2016年6月21日火曜日

詩人茨木のり子の年譜(8) 1976(昭和51)50歳 韓国語を習い始める 1977年 第五詩集『自分の感受性くらい』 1978年 「はたちが敗戦」 ~ 1979(昭54)53歳 「いちど視たもの」 『詩のこころを読む』 

鎌倉 明月院 2016-06-14
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(その7)より

1976(昭51)50歳
4月、朝日カルチャーセンターで韓国語を習い始める。
動機は、夫が亡くなった失意から立ち直るため前に進もうとしたことや、かつて抹殺した朝鮮の言葉を今度はこちらが一心不乱に学ばなければと痛感したことなど。
先生は金裕鴻(キムユホン)。

1977(昭52)51歳
この年、初めて韓国を訪れる。

3月、第五詩集『自分の感受性くらい』花神社刊。
収録作品
「知名」
「自分の感受性くらい」
「波の音」
「木の実」
「四海波静」

 NHKラジオの「土曜ほっとタイム」に出演したさい、この作品の成立過程が話題に上った。アナウンサー山根基世との問答のなかで、茨木はこう答えている。
〔五十歳のときに書いたものですが、その種は第二次大戦までさかのぼるんですね。少女のころは戦争中で、美しいものは悪という時代だった。パーマはいけない、きれいな着物はいけないといわれていて、派手目のものを着ていると、国防婦人会に 〝非常時なのに〞 と叱られたものです。私は軍国少女ではありましたが、美しいものを求めることはそんなに悪なの? とどこかで思っていた。戦後になって、自分の感性を信じていいんじゃないか、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、へんなものはへんと。個人の感性こそ生きる軸になるものだという思いが強まっていったように思います。この詩には遠い時代のそういう背景もあるんですね〕
最終達にある 「ばかものよ」 という言葉はもちろん他者ではなく自身に向かって投げかけられている。自身に向かうベクトルが茨木の詩の特徴であるが、言い切るスタイルを含め、一見、強い人というイメージを残す。
(『清冽』)

1978(昭53)52歳
「はたちが敗戦」(堀場清子編『ストッキングで歩くとき』たいまつ新書)

 茨木が自身の半生を振り返ったエッセイ「はたちが敗戦」を書いたのは五十二歳、一人暮らしをはじめて三年たったころである。こう記して締め括っている。
《今まであまりにもすんなりと来てしまった人生の罰か、現在たった一人になってしまって、「知命」と言われる年になって経済的にも心情的にも「女の自立」を試される羽目に立ち至っているのは、なんともいろいろと「おくて」なことなのであった。
そして皮肉にも、戦後あれほど論議されながら一向に腑に落ちなかった<自由>の意味が、やっと今、からだで解るようになった。なんということはない「寂寥だけが道づれ」の日々が自由ということだった。
この自由をなんとか使いこなしてゆきたいと思っている》
(『清冽』)

 茨木が金子の詩と出会ったのは戦後間もなくである。
《沢山の芝居を観、戯曲を読むうち、台詞の言葉がなぜか物足らないものに思えてきた。生意気にもそれは台詞の中の〈詩〉の欠如に思われはじめてきたのである。詩を本格的に勉強してみょう、それからだなどと詩関係の本を漁るうち、金子光晴氏の詩に出逢った。これは戦前、戦中、戦後をいっぺんに探照燈のように照らし出してる強烈なポエジイで、眩惑を覚えるほどだった。このように生きた日本人もいたのかという驚き》(「はたちが敗戦」)
(『清冽』)

1979(昭54)53歳
6月、『櫂・連詩』思潮社刊。
7月、「いちど視たもの」(共著『女性と天皇制』収録、思想の科学)

《野暮は承知で 「四海波静」 という詩を書かずにはいられなかった》 
(『清冽』)

10月、岩波ジュニア新書『詩のこころを読む』岩波書店刊。

 谷川俊太郎、金子光晴、川崎洋、岸田衿子(えりこ)、石垣りん、河上肇、永瀬清子・・・たちの詩を取り上げ、その解説と論評を通して詩とは何かという問いに答えていく。さらに、生と死、青春、恋、戦争、別離……のテーマに括りつつ詩論を展開していくが、併せて茨木の時代観、価値観、人間観が滲み出るように伝わってくる。散文における茨木の代表作であろう。

『落下傘』に収録された金子光晴の長編詩「寂しさの歌」を全文引用している
 (最下段 ↓ に(『清冽』)での引用部分を示す)

 茨木の『詩のこころを読む』には、この詩の全文を引用しつつ、金子光晴への論考を記す章「生きるじたばた」があるが、茨木が歳月のなかで練り深めた思考の足跡が伝わってくる。
 日本が国を挙げて無謀な戦争に突入していく。その背景に流れる宿疴の風土としての〈寂しさ〉を金子は視ていた。日本という国の底にあるもの、その背骨をなすものはなんなのか。そして、二百数十万人の犠牲者を生んだ根本にあるものを凝視していた - 。
 茨木はこう記す。

 《第二次世界大戦時における日本とは何だったのか、なぜ戦争をしたのか、その理由が本を読んでも記録をみても私にはよくわかりません。頭でもわからないし、まして胸にストンと落ちる納得のしかたができませんでした。東洋各国との戦争は侵略であることがはっきりしましたが、アメリカとの戦いは結局なんだったのか、原爆をおとされたことで被害国でもあり、全体は実に錯綜しています。そんなわけのわからないもののために、私の青春時代を空費させられてしまったこと、いい青年たちがたくさん死んでしまったこと、腹がたつばかりです。
 私の子供の頃には、娘をつぎつぎ売らなければ生きてゆけない農村地帯があり、人の恐れる軍隊が天国のように居心地よく思われるほどの貧しい階層があり、うらぶれた貧困の寂しさが逆流、血路をもとめたのが戦争だったのでしょうか。貧困のさびしさ、世界で一流国とは認められないさびしさに、耐えきれなかった心たちを、上手に釣られ一にぎりの指導者たちに組織され、内部で解決すべきものから目をそらさされ、他国であばれればいつの日か良いくらしをつかめると死にものぐるいになったのだ、と考えたとき、私の経験した戦争(十二歳から二十歳まで)の意味がようやくなんとか胸に落ちたのでした》

 《金子光晴がこれを書いたとき、撃つべき相手はあくまでも日本で、戦後になってはじめておおっぴらに読んだ人々も、日本に特有の寂しさ、だめさ、として受けとりました。けれど歳月がたって、いろんなことを知るうち風景も心も日本以上にさびしい国々が沢山あるのかわかってきて、寂しさの釣りだしに会って戦争のはじまるさまも第三者として見ることができるようになりました。そして今、「寂しさの歌」は「人類の寂しさ」そのもののよう見えてきます》

 「峠」という章では河上肇とその詩を取り上げている。
 《詩、短歌、漢詩も書いていて、ノートに整理されてあったそれらを集め、没後『河上肇詩集』一巻として出版されました。「河上肇の詩はいいですねえ、大好きです」と言うと、「河上肇? 経済学者の?詩も書いたんですか?」とびっくりされるので、そんなに知られていないことだったかと、今度はこちらがびっくり》

 『詩のこころを読む』の最終章「別れ」の章では、茨木は詩人・永瀬清子の「悲しめる友よ」を取り上げている。

 永瀬の詩を引用しつつ、茨木はこう書いている。

 《男性は何歳になっても、わんぱく小僧時代と変わらないで、やりたい放題、ちらかしっぱなし、どうともなれ式に息絶えます。そのぶざまさを人々の目から隠し、きれいなジ・エンドとして形を整えてあげ、水がいっぱいでもちきれない壷を抱えてゆくような悲しみに耐えるのが女の本当の仕事なのだと言っています。(中略)
 手ひどい死別の悲しみを味わった女性は「悲しめる友よ」から、きっと深い慰めを得るだろうとおもいます。もちろんこの中の男性には、父や男兄弟なども含まれてしまうでしょう。
 女は女一人としても存在理由があって、シャンと立っているべきなのですが、永瀬清子が表現したように、ずいぶん損な役まわりではあるけれど、男よりあとに残って悲しみを抱きとってゆく仕事も、たしかに女の仕事の重要な一部分なのだと、悟らされるのです》
(『清冽』)


**《『落下傘』に収録された金子光晴の長編詩「寂しさの歌」の引用部分》
   (『清冽』からの孫引き)

     一

どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

糸のやうにほそぼそしたこゝろからか。
そのこゝろをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。

月光。ほのかな障子明りからか。

はね立った畳を走る枯葉からか。

その寂しさは、僕らのせすぢに這ひこみ、
しつ気や、かびのやうにしらないまに、
心をくさらせ、膚にしみ出してくる。

・・・・・・・

      二

寂しさに蔽はれたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

・・・・・

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。
・・・・・

東も西も海で囲まれて、這ひ出すすきもないこの国の人たちは、自らをとぢこめ、
この国こそまづ朝日のさす国と、信じこんだ。

・・・・・

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあはせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗膳に坐ることだ。

そして、やがて老、祖先からうけたこの寂蓼を、
子らにゆづり、
樒(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。

そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恒の未の末までも寂しさがつゞき、
地のそこ、海のまはり、列島のはてからはてかけて、
十重に二十重に雲霧をこめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐(わか)れに、
いつもみづみづしい山や水の傷心をおもふとき、
僕は、茫然とする。僕の力はなえしぼむ。"
"僕はその寂しさを、決して、この国のふるめかしい風物のなかからひろひ出したのではない。
洋服をきて、巻たばこをふかし、西洋の思想を口にする人達のなかにもそっくり同じやうにながめるのだ。
よりあひの席でも喫茶店でも、友と話してゐるときでも断髪の小娘とをどりながらでも、
あの寂しさが大人のからだから湿気のやうに大きくしみだし、大人のうしろに影をひき、
さら、さら、さらさらと音を立て、あたりにひろがり、あたりにこめて、氷垣から永恒へ、なかれはしるのをきいた。

・・・・・

      四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあつて、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさになって。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。

ちんぴらで、小心で、好人物な大人は、「天皇」の名で、目先まつくらになって、腕白のやうによろこびさわいで出ていった。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまひ酒で酔つてすごさうとする。
エゴイズムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のやうに、
つながつて配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになってゆく大人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまった、ふかい寂しさを僕はまだ、生れてからみたことはなかつたのだ。
しかし、もうどうでもいゝ。僕にとって、そんな寂しさなんか、今は何でもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたった一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。

 『落下傘』に収録された金子光晴の長編詩「寂しさの歌」の抜粋である。
 詩の序文では、この詩のモチーフの念を押すごとく、こう記している。    
 「国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。それは冷たい顔で欺く。欺瞞はその日から這ひ出る」
 を締め括って、書いた日付を「昭和二〇・五・五 端午の日」と記している。終戦の三カ月前である。この日付を浮かべつつ再読すると一層、詩句の凄みが増してくる。
(『清冽』)


(その9)に続く



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