2009年4月17日金曜日

鎌倉 洲崎古戦場跡 東勝寺跡 北条高時腹きりやぐら 新田義貞の鎌倉侵攻









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①②大船の常楽寺に行ったあと、大船~江の島の湘南モノレールに乗って、湘南深沢駅下車、洲崎古戦場跡へ。
洲崎古戦場跡
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②~⑥先日、鎌倉の桜を見に行ったあと、鎌倉幕府が終焉を迎えた場所である東勝寺、北条高時腹きりやぐらへ。
東勝寺跡
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洲崎古戦場跡は石碑があるだけ。
ここは、私が以前住んだことのある場所から直線でせいぜい100m程のところにありました。当時は、自分の住んでいる場所が、新田義貞の鎌倉攻めのルート上にあるとは全く知りませんでした。「いしぶみフェチ」の今から考えれば、つくづく「昔はものをおもはざりけり」といったところです。
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東勝寺も、今は看板・石碑(掲載は割愛しました)があるだけで、まだ発掘が完了していないのか、金網に囲まれていました。ここで高時はじめ鎌倉の多くの武士たちが自刃し、寺に火をかけたとのこと。
「腹きりやぐら」は、直接的な表現が過ぎて、もうすこしいい呼び方がありそうなものだと感じましたが、町中の道しるべも全てこの呼び方で書かれていました。
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「鎌倉勢870人がここで自刃」という事にどこかスッキリしないところがありましたが、逃げのびた者も相当いるとの説もあります。ご参考まで。
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「東勝寺の再訪版」はコチラ
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以下、義貞の挙兵から鎌倉陥落までの「黙翁年表」抜粋。
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元弘3年(1333)5月8日の義貞挙兵までの情勢は、・・・。
①1月には楠木正成が河内・和泉で反幕の支配権を確立。
②1月21日、赤松則村が播磨で挙兵。
護良親王は引き続き吉野で倒幕運動展開。
④閏2月28日、後醍醐天皇は、名和長年を頼り、伯耆の船上山に向かう。
⑤3月27日、足利高氏(28)は、妻子(子は後の義詮)を鎌倉方の人質に出して、鎌倉方として出陣。
4月29日、丹波篠村で倒幕挙兵。5月7日、京都に進軍。9日、京都の六波羅探題を陥落する。
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5月8日
・新田義貞、挙兵
新田義貞(32)、上野新田荘(群馬県新田郡新田町市野井)の生品(イクシナ)神社の神前で幕府討伐の旗を掲げる。
大館氏・堀口氏・岩松氏・山名氏・里見氏と、足利氏一党の桃井尚義ら150騎。世良田に陣を張る義貞の許へ、上野一円の武士が馳せ参じる。
「同五月八日卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、綸旨ヲ披テ、三度是ヲ拝シ、笠懸野ヘ打出ラル…」(「太平記」)
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得宗被官を追い落とした義貞の軍勢は、更に越後新田氏・甲斐源氏を併せ、多勢を駆って南下を開始。一方、幕府も急ぎ軍勢を召集。北条高時の弟である泰家に1万騎をつけ、新田軍追討に向かわせる。
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「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は源家之を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む」(「太平記」)。
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新田義貞に呼応して、千葉貞胤も下総で挙兵。下総道を通って六浦・材木座方面から鎌倉へ進軍。
(のち、武蔵国忍岡(台東区上野)で小山秀朝(判官)の軍勢と合流して南下。多摩川を渡り、鶴見で従兄弟の幕府軍金沢貞将(武蔵守)の軍勢と戦い、これを破り、金沢から朝比奈切通を通って鎌倉に突入)。「千葉伝考記」「房総通史」、「梅松論」「太平記」で異説あり。
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5月9日
・鎌倉を脱出した高氏嫡子千寿王(後の義詮)、紀五郎左衛門ら200騎に守られ武蔵で新田軍に合流、鎌倉攻めに加わる。
「太平記」は、千寿王の参加により倒幕軍に参加する者が増えたと述べ、「梅松論」は、鎌倉陥落後、義貞に属する者より千寿王に参候する者の方が多いと述べる。
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5月9日
・足利高氏ら(五辻宮の勢)に攻められた六波羅探題北条仲時(28)以下、近江の番場宿(米原市)で自刃。 五辻宮の勢、光厳天皇らを近江国分寺に入れ、三種神器を没収。
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「太平記」では、琵琶湖東の番場宿を過ぎたあたりで伊吹山近辺の寺社に動員をかけていた五辻宮(守良親王)と遭遇戦。一行は、番場蓮華寺に追いつめられ北条仲時は自害(280余名が自害あるいは討死)。光厳天皇・後伏見(45)・花園(36)両上皇が捕らえられる。 六波羅探題は滅亡
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5月10日
・楠木正成の篭城戦が終結。
千早城包囲の鎌倉勢(阿曽時治・大仏高直・長崎四郎左衛門尉ら率いる幕府軍)、奈良へ退き、興福寺などに立て篭る。1ヶ月の合戦の末、旧幕府軍は降伏。
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5月11日
・新田義貞、武蔵小手指原(所沢市)で北条軍と戦う。義貞方300余騎、北条方500余騎の損害、勝敗決せず、双方兵を引き布陣。 12日、両軍、久米川で戦う。義貞方が先制攻撃をかけ、北条方は敗れて府中の分倍河原に退く。
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5月12日
・北国探題淡河時治、平泉寺衆徒に攻められ、越前牛ケ原にて自害(「太平記」)。
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5月15日
・島津・大友・少弐諸氏が挙兵、九州探題北条英時を攻撃。英時は自刃、一族340人もこれに続く。肥前国彼杵庄で挙兵の尊良親王を近国の武士が奉じる。
九州探題の滅亡を聞いた長門探題・北条時直は抗戦をあきらめて降伏。
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5月15日
分倍関戸河原(多摩川の北)の合戦
多摩川の分倍河原に退き最後の防衛線としている北条軍(北条恵性を大将とする鎌倉勢)に対して義貞軍が突入、義貞軍は押し戻され入間川畔にまで後退。北条軍の一応の勝利。
にも拘らず相模御家人の大多和氏一党の離反など、義貞軍に味方する武士多い。相模の三浦義勝が国人衆を引き連れて義貞方に参陣。
16日、合戦再開。新手を加えた義貞軍は北条軍を圧倒。主戦場は再び南下して分倍河原に移り、更には多摩川を越え、関戸河原にまで南進。北条軍は敗れ、北条泰家は辛くも逃げきる。従う者は北条氏縁故の500余。16日夜半、泰家は鎌倉に逃げ帰る。
「十五日、分倍関戸河原にて終日戦けるに命を落し疵を蒙る者幾千万という数をしらず・・」(「梅松論」)。
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5月17日
・伯耆の後醍醐天皇、関白鷹司冬教(ふゆのり)以下を解任する詔を発する。
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5月17日
・越中守護名越時有・有公ら、自害
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5月18日
・早朝、新田軍、三方より鎌倉を攻撃開始。鎌倉に入る。
義貞方:義貞軍は三方より鎌倉に侵攻。
①主将大館宗氏・副将江田行義の軍を極楽寺坂へ、
②上将軍堀口貞満・副将軍大嶋讃岐守の軍を巨福呂坂へ、
③義貞自身は弟脇屋義助と共に化粧坂に向かう。
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迎える北条軍は、
③化粧坂方面には大将金沢左近将監忠時3千、
①極楽寺方面には大将大仏貞直3千、
②巨福呂坂方面に5千を差し向ける。別に予備兵力5千。
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幕府側:先ず、陸奥守貞通率いる一手が葛原で敗れる。次に、北条守時(足利高氏義兄)率いる一手が洲崎で新田軍と遭遇、激戦、守時は一歩も退かずここで自害。最後に残った金沢貞将率いる一手も、鶴見で新田義貞に呼応して攻め込んだ千葉貞胤の軍勢に敗れる。
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州崎口の戦い:巨福呂坂を守る赤橋守時は6万騎のうち半分を守備に残し、洲崎まで進出して布陣。18未明、赤橋軍3万が義貞軍(堀口貞満・大島守之)10万に戦いを挑む、一昼夜に65度の突撃を敢行するが、破れて最後に残った90余と洲崎千代塚で自刃。
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化粧坂・巨福呂坂の防衛線は極めて堅固。
極楽寺坂口方面は、大館宗氏率いる軍勢が稲村ヶ崎沿いに鎌倉に侵入、前浜付近を焼き払う(煙が立ち、鎌倉は恐慌をきたす)。諏訪・長崎など北条高時配下の家臣が急行、大館勢を迎え撃ち撃退(大将宗氏を稲瀬川で討取る)。大館勢の残兵は霊山に立篭る(霊山はその南が海に迫り岬となっている)。
化粧坂・巨福呂坂の切通は狭く、計画的な防御工事が施されており、新田勢は攻めあぐねる。これに対し、稲村ヶ崎の波打ち際の道は、狭い乍らも防御工事は急ごしらえで、水軍の存在や道の狭さの問題もあるが、干潮時を狙って総攻撃をかければ、いくぶん緩和されると思われる。
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5月21日
・新田義貞、鎌倉を攻略。稲村ヶ崎、干潟となり、新田勢、鎌倉へ侵入(「太平記」)。
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21日午前3時頃、潮が干くのを待っていた新田勢が行動開始。幕府軍もこれに気づき、極楽寺大門に拠って防戦するが、新田氏義配下の三木一党が間道から奇襲して幕府軍を追い落とし、本軍の通行は容易となる。
稲村ヶ崎を突破した新田軍の一手は、極楽寺坂の幕府軍を背後から急襲、壊滅。
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続いて大仏坂、化粧坂、巨福呂坂も夫々挟撃される。
新田軍の放った火は鎌倉の街を焼き尽くす。
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極楽寺坂口守備の大将大仏貞直、新田勢と斬りむすび討死。
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長崎思元・為基は極楽寺坂から若宮大路へ退きつつ由比ヶ浜まで新田勢を蹴散らす奮闘。
化粧坂口から巨福呂坂へ転戦した金沢貞将は鎌倉東端・葛西ヶ谷の東勝寺(北条家菩提寺)に立て篭った後、再び兵を率い鎌倉市街で新田勢と戦い、討死。
元執権北条基時も化粧坂に攻めのぼり、自刃。
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内管領長崎円喜入道の孫長崎高重は、僅兵を引き連れ自ら敵勢32人を斬り払い、東勝寺へ帰参。高重は高時に、自分が戻るまでは自害しないよう言い残し、新田勢に紛れ込む。義貞まで数10mに近づいたとき、新田勢に見破られ、数10倍の敵勢相手に斬り廻り、新田勢の同士討ちの隙をついて東勝寺へ退却。率いる騎士は僅か8騎。23筋の矢を体中に立てながら、高時の前で自刃。
続いて北条泰家(高時弟)の老臣諏訪入道が自刃。次々に側近や一門が自刃。
高時は諏訪入道の一族・諏訪盛高に2男亀寿丸を託し自刃。
金沢貞顕・安達時顕・長崎円喜・長崎高資らも同所で自刃。東勝寺も炎上。
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5月22日
・北条氏滅亡。
北条高時(31)283人、鎌倉東勝寺で自害
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北条泰時は、兄の高時の子を御内人に託して落ち延びさせ、自らも自決を装って奥州へ脱出。その後、上洛して西園寺公宗に匿われ、北条時行・名越時兼らと挙兵、しかし露見してまた逃亡。南北朝期は、南朝方として各地で挙兵。
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「未刻ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼払ふ煙みえければ、鎌倉中のさはぎ手足を置所なく、あはてふあめきたる有様たとへていはんかたぞなき。
高時の家人諏訪・長崎以下の輩、身命を捨てふせぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館、稲瀬川にをいて討取、其手引退いて霊山の頂に陣を取、同十八日より廿二日に至るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦のときのこゑ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。
さしも人の敬なつき富貴栄花なりし事、おそらくは上代にも有がらくめいしかども、楽つきて悲来る習ひ遁がたくして、相模守高時禅門、元弘三年五月廿二日葛西谷において自害しける事悲むべくも余あり。
一類も同数百人自害するこそあはれなれ。
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。然間に鎌倉は南の方は海にて三方は山なり。嶺つゞきに寄手の大勢陣を取て麓におり下り、所々の在家に火を放ちしに、いづかたの風もみな鎌倉に吹入て、残所なくこそ焼はらはれける。」(「梅松論」元弘3年5月18日条、読み易くするため段落をつけました)。
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5月23日
・後醍醐天皇、六波羅探題滅亡の報により、船上山を下って帰京の途につく。
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宜しければ、下記ご参考まで。

(稲村ヶ崎古戦場)
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(極楽寺坂)
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(宝戒寺) : 北条得宗家(高時)の邸宅跡
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(九品寺):新田軍の鎌倉攻めの本営跡
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(東勝寺橋)
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「寺社巡りインデックス」
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「★鎌倉インデックス」
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