文治3(1187)年
9月4日
・秀衡が義経を扶持し叛逆を起すとの頼朝の訴えがあり、陸奥に院庁下文が下り、頼朝が使者を派遣。この日、帰参した頼朝の雑色、秀衡には「異心」はないと語ったと述べ、何かあれば「用意」しているようだと報告。そこで、その雑色を京都に遣わし、奥州の形勢を報告させたという((「吾妻鏡」同日条)。
9月4日
・義経追討の院宣、奥州平泉に届く。
9月13日
・「摂津の国在廰以下並びに御室御領の間の事、その法を定めらる。今日北條殿の奉りとしてその意を得るべきの由、三條左衛門の尉の許に仰せ遣わさるる所なり。その状に云く、 摂津の国は平家追討の跡として、安堵の輩無しと。惣て諸国在廰・庄園下司、惣横領使の御進退たるべきの由、宣旨を下されをはんぬ。てえれば、縦え領主権門たると雖も、庄公の下職等国の在廰に於いては、一向御進退たるべく候なり。速やかに在廰官人に就いて、国中の庄公下司押領使の注文に召され、内裏の守護以下関東の御役に宛て催さるべし。但し在廰は、公家奉公の憚り無しと。文書調進外の役を止めらるべく候。兼ねてまた河邊の船人を以て御家人と名づけ、時定面々に下知状を成し給うと。事もし実ならば然るべからず。速やかに停止せらるべし。抑も御室の御領所、数輩の寺官を称し、御家人役に宛て催すの由御訴訟有り。所詮三人の寺官の外、他人の妨げを止むべきの由、御返事を申さる。その旨を相存ずべし。仰せに依って執達件の如し。 文治三年九月十三日 平」(「吾妻鏡」同日条)。
9月18日
・藤原定家(26)、潔子内親王御禊行幸に供奉
9月19日
・「右武衛の飛脚参着す。去る月十九日齋宮群行なり。而るに勢多橋破損の間、佐々木定綱の奉行として、船を以て湖海を渡し奉るの処、延暦寺所司等、雑人の中に相交り狼藉を現すに依って、定綱郎従相咎むの間、図らず闘乱を起こし殺害に及ぶ。衆徒この事を聞き、忽ち以て蜂起し、嗷訴に及ばんと擬す。而るに国司雅長卿並びに定綱等、殊に制止を加うべし。就中定綱の事に於いては、関東に触れ仰せられずんば、輙く聖断を決し難きの由、座主全玄僧正に仰せらるると雖も、衆徒等猶静謐せずと。」(「吾妻鏡」10月7日条)。
9月20日
・第7勅撰和歌集「千載和歌集」(藤原俊成撰)の序が記され、後白河院に奏覧。完成は翌文治4年5月22日。
平家の武将平経盛・平経正父子、平忠度、平行盛の歌は「よみびとしらず」とされ、文官の権大納言平時忠や、時代の古い清盛の父平忠盛は実名で載せられる。
9月22日
・頼朝、宇都宮(中原)信房・天野遠景を貴海島(鬼界ヶ島)に遣わし義経残党を探索(「吾妻鏡」同日条)。
9月27日
・畠山重忠、所領4ヶ所没収、千葉胤正(従兄弟)に預けられる。重忠、潔白示すため寝食を断つ。10月4日、頼朝、疑いを解き本領菅谷の館に帰る事を許可。
重忠が囚人とされたのは、伊勢に置いた重忠の代官真正の押妨について、太神宮神人長家が強引に訴えたからであるという。重忠は、代官のしたことで、くわしいことはしらないと謝罪したが、その身は囚人となり、所領4ヵ所を没収された。これは、同様事案と比較しても過酷な処分であるが、頼朝は太神宮を深く信仰しており、神領に対しては、特に低姿勢であったことによるものと推測される。
胤正に預けられた重忠は、食事をとらず、夜も眠らず、また一言もものをいわずに謹慎した。胤正が心配し詞をつくして、何かたべろというが少しもききいれない。一週間ほどしたら顔付がかわってきた。どうも絶食して死ぬ気らしい、というので、胤正は頼朝に様子を報告して、どうか早く許してやってくれと頼んだ。頼朝はすこぶる感動し、すぐのこれを許した。
「畠山の次郎重忠囚人として千葉の新介胤正に召し預けらる。これ代官眞正が奸曲に依って、太神宮神人長家綱訴え申す故なり。代官の所行子細を知らざるの由、これを謝し申すと雖も、所領四箇所を収公せらるべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「千葉の新介胤正参り申して云く、重忠召し籠められ、すでに七箇日を過ぎるなり。この間寝食共に絶しをはんぬ。終にまた言語を発すこと無し。今朝胤正詞を尽くし膳を勧むと雖も許容せず。顔色漸く変り、世上の事殆ど思い切るかの由見及ぶ所なり。早く免許有るべきかと。二品頗る傾動し給い、則ち以て厚免せらる。仍って胤正奔り帰り相具し参上す。重忠里見の冠者義成の座上に着す。傍輩に談りて云く、恩に浴すの時は、先ず眼代の器量を求むべし。その仁無くばその地を請うべからず。重忠清潔を存ずること、太だ傍人に越えるの由、自慢の意を挿むの処、眞正男の不義に依って恥辱に逢いをはんぬと。その後座を起ち、直に武蔵の国に下向せしむと。」(「吾妻鏡」10月4日条)。
9月28日
・この年4月、頼朝は、鹿ヶ谷事件で奥州に配流となった中原基兼の召還と東大寺大仏再建の鍍金料として3万両の貢金を秀衡に命じることを朝廷に要請。それにより、院宣が下され、頼朝書状とともに秀衡のもとに送られた。その返答が9月28日に京都に届いた。
内容は、基兼のことは本人が拒んでいるので上洛させないだけで、拘留しているわけではないこと、3万両の貢金は、莫大な料であるうえに、近年は多くの商人が領内に出入りして砂金を売買し、量が底をついているので難しいが、求められたら進上するというもの(『玉葉』9月29日条)。この返答に頼朝は「頗る奇怪」と不信感を示したが、秀衡は、頼朝の要求を余裕を持って断っている。
『玉葉』によれば、院宣の内容は、基兼と貢金のことだけでなく、「度々の追討等の間、殊に功なき事」が含まれていた。これは『玉葉』に直接記されてはいないが、義経を匿っていることを言っているのかもしれない。唐突な基兼召還要求も、義経のことを牽制する意図があったのかもしれない。
「定長仰せて云く、頼朝卿申す旨此の如し。何様に沙汰有るべきや。計り奏すべしてえり。件の申状、御使を奥州に遣わし、東大寺大仏滅金料の砂金を秀衡法師に召すべきの由なり。この事去る四月頼朝卿申して云く、前の山城の守基兼(元法皇近臣、北面下臈、凶悪の人なり)秀衡の許に在り(先年平相国入道、院の近臣等を誡むの内、基兼その随一として奥州に配流せられをはんぬ。その後秀衡に属き、今に彼の国を経廻すと)。而るに上洛の旨有りと雖も、秀衡召し禁しむの間、素意を遂げざるの由、歎き申す所なり。・・・兼ねてまた陸奥の貢金、年を追って減少す。大仏の滅金巨多罷り入るか。三万両ばかり進せしむべきの由、召し仰せらるべきなり。件の両條別の御教書を賜い、秀衡の許に仰せ遣わさんと欲すてえり。仍って経房卿申請に任せ、御教書を書き(基兼の事・砂金の事、並びに度々の追討等の間殊功無き事等なり)、彼の卿の許に遣わす。件の御教書を以て、頼朝書状を書き副え、使者雑色澤方を以て、秀衡の許に遣わす。即ち請文(頼朝返事なり)を進す。件の請文を以て、件の使者澤方処を相具し、経房卿に付すなり。昨日到来すと。頼朝申状の趣、秀衡院宣を重んぜず。殊に恐れる色無し。また仰せ下さる両條共に以て承諾無し。頗る奇怪在るか。今に於いては別の御使を遣わし、貢金等を召さるべきかと。秀衡申状の趣、基兼の事に於いては、殊に憐愍を加え、全く召し誡め無し。京上すべきの由を申さざるに依って、忽ち上洛せしめず。更に拘留の儀に非ず(召し進すべきの由を申さずなり)と。貢金の事、三万両の召し太だ過分たり。先例広く定めて千金を過ぎず。就中、近年商人多く境内に入り砂金を売買す。仍って大略堀り尽くしをはんぬ。仍って旁々叶うべからずと雖も、求め得るに随い進上すべしと。余申して云く、御使を遣わさるるの條、異儀有るべからず。頼朝御返事の趣、申す所尤もその謂われ有り。尤も御使を遣わさるべし。」(「玉葉」同29日条)。
〈頼朝の奥州藤原氏への圧力〉
前年文治2年(1186)4月24日、藤原秀衡の請文が鎌倉に届く。これは、朝廷への貢馬・貢金は、今後は頼朝が取り次ぐということを要請した書状に答えたもの。その書状で頼朝は、秀衡を「奥六郡主」、自分を「東海道惣官」として、互いの立場を明確化し、本来ならば魚水の思いをなすべきところ、これまで音信がなかった。頁馬・貢金は国家への貢ぎ物であるから、私(頼朝)が管轄しないわけにはいかなく、それは勅定の趣を守るためであるという(『吾妻鏡』文治2年4月24日条)。
頼朝は、「十月宣旨」で朝廷から認められた東国管轄権を利用して、朝廷でさえこれまであまり干渉してこなかった奥州のことに干渉するとともに、自身を秀衡よりも上位に位置付けようとした。それを秀衡が承諾した。秀衡は無益な争いを避けた。
これにより文治2年5月10日、秀衡より貢馬3疋・中持3棹が鎌倉に送られ、八田知家が付き添って京都に送られた(『吾妻鏡』5月10日条)。
10月1日には、秀衡より今年分の貢金450両が鎌倉に届き、2日後、頼朝からの頁馬5疋とともに京都に送られた(『吾妻鏡』10月1,3日条)
文治3年(1187)4月、頼朝は、中原基兼召還と東大寺大仏再建鍍金料3万両の貢金を秀衡に命じることを朝廷に要請し、それにより、院宣が下され、頼朝書状とともに秀衡のもとに送られる。
9月4日、奥州に遣わしていた雑色が鎌倉に帰還。これは、それ以前、秀衡が義経を扶持して反逆していることを頼朝が朝廷に訴え、それに基づき院庁下文が陸奥に下され、その時に鎌倉から同行した雑色である。
つづく
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