〈藤原定家の時代256〉文治4(1188)年1月1日~2月8日 興福寺中金堂・南門堂の上棟 「頼朝卿申し送りて云く、義顕奥州に在る事すでに実なり。但し頼朝亡母の為五重の塔婆を造営す。・・・今年に於いては一切この沙汰に及ぶべからず」(『玉葉』) より続く
文治4(1188)年
〈奥州藤原氏は、頼朝にとってどのような存在だったのか〉
〈奥州藤原氏の概観〉
奥州藤原氏は、前九年・後三年合戦などを経て、安倍・清原氏の支配領域であった北上川中・上流域の奥六郡(胆沢いざわ・江刺えさし・和賀わが・稗貫ひえぬき・斯波しば・岩手いわて)を継承し、陸奥・出羽両国に支配を及ぼした藤原清衡に始まる。
清衡は11世紀末~12世紀初頭、磐井郡平泉に拠点を築き、白河関から津軽半島の外が浜にいたる奥大道(おくだいどう)を整備し、1町(約109m)ごとに金色の阿弥陀像を描いた笠卒塔婆(かさそとば)を造立したと伝えられる。
また清衡は、多宝寺・釈迦堂・両界堂・二階大堂などの伽藍からなる荘厳な中尊寺を平泉に建立し、二代基衡の毛越寺造営、三代秀衡の無量光院造営などへと展開する、12世紀の平泉における華麗な仏教文化の基礎をつくった。
三代秀衡は、父基衡が没した保元2年(1157)頃に奥州藤原氏の当主となり、嘉応2年(1170)5月25日に奥州藤原氏で唯一鎮守府将軍に任じられ、従五位下に叙された。鎮守府将軍は、本来、陸奥国鎮守府において蝦夷経営にあたる軍政府の長官のことであるが、12世紀にはその実質を失って陸奥守が兼任する名誉職となり、武士が補任されることはなかったから、秀衡の任官はきわめて例外的なものであった。奥州藤原氏の実質的な支配を、朝廷が制度的に位置づけたものといえる。
秀衡の政庁「平泉館」と推定される柳之御所(やなぎのぎしよ)遺跡では、発掘調査によって、堀と塀・溝によって囲まれた広大な居館跡が検出され、中国産の白磁や渥美・常滑産の壺・瓶などの破片、宴会のたびに使い捨てられたおびただしい量のカワラケ(素焼きの土器)、寝殿遺風の邸宅が描かれた板絵、「人々給絹日記(ひとびとにたまうきぬのにつき)」(秀衡が儀礼に参加する子息・側近に絹織物の装束を支給するためのリスト)が墨書された杉板などが発見されている。
〈奥州藤原氏のネットワーク〉
流人の頼朝に挙兵を決断させたキー・パーソンの一人、佐々木秀義は、平治の乱後に近江国佐々木荘を追われ、奥州の藤原秀衡のもとに赴く途中で相模国の渋谷重国に引き止められ身を寄せた。佐々木秀義が奥州藤原氏を頼ろうとしたのは、秀義の母(安倍宗任の娘)の姉妹が藤原基衡の妻となっていたからであった。秀義は、保元の乱以前から源為義の専使として奥州藤原氏のもとにたびたび派遣され、矢羽や名馬の調達にあたっていたが、これもそうした姻戚関係に基づいていたと考えられ、奥州藤原氏と畿内近国の武士との交流が日常的に存在したことが知られる。佐々木秀義が子の定綱を伊豆の頼朝のもとに遣わし、もし挙兵しないならば早急に奥州へ逃げるように勧めたという延慶本『平家物語』の記事も、佐々木氏と奥州藤原氏の親密な関係を踏まえれば、十分に信憑性がある。奥州藤原氏は、義経だけでなく、頼朝の亡命先にもなりえた。
義経が幼い頃に預けられた鞍馬山を出て、奥州に下向したのは、承安4年(1174)、義経16歳の時。義経の奥州下向は、母常磐が再婚した藤原長戌と親戚関係にあった前民部少輔藤原基成が平泉にあり、その基成の招きによるものと推定されている。
基成は、康治2年(1143)から10年余間、陸奥守に在任し、現地に下向して娘を秀衡の妻とするなど、藤原基衡・秀衡と親交を結び、平治元年(1159)の平治の乱で兄藤原信頼に連座して陸奥に配流となってからは、衣川北岸の「衣河館(ころもがわのたち)」に居住し、秀衡の政治顧問として重きをなした。義経はこの基成の保護を受けて「衣河館」内に居所を与えられ、秀衡やその子とも交流をもちながら頼朝挙兵までの時期を過ごした。
〈奥州藤原氏の脅威〉
治承・寿水の内乱勃発後、惣官平宗盛の要請によって、養和元年(1181)8月15日、藤原秀衡が陸奥守、城助職(じようすけもと、長茂ながみち)が越後守に任じられた。この補任は、非常事態のなかでの措置で、頼朝や義仲らによる諸反乱を鎮圧できないまま、膠霜状態に陥った平氏が、反乱鎮圧への藤原秀衡・城助職の軍事的協力を期待したものであった。
しかし、秀衡は動かなかった。寿永2年(1183)12月15日、義仲の要求で頼朝追討を命じる後白河院庁下文が秀衡に発給された際も同様であった。
それにもかかわらず、頼朝にとって奥州藤原氏は脅威だった。頼朝に敵対した常陸国の有力武士佐竹隆義(たかよし)の母が藤原清衡の娘であり、姻戚関係に基づいた両者の連携が実際に存在していた。治承4年(1180)11月の金砂城(かなさじょう)合戦の際に在京中であった隆義は、その後も常陸国内で頼朝に抵抗し続け、頼朝軍に敗れると奥州に逃げ籠るなど、奥州藤原氏の存在を背後にして軍事活動を展開した。のちの奥州合戦においては、四代泰衡のもとに佐竹氏一族の者が従っていた。
平氏都落ち後の寿永2年(1183)10月、後白河から上洛要請を受けた頼朝は、すぐに上洛できない理由の一つとして「一は秀平(秀衡)・隆義等、上洛の跡に入れ替るべし」(『玉葉』寿永2年10月9日条)と返答し、秀衡と佐竹隆義が連携して留守中の鎌倉を攻撃してくる危惧を伝えている。頼朝にとって奥州藤原氏は、幕府権力の基盤である関東を固めるうえでも最も警戒すべき対象となっていた。
2月12日
・この日の夜、京都守護一条能保のもとに頼朝の使者が到着し、「義顕(義経)奥州に在る事、已に実なり」(『玉葉』文治4年2月13日条)と伝えてきた。
しかし、頼朝は亡母供養の五重塔建立と厄年による一年間の殺生禁断のため、ただちに奥州の義経を追討しようとはせず、朝廷から泰衡に命じて義経を召し出させることを提案した。
朝廷は頼朝の要請に基づいて、文治4年2月・10月の二度にわたって、泰衡と前民部少輔藤原基成に義経捕縛を命じる宣旨を発給したが、事態は何の進展も見ないまま、頼朝の殺生禁断が明ける文治5年(1189)を迎える。
2月17日
・頼朝、義経・泰衡共に追討の旨奏上。
「午の刻、盛隆朝臣来たり院宣を伝えて云く、頼朝卿の申状此の如し。即ち消息二通・・・義顕の間の事、改名の條異議に及ぶべからず。早く宣旨を摺り改めらるべきか。抑も秀衡法師の子息等義顕追討に使うべきの由、宣下を下さるるの條、もし頼朝の意趣に背くや否や。聊か思慮有るべし。その故ハ今の申状の如きは、件の泰衡と義顕と同意し、すでに謀叛者たるの由言上す。而るに左右無く追討使の由、宣旨に載せらる。如何。若くは議定有るべきや。」(「玉葉」同日条)。
2月20日
・内大臣九条良通(22)、急没。兼実は打撃を受け、出家を考えるようになるが、弟慈円が彼を力づける。娘任子の入内、良経(良通の弟)の成長(中納言・大納言・右大将に昇進)。
18日、良通は病気も回復したと言って兼実のもとを訪ねて来た。
19日は、忠通の忌日(きにち、命日)。九条堂(証真如院)で舎利講を催し、兼実、その室、良通共に聴聞、同車して冷泉亭に帰る途中、法華経を兼実が念誦話し、良通はしずかにこれを聞いていた。冷泉万里小路第に到着後も、しばらくは兼実や母・兼子と話をしていて、子の刻(午前0時頃)、良通は自宅に帰り、兼実は就寝した。
ところが、しばらくすると、良通に仕える女房帥局が駆け込んできた。良通が「絶え入る(息絶えている)」という。兼実が「劇速(げきそく)」に行ってみると、息絶えた良通の姿があった。
「終焉ノ体罪業人ニ非ザルカ。面貌端正仰イデ之ニ臥ス、是レ善人之相云々、仏厳来云、天上ニ生ルカ」(『玉葉』)。
跡継ぎに先立たれ、兼実は2月20日以降、5月9日まで日記を書くのを止めている。
良通没後、兼実は2男良経を跡継ぎとした。だが、兼実の悲しみは四十九日を過ぎても癒やされず、『玉葉』には「悲涙乾くこと無し」と記されている(4月9日条)。
翌文治5年8月1日、兼実は初めて法然(源空)を邸に招き、往生について談じる。兼実には以前より「遁世の志」があり(寿永2年9月1日条)、すでに密かに「真理」という法名も付けていたが(治承5年3月20日条)、良通の死はいっそう遁世への思いを募らせた。
兼実は良通没後、良通の思い出が残る冷泉万里小路第には住めなくなり九条富小路殿に戻ってしまう。これに対して、後白河は摂政に「京御所」がないのは不便だと言って、大炊御門殿(おおいみかどどの)を与えた(文治4年7月1日条。当時、九条は「京内」とは見なされていなかった)。大炊御門殿はもともと左大臣経宗の邸宅で、兼実は仇敵の旧邸に住むことになった。
内大臣良通は、兼実19歳、妻16歳の時の出生。17歳で白馬の節会に内弁の大役をつとめた。幼年にして学に志し、和漢の典籍を限りなく渉猟。年僅か22歳。何の罪あってこの欺きをせねばならないのか。兼実の欺きは続く。
2月21日
・義経追討の宣旨
東海・東山道の国司及び武勇の輩に義経追討宣旨下る。貴海島追捕が延期。
26日、この宣旨の沿って、院庁下文下る。前民部少輔藤原基成と秀衡に対し、義経追討命令。
4月9日、宣旨と院庁下文が官吏生国光と院庁官景広により鎌倉にもたらされ奥州に向う。
「天野の籐内遠景去る月の状、昨日鎮西より参着す。去年窮冬、郎従等をして貴賀井島に渡らしめ、形勢を窺いをはんぬ。・・・これに就いて暫く猶予せしむべきの旨、遠景に仰せ遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
「義経追討の宣旨を下さると。去る十八日院に於いてその趣を定め仰せらる。同十九日棟範九條堂に持ち来たり、これを見せしむ。余ほぼ改直せしむ事有り。今日重ねて持ち来たり。即ち左大臣に宣下すと。」(「玉葉」同日条)。
「上卿兼光卿、追討の官符請印すと。この日、同じく廰の御下文を成さると。」(「玉葉」同26日条)。
「右武衛申されて云く、與州の事、奥州泰衡に仰せられんが為、勅使官史生国光・院廰官景弘等を遣わさる。来三月下向すべしと。」(「吾妻鏡」同29日条)。
2月26日
・源資賢(76)没
つづく