2023年1月31日火曜日

『3社の鑑定額が一致』大阪IRの疑惑...専門家が解説「100%ありえないです」さらに大阪市の審議会委員を取材で『新証言』も (MBS) / 大阪IR「3社で価格など一致」めぐり『価格の一致などは審議会で審議されず』(MBS) ← 「審議会で問題ないと判断」されたとの説明だったが、実は審議自体がなかったということらしい      

 

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〈藤原定家の時代257〉文治4(1188)年2月8日~2月26日 〈奥州藤原氏は、頼朝にとってどのような存在だったのか(纏め)〉 頼朝、義経・泰衡共に追討の旨奏上 内大臣九条良通(22)急没 義経追討の宣旨       

 


〈藤原定家の時代256〉文治4(1188)年1月1日~2月8日 興福寺中金堂・南門堂の上棟 「頼朝卿申し送りて云く、義顕奥州に在る事すでに実なり。但し頼朝亡母の為五重の塔婆を造営す。・・・今年に於いては一切この沙汰に及ぶべからず」(『玉葉』) より続く

文治4(1188)年

〈奥州藤原氏は、頼朝にとってどのような存在だったのか〉

〈奥州藤原氏の概観〉

奥州藤原氏は、前九年・後三年合戦などを経て、安倍・清原氏の支配領域であった北上川中・上流域の奥六郡(胆沢いざわ・江刺えさし・和賀わが・稗貫ひえぬき・斯波しば・岩手いわて)を継承し、陸奥・出羽両国に支配を及ぼした藤原清衡に始まる。

清衡は11世紀末~12世紀初頭、磐井郡平泉に拠点を築き、白河関から津軽半島の外が浜にいたる奥大道(おくだいどう)を整備し、1町(約109m)ごとに金色の阿弥陀像を描いた笠卒塔婆(かさそとば)を造立したと伝えられる。

また清衡は、多宝寺・釈迦堂・両界堂・二階大堂などの伽藍からなる荘厳な中尊寺を平泉に建立し、二代基衡の毛越寺造営、三代秀衡の無量光院造営などへと展開する、12世紀の平泉における華麗な仏教文化の基礎をつくった。

三代秀衡は、父基衡が没した保元2年(1157)頃に奥州藤原氏の当主となり、嘉応2年(1170)5月25日に奥州藤原氏で唯一鎮守府将軍に任じられ、従五位下に叙された。鎮守府将軍は、本来、陸奥国鎮守府において蝦夷経営にあたる軍政府の長官のことであるが、12世紀にはその実質を失って陸奥守が兼任する名誉職となり、武士が補任されることはなかったから、秀衡の任官はきわめて例外的なものであった。奥州藤原氏の実質的な支配を、朝廷が制度的に位置づけたものといえる。

秀衡の政庁「平泉館」と推定される柳之御所(やなぎのぎしよ)遺跡では、発掘調査によって、堀と塀・溝によって囲まれた広大な居館跡が検出され、中国産の白磁や渥美・常滑産の壺・瓶などの破片、宴会のたびに使い捨てられたおびただしい量のカワラケ(素焼きの土器)、寝殿遺風の邸宅が描かれた板絵、「人々給絹日記(ひとびとにたまうきぬのにつき)」(秀衡が儀礼に参加する子息・側近に絹織物の装束を支給するためのリスト)が墨書された杉板などが発見されている。

〈奥州藤原氏のネットワーク〉

流人の頼朝に挙兵を決断させたキー・パーソンの一人、佐々木秀義は、平治の乱後に近江国佐々木荘を追われ、奥州の藤原秀衡のもとに赴く途中で相模国の渋谷重国に引き止められ身を寄せた。佐々木秀義が奥州藤原氏を頼ろうとしたのは、秀義の母(安倍宗任の娘)の姉妹が藤原基衡の妻となっていたからであった。秀義は、保元の乱以前から源為義の専使として奥州藤原氏のもとにたびたび派遣され、矢羽や名馬の調達にあたっていたが、これもそうした姻戚関係に基づいていたと考えられ、奥州藤原氏と畿内近国の武士との交流が日常的に存在したことが知られる。佐々木秀義が子の定綱を伊豆の頼朝のもとに遣わし、もし挙兵しないならば早急に奥州へ逃げるように勧めたという延慶本『平家物語』の記事も、佐々木氏と奥州藤原氏の親密な関係を踏まえれば、十分に信憑性がある。奥州藤原氏は、義経だけでなく、頼朝の亡命先にもなりえた。

義経が幼い頃に預けられた鞍馬山を出て、奥州に下向したのは、承安4年(1174)、義経16歳の時。義経の奥州下向は、母常磐が再婚した藤原長戌と親戚関係にあった前民部少輔藤原基成が平泉にあり、その基成の招きによるものと推定されている。

基成は、康治2年(1143)から10年余間、陸奥守に在任し、現地に下向して娘を秀衡の妻とするなど、藤原基衡・秀衡と親交を結び、平治元年(1159)の平治の乱で兄藤原信頼に連座して陸奥に配流となってからは、衣川北岸の「衣河館(ころもがわのたち)」に居住し、秀衡の政治顧問として重きをなした。義経はこの基成の保護を受けて「衣河館」内に居所を与えられ、秀衡やその子とも交流をもちながら頼朝挙兵までの時期を過ごした。

〈奥州藤原氏の脅威〉

治承・寿水の内乱勃発後、惣官平宗盛の要請によって、養和元年(1181)8月15日、藤原秀衡が陸奥守、城助職(じようすけもと、長茂ながみち)が越後守に任じられた。この補任は、非常事態のなかでの措置で、頼朝や義仲らによる諸反乱を鎮圧できないまま、膠霜状態に陥った平氏が、反乱鎮圧への藤原秀衡・城助職の軍事的協力を期待したものであった。

しかし、秀衡は動かなかった。寿永2年(1183)12月15日、義仲の要求で頼朝追討を命じる後白河院庁下文が秀衡に発給された際も同様であった。

それにもかかわらず、頼朝にとって奥州藤原氏は脅威だった。頼朝に敵対した常陸国の有力武士佐竹隆義(たかよし)の母が藤原清衡の娘であり、姻戚関係に基づいた両者の連携が実際に存在していた。治承4年(1180)11月の金砂城(かなさじょう)合戦の際に在京中であった隆義は、その後も常陸国内で頼朝に抵抗し続け、頼朝軍に敗れると奥州に逃げ籠るなど、奥州藤原氏の存在を背後にして軍事活動を展開した。のちの奥州合戦においては、四代泰衡のもとに佐竹氏一族の者が従っていた。

平氏都落ち後の寿永2年(1183)10月、後白河から上洛要請を受けた頼朝は、すぐに上洛できない理由の一つとして「一は秀平(秀衡)・隆義等、上洛の跡に入れ替るべし」(『玉葉』寿永2年10月9日条)と返答し、秀衡と佐竹隆義が連携して留守中の鎌倉を攻撃してくる危惧を伝えている。頼朝にとって奥州藤原氏は、幕府権力の基盤である関東を固めるうえでも最も警戒すべき対象となっていた。

2月12日

・この日の夜、京都守護一条能保のもとに頼朝の使者が到着し、「義顕(義経)奥州に在る事、已に実なり」(『玉葉』文治4年2月13日条)と伝えてきた。

しかし、頼朝は亡母供養の五重塔建立と厄年による一年間の殺生禁断のため、ただちに奥州の義経を追討しようとはせず、朝廷から泰衡に命じて義経を召し出させることを提案した。

朝廷は頼朝の要請に基づいて、文治4年2月・10月の二度にわたって、泰衡と前民部少輔藤原基成に義経捕縛を命じる宣旨を発給したが、事態は何の進展も見ないまま、頼朝の殺生禁断が明ける文治5年(1189)を迎える

2月17日

・頼朝、義経・泰衡共に追討の旨奏上。

「午の刻、盛隆朝臣来たり院宣を伝えて云く、頼朝卿の申状此の如し。即ち消息二通・・・義顕の間の事、改名の條異議に及ぶべからず。早く宣旨を摺り改めらるべきか。抑も秀衡法師の子息等義顕追討に使うべきの由、宣下を下さるるの條、もし頼朝の意趣に背くや否や。聊か思慮有るべし。その故ハ今の申状の如きは、件の泰衡と義顕と同意し、すでに謀叛者たるの由言上す。而るに左右無く追討使の由、宣旨に載せらる。如何。若くは議定有るべきや。」(「玉葉」同日条)。

2月20日

・内大臣九条良通(22)、急没。兼実は打撃を受け、出家を考えるようになるが、弟慈円が彼を力づける。娘任子の入内、良経(良通の弟)の成長(中納言・大納言・右大将に昇進)。

18日、良通は病気も回復したと言って兼実のもとを訪ねて来た。

19日は、忠通の忌日(きにち、命日)。九条堂(証真如院)で舎利講を催し、兼実、その室、良通共に聴聞、同車して冷泉亭に帰る途中、法華経を兼実が念誦話し、良通はしずかにこれを聞いていた。冷泉万里小路第に到着後も、しばらくは兼実や母・兼子と話をしていて、子の刻(午前0時頃)、良通は自宅に帰り、兼実は就寝した。

ところが、しばらくすると、良通に仕える女房帥局が駆け込んできた。良通が「絶え入る(息絶えている)」という。兼実が「劇速(げきそく)」に行ってみると、息絶えた良通の姿があった。

「終焉ノ体罪業人ニ非ザルカ。面貌端正仰イデ之ニ臥ス、是レ善人之相云々、仏厳来云、天上ニ生ルカ」(『玉葉』)。

跡継ぎに先立たれ、兼実は2月20日以降、5月9日まで日記を書くのを止めている。

良通没後、兼実は2男良経を跡継ぎとした。だが、兼実の悲しみは四十九日を過ぎても癒やされず、『玉葉』には「悲涙乾くこと無し」と記されている(4月9日条)。

翌文治5年8月1日、兼実は初めて法然(源空)を邸に招き、往生について談じる。兼実には以前より「遁世の志」があり(寿永2年9月1日条)、すでに密かに「真理」という法名も付けていたが(治承5年3月20日条)、良通の死はいっそう遁世への思いを募らせた。

兼実は良通没後、良通の思い出が残る冷泉万里小路第には住めなくなり九条富小路殿に戻ってしまう。これに対して、後白河は摂政に「京御所」がないのは不便だと言って、大炊御門殿(おおいみかどどの)を与えた(文治4年7月1日条。当時、九条は「京内」とは見なされていなかった)。大炊御門殿はもともと左大臣経宗の邸宅で、兼実は仇敵の旧邸に住むことになった。

内大臣良通は、兼実19歳、妻16歳の時の出生。17歳で白馬の節会に内弁の大役をつとめた。幼年にして学に志し、和漢の典籍を限りなく渉猟。年僅か22歳。何の罪あってこの欺きをせねばならないのか。兼実の欺きは続く。

2月21日

・義経追討の宣旨

東海・東山道の国司及び武勇の輩に義経追討宣旨下る。貴海島追捕が延期。

26日、この宣旨の沿って、院庁下文下る。前民部少輔藤原基成と秀衡に対し、義経追討命令。

4月9日、宣旨と院庁下文が官吏生国光と院庁官景広により鎌倉にもたらされ奥州に向う。

「天野の籐内遠景去る月の状、昨日鎮西より参着す。去年窮冬、郎従等をして貴賀井島に渡らしめ、形勢を窺いをはんぬ。・・・これに就いて暫く猶予せしむべきの旨、遠景に仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「義経追討の宣旨を下さると。去る十八日院に於いてその趣を定め仰せらる。同十九日棟範九條堂に持ち来たり、これを見せしむ。余ほぼ改直せしむ事有り。今日重ねて持ち来たり。即ち左大臣に宣下すと。」(「玉葉」同日条)。

「上卿兼光卿、追討の官符請印すと。この日、同じく廰の御下文を成さると。」(「玉葉」同26日条)。

「右武衛申されて云く、與州の事、奥州泰衡に仰せられんが為、勅使官史生国光・院廰官景弘等を遣わさる。来三月下向すべしと。」(「吾妻鏡」同29日条)。

2月26日

・源資賢(76)没


つづく




「旧民主党政権時、所得制限なしの子ども手当を 自民党は激しく攻撃した。茂木敏充氏「まさにバラマキ」田村憲久氏「公金による壮大な選挙買収」石破茂氏「家庭を基礎とする我が国の自助自立の精神に真っ向から反する」と」 / 丸川珠代「愚か者めが!このくだらん選択をしたバカ者どもを絶対忘れん!」 / 稲田朋美「財源のない子ども手当をつけるくらいなら軍事費を増やすべきではないか」 「子ども手当分を防衛費にそっくり回せば軍事費の国際水準に近付きます」 / 安倍元首相「子ども手当によって民主党が目指しているのはポル・ポトやスターリンの政策」 / 小泉進次郎 子ども手当で給付されるお金よりも、子供を思って頑張って働いた方が「親と子の絆というのも生まれる」 / ← かくして日本の少子化はドンドン進行、もう手遅れになりつつある / 岸田首相、茂木氏の児童手当所得制限撤廃「一つの意見」(産経)  ← 小池書記局長「これでは政党討論が成り立たない」 / 「茂木氏の反省、許せない」立憲・泉氏 児童手当の所得制限撤廃発言(朝日) / 児童手当の所得制限導入した過去に 自民・茂木幹事長「反省します」 改めて所得制限の撤廃求める(TBS)

 







 

2023年1月30日月曜日

〈藤原定家の時代256〉文治4(1188)年1月1日~2月8日 興福寺中金堂・南門堂の上棟 「頼朝卿申し送りて云く、義顕奥州に在る事すでに実なり。但し頼朝亡母の為五重の塔婆を造営す。・・・今年に於いては一切この沙汰に及ぶべからず」(『玉葉』)

 


〈藤原定家の時代255〉文治3(1187)年11月15日~12月28日 梶原景時、畠山重忠謀反の意有りと讒言 のち疑惑晴れる 兼実、大江広元への不快感を吐露 より続く

文治4(1188)年

1月1日

・鎌倉窟堂の佐野基綱邸より出火、数十軒被災(「吾妻鏡」同日条)。

1月6日

・足利義兼(上総の介義兼)、源頼朝に椀飯を献ずる。足利義兼、銀作の剣を持参(「吾妻鏡」同日条)。

1月9日

・兼実は伝聞情報として義経が奥州におり、藤原秀衡によって隠し置かれていた、と記す。秀衡は、前年10月29日に死去したが、その際2人の息子に向かい、「義経を主君とし、二人ともお仕えしなさい」と遺言した。そこで、彼らは一味同心して頼朝を襲う計画を練っているという。

「或る人云く、去年九十月の比、義顕奥州に在り。秀衡隠してこれを置く。即ち十月二十九日秀衡死去の刻、兄弟(兄他腹の嫡男なり。弟当腹の太郎)和融を為し、他腹の嫡男を以て当時の妻を娶らしむ。各々異心有るべからざるの由、祭文を書かしめをはんぬ。また義顕同じく祭文を書かしむ。義顕を以て主君と為し、両人給仕すべきの由遺言有り。仍って三人一味し、頼朝を襲うべきの籌策(ちゆうさく)を廻らすと。」(「玉葉」同日条)。

1月10日

・高野山隠遁中の成清、石清水別当に補任される。私財を投じ高野山随心院を再建寄進し、翌文治5年(1189)3月、高野山を出て石清水に帰る。

1月19日

・興福寺金堂、南円堂棟上げ

1月20日

・足利義兼・新田義兼・里見義成・得川義季、頼朝の伊豆・箱根・三島社などの参詣に扈従(「吾妻鏡」同日条)。

1月27日

・兼実、摂関になって始めて氏神の春日神社に参る。

1月29日

・兼実によって興福寺中金堂・南門堂の上棟がおこなわれる。

東大寺・興福寺の復興事業は、頼朝の支援もあって本格的に進められていた。兼実は摂政と同時に藤原氏の氏長者(藤氏長者)でもあったから、藤原氏の氏寺である興福寺の再建事業は、兼実の直接的な指揮のもとでおこなわれた。

「去る治承四年十二月、灰塵となってから八年、造営料を賄わせるための功国が与えられるということになっていたものの、まったくその沙汰がなされなかった。自分が藤氏長者の職務を受けてから、再三奏間をおこない、去々年(文治二年)初めて伊予・因幡両国が与えられた」と語っている。

兼実は長者に就任すると、後白河と粘り強く交渉するなどして、事業が進むベく政治的努力を続けていた。

現在、興福寺南門堂に安置されている本尊の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)は、このときの再建事業でつくられたもの。南円堂不空羂索観音と四天王像・六租師像(ろくそしぞう)の制作は当初、最勝金剛院の南廓を仏所としておこなわれ、のち興福寺内の一乗院に移された。兼実は文治4年6月18日、造仏始(ぞうぶつはじめ)の儀式に参加して、仏師康慶(運慶の父)と対面し、翌文治5年8月22日、南都に下向して興福寺の造営を検知するとともに、康慶の仏所を訪ねて完成間近の像を拝した。完成間近の像を見た兼実は、仏像の顔かたちに不審があり、翌日再び仏所に参り、康慶に指示をしたところ、康慶は「大略承伏」したという。現在伝わる不空羂索観音像の顔かたちには、兼実の意向が反映されていると考えられている。

このような興福寺の再建事業は、基通との摂関家嫡流をめぐる争いに敗れた兼実にとって、自分の摂関・藤氏長者としての正統性を示す絶好の機会となった。兼実が成果を残せば残すほど、彼こそが藤氏長者にふさわしい人物であることが周知される。


2月2日

・頼朝、京都公家の地頭不法禁制の要求をを朝廷からの命令ではなく私的な要請であるとして斥ける

「所々の地頭等所領以下の事、京都より、或いは強縁に属き、或いは消息を献じ、愁い申す人々これ多し。仍ってその御沙汰有り。而るを廷尉公朝去年の冬より鎌倉に在り。近日帰洛すべきの間、その意を得て披露せしめんが為、彼の訴えの條々、篇目を一紙に載せ、公朝に與うべきの由と。彼の公朝下向の次いでに、消息等その沙汰有る所なり。御書御事書に云く、 宝殿 越後の国奥山庄の地頭不当の事。 修理大夫家・・・右衛門の佐御局・・・・・・以上の所々、尤も御成敗有るべきの処、凡そ此の如きの訴訟は、自ら君が仰せ下さるるの時は、左右無く成敗せしむと雖も、私に縁々を触れ来たるに付いては、全く沙汰を致すべからざる法なり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

2月8日

・義経が奥州にあり、出羽に遣わされた法師昌尊(しようそん)と合戦したとの情報が入る。

兼実のもとに届いた情報によると、出羽国知行国主藤原兼房の目代法師昌尊が、出羽を出国しようとして奥州の義経の軍勢と合戦になり、鎌倉まで逃走したという。

〈大物浦出航以降の行家・義経〉

摂津国大物浦から船出して遭難したのち、義経と離れて逃走していた行家は、文治2(1185)年5月、和泉国の在庁官人のもとに隠れていたところを発見され、鎌倉方の北条時定・常陸房昌明らによって殺害された(『吾妻鏡』文治2年5月25日条)。

義経は、吉野・鞍馬・多武峰・比叡山・興福寺などの悪僧(僧兵)のもとを転々として逃走を続けたが、義経にしたがっていた源有綱は、文治2年6月に本拠地の大和国字陀郡において北条時定に討たれ、7月には場所不明であるが伊勢義盛が梟首された。さらに、9には義経と別れて京に潜入した佐藤忠信と堀景光が鎌倉方に発見され、忠信は糟屋有季と戦ったのち自害、景光も比企朝宗によって捕縛された。義経はこうして有力な縁者・郎等を失いながら、鎌倉方の厳しい探索をくぐり抜けて行方を呟ましていた。

「二位大納言書札を送りて云く、出羽の国に遣わす所の法師昌尊の申状此の如し。即ち件の状を送らる。義顕奥州に在り。即ち件の昌尊出羽の国より出るの間、彼の軍兵と合戦す。希有に命を逃れ鎌倉に来着す。この子細を以て頼朝に触れるの処、早く国司に申し院奏を経るべきの由なり。子細猶疑い有り。」(「玉葉」同日条)。

「盛隆朝臣を召し、昨日権大納言示し送る所の義顕の間の事を奏す。夜に入り帰来す。仰せに云く、この事爭か御信用無きや。但し御返事の事ただそれより直に仰せらるべしなりと。余申して云く、この事すでに大事なり。爭か私に返事を申さんや。猶院に於いて議定有り、別の御使を遣わさるべきか。宣旨院宣等成され宜しいかてえり。」(「玉葉」同8日条)

「参院、盛隆を以て見参に入る。義顕の間の事を仰せらる。子細を申しをはんぬ。即ち召し有り、仍って御前に参る。主上御風気無為の由、並びに義顕奥州に籠もるの間の事を申す。勅定を奉り殿上より帰出す。」(「玉葉」同11日条)。

「午の刻、盛隆朝臣御使として来たり云く、追討の宣旨の事、人々一同に計り申す。彼の趣に依って仰せ下さるべきか。但し能保朝臣去る夜申す旨有り。・・・す。頼朝卿申し送りて云く、義顕奥州に在る事すでに実なり。但し頼朝亡母の為五重の塔婆を造営す。・・・今年に於いては一切この沙汰に及ぶべからず。もし彼の輩来襲に於いてはこの限りに非ず。・・・仍って公家より直に秀平法師の子息に仰せ、彼の義顕を召し進せらるべきなり。且つはこれ彼の子息等と義顕と同意の由風聞す。その真偽を顕わさんが為なり。但しこの條頼朝故に奏達に能わず。ただ内々能保相計るべしとてえり・・・晩頭能保朝臣来たり。・・・頼朝院に申さず。この辺に示さず。その意趣を推すに、今度の宣旨、叡襟より起こるの由を表わさんが為かと。」(「玉葉」同13日条)。

「巳の刻、棟範来たり。棟範云く、追討の宣旨院に持参す。早く下すべきの由仰せ有り。」(「玉葉」同14日条)。


つづく

嗚呼、『政治一家』の四代目! → 長男が公用車で“お土産購入” 岸田総理「公務」と明言 / 首相長男購入の土産は「アルマーニ」のネクタイ 「全大臣に買ったと承知している」 ← 日本でも買えるやん / 「ハロッズに行ったのか」 首相の長男秘書官の疑惑巡り応酬(朝日) / 岸田首相「肯定も否定もしない」 翔太郎秘書官“公用車で観光”事実関係に関し(FNN) / 山井和則「広報に使われているのは著作権フリーのネット上で公開されている写真ばかりですね」」 / 政府 翔太郎氏の“外遊中の観光”報道めぐる質問状に「ゼロ回答」 訪問先など公表せず(TBS) ← 疑惑深まるばかり / 官房副長官の説明によると、公用車で土産物を買ったり写真集めが「首相の政務秘書官」の仕事だそうです / 岸田首相 秘書官長男が公用車で観光地巡り報道…増税強いる中のKYぶりに「税金で海外旅行」と批判殺到(女性自身) / 岸田氏「長男秘書官」外遊中パリ、ロンドン観光、ショッピング/カナダ首相と写真を撮りたいとゴネる/ネット「国民の血税でいい身分だな」「身内には甘々、国民は増税」 / 木原官房副長官、外遊先での公用車の運用について、①業務内容②重要性③視察先の安全情勢や交通状況等に照らしつつ必要とされる範囲内での運用とすべきと基準示す。この基準満たしているのか、説明を避ける。つまり、基準を満たしてないことを事実上認めたに等しい。       


 

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▼あくまで「公務の必要上」です

 





 

2023年1月29日日曜日

青木理氏「失礼ですけど「岸田さん、どちらの国の首相なんですか?」と言いたくなる」 → 「去年の5月にバイデンさんが日本に来て首脳会談やった時に岸田さんは防衛費の増額を約束してるんですね」 「ところがその後、臨時国会があって、そこで野党から追及されても「慎重に検討する」とか「現時点で詳細は申し上げられない」と言っていた」 「去年の12月10日に臨時国会が終わって、その直後の12月16日に安保関連3文書を決めて、防衛費の大幅増と敵基地攻撃能力の保有を宣言した」 「その後、岸田さんは米国に行って、もう既に米国に報告してるんですよ、バイデンさんたちに「これは歴史的大転換なんだ」と現地で言明して帰ってきた」 「それから今、国会で議論しているんです、失礼ですけど「岸田さん、どちらの国の首相なんですか?」と言いたくなる」 「今回の防衛費増が「対米従属」を更に強めるのは当たり前のことなんですけど、それがあまりにも露骨で、国会の議論に先んじて米国に報告するという状況で果たしていいんですか?」            

 



 

どっち向いて仕事してんのかな? → G7「マスク姿では…」コロナ5類移行、5月8日に決めた国の思惑(朝日);「一方、5月19日からは岸田首相の地元の広島で主要7カ国首脳会議(G7サミット)が始まる。自民党内に「記念撮影のときマスク姿では世界に笑われる」との声もあり、厚労省はそれまでの移行をめざした。」 / 「G7までにノーマスクを」揺れた官邸 岸田総理決断の裏側(TBS)          

 

〈藤原定家の時代255〉文治3(1187)年11月15日~12月28日 梶原景時、畠山重忠謀反の意有りと讒言 のち疑惑晴れる 兼実、大江広元への不快感を吐露

 


〈藤原定家の時代254〉文治3(1187)年10月3日~11月1日 藤原秀衡(66)、陸奥国平泉館で没。次男(嫡子)泰衝が後継  義経を主君として泰衡・異母兄国衡3人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るよう遺言(『吾妻鏡』) より続く

文治3(1187)年

11月15日

・梶原景時、畠山重忠謀反の意有りと讒言。

頼朝、小山朝政・下河辺行平・結城朝光・三浦義澄・和田義盛らの勇将を集め討つかどうか可否議論。結城朝光は弁護。重忠と親しい下河辺行平が使者となる。

21日、下河辺行平・畠山重忠、鎌倉到着、梶原景時に反逆心ないと陳述、起請文を要求される。景時の「他人の財を押領し渡世の計をもっぱらにすると噂されては、武士の恥辱になろうが、謀反の風聞を立てられるのは、かえって身の面目である。頼朝公を主君に仰ぐ心も言葉もニつない。我が身が潔白である以上、起請文など書くまでもないと信じる」との言明を聞き頼朝は感動し、重忠を信頼する。

「去る夜梶原平三景時内々申して云く、畠山の次郎重忠重科を犯さざるの処、召し禁しめらるるの條、大功を棄損せらるに似たりと称し、武蔵の国菅谷の館に引き籠もり、反逆を発せんと欲すの由風聞す。而るを折節一族悉く以て在国し、縡すでに符号す。爭か賢慮を廻らされざらんかと。これに依って今朝朝政・行平・朝光・義澄・義盛等の勇士を召集し、御使を遣わし子細を問わるべきか。将又直に討手を遣わすべきか。両條計り申すべき旨これを仰せ含めらる。朝光申して云く、重忠天性廉直を稟け、尤も道理を弁え、敢えて謀計を存ぜざる者なり。然れば今度の御気色、代官所犯の由に依って雌伏せしめをはんぬ。その上殊に神宮の照鑒を怖畏するの間、更に怨恨を存ぜざらんか。謀叛の條定めて僻事たらんか。専使を遣わされその意を聞こし食さるべしてえり。自余の衆一同せしむと。爰に行平は弓馬の友なり。早く行き向かい所存を尋ね問うべし。異心無くば、召し具すべきの旨仰せ出さる。行平辞退に能わず。明暁鞭を揚ぐべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「行平重忠を相具し、武蔵の国より帰参す。重忠景時に属き、逆心無きの由を陳べ申す。景時云く、その企て無くば、起請文を進すべしてえり。重忠云く、重忠の如きの勇士は、・・・もし虚名に及わば、尤も恥辱たるべし。謀叛を企てんと欲するの由風聞するは、還って眉目と謂うべし。但し源家当世を以て、武将の主に仰ぐの後更に貳無し。而るに今この殃に逢うなり。運の縮まる所なり。且つは重忠本より心と言と異なるべからざるの間、起請を進し難し。詞を疑い起請を用い給うの條は、奸者に対す時の儀なり。重忠に於いて偽りを存ぜざるの事は、兼ねて知し食す所なり。速やかにこの趣を披露すべしてえり。景時その由を二品に申す。是非に付いて御旨無し。則ち重忠・行平を御前に召し、世上の雑事等を談り給う。曽てこの間の事を仰せ出されず。小時入らしめ給うの後、親家を以て御剱を行平に賜う。無為に重忠を相具すること、大功たるの由と。行平去る十七日畠山の館に向かい、子細を重忠に相触る。重忠太だこれに忿怒す。何の恨みに依って多年の勲功を抛ち、忽ち反逆の凶徒と為すべきや。且つは重忠の所存に於いては左右に能わず。二品の御腹心今更御疑い無からんか。偏に讒者等の口状に就いて、恩喚有りと称し、相度り誅せんが為、貴殿を差し遣わさるるなり。末代に至り今この事を聞き、業果を恥づべしてえり。腰刀を取り自戮せんと欲す。行平重忠の手を取り云く、貴殿は訴偽を知らざるの由自称す。行平また誠心在口の條、爭か貴殿に異なるべきや。誅すべきはまた怖るべきに非ざるの間、偽り度りべからざるなり。・・・時儀適々朋友を撰び、行平を使節と為す。これ異儀無く、具し参らしめんが為の御計なりてえり。時に重忠咲いを含み盃酒を勧む。歓喜相伴すと。」(「吾妻鏡」同21日条)。

11月22日

・兼実、大江広元への不快感を吐露。

この月、大江広元は蔵人所出納(天皇の家政の財物出納を担当する職)を勤める久近(ひさちか)という人物の暴言行為を朝廷に訴え、その罷免を求める。兼実がこの広元の訴えを後白河に取り次ぎ、久近は蔵人所出納の職を追われる。

この件をめぐって兼実は広元に対してかなり不快な感情を抱いたらしく、『玉葉』11月22日条に、「極めてもって不便といえども、近代の事、力及ばざる次第か」と記す。

かつての太政官機構の下級官吏から一変し、頼朝より全権を委任されて公家政権の要人とわたりあう広元の姿に対する当惑を反映したもの。

11月23日

・藤原定家(26)、賀茂臨時祭舞人に召さる。賀茂臨時祭の舞人一人不足、定家を召すべき院宣あり、兼実、「第一勤厚之者、毎度譴責尤不便歟」と日記に記す(「玉葉」)。

24日、賀茂臨時祭に参仕、陪従を勤める(「玉葉」)。

11月27日

・藤原定家(26)、殷富門院亮子内親王御所で行われた高倉院第二皇子(守貞親王)御着袴の儀に兼実の伴をして参仕

12月2日

・後白河法皇、新制7ヶ条を下す。

12月2日

・源頼朝、鎌倉~京都間の飛脚行程を7日間と定める。

12月10日

「橘次為茂免許を蒙る。北條殿の計として、富士郡の田所職を賜う。これ父遠茂は平家の方人として、治承四年二品を射奉る。仍って日来囚人たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月13日

・後白河院と八条院が新造御所に移徒。

19日、俊成がその御所に参じる。

12月16日

・足利義兼室北条時子、容体悪化。北条政子、これを見舞う。晩、病状落ち着く。(「吾妻鏡」)


つづく


2023年1月28日土曜日

新型コロナの月間死者数、初の1万人超(共同) / 40日連続で200人超 5週続けて2000人台 

東京駅前 KITTE屋上からの東京駅前 KITTE外観(旧東京中央郵便局) 東京駅構内の原首相と浜口首相へのテロ現場跡 同級生交歓は新橋「小料理 尚」さんで 2023-01-27

 1月27日(金、昨日)、曇り時々小雨

昨日は夕方から新橋で恒例の同級生交歓。好天なら早めに出て新宿御苑やら品川の荏原神社で早咲きの桜を撮りに行こうと考えていたけど、朝から小雨~曇り~小雨を繰り返すような天候。夕方には雪が降るかもとの予報もあった。

雪なら雪の東京駅もなかなかいいし、雨なら水たまりリフレクションも悪くないナと思って、やや早めに出掛けたが、傘が要らない程度の小雨というどっちつかずの天候になっていた。

仕方ないので、KITTE屋上から東京駅の駅前の夜景を。午後5時半ころ。



▼KITTE(外観は、旧東京中央郵便局 昭和6年)

▼東京駅構内の原首相と浜口首相へのテロ現場跡(床にポッチあり)


▼同級生交歓はいつもの新橋の「小料理 尚」さんで
メインはアンコウ鍋だった



ビンボーを楽しみましょうキャンペーンでも始まったのか → まさかの具なしカップ麺 安さで物価高に人気?それだけじゃない(毎日) / 「風呂なし物件」若者に人気…都内で家賃3.2万円「好きなものにお金使える」 (テレ朝news)

賃金上昇に向け産休・育休中の”学び直し”を「後押し」 岸田首相(テレ朝) ← 産休・育休を「休んでる(休憩中)」と思ってるんだ! / 岸田首相「育休中の学び直し」答弁に批判 「育児してない人の発想」(毎日)     

 

〈藤原定家の時代254〉文治3(1187)年10月3日~11月1日 藤原秀衡(66)、陸奥国平泉館で没。次男(嫡子)泰衝が後継  義経を主君として泰衡・異母兄国衡3人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るよう遺言(『吾妻鏡』)   

 


〈藤原定家の時代253〉文治3(1187)年9月4日~9月28日 「千載和歌集」序が後白河に奏覧 畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正に預けられる 中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両貢金に対する秀衡の返答届く 頼朝の奥州藤原氏への圧力の経緯 より続く

文治3(1187)年

10月

・この月、大江広元、頼朝への報告の中で内裏造営はほぼ順調に進み、11月上旬には天皇遷幸が可能であると述べる。あわせて、後白河より勧賞(功績に対する恩賞付与)の仰せがあるだろうと伝える。

10月3日

「今日早旦、東大寺の大仏聖人(重源)来たり。余これに謁す。上人語りて云く、去今両年の間、柱百三十余本杣山に切り顛しをはんぬ。而るに津出しの間、夫功の煩い勝計うべからず。且つはこの事を奏さんが為上洛する所なり。上人が申す事等、 一、人夫の事・・・一、麻苧の事・・・一、成功に付せらるべき事・・・一、当時随身の材木の事・・・一、備前の国荒野開発、偏に大仏用途に宛つ。而るに妨げを致す人有り。停止せらるべき事。・・・」(「玉葉」同日条)。

10月4日

「巳の刻定長院の御使として来たり云く、去る比竊盗御所に入り、種々の御物を盗犯しをはんぬ。その中に御護劔有り。日来尋ね沙汰せらるの間、去る夜犯人を搦め取り(大夫の尉信盛これを捕る)をはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

10月5日

・頼朝、誅殺した河越重頼の後妻に河越氏本領である河越荘を安堵したが、名主・百姓らが従わなかったため、後妻の指示に従うよう命じる。

「河越の太郎重頼、伊豫の前司義顕の縁座に依って誅せらるると雖も、遺跡を憐愍せしめ給うの間、武蔵の国河越庄に於いては、後家の尼に賜うの処、名主百姓等所勘に随わざるの由、風聞の説有るに就いて、向後庄務と云い雑務と云い、一事以上、彼の尼の下知に従うべきの由、仰せ下さるる所なり。」(「玉葉」同日条)。

10月6日

「法皇御年籠の熊野山御参詣有るべし。供米千石・軽物少々、沙汰すべきの由仰せらるる所なり。仍って沙汰有り。国絹・白布等は御家人に宛て催さる。八木千石、武蔵・上総両国の所課たるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月8日

「下河邊庄司行平・千葉の介常胤京都より帰参す。・・・爰に両人を御前に召され、上洛の間、京中静謐の由叡感に及び、尤も御眉目たるの趣感じ仰せらるる所なり。而るを行平九月十一日入洛す。即夜兼ねて承り及ぶ群盗衆会の所々を窺い、郎従をして夜行を致せしむの処、尊勝寺の辺に於いて奇怪の者に行き逢う。人数八人、残らずこれを搦め取り、所犯を尋ね明かすの間、常胤を相待たず、[将又使の廰に相触れず、北條殿の例に任せ彼等の首を刎ねをはんぬ。常胤]同十四日京着す。各々在洛し、幾日数を歴ずと雖も、更に狼藉の事を聞かず。自然無為す。誠にこれ将運の然らしむるの所に依ってか。次いで在京武士の事、御使雑色並びに両人の使いを以て、日時を廻らさず悉くこれを召す。来聚する所なり。尋ね問いをはんぬ。面々陳じ申すの旨有り。子細無きに非ず。その状五十三通これを進上す。その上所犯の実證無し。沙汰に能わざる事なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月25日

・頼朝、大江広元宛御教書で、勧賞は辞退した上で、内裏造営の他に斎宮群行(さいぐうぐんこう、伊勢神宮の斎宮が伊勢に向かう儀式)の費用納入の功を加えることによって相模・武蔵・駿河・伊豆・信濃・越後の6ヵ国の重任を求めるよう指示。御家人の任官を成功(じようこう、朝廷の行事や造営を請け負うことによる叙位任官)によって統制しようとする頼朝の官職関係政策による指示だが、結局、後白河は頼朝の要求の一部のみを認め、「閑院修造賞」として武蔵の重任を、さらに「斎官群行用途料」として相模の重任を認めたのみ(『玉葉』11月13日条)。

10月29日

藤原秀衡(66)、陸奥国平泉館(ひらいずみのたて)において没。秀衝の次男(嫡子)泰衝、奥州領主を継ぐ。

臨終にあたり秀衛は、「今日、秀衡入道陸奥の国平泉の館に於いて卒去す。日来重病恃み少なきに依って、その時前の伊豫の守義顕を以て大将軍と為し、国務をせしむべきの由、男泰衡以下に遺言せしむ」(義経を主君として嫡男泰衡とその異母兄国衡の3人一緒になって頼朝の攻撃から平泉を護るよう遺言)(「吾妻鏡」)。頼朝が更に揺さぶりを掛けてくること、泰衡に秀衡ほどの統治能力がないなどから、奥州防衛上の最大の危機が迫る。義経の扱いをめぐって兄弟間に対立が生じ、藤原一族の結束は一気に弱体化。

翌年正月9日九条兼実に入った情報によれば、秀衡は他腹の嫡男国衡と当腹の弟泰衡に兄弟間の和融を求め、自分の妻を国衡に娶らせ、異心を抱かぬ様、義経にも2人に同心するよう誓わせ、兄弟2人が義経を主君として仕えるようにと命じる(「玉葉」)。

秀衡6子国衡(軍事面の長になる自負あり、反義経派)・泰衡(正室腹嫡男、反義経派)

忠衡(義経派)・隆衡・通衡・頼衡(義経派)。藤原基成(泰衡後見人・外祖父、義経派)。

11月

・藤原定家(26)、藤原家隆と『閑居百首』を詠む。『拾遺愚草』に、「文治三年冬与越中侍従詠之」と記す。越中侍従は俊成門で藤原家隆。定家より4歳の年長。

かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月    閑居百首

この歌は、『新古今集』に入集

11月1日

・藤原家通(45)没


つづく

夫に詐欺疑惑の三浦瑠麗 学生時代に自民党主催コンテストで最優秀賞を受賞した論文の“中身”(女性自身) / 特捜部が追い込む「三浦瑠麗の夫」弁護士はあの統一教会弁護人だった!《肉声入手》(現代ビジネス) / 三浦瑠麗氏の「夫の会社とは無関係」は通用する? 成長戦略会議では太陽光発電推しの発言していたが…(東京); 利益相反を指摘する声も上がる / 中野信子さんとの共著「不倫と正義」って対談で、旦那さんと会社の株を半々持ち合って経営に参画していることを明言してる / 三浦瑠麗氏の夫が“10億円投資トラブル”で六本木タワマンに家宅捜索(NEWSポストセブン) / 太陽光発電出資の告訴で家宅捜索 東京地検特捜部(FNN) / 「日経が提灯」三浦瑠麗の旦那のヤバい会社(Facta 2021/11号) / 夫の会社が家宅捜索…三浦瑠麗氏はトラブルに「関与せず」も太陽光発電猛プッシュ発言が物議(日刊ゲンダイ)

 

 

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共産党の小池晃書記局長は27日、参院本会議の代表質問で、日本の少子化の背景に「明治憲法下での家父長制や男尊女卑の家族制度を『美しい国』と美化する自民党政治」があると批判した(東京) / 小池晃 「原発回帰は自民党の公約に反する。政府と与党で検討したから問題ないというのは議会制民主主義無視の暴論。安保3文書も国会では答弁を避け、閉会後に閣議決定し、真っ先に米国に報告した。これが民主主義国家のやることか。これでまともな主権国家と言えるのか」  「牛は生きています。生きている限り搾乳続けなければならない。絞った生乳を泣く泣く捨てたり牛を処分せざるを得ない酪農家の苦悩が総理、分かりますか」    



 

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2023年1月27日金曜日

「合成写真かと…」「戦前?」投稿した議員本人も“異様”と綴った、女性がいないある写真とは 海江田万里・衆議院副議長の公式Twitterアカウントに投稿された写真には……。(BuzzFeed) ← 衰退する国って、こういう風景なんだろうね。こんなメンツで少子化対策?     

 

軍拡の是非、議論を 閣議決定は国会軽視で許されぬ(神奈川新聞); 青井未帆学習院大教授に聞きました。「国会は職責を果たさねばならない。予算は憲法上、国会と内閣が協働しなければ作れない仕組み。防衛費の増額が既定路線のように増税だけに絞って議論をするのでなく、その前提問題に立ち返った議論がもたれるべきと強く言いたい」    

 

「異次元の少子化対策」、結局いままで通り「女性に圧をかけるだけなんじゃないか」と思ってしまう理由(武田 砂鉄);「この人は役に立つかどうか。どんな能力があるのか。価値があるのはどちらのほうか。そういう問いかけが社会的な強者から繰り返される。問題視されても、『一理あるよね』や『痛いとこついてる』といった肯定がしっかりと顔を出す」    

 

〈藤原定家の時代253〉文治3(1187)年9月4日~9月28日 「千載和歌集」序が後白河に奏覧 畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正に預けられる 中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両貢金に対する秀衡の返答届く 頼朝の奥州藤原氏への圧力の経緯             

 


〈藤原定家の時代252〉文治3(1187)年7月13日~8月21日 興福寺南大門棟上げ 熊谷次郎直実、流鏑馬の的立て役を命ぜられるが、これを不服とし辞退 所領の一部を没収される 洛中に群盗蜂起 千葉常胤・下河辺行平が京都に派遣される より続く

文治3(1187)年

9月4日

・秀衡が義経を扶持し叛逆を起すとの頼朝の訴えがあり、陸奥に院庁下文が下り、頼朝が使者を派遣。この日、帰参した頼朝の雑色、秀衡には「異心」はないと語ったと述べ、何かあれば「用意」しているようだと報告。そこで、その雑色を京都に遣わし、奥州の形勢を報告させたという((「吾妻鏡」同日条)。

9月4日

・義経追討の院宣、奥州平泉に届く。

9月13日

「摂津の国在廰以下並びに御室御領の間の事、その法を定めらる。今日北條殿の奉りとしてその意を得るべきの由、三條左衛門の尉の許に仰せ遣わさるる所なり。その状に云く、 摂津の国は平家追討の跡として、安堵の輩無しと。惣て諸国在廰・庄園下司、惣横領使の御進退たるべきの由、宣旨を下されをはんぬ。てえれば、縦え領主権門たると雖も、庄公の下職等国の在廰に於いては、一向御進退たるべく候なり。速やかに在廰官人に就いて、国中の庄公下司押領使の注文に召され、内裏の守護以下関東の御役に宛て催さるべし。但し在廰は、公家奉公の憚り無しと。文書調進外の役を止めらるべく候。兼ねてまた河邊の船人を以て御家人と名づけ、時定面々に下知状を成し給うと。事もし実ならば然るべからず。速やかに停止せらるべし。抑も御室の御領所、数輩の寺官を称し、御家人役に宛て催すの由御訴訟有り。所詮三人の寺官の外、他人の妨げを止むべきの由、御返事を申さる。その旨を相存ずべし。仰せに依って執達件の如し。 文治三年九月十三日 平」(「吾妻鏡」同日条)。

9月18日

・藤原定家(26)、潔子内親王御禊行幸に供奉

9月19日

「右武衛の飛脚参着す。去る月十九日齋宮群行なり。而るに勢多橋破損の間、佐々木定綱の奉行として、船を以て湖海を渡し奉るの処、延暦寺所司等、雑人の中に相交り狼藉を現すに依って、定綱郎従相咎むの間、図らず闘乱を起こし殺害に及ぶ。衆徒この事を聞き、忽ち以て蜂起し、嗷訴に及ばんと擬す。而るに国司雅長卿並びに定綱等、殊に制止を加うべし。就中定綱の事に於いては、関東に触れ仰せられずんば、輙く聖断を決し難きの由、座主全玄僧正に仰せらるると雖も、衆徒等猶静謐せずと。」(「吾妻鏡」10月7日条)。

9月20日

・第7勅撰和歌集「千載和歌集」(藤原俊成撰)の序が記され、後白河院に奏覧。完成は翌文治4年5月22日。

平家の武将平経盛・平経正父子、平忠度、平行盛の歌は「よみびとしらず」とされ、文官の権大納言平時忠や、時代の古い清盛の父平忠盛は実名で載せられる。

9月22日

・頼朝、宇都宮(中原)信房・天野遠景を貴海島(鬼界ヶ島)に遣わし義経残党を探索(「吾妻鏡」同日条)。

9月27日

畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正(従兄弟)に預けられる。重忠、潔白示すため寝食を断つ。10月4日、頼朝、疑いを解き本領菅谷の館に帰る事を許可。

重忠が囚人とされたのは、伊勢に置いた重忠の代官真正の押妨について、太神宮神人長家が強引に訴えたからであるという。重忠は、代官のしたことで、くわしいことはしらないと謝罪したが、その身は囚人となり、所領4ヵ所を没収された。これは、同様事案と比較しても過酷な処分であるが、頼朝は太神宮を深く信仰しており、神領に対しては、特に低姿勢であったことによるものと推測される。

胤正に預けられた重忠は、食事をとらず、夜も眠らず、また一言もものをいわずに謹慎した。胤正が心配し詞をつくして、何かたべろというが少しもききいれない。一週間ほどしたら顔付がかわってきた。どうも絶食して死ぬ気らしい、というので、胤正は頼朝に様子を報告して、どうか早く許してやってくれと頼んだ。頼朝はすこぶる感動し、すぐのこれを許した。

「畠山の次郎重忠囚人として千葉の新介胤正に召し預けらる。これ代官眞正が奸曲に依って、太神宮神人長家綱訴え申す故なり。代官の所行子細を知らざるの由、これを謝し申すと雖も、所領四箇所を収公せらるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。

「千葉の新介胤正参り申して云く、重忠召し籠められ、すでに七箇日を過ぎるなり。この間寝食共に絶しをはんぬ。終にまた言語を発すこと無し。今朝胤正詞を尽くし膳を勧むと雖も許容せず。顔色漸く変り、世上の事殆ど思い切るかの由見及ぶ所なり。早く免許有るべきかと。二品頗る傾動し給い、則ち以て厚免せらる。仍って胤正奔り帰り相具し参上す。重忠里見の冠者義成の座上に着す。傍輩に談りて云く、恩に浴すの時は、先ず眼代の器量を求むべし。その仁無くばその地を請うべからず。重忠清潔を存ずること、太だ傍人に越えるの由、自慢の意を挿むの処、眞正男の不義に依って恥辱に逢いをはんぬと。その後座を起ち、直に武蔵の国に下向せしむと。」(「吾妻鏡」10月4日条)。

9月28日

・この年4月、頼朝は、鹿ヶ谷事件で奥州に配流となった中原基兼の召還と東大寺大仏再建の鍍金料として3万両の貢金を秀衡に命じることを朝廷に要請。それにより、院宣が下され、頼朝書状とともに秀衡のもとに送られた。その返答が9月28日に京都に届いた。

内容は、基兼のことは本人が拒んでいるので上洛させないだけで、拘留しているわけではないこと、3万両の貢金は、莫大な料であるうえに、近年は多くの商人が領内に出入りして砂金を売買し、量が底をついているので難しいが、求められたら進上するというもの(『玉葉』9月29日条)。この返答に頼朝は「頗る奇怪」と不信感を示したが、秀衡は、頼朝の要求を余裕を持って断っている。

『玉葉』によれば、院宣の内容は、基兼と貢金のことだけでなく、「度々の追討等の間、殊に功なき事」が含まれていた。これは『玉葉』に直接記されてはいないが、義経を匿っていることを言っているのかもしれない。唐突な基兼召還要求も、義経のことを牽制する意図があったのかもしれない。

「定長仰せて云く、頼朝卿申す旨此の如し。何様に沙汰有るべきや。計り奏すべしてえり。件の申状、御使を奥州に遣わし、東大寺大仏滅金料の砂金を秀衡法師に召すべきの由なり。この事去る四月頼朝卿申して云く、前の山城の守基兼(元法皇近臣、北面下臈、凶悪の人なり)秀衡の許に在り(先年平相国入道、院の近臣等を誡むの内、基兼その随一として奥州に配流せられをはんぬ。その後秀衡に属き、今に彼の国を経廻すと)。而るに上洛の旨有りと雖も、秀衡召し禁しむの間、素意を遂げざるの由、歎き申す所なり。・・・兼ねてまた陸奥の貢金、年を追って減少す。大仏の滅金巨多罷り入るか。三万両ばかり進せしむべきの由、召し仰せらるべきなり。件の両條別の御教書を賜い、秀衡の許に仰せ遣わさんと欲すてえり。仍って経房卿申請に任せ、御教書を書き(基兼の事・砂金の事、並びに度々の追討等の間殊功無き事等なり)、彼の卿の許に遣わす。件の御教書を以て、頼朝書状を書き副え、使者雑色澤方を以て、秀衡の許に遣わす。即ち請文(頼朝返事なり)を進す。件の請文を以て、件の使者澤方処を相具し、経房卿に付すなり。昨日到来すと。頼朝申状の趣、秀衡院宣を重んぜず。殊に恐れる色無し。また仰せ下さる両條共に以て承諾無し。頗る奇怪在るか。今に於いては別の御使を遣わし、貢金等を召さるべきかと。秀衡申状の趣、基兼の事に於いては、殊に憐愍を加え、全く召し誡め無し。京上すべきの由を申さざるに依って、忽ち上洛せしめず。更に拘留の儀に非ず(召し進すべきの由を申さずなり)と。貢金の事、三万両の召し太だ過分たり。先例広く定めて千金を過ぎず。就中、近年商人多く境内に入り砂金を売買す。仍って大略堀り尽くしをはんぬ。仍って旁々叶うべからずと雖も、求め得るに随い進上すべしと。余申して云く、御使を遣わさるるの條、異儀有るべからず。頼朝御返事の趣、申す所尤もその謂われ有り。尤も御使を遣わさるべし。」(「玉葉」同29日条)。

〈頼朝の奥州藤原氏への圧力〉

前年文治2年(1186)4月24日、藤原秀衡の請文が鎌倉に届く。これは、朝廷への貢馬・貢金は、今後は頼朝が取り次ぐということを要請した書状に答えたもの。その書状で頼朝は、秀衡を「奥六郡主」、自分を「東海道惣官」として、互いの立場を明確化し、本来ならば魚水の思いをなすべきところ、これまで音信がなかった。頁馬・貢金は国家への貢ぎ物であるから、私(頼朝)が管轄しないわけにはいかなく、それは勅定の趣を守るためであるという(『吾妻鏡』文治2年4月24日条)。

頼朝は、「十月宣旨」で朝廷から認められた東国管轄権を利用して、朝廷でさえこれまであまり干渉してこなかった奥州のことに干渉するとともに、自身を秀衡よりも上位に位置付けようとした。それを秀衡が承諾した。秀衡は無益な争いを避けた。

これにより文治2年5月10日、秀衡より貢馬3疋・中持3棹が鎌倉に送られ、八田知家が付き添って京都に送られた(『吾妻鏡』5月10日条)。

10月1日には、秀衡より今年分の貢金450両が鎌倉に届き、2日後、頼朝からの頁馬5疋とともに京都に送られた(『吾妻鏡』10月1,3日条)

文治3年(1187)4月、頼朝は、中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両の貢金を秀衡に命じることを朝廷に要請し、それにより、院宣が下され、頼朝書状とともに秀衡のもとに送られる。

9月4日、奥州に遣わしていた雑色が鎌倉に帰還。これは、それ以前、秀衡が義経を扶持して反逆していることを頼朝が朝廷に訴え、それに基づき院庁下文が陸奥に下され、その時に鎌倉から同行した雑色である。


つづく


2023年1月26日木曜日

大船フラワーセンター シモバシラ(植物) 梅(玉牡丹、翁、内裏、道知辺) ビオラ各種 椿(紅乙女) ハルサザンカ(笑顔) 2023-01-26

 1月26日(木)はれ

シモバシラという植物があって、花が咲いているところは見たことがあるのだが、名前の由来でもある霜柱(霜華)は見たことがないので、それを見るために大船フラワーセンターに行ってきた。寒い日、シモバシラという名前の植物の枯れた茎に、霜柱(霜華)ができる。形は様々だが、大きそうな塊がコレ(↓)だった。


▼梅の開花は予想よりまだ少なかった。玉牡丹、翁、内裏、道知辺





▼ピークを過ぎたビオラ

▼椿(紅乙女)

▼ハルサザンカ 笑顔

米軍の行う「統合防空ミサイル防衛」についての志位委員長の質問に、日本は「自衛隊の指揮下」での参加だと答弁するも、やはり「米軍の指揮下」だった事を訂正する岸田首相 ← 岸田さん、分かってるのか? /  米軍側が「先制攻撃作戦を含む」と明記しているこのシステム(「統合防空ミサイル防衛(IAMD)」)に自衛隊も参加する事が明らかになった (2023.1.26衆院本会議/志位和夫委員長)   

 

〈藤原定家の時代252〉文治3(1187)年7月13日~8月21日 興福寺南大門棟上げ 熊谷次郎直実、流鏑馬の的立て役を命ぜられるが、これを不服とし辞退 所領の一部を没収される 洛中に群盗蜂起 千葉常胤・下河辺行平が京都に派遣される

 


〈藤原定家の時代251〉文治3(1187)年5月2日~6月29日 公卿以下の意見封事(国家再建の意見書)17通 後鳥羽天皇の神器宝剣探査令 頼朝、次第に朝廷内部に進出 伊勢国での地頭を巡る争い より続く

文治3(1187)年

7月13日

・「この日、興福寺南大門棟上げなり。」(「玉葉」同日条)。

7月19日

「右武衛の消息到来す。院宣を副え進す所なり。これ前の大蔵卿泰経、去年義顕與同の過に処せられをはんぬ。帰洛を免さるべきの由、申せしめ給うに就いてこれを免さる。而るを本より近臣たるに依って、今に於いては昵近を聴さるべきの趣、仰せ下さるるが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月20日

・後白河、安徳天皇とともに壇ノ浦海中に没した三種の神器を探させる(発見されず)。 

「今日勅使を長門国に遣さる。且つは祈禱せられ、捜索せしめんがためなり。神祇大祐卜部兼衡・大蔵少輔安倍泰成等使いとなり、前安芸守佐伯景弘、去る比下向す。景弘は合戦の時彼の国に在り、宝剣沈没の所を存知すと云々。」(『百錬抄』文治3年7月20日条)

7月27日

「信濃の国善光寺、去る治承三年廻禄の後、再興の沙汰有るの間、殊に合力を加うべきの由、諸人に仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。


8月1日

「今日より来十五日に至るまで、放生会を専らすべきの旨、兼日関東の庄園等に触れ仰せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月3日

・「筑前の国筥崎宮宮司親重賞に行わる。当国那河西郷・糟屋西郷等これを拝領すと。平氏在世の時、彼の祈祷を抽んずるに依って、日来聊か御気色有りと雖も、所詮神官等の事に於いては、一向に優恕せらるべきの由、思し食し定めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月4日

・熊谷次郎直実、15日の鎌倉八幡宮放生会の流鏑馬に頼朝から、的立て役を命ぜられるが、これを不服とし辞退。所領の一部を没収される。

「今年鶴岡に於いて放生会を始行せらるべきに依って、流鏑馬の射手並びに的立等の役を宛て催さる。その人数に、熊谷の二郎直實を以て上手の的を立つべきの由仰せらるるの処、直實鬱憤を含み申して云く、御家人は皆傍輩なり。而るに射手は騎馬、的立役人は歩行なり。すでに勝劣を分けるに似たり。此の如き事に於いては、直實厳命に従い難してえり。重ねて仰せに云く、此の如き所役は、その身の器を守り仰せ付けらるる事なり。全く勝劣を分たず。就中、的立役は下職に非ず。且つは新日吉社祭御幸の時、本所の衆を召し流鏑馬の的を立てられをはんぬ。その濫觴の説を思うに猶射手の所役に越えるなり。早く勤仕すべしてえり。直實遂に以て進奉するに能わざるの間、その科に依って所領を召し分けらるべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

8月8日

・最勝寺の訴えにより、後家人原宗四郎行能の若狭の今重保に対する押領が排除(「吾妻鏡」同日条)。朝廷側の巻き返し。

8月15日

・鶴岡の放生会。

「鶴岡の放生会なり。二品御出で。参河の守範頼・武蔵の守義信・信濃の守遠光・遠江の守義定・駿河の守廣綱・小山兵衛の尉朝政・千葉の介常胤・三浦の介義澄・八田右衛門の尉知家・足立右馬の允遠元等扈従す。流鏑馬有り。・・・その後珍事有り。諏方大夫盛澄と云う者、流鏑馬の芸を窮む。秀郷朝臣の秘決を慣らい伝うに依ってなり。爰に平家に属き多年在京し、連々城南寺流鏑馬以下の射芸に交りをはんぬ。仍って関東に参向する事頗る延引するの間、二品御気色有りて、日来囚人と為すなり。而るに東に参向する事頗る延引するの間、二品御気色有りて、日来囚人と為すなり。而るに今日俄にこれを召し出され、流鏑馬を射るべきの由仰せらる。盛澄領状を申し、御厩第一の悪馬を召し賜う。・・・五寸の串皆これを射切る。観る者感ぜずと云うこと無し。二品の御気色また快然たり。忽ち厚免を仰せらると。 今日の流鏑馬 一番 射手 長江の太郎義景 的立 野三刑部の丞盛綱 二番 射手 伊澤の五郎信光 的立 河匂の七郎政頼 三番 射手 下河邊庄司行平 的立 勅使河原の三郎有直 四番 射手 小山の千法師丸 的立 浅羽の小三郎行光 五番 射手 三浦の平六義村 的立 横地の太郎長重」(「吾妻鏡」同日条)。

「因幡の前司廣元の使者京都より参着す。去る十五日、六條若宮に於いて放生会を始行するの処、見物雑人中に闘乱出来し、疵を被るの者等有りと。」(「吾妻鏡」同25日条)。

8月18日

洛中に群盗蜂起。頼朝、京都守護一条能保の報告により、洛中の強盗対策のため千葉常胤・下河辺行平を京都に派遣

「右武衛能保の消息到来す。当時京中強盗所処に乱入し、尊卑これが為に魂を消さずと云うこと無し。就中、去年十二月三日、強盗太皇太后宮に推参し、大夫の進仲賢以下の男女を殺害以来、太略隔夜この事有り。勇士等を差し殊に警衛し給うべきの由、天気有りと。」(「吾妻鏡」同12日条)。

「・・・御消息に云く、 洛中群盗蜂起並びに散在の武士狼藉の事、度々仰せ下され候の趣、殊に驚き歎き思い給い候。時政下向の時、東国の武士少々差し置き候いをはんぬ。その外も、或いは兵粮米の沙汰として、或いは大番勤仕として、武士等在京する事多く候か。彼の輩狼藉を鎮めず、還って計略に疲れ、若くは此の如き事をもや企て候わんか。人口塞ぎ難く候。然かれば偏に頼朝の恥辱たるべく候。当時親能・廣元在京し候と雖も、元より武の器に非ず候。ただ閑院殿修造の事、沙汰を致し候ばかりなり。此の如きの事、全く彼等の不覚たるべからず候か。仍って常胤・行平を差し進し候。東国に於いて有勢の者に候の上、相憑む勇士に候なり。自余の事は知り候はず。武士等の中の狼藉は、この両人輙く相鎮むべく候。器量を見計り進し候。能々仰せ付けらるべく候。條々猶別紙を以て言上し候。且つはこの趣洩れ披露せしめ給うべく候。頼朝恐々謹言。 八月十九日 頼朝 進上 師中納言殿」(「吾妻鏡」同日条)。

「下河邊庄司行平使節として上洛す。また重ねて京都に申さるる條々、 一、群盗の事・・・ 一、江大夫判官下部等狼藉の事 河内の国に於いて、関東御家人と号し寄せ取り狼藉に及ぶの由、風聞せしむ所なり。全く頼朝申し付ける旨無し。御尋ね有るべき事。 一、北面の人々廷尉に任ずる事・・・ 一、壱岐判官下向の事 義経・行家等に同意する者なり。随って別の仰せ無し。この上進上すべきかの事。 一、奉公の人々子孫の事・・・ 一、西八條地の事 没官領としてこれを宛て賜うと雖も、公用有るべきの由、内々承りをはんぬ。早く御定在るべき事。 一、所々地頭の輩の事 以前、すでに面々に子細を含めをはんぬ。もし頼朝の成敗に拘わらざる輩の事に於いては、仰せ下さるるに随い、治罰を加うべき事。 」(「吾妻鏡」同27日条)。

「千葉の介常胤使節として上洛す。・・・同道すべきの処、常胤違例の間、延びて今日に及ぶと。」(「吾妻鏡」同30日条)。

「下河邊庄司・千葉の介等の上洛に付き、洛中の群盗以下條々奏聞せしめ給う事、悉く勅答有り。その状今日鎌倉に到来するなり。・・・院宣に云く、・・・一、群盗並びに人々の事・・本より関東の武士の所行とは全く風聞せず。またその旨を仰せ遣わさず。・・・一、西八條の事・・・一、所々地頭等の事 成敗せしめ給うの旨に任せ、各々仰せ下さるべきなり。この上申し上げる事有らば、重ねて仰せ遣わさるべきか。・・・一、圓勝寺領駿河の国益頭庄の事・・・一、御熊野詣での事・・・一、阿武郡の事 九月二十日 太宰権の師籐経房(奉る)」(「吾妻鏡」10月3日条)。

8月21日

・九条兼実、氏長者として初めて平等院に参る。藤原定家(26)、兼実に供奉し前駈を勤める(「玉葉」)。