新田義貞の鎌倉攻めの際の新田側の本拠となった跡地に、滅ぼされた北条一族、御家人、郎党、家族の霊を弔う為に創建されたといいます。
他にも、北条得宗家(高時)の邸宅跡には、同様に「宝戒寺」が創建されています。
*
新田義貞の鎌倉攻めでは、市民には犠牲者はいなかったようですが、刀傷の残る女性や子供の遺骨は発掘されているとのことで、家族(女性、子供などの非戦闘員)の犠牲者はいたようです。
「稲村ヶ崎古戦場」はコチラ
「東勝寺跡と高時腹きりやぐら」(北条得宗家の終焉地)はコチラ
*
九品寺を10月に再訪しました。
*
九品寺
お寺そのものはそんなに大規模なものではないです。
*
九品寺
お寺そのものはそんなに大規模なものではないです。
*
*
鎌倉には、もう一つ「来迎寺(西御門)」があります。
「寺社巡りインデックス」もご参照下さい。
*
*
余談。
この辺り(材木座)には、田村隆一さんのエッセイには何度となく(知る限り10回は下らない)登場する酒屋さんである萬屋酒店があります。
この日は、午後でしたがお店は開いていませんでした。
*
*
田村隆一「ぼくの草競馬」(集英社文庫)より
「萬屋
・・・
稲村ケ崎に小さな家を建てるまえに、ぼくは、一年二か月、鎌倉の材木座海岸の借家にいたことがあった。昔の漁師町の名残のせいか、この町内の朝はいたって早い。豆腐屋さんの朝の早いのはわけがわかるが、軒をつらねている明治中期創業の酒屋さんも床屋さん (バーバーショップでは断じてない)も、朝の七時から店をあけている。おかげでぼくは、酒屋さんの朝の常連となった。冬だと古風な上がり框(カマチ)のそばに、石油ストーブがあかあかと燃えていて、店に入って行くと、お内儀がだまって坐蒲団をおいてくれる。
それから、朝の挨拶をして、ビールを一本おねがいする。朝刊ももってきてくださるので、ビールをゆっくり飲みながら、新聞に目を通す。毎朝通うと、アル中と思われるから、二週間ぐらい、朝のビールを断つ。二日酔いの迎え酒には、この店で、ビールを二、三本飲み、すっかりご機嫌になると、ウイスキーと「かに」のカンヅメをもらって、近くの、亡くなった元海軍大佐の奥方のところへ押しかけて、夜まで軍歌をうたったりして飲みつづけることも、まま、あった。詩を書いているお嬢さんはピアノの先生で、居候の甥の慶応ボーイは映画制作に凝っている。
そういう事があった後は、最低十日間ぐらい家でひたすら謹慎している。晩酌もやらない。通りを歩くときも酒屋さんのほうを見ない。知らん顔の半兵衛をきめこむ。ものの半月もすると、また朝通いをはじめる。そのうちに、お店の常連と仲良くなった。植木屋、大工、鳶、菊づくり、市営バスの運転手(非番の日は引っ越しの運送のアルバイトをしている)いった陽気な人たち。いまの家の庭も、引っ越しも、常連のお世話になった。酒屋さんの屋号は「萬屋」。」
*
*
他に
*
鳥と人間と植物たち―詩人の日記 (1981年) (徳間文庫)
*
などなど
*
下記エントリをごご参照下さい。
田村隆一さんと光明寺
田村隆一さんと極楽寺あたりを歩く
*
「寺社巡りインデックス」
*
0 件のコメント:
コメントを投稿