子規『仰臥漫録』9月23日「巴里浅井(忠)氏より上の如き手紙来る」
大杉栄とその時代年表(357) 1901(明治34)年9月17日~20日 「律は理窟づめの女なり 同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に課したることなどは少しも分らず (略) 時々同情といふことを説いて聞かすれども同情のない者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず 不愉快なれどもあきらめるより外に致し方なきことなり」(子規『仰臥漫録』) より続く
1901(明治34)年
9月21日
親英派小村寿太郎、駐清公使から外相就任。総務長官(外務次官)珍田捨己・政務局長山座円次郎・通商局長杉村濬と朝鮮通の外交官。駐清公使内田康哉。
9月21日
永代借地権に関する法律公布。
9月21日
啄木(15)、回覧雑誌『爾伎多麻』第1号に「翠江」の筆名で美文「秋の愁ひ」・短歌「秋草」30首・「嗜好」等を発表。現存する啄木最古の作品。同雑誌は2号まで発行。
9月21日
9月21日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「律は強情なり 人間に向つて冷淡なり 特に男に向つてshyなり 彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり しかも其事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となり了(をは)れり (略) 而して彼(律)は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり 野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり 肉や肴を買ふて自己の食料となさんなどとは夢にも思はざるが如し 若(も)し一日にても彼なくば一家の事は其運転をとめると同時に余は殆ど生きて居られざるなり 故に余は自分の病気が如何やうに募るとも厭はず、只彼に病無きことを祈れり (略)
(中略)
彼は癇癪持なり 強情なり 気が利かぬなり 人に物問ふことが嫌ひなり 指さきの仕事は極めて不器用なり 一度きまった事を改良することが出来ぬなり 彼の欠点は枚挙に遑(いとま)あらず 余は時として彼を殺さんと思ふ程に腹立つことあり されど真実彼が精神的不具者であるだけ一層彼を可愛く思ふ情に堪へず (略)
病勢はげしく苦痛つのるに従ひ我思ふ通りにならぬために絶えず癇癪を起し人を叱す家人恐れて近づかず 一人として看病の真意を解する者なし」
9月21日
ロンドンの漱石
「九月二十一日(土)、洋服屋に代金払う。 Glasgow University (グラスゴー大学)から試験問題を請求される。 Morris (モリス)を連れて散歩する。」(荒正人、前掲書)
9月22日
9月22日 この日付けの夏目漱石の妻、鏡子宛て手紙。
「近頃少々胃弱の気味に候。胃は日本に居る時分より余りよろしからず、当地にては重に肉食を致す故猶閉口致候。
「近頃は文学書は嫌になり候。科学上の書物を読み居候。当地にて材料を集め帰朝後一巻の著書を致す積りなれど、おれの事だからあてにはならない。只今本を読んで居ると、切角自分の考へた事がみんな書いてあつた。忌々しい。
「先達御梅さんの手紙には博士になつて早く御帰りなさいとあつた。博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷(しい)。博士なんかを難有る様ではだめだ。御前はおれの女房だから、其位な見識を持つて居らなくてはいけないよ。・・・・・」
「また(*鏡宛手紙に)、桜井房記にフランスへの留学延期の件を文部省に頼んで欲しいと云ってやったが、文部省から、一切聞き届けぬとのことで、泣き渡入りしていると伝えている。」(荒正人、前掲書)
9月23日
中江兆民「続一年有半(無神無霊魂)」脱稿。秋水の援助で刊行。
9月23日
福田英子(37)、角筈女子工芸学校設立。自らも寡婦(子供3人)となり、婦人の経済的独立のための技術をみにつけるための学校。造花・刺繍。月謝1円、対象は13~40歳。経営は順調であるが、女の行儀がうるさい世間で評判が悪くなり閉鎖。
9月23日
この日付けの子規『仰臥漫録』
「巴里浅井(忠)氏より上の如き手紙来る」と。
続いて、子規は、芭蕉の
「五月雨をあつめて早し最上川」は、
「この句、俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので、今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考えて見ると「あつめて」という語はたくみがあつて甚だ面白くない。 」という。
子規はその代わりに、
「五月雨や大河を前に家二軒」という蕪村の句のほうが「遥かに進歩して居る」という。
9月23日
ロンドンの漱石
「九月二十三日(月)、 Glasgow University (グラスゴー大学)へ手紙を出す。 King's College へ行く。 Denny (デニー)で ""Ethics"" 及び ""Origin of Art"" を買う。」(荒正人、前掲書)
9月24日
日清間で、重慶日本専管居留地取極書調印。11月7日告示。
9月24日
9月24日 秋分の日。朝、大原家の大叔母が餅菓子持参で子規を見舞う。
「・・・・・信州から氷餅(ひもち)を送ってきた。陸家からは自家製の牡丹餅(ぼたもち)をもらった。お返しに菓子屋にあつらえた牡丹餅をやった。
「牡丹餅をやりて牡丹餅をもらふ。彼岸のやりとりは馬鹿なことなり」
この日の三食の献立。
朝飯 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 牛乳(ココア入) 餅菓子一つ 塩せんべい二枚
午飯 粥三わん かじきのさしみ 芋 なら漬 梨一つ お萩一、二ケ
間食 餅菓子一つ 牛乳五勺(ココア入) 牡丹餅一つ 菓子パン 塩せんべい 渋茶一杯
夕 体温卅七度七分 寒暖計七十七度 生鮭照焼 粥三わん ふじ豆 なら漬 葡萄一ふさ
このうち、佃煮、なら漬、餅菓子、牡丹餅、葡萄はもらいものである。ほかに食前に葡萄酒を一杯飲み、クレオソートを毎日六粒ずつ服用している。
この日の献立をざっと計算してみると、合計三八〇〇キロカロリーの熱量がある。現代の成人男子で一日二五〇〇キロカロリー、六十四歳軽労働なら一八〇〇キロカロリーで十分とされるから、寝返りさえ満足に打てぬ重病人としては破格である。
魚の刺身などは十五銭から二十銭した。現代では二千円か。これらは子規だけの特別食である。長塚節が人を介して届けてきた鴨三羽、左千夫が持参した本所与平の鮨、虚子が持たせてよこした小エビの佃煮、ウニ、神田淡路町風月堂の洋菓子、大阪から送ってきた松茸や大和柿、みな子規だけのものだ。左千夫、鼠骨、虚子ら高弟が相伴することばあるが、五十六歳の母と三十一歳の妹は、ときに野菜煮などは食するものの、「平生台所の隅で香の物ばかり食ふて」いたのである。」(関川夏央、前掲書)
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿