2009年5月14日木曜日

鎌倉 極楽寺 極楽寺坂切通し 江ノ電極楽寺駅






過日、稲村ケ崎に行った際、極楽寺まで歩きました。
①極楽寺
②③極楽寺坂切通し
④成就院から鎌倉の海を眺める
⑤重時の墓への道標
⑥江ノ電極楽寺駅
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極楽寺は、鎌倉では唯一の真言律宗の寺。北条重時(義時の3男、連署)の創建。但し、正元元年(1259)に造営開始するものの、弘長元年(1261)に重時は没し、子の長時と業時がこれを完成させたといいます。開山は忍性が招かれる。最盛期は七堂伽藍、支院49あり、その境内には施楽院、悲田院などを設備し、加療・施薬事業をおこなったとのこと。
その大規模寺院も、元弘三年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めによりごとごとく灰燼に帰すこととなる。
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新田義貞の鎌倉攻めは、下記を参照下さい。
稲村ヶ崎古戦場はコチラ
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新田軍の鎌倉攻め本営跡である九品寺はコチラ
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極楽寺境内は、写真撮影・写生禁止です。
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極楽寺坂は、鎌倉七口の一つで、鎌倉の西への押えの重要ポイント。
義貞軍は、この坂を突破して鎌倉に突入。
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成就院は、アジサイで有名です。
「成就院のあじさい」はコチラ
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江ノ電極楽寺駅は、1970年代のテレビの青春ドラマ「俺たちの朝」のロケ地に使われて有名になった駅です。
その後に続いたが、「俺たちの旅」で、こっちの方が有名かも・・・。「朝」は勝野洋で、「旅」は中村雅俊。
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極楽寺行きの目的の一つは、阿仏尼の寓居跡確認だったのですが、どうも気づかずに通り過ぎたようで、時間の関係で今回はパスしました。
「阿仏尼の寓居跡」(極楽寺再訪問)はコチラ
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阿仏尼は、藤原定家の子為家の側室。若い頃は「恋多き女」と云われた歌人。
為家没後、自分の子供への遺産相続を訴えるため、老身ながら鎌倉に赴きます。その時の紀行文が「十六夜日記」で、中世における女性の日記文学の白眉といわれるもの。
この時の、鎌倉での寓居跡がこの近くにある筈なのですが・・・。
結局、阿仏尼の相続の目的は達し(確か、彼女の没後に)ますが、定家の家系(御子左家)は、京極、二条、冷泉の3つに分裂することになります。
そして、この3家のうち今に残るのは、阿仏尼の系統の「冷泉家」(京都御所の北にある)ということです。
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