文治3(1187)年
11月15日
・梶原景時、畠山重忠謀反の意有りと讒言。
頼朝、小山朝政・下河辺行平・結城朝光・三浦義澄・和田義盛らの勇将を集め討つかどうか可否議論。結城朝光は弁護。重忠と親しい下河辺行平が使者となる。
21日、下河辺行平・畠山重忠、鎌倉到着、梶原景時に反逆心ないと陳述、起請文を要求される。景時の「他人の財を押領し渡世の計をもっぱらにすると噂されては、武士の恥辱になろうが、謀反の風聞を立てられるのは、かえって身の面目である。頼朝公を主君に仰ぐ心も言葉もニつない。我が身が潔白である以上、起請文など書くまでもないと信じる」との言明を聞き頼朝は感動し、重忠を信頼する。
「去る夜梶原平三景時内々申して云く、畠山の次郎重忠重科を犯さざるの処、召し禁しめらるるの條、大功を棄損せらるに似たりと称し、武蔵の国菅谷の館に引き籠もり、反逆を発せんと欲すの由風聞す。而るを折節一族悉く以て在国し、縡すでに符号す。爭か賢慮を廻らされざらんかと。これに依って今朝朝政・行平・朝光・義澄・義盛等の勇士を召集し、御使を遣わし子細を問わるべきか。将又直に討手を遣わすべきか。両條計り申すべき旨これを仰せ含めらる。朝光申して云く、重忠天性廉直を稟け、尤も道理を弁え、敢えて謀計を存ぜざる者なり。然れば今度の御気色、代官所犯の由に依って雌伏せしめをはんぬ。その上殊に神宮の照鑒を怖畏するの間、更に怨恨を存ぜざらんか。謀叛の條定めて僻事たらんか。専使を遣わされその意を聞こし食さるべしてえり。自余の衆一同せしむと。爰に行平は弓馬の友なり。早く行き向かい所存を尋ね問うべし。異心無くば、召し具すべきの旨仰せ出さる。行平辞退に能わず。明暁鞭を揚ぐべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「行平重忠を相具し、武蔵の国より帰参す。重忠景時に属き、逆心無きの由を陳べ申す。景時云く、その企て無くば、起請文を進すべしてえり。重忠云く、重忠の如きの勇士は、・・・もし虚名に及わば、尤も恥辱たるべし。謀叛を企てんと欲するの由風聞するは、還って眉目と謂うべし。但し源家当世を以て、武将の主に仰ぐの後更に貳無し。而るに今この殃に逢うなり。運の縮まる所なり。且つは重忠本より心と言と異なるべからざるの間、起請を進し難し。詞を疑い起請を用い給うの條は、奸者に対す時の儀なり。重忠に於いて偽りを存ぜざるの事は、兼ねて知し食す所なり。速やかにこの趣を披露すべしてえり。景時その由を二品に申す。是非に付いて御旨無し。則ち重忠・行平を御前に召し、世上の雑事等を談り給う。曽てこの間の事を仰せ出されず。小時入らしめ給うの後、親家を以て御剱を行平に賜う。無為に重忠を相具すること、大功たるの由と。行平去る十七日畠山の館に向かい、子細を重忠に相触る。重忠太だこれに忿怒す。何の恨みに依って多年の勲功を抛ち、忽ち反逆の凶徒と為すべきや。且つは重忠の所存に於いては左右に能わず。二品の御腹心今更御疑い無からんか。偏に讒者等の口状に就いて、恩喚有りと称し、相度り誅せんが為、貴殿を差し遣わさるるなり。末代に至り今この事を聞き、業果を恥づべしてえり。腰刀を取り自戮せんと欲す。行平重忠の手を取り云く、貴殿は訴偽を知らざるの由自称す。行平また誠心在口の條、爭か貴殿に異なるべきや。誅すべきはまた怖るべきに非ざるの間、偽り度りべからざるなり。・・・時儀適々朋友を撰び、行平を使節と為す。これ異儀無く、具し参らしめんが為の御計なりてえり。時に重忠咲いを含み盃酒を勧む。歓喜相伴すと。」(「吾妻鏡」同21日条)。
11月22日
・兼実、大江広元への不快感を吐露。
この月、大江広元は蔵人所出納(天皇の家政の財物出納を担当する職)を勤める久近(ひさちか)という人物の暴言行為を朝廷に訴え、その罷免を求める。兼実がこの広元の訴えを後白河に取り次ぎ、久近は蔵人所出納の職を追われる。
この件をめぐって兼実は広元に対してかなり不快な感情を抱いたらしく、『玉葉』11月22日条に、「極めてもって不便といえども、近代の事、力及ばざる次第か」と記す。
かつての太政官機構の下級官吏から一変し、頼朝より全権を委任されて公家政権の要人とわたりあう広元の姿に対する当惑を反映したもの。
11月23日
・藤原定家(26)、賀茂臨時祭舞人に召さる。賀茂臨時祭の舞人一人不足、定家を召すべき院宣あり、兼実、「第一勤厚之者、毎度譴責尤不便歟」と日記に記す(「玉葉」)。
24日、賀茂臨時祭に参仕、陪従を勤める(「玉葉」)。
11月27日
・藤原定家(26)、殷富門院亮子内親王御所で行われた高倉院第二皇子(守貞親王)御着袴の儀に兼実の伴をして参仕
12月2日
・後白河法皇、新制7ヶ条を下す。
12月2日
・源頼朝、鎌倉~京都間の飛脚行程を7日間と定める。
12月10日
・「橘次為茂免許を蒙る。北條殿の計として、富士郡の田所職を賜う。これ父遠茂は平家の方人として、治承四年二品を射奉る。仍って日来囚人たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月13日
・後白河院と八条院が新造御所に移徒。
19日、俊成がその御所に参じる。
12月16日
・足利義兼室北条時子、容体悪化。北条政子、これを見舞う。晩、病状落ち着く。(「吾妻鏡」)
つづく
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