2021年1月31日日曜日

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で河上肇「味噌」を読む 2021-01-31

 1月31日(日)、はれ

ふとしたきっかけで茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)を読んだ。

冒頭、谷川俊太郎の詩集『二十億光年の孤独』から「かなしみ」がある。


あの青い空の波の音が聞えるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい


そして、少し進むと吉野弘が出て来る。

僕らの頃の高校の教科書には谷川俊太郎だったが、その後は吉野弘と聞いている(「夕日」だったか)。ジュニア新書としての導入口としては最適。

そして石垣りんや金子光晴と続き、最後のあたりで河上肇さんが出て来る。河上肇さんの漢詩は知っていたが、詩も作ってたのかと少し驚いた。本書では、河上肇さんの詩は三篇紹介されているが、「味噌」が紹介されている箇所を、以下引用。


河上肇(一八七九 - 一九四六年)は経済学者でしたが、名文家としても知られています。京大教授の席を追われ、戦前の左翼の地下活動、検挙、五年近くの獄中生活、出獄、敗戦の翌年死亡という、波乱に富んだ生涯は『貧乏物語』『自叙伝』にくわしく、かつては、学問好きの若者にとって必読の書であった時代がありました。権力に屈しなかった、ひたすらな学問追究の態度、当然おそってきた悲惨な生活、それに耐え、最後まで人間らしい豊かな感性を失なわなかった人柄は、多くの人を惹きつけてやまないものがあります。

詩、短歌、漢詩も書いていて、ノートに整理されてあったそれらを集め、没後『河上肇詩集』一巻として出版されました。「河上肇の詩はいいですねえ、大好きです」と言うと、「河上肇? 経済学者の? 詩も書いたんですか?」とびっくりされるので、そんなに知られていないことだったがと、今度はこちらがびっくり。

(略)

『河上肇詩集』をよむとき、こちらを打ってくるのは、その性格のまっ正直さ、無邪気さ、ほほえましさです。ほほえましいといえば、一つの詩、一つの短歌を何度も手直しし、同じテーマを反復しているところがたくさんありますが、私の考えでは、一番最初のものが一番いいという結果になっていて、河上肇博士には失礼ですが、推敲すればするほどまずくなってゆきます。自分でもどれがいいやら皆目わからなくなったと書いているところがあって、吹き出してしまいました。

素人っぽさを残している反面、志の高さはなみの詩人より、はるかに上を行っています。漢詩の教養が深い人だったので、「詩は志なり」という、中国の古代からの詩観が抜きがたくあり、そしてまたその生きかたも、妥協を排し、マルクス経済学者としての信念を貫いた生涯であってみれば、当然、詩も、おおかたとは別種の香気を放たずにはいないでしょう。


味 噌       河上 肇

関常の店へ 臨時配給の

正月の味噌もらひに行きければ

店のかみさん

帳面の名とわが顔とを見くらべて

そばのあるじに何かささやきつ

「奥さんはまだおるすどすかや

お困りどすやろ」

などとおせ辞去ひながら

あとにつらなる客たちに遠慮してか

まけときやすとも何んとも云はで

ただわれに定量の倍額をくれけり

人並はづれて味噌たしなむわれ

こころに喜び勇みつつ

小桶さげて店を出で

廻り道して花屋に立ち寄り

白菊一本

三十銭といふを買ひ求め

せなをこごめて早足に

曇りがちなる寒空の

吉田大路を刻みつつ

かはたれどきのせまる頃

ひとりゐのすみかをさして帰りけり

帰りてみれば 机べの

火鉢にかけし里芋の

はや軟かく煮えてあり

ふるさとのわがやのせどの芋ぞとて

送り越したる赤芋の

大きなるがはや煮えてあり

持ち帰りたる白味噌に

僅かばかりの砂糖まぜ

芋にかけて煮て食(た)うぶ

どろどろにとけし熱き芋

ほかほかと湯気たてて

美味これに加ふるなく

うまし、うましとひとりごち

けふの夕餉を終へにつつ

この清貧の身を顧みて

わが残生のかくばかり

めぐみ豊けきを喜べり

ひとりみづから喜ベリ

     --『河上肇詩集』

一九四四(昭和十九)年の元旦の作です。

冬になると「味噌」という詩を思い出し、この通りに里芋を煮てみたりします。今は砂糖も味噌も、分量はおもいのまま、柚子をきざんで散らしたりして、おいしい一品ができあがります。

材料の仕入れから、料理順序までを詩にしている例はめずらしいのですが、物が乏しくすべてが配給だったせいで、一つ一つをそれはそれは大事に扱っていて、それが一篇の詩を成立させています。

関常(かんつね)という味噌屋のおかみさんが、こっそり倍の味噌をくれる風景も、当時をほーふつとさせ、そのおかげで、この店の名は記憶に値するものとなりました。「顔」がきかなければ、汽車の切符もろくに買えないような時代でしたが、作者は見返り品ひとつない政治犯としての、惨憺たる佗びずまいであったのに、庶民からも敬し、愛される何かをもっていた人のようです。

三十銭で買った一本の白菊。

「清福」という言葉、その内容を、これほどしみじみ悟らせてくれる詩もありません。


この「関常」さんという味噌屋さん、どうなったんだろうとググったら、どうやら2000年の初めまでは下(↓)の看板を掲げていたとのこと。


なお、河上肇さんはこの詩を書いた2年後の1946年1月30日(あ、昨日が命日だった)に66歳で亡くなられた。

お墓は法然院にあり、何度か訪れたことがある。

京都 法然院 河上肇夫妻の墓

京都 哲学の道を通って法然院へ 河上肇さんのお墓に参る 2016-01-01

《河上肇関連記事》

泥棒にも響いた伯父の正義感 河上肇のおい 河上荘吾さん(88) (『朝日新聞』2017-06-14)

河上肇「貧乏物語」100年 : 読売新聞 ; 「なぜ、100年前の著作が“熱い”ままなのか」 「生存はできても、社会的生活を送れない貧困層を科学的分析に基づいて明らかにした河上の指摘は残念ながら今も“新しい”というわけだ。」 / 安倍晋三「デフレでない状況 景気回復できてる」 「世界の真ん中で輝く日本を」 ← どこに目が付いてんのか? / 消費不振の長期化(15ケ月連続減少);「その大きな要因の一つには賃金の伸び悩みがある」

書評『現代貧乏物語』橋本健二著 ; 「河上肇は当時最先端の経済学者ですが、単に研究成果を発表するためにこの本を書いたのではなく、『貧困は悪』ということを人々に理解させ、世を動かし、貧困を根絶しようとした。」 「貧困を克服するためにまず必要なことは『貧困はあってはならない』という合意の形成。『機会の平等』論、『自己責任』論など格差拡大を正当化する考え方を論破し、最低賃金の引き上げ、富裕層への課税強化を提案する。」(中日新聞12/11)

〈年表〉明治38年(1905)10月1日 「文科大学学生生活」(著者XY生=正宗白鳥、今古堂書店)発行 漱石と柳村(上田敏) 『社会主義評論』(河上肇 「読売新聞」連載)と河上肇の煩悶


《茨木のり子関連記事》

詩人茨木のり子の年譜(8) 1976(昭和51)50歳 韓国語を習い始める 1977年 第五詩集『自分の感受性くらい』 1978年 「はたちが敗戦」 ~ 1979(昭54)53歳 「いちど視たもの」 『詩のこころを読む』

で、以下により暫くの間、茨木のり子を読み直す。








 


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