2009年8月15日土曜日

鎌倉 再訪 宝戒橋から東勝寺跡、高時腹きりやぐら 北条氏最後の日 鎌倉は燃えたのか

北条得宗家最後の地、東勝寺を再訪した。
(実際には、もう何度も数えきれないほど訪れていますが、ブログupは二度目です)。
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前回の東勝寺の記事
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今回は、北条得宗家の邸宅跡地である宝戒寺から東勝寺跡までを辿ります。
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関連記事として、下記もご参照下さい。
「稲村ケ崎古戦場」
「極楽寺坂」
「九品寺」:新田軍の本営跡
「寺巡りインデックス」
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裏から見た宝戒寺
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宝戒寺裏にある滑川に架かる宝戒橋
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宝戒橋からみた東勝寺橋
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少しズームで見る
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宝戒寺裏から東勝寺への道
この道の突き当りを左折する(200m以内の距離)
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左折すると、すぐに東勝寺橋(左側電柱の先)が見える
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東勝寺橋を渡り、この先の坂道へ進む
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坂道を進むと、左側フェンスの向こうが東勝寺跡
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ここで振り返ると、こんな感じ
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東勝寺跡の説明板
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この先は山へ通じ、今はハイキングコース
フェンスが途切れた所を左に行くと「高時腹きりやぐら」
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フェンスが途切れた所にある石碑
ここは宝戒寺の管理下にあるんだ
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その先の「高時腹きりやぐら」
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フェンスが途切れる少し手前で、背伸びして撮る
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上と同じ個所で、あじさいの頃に撮ったもの。
夏草が生い茂り、ここで亡んだ幾百の武者たちが可哀そうであった。
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「葛西ケ谷」の「東勝寺」:
葛西ケ谷は、頼朝時代の御家人である葛西三郎清重が居住したと伝えられる谷。
東勝寺は、北条泰時の頃、山号を「青龍山」と号し創建される。
鎌倉を陰陽道(ないし風水思想)的に見立て、玄武・青龍・白虎・朱雀の四神のうち、青龍にあたる東の山に位置することにちなみ、東が勝つ寺を意味する東勝寺と号した
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東勝寺は、北条高時邸(宝戒寺)のすぐ裏手にあり、入口が狭隘で攻めるに難く、谷の奥は平坦で、かつ大寺のため人馬を多く収容できることから、北条一門は最後の砦としてこの寺を選択したと考えられる(今日の記事でこれを辿った)。
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1975年の発掘調査では、東勝寺炎上の痕跡とみられる大量の炭が発掘され、谷入口から奥への斜面は急傾斜の石敷の道で、その両側を石垣で固めた城郭的構造を持つことも確認できた。
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長崎高重が最期の合戦に出る際、扇ケ谷と天狗堂(現御成小学校内の武家屋敷の西の裏山)の辺りに土煙があがるのをみて、その方向へ父子別れて馳せ向かうと「太平記」は記述するが、この御成小学校内の武家屋敷の焼失も発掘調査で確認されており、また東勝寺のある葛西ケ谷の平場からは、鎌倉市内を一望でき、「太平記」の記事が裏付けられる。
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「去程ニ余煙四方ヨリ吹懸テ、相模入道殿ノ屋形近ク火懸リケレバ、相模入道殿千余騎ニテ、葛西ケ谷ニ引籠り給ケレバ、諸大将ノ兵共ハ、東勝寺ニ充満タリ。
是ハ父祖代々の墳墓ノ地ナレバ、爰ニテ兵共ニ防矢射サセテ、心閑ニ自害セン為也。
・・・総ジテ其門葉タル人二百八十三人、・・・此一所ニテ死スル者、総テ八百七十余人ナリ」(「太平記」巻10、改行を施した)。
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東勝寺では870余が自害したとされるが、発掘調査では小さな骨片らしいものが2~3発掘されただけで、焼け跡の整理は徹底されていたことが推測される。
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宝戒寺には骨は「釈迦堂ケ谷」(葛西ケ谷から東方へ山をひとつ越えたところ)にといういい伝えがあり、また昭和40年頃の釈迦堂ケ谷の宅地造成の際に岩窟一杯分の焼けた骨と「元弘三年五月廿八目」(北条氏滅亡の「初七日」)の銘をもつ五輪塔の地輪が発掘されている。
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従って、このやぐらの人骨が北条一門のものである可能性は極めて高く、現在の東勝寺跡にある「高時腹切りやぐら」は、北条一族を供養するための形式的な「やぐら」と推測される
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また、夢窓疎石が瑞泉寺の裏山から尾根伝いに落武者を逃がしたといった伝えがある。
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鎌倉は燃えたのか
「太平記」は「余煙四方ヨリ吹懸テ」と記し、町の大半が焼亡したように見えるが、一方で長崎高重は扇ケ谷や天狗堂を見通すことができており、焼けたのは一部であったことも考えられる。
もし町全体が焼けていれば、広範囲に同時期の炭・灰・焼土の層が形成され、その上と下では遺構の性格が変わっている筈だが、現在までの発掘では、そういう層は見つかっていない。
また元弘3年5月を境に町の様子が一変したと証明できる遺構群も不明で、新田氏の鎌倉攻めは全市を炎上させるほどではなかったと思える
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発掘される遺構群は、鎌倉時代末期~南北朝期に大きな変化はなく、むしろ連続的とさえいえる。
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元弘3年5月、鎌倉の町の人々の多くは大寺の境内、裏山、浜辺に避難していたのではないかと考えられる。
攻める新田勢にしても、ターゲットは北条得宗とその取り巻きであって、鎌倉全部を焼亡させその経済力を潰滅したのでは、自分たち自身が維持できなくなってしまう。そして実際にも、鎌倉には足利氏の「鎌倉府」(鎌倉公方)が置かれ、東国を管轄するようになる。
鎌倉は、人口は減少するものの存続を続けることになる。
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いつもながら、河野真知郎「中世都市 鎌倉」を中心の拠り所としました。
中世都市 鎌倉―遺跡が語る武士の都 (講談社学術文庫)
中世都市 鎌倉―遺跡が語る武士の都 (講談社学術文庫)

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「★鎌倉インデックス」もご参照下さい。
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