賠償金請求に対し、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学(1911年 - )を創設した。この大学は北京大学と並んで中国を代表する名門大学として成長した。
日本も1922年に賠償金の一部を中国に対する東方文化事業に使用することを決定し、中国側に通告した。日本の外務省には、対支文化事業部が新設され、日中共同による「東方文化事業総委員会」が発足した。また、東亜同文会・同仁会・日華学会・在華居留民団など日本国内で日中関係進展にかかわる団体への補助を行ったり、中国人留日学生への援助を行った。また、北京人文科学研究所・上海自然科学研究所・東方文化学院など学術研究機関を設置した。東方文化学院は、後に東京大学東洋文化研究所と 京都大学人文科学研究所東方部に改編された。
9月7日
兆民は、小島竜太郎らの勧めで最後の治療を東京で受けるため、この日(9月7日)堺を発ち、10日、東京小石川の自宅に帰る。
帰京直後に診察した岡田和一郎に対し、兆民は、腫瘍が増大し劇痛のため眠ることができず、嚥下も困難で、死期の近いことが察せられるとし、死期を明言すること、死因は悪疫質性衰弱なのか、腫瘍破裂に続く出血なのか、食道閉塞による飢餓なのか、あらかじめ知らせてほしいと訴えている。岡田は、綿密に検診した後、死因は、徐々に起こってくる悪疫質性衰弱によるだろうと思われるから、本年中はもちろん来年2、3月頃までは生命は保ちうると答えた。
これを聞くと、兆民は、失望した顔色を示して、「余近日ニ到り病大ニ増悪セルヲ以テ、我事当ニ一週ヲ出デズシテ終告(ママ)ヲ告グルナルべシト大ニ喜ビシガ、今又先生ノ言ヲ聞ケバ尚四五月ノ病苦ヲ忍バゲルヲ得ザルガ、是余ノ望ム所ニアラズ、請フ一刀患部ヲ截テ死ヲ早カラシメヨ」と告げた(「一二珍奇ナル食道癌ニ就テ」)。兆民の意思は、石筆と石盤による筆談によって伝えられているが、安楽死を望むほどの苦痛に襲われていたのである。
ノドの内外の腫瘍の脹れがびどいため、兆民は横になることも、あおむけになることもできず、枕の上に両手を並べ額を支えてうつ伏せにしているという姿勢が、ずっと続いていた。この姿勢も苦しかったに違いない。
兆民は、すでに次の著述の構想を抱いていたようだが、死期の近いことを察知し、起稿をあきらめていた。岡田は、4、5ヵ月あれば脱稿まで十分である、痛み、不眠、せきなどの障害は薬物で除くようにするから、腹案のできている著述を始めるよう、勧めた。
つづく
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