2009年6月29日月曜日

鎌倉 安国論寺 日蓮辻説法跡

安国論寺
お寺の栞には下記とあります。
「鎌倉 松葉ヶ谷霊跡 安国論寺
  立正安国論と松葉ヶ谷御法難
日蓮聖人は、文応元年(一二六〇)三十九才のお歳にこの御小庵で、かの有名な〝立正安国論″をお書きになり、同年七月十六日、前執権北条時頼に建白されました。そのため翌八月二十七日に大難は四度、小難は数々といわれた四大法難の最初、松葉ヶ谷焼打の御法難にあいました。
今も裏山に、一時避難された南面窟が残ってます。」
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本堂
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境内の山(富士見台という)から鎌倉市街・極楽寺方面を望む
(光明寺裏山からの眺めとほぼ同じ)
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安国論寺
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日蓮の辻説法跡
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辻説法跡
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以下は、河野真知郎「中世都市 鎌倉」(講談社学術文庫)からの引用。
「日蓮は建長五年(一二五三)鎌倉に入り、士庶を対象に「辻説法」を行い、幕府や旧仏教の僧徒から迫害を受けたという話は有名だが、今日「日蓮辻説法跡」の石碑の立つ場所がその場であったという証拠はない(じつは石碑の位置は何回か移っている)。また、辻説法に出かけるための拠点として名越の「松葉ケ谷」に草庵を結んだというが、その場所についても異説が多い(ほんとうに質素な庵ならば、発掘してもそれとはわからないだろう)。
それでも、日蓮が鎌倉に入ったころは、ちょうど鎌倉が都市として隆盛の時期にあたり、和賀江島から飯島、材木座、大町、小町あたりはたいへん賑わっていたはずで、辻説法が行われるにふさわしい光景があったろう。」
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まあ、伝承、伝説でもいいじゃないですか。
そういえば、妙法寺にも「日蓮の松葉ケ谷小庵跡」がありました。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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中世都市 鎌倉―遺跡が語る武士の都 (講談社学術文庫)
中世都市 鎌倉―遺跡が語る武士の都 (講談社学術文庫)

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2009年6月28日日曜日

鎌倉 元八幡神社 芥川龍之介寓居跡

元八幡神社
源頼義が、奥州の安倍貞任を討った後、康平6年(1063)8月、鎌倉郡由比郷に石清水八幡宮を勧請したのに始まり、その後永保元年(1081)には義家がこれを修復。
治承4年(1180)10月6日、頼朝は、鎌倉入りすると、この社を遥拝し、12日、これを小林郷北山に移す(現在の鶴岡八幡宮)。しかし、遷座後も元の土地に社壇の祭祀は続く。こちらは、「下の若宮」或は「由比の若宮」と呼ばれる(これが、元八幡神社)。
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「吾妻鏡」では下記(改行を施した)
「寅の刻、祖宗を崇めんが為、小林郷の北山を点じ宮廟を構え、鶴岡宮をこの所に遷し奉らる。専光坊を以て暫く別当職と為す。景義をして宮寺の事を執行せしむ。
・・・本社は、後冷泉院の御宇、伊豫の守源の朝臣頼義勅定を奉り、安倍の貞任を征伐するの時、丹祈の旨有り。康平六年秋八月、潛かに石清水を勧請し、瑞籬を当国由比郷に建つ(今下若宮と号す)。
永保元年二月、陸奥の守同朝臣義家修復を加う。
今また小林郷に遷し奉り、頻繁の礼奠を致すと。」(「吾妻鏡」10月12日条)。
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また、この地域は、新婚時代の芥川龍之介が居を構えた土地でもある。
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芥川は、大正5年(1916)7月、東京帝大を卒業し、12月から海軍機関学校教授嘱託となる。初めは、鎌倉町和田塚に下宿する(この時期の作品は、「鼻」「芋粥」「手巾」)。
その後、翌大正6年9月、横須賀市汐入に転居。
大正7年(1918)年2月に結婚、翌8年4月まで新居をこの辺に構える(小山さんという人の広い別邸の中にある一戸建て)。
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バス通りから元八幡神社への道の角にある石碑
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この道をまっすぐに行く
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元八幡神社
芥川の寓居はこの神社の北にあったといいますので、
神社の裏手左側の辺りでしょうか
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元八幡
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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2009年6月27日土曜日

鎌倉 理智光寺址 護良親王の墓

護良親王の遺跡を何ヶ所か訪ねましたが、・・・
   ①「護良親王首洗い井戸」
   ②「護良親王幽閉土牢」
   ③「護良親王の墓」
理智光寺にある親王のお墓には未だ行ってなかったので、昨日行ってきました。
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理智光寺址の碑
「此所は願行上人を開山とせし 五峯山理智知光寺の址なり 
建武二年淵辺伊賀守義博は足利直義の命を承け 
護良親王を誅し奉りし が 
其御死相に怖れ 御首を傍らなる薮中に捨て去りしを 
当時の住僧拾い取り 山上に埋葬し奉りしといふ」
(「太平記」のストーリのままです)
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上の石碑の少し手前から見た正面入口付近
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背景にある階段を上がります
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上りきると、苔むした石畳があり、その先にまた階段が・・・
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2つめの階段を上がりきったところで、振り返ると・・・
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2つめの階段を上がりきって、左にある少しの階段を上がると・・・。
これ以降は、オフリミット
まだ新しい菊の花が供えてあった
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*やはり、これぞ官許(宮内庁管理)にして真正なる「護良親王の墓」という貫禄です。
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理智光寺
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「寺社巡りインデックス」ご参照下さい。
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2009年6月26日金曜日

鎌倉 妙本寺 ちょっとだけあじさい

明月院、浄智寺、東慶寺を廻った6月19日、またも妙本寺にゆきました。今年、6回目。
①桜の頃②新緑の頃③妙本寺の遺跡関連④比企能員一族の悲劇は、で別途アップしております。
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10月にも再訪して記事をUPしました。
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このお寺、駅に近いこともあり、鎌倉に行くたびにごく近くまで行きますので、ついつい立ち寄ってしまいます。谷のフトコロ深く、静かで、落ち着くお寺です。
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この日は、初夏の薫りただよう妙本寺ではありました
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あじさいは、それほど多くはありません
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この日、敬愛する詩人田村隆一さんのお墓を探したのですが、探し出せずにおわりました。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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リサガレー、ルイズ・ミシェルの描くコミューン市民、女性たち

パリ・コミューンにおける市民の戦いの様相を、リサガレーとルイズ・ミシェルの著作の中からピックアップしてみた。
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下は磯見辰典「パリ・コミューン」より借用
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パリ・コミューン (ドキュメンタリー・フランス史)
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リサガレー「パリ・コミューン」より
①市民兵士たち
「指揮官は上っ張りを着て、ほこりをかむり、袖章は茶色くこげている。兵士たちは、白髪の者もプロンドの頭の者もおり、六月蜂起に参加したことのある老人もおれば、その思想の被後見人ともいうべき若者もいた。しばしば父親のかたわらに息子もいっしょに行進していた。」
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②女性たち
「隊列に手を振り、あるいはその後に従って歩く女、これこそ勇敢な本当のパリジェンヌである。
・・・今や街路を掌握しているのは、がっしりして献身的また悲劇的な、愛することと同じように死場所を求める、八九年(フランス大革命)以来民衆の胸のうち深くを生き生きと脈動する、純粋で高潔な鉱脈から生まれ出た女たちである。労苦を共にしてきた妻たちは、また夫と共に死のうと思っている。
タイムズの特派員は、「フランス国民が女性からだけで成っていたとしたら、どんなにか恐るべき国民だったことだろう!」と書いている。」
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「妻は夫をひきとめることをせず、その反対に戦闘に押しやり、いつも仕事場に持っていくように、肌着やスープを聖域に運ぶ。
多くの者がそのまま帰ろうとはせず、銃をとる。
四月四日、シャティヨンの高台で彼女らは砲撃をおこなう。質素な身なりの酒保係たちも忙しく働いていた。
四月三日、ムードンの第六六大隊でラシェーズという女性は殆んど一人で、医師もないまま負傷者を看護して、一日中戦場に踏みとどまっていた。」
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「戦いから戻ると彼女たちは献身の合図を打ちならし、第一〇区の区役所に委員会を作って集まり、感動的な宣言を掲示した。「勝利かしからずんば死以外にありません。・・・」」。
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「高貴の生れで教養があり裕福で、ディミトリエフと呼ばれていた若い女性は、フランス大革命の時のテロワニュの如き働きをした。
行動において心において民衆そのものであったかのルイズ=ミシェルは、第一二区の小学校教師である。彼女を慕う小さい子供たちにはやさしく我慢強かったこの母親も、民衆の大義のためには、獅子の如くになった。彼女は砲撃下に負傷兵を看護する野戦看護隊を組織した。
彼女らはまた病院におもむき、親愛なる同志たちを気むずかしい修道女の手に渡すまいとし、瀕死の人たちを、共和国と希望について語りかけるやさしい声のささやきで元気づけたのであった。」
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③子供たち
「・・・子供たちも大人たちに負けない働きをした。勝利したヴェルサイユ軍は六六〇人の子供を捕えているし、多くが街頭の戦闘で死亡している。彼らは諸大隊について塹壕に行き、また要塞にも行き、大砲の後について離れなかった。
マイヨー門の数人の砲手は一三歳から一四歳の子供であった。彼らは広々とした何のさえぎるものもない戦場で、驚くべき勇敢さを発揮した。」。
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ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」より
ヌイイ戦線において、
「フェルナンデス、ダンゲ夫人、マリアーニがきていた。私たちは(ドンブロウスキの)参謀部の正面、ぺロネのバリケードのそばで移動救護班をやっていた。軽傷者は残り、重傷者は医師の決定するところにしたがって、大きな救護施設に運ばれた。しかし最初の手当でよくなるものもいくらかいた。」
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「マイヨー門はなおも、勇敢さで鳴る少数の砲兵たちによってもちこたえられていた。老人や青年、ときには子供までがその任にあたっていた。」
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「コミューンの軍隊にはまた、酒保の女性、看護婦、女性兵士が数多くいた。彼女たちもコミューンの戦士なのだ。
名前のわかっている女性は少ししかいない。第六六大隊の酒保のラシェーズ、コミューン狙撃兵ヴィクトリーヌ・ルーシー、決死隊の酒保の女性、コミューンの救護班にいるマリアーニ、ダンゲ、フェルナンデス、マルヴィナ・プーラン、カルチェ。
監視委員会の女性たち、ポワリエ、エクスコフォン、ブラン。
コルドリー街と学校の女性たち、ルメル、ドミトリエフ、ルルー。
パリの戦いがはじまるまでは教育を組織し、パリの戦いでは勇敢に戦った女性たち、アンドレ・レオ、ジャクラール、ペリエ、ルクリュ、サピアなどの夫人たち。
こういった女性たちはすべてコミューンの軍隊の一員であり、かなりの数にのぼった。」
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「ルイズ・ミシェルの生涯」はコチラ
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コチラにも婦人たちの活動があります
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少年たちの様相については、「血の週間」での出来事に関するユゴーの感動的な詩があります。これはのちほど紹介します。
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ルイズ・ミシェルのもの(上下)
パリ・コミューン〈上〉―一女性革命家の手記 (1971年)
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リサガレーのもの(上下)
パリ・コミューン〈上〉 (1968年)

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2009年6月24日水曜日

鎌倉 妙法寺(こけ寺) 日蓮松葉ヶ谷小庵跡 護良親王の墓 薩摩屋敷事件戦没者の墓

松葉山妙法寺
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お寺の栞による縁起と沿革
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当山は建長五年(一二五三)日蓮大聖人が安房より鎌倉に来られ、初めて松葉谷に草庵を結ばれた日蓮宗最初の精舎であります。そして、文応元年(一二八○)八月二十七日松葉谷法難にあわれる等、身延山に入山される迄二十数年にわたり大聖人が起居された霊蹟で、はじめ松葉谷御小庵と称しのち法華堂と号しました。
四祖の日静上人の高弟、日数上人は大塔官護良親王の御子、幼名をりょう厳丸(りようごんまる)と呼び、仏門に入ってりょう厳法親王妙法房日叡と名のられたお万であります。
上人は父宮護良親王の亡くなった所であり、日蓮大聖人に由縁深い鎌倉の地を慕って、松葉谷に来り延文二年(一三五七)御小庵の跡に堂塔伽藍を復興されました。そしてりょう厳丸(りようごんまる)の名にちなんでりょう厳山妙法寺と称し、山頂に、父宮母宮の墓を建てその冥福を祈られました。
・・・(以下略)・・・。
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10月にも再訪して、この時は、護良親王の子の日叡上人のお墓にも参りました。
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妙法寺
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本堂
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本堂から裏山への道
ここからが、このお寺のいいところです
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「こけ寺」と呼ばれる所以の「こけ」
一見の価値ありです
階段の下から上を見る
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上から下を見る
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日蓮の松葉ケ谷小庵跡
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護良親王の墓
悲運の皇子の遺跡は何ヶ所有ってもいいじゃないかと思う。
護良親王幽閉土牢はコチラ
護良親王首洗い井戸はコチラ
宮内庁管理の護良親王の墓はコチラ
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薩摩屋敷事件戦没者の墓
江戸に於ける薩摩藩の反幕工作(謀略)拠点が焼討される事件。
相楽総三などはここから逃れて船で上洛します。
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妙
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「鎌倉インデックス」をご参照下さい。

2009年6月23日火曜日

京都 町小路(新町通)を歩く(1) 金座跡 銀座跡 鍋島藩屋敷跡

伊藤正敏「寺社勢力の中世」(ちくま新書)という本に、京都の商家と工房が並ぶ町小路(現在の新町通)を歩いてみて下さいというおススメが書いてあり、過日、新町通御池から新町通五条までを歩いてみた。
この小路は洛中一番の高台、山の手にある通りで、鴨川の氾濫もここまでは及ばない安全地帯とのこと(中世の鴨川の氾濫というのはすごかったみたいですね)。
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ただ新町通を真っ直ぐに歩くのでは面白みもないので、西は西洞院通、東は室町通・烏丸通までの幅で歩くことにした。
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江戸時代の金座、銀座跡
冒頭から横道にそれることになるが、これは両替町通御池上ルにある。
以前にご紹介した織田信忠が自害した二条殿と同じ場所です。
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両替町通(通りの名称も金座、銀座に関連するものになっている)
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肥前鹿島鍋島藩屋敷跡(新町通御池の南西角)
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御池通(新町通御池交差点から東方の二条殿方向を見る)
通りは第二次大戦中に拡幅されたそうです。
天正10年6月、明智の軍勢が、武具をガチャガチャ鳴らして二条殿を目指した道です。
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町小路(新町通り)。この道を五条まで下りました。
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新町御池
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寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)
寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

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