■1871年4月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(12)
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1871年4月1日
・婦人たち700~800人がコンコルド広場に集まり、ヴェルサイユに赴こうとする。
「一八七一年四月一日、私をみかけて驚いた隣の婦人が私に、コンコルド広場における女性集会の開催を報せた新聞を読んだかとたずねた。彼女らは流血を止めさせにヴェルサイユまで出かけようというのである。
私は母に集会に出かけることを告げ、子供たちに接吻して広場にむかった。
一時半にコンコルド広場で行進に加わった。七、八百人の女性が参加していた。ヴェルサイユへ行って、パリのしようとしていることを説明するのだと話している女たちがいるかと思えば、百年前にもパリの女たちがヴェルサイユに行って、当時の言い方にしたがえばパン屋とパン屋のかみさんとパン屋の小僧をパリにつれもどしたときのことを話している女たちもいた。
私たちはこうしてパリのヴェルサイユ門まで行進した。そこで私たちはフリー・メーソンの使者たちがもどってくるのに出会った。
この遠征を組織した市民S・A夫人がすっかり疲れきって、どこかで集会を開こうと提案した。
そこで私たちは、ラガッシュ・ホールにむかった。遠征をさらにつづけるために別の市民をこの会場で指揮者に選ばなければならなくなった。ここまでの長い行進でS・A夫人は疲労し、両足の苦痛に耐えかねていたのである。
私が彼女の後任に指名され、撞球台の上にのばらされた。そこで私は、もうヴェルサイユにむかうほどの人数はいないが、コミューンの歩兵中隊の負傷者の看護なら十分まにあうからそちらに行こうと自分の考えを述べた。他の人たちも私の意見に賛成してくれたので、私たちは翌日出発することになった。だがじっさいに出発したのは数日後だった。市民S・A夫人も、国民衛兵の参謀部まで私たちと一緒に来ることができた。」
その後、彼女らはイシ要塞で2週間野戦救護看護婦として働く。・・・(「ベアトリックス・エクスコフォンの手記」(ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」所収)。
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4月2日
・仏、ヴェルサイユ軍、パリ攻撃開始。
パリに向い北西方向に進出。国民軍と戦闘。圧倒的に優勢な兵力により、パリ西郊クールプヴォアとパリ進撃に有利な諸陣地を占領。
国民軍の悲惨な結果。国民軍、政府軍主任軍医バスキエ殺害。ヴェルサイユ軍、報復で連盟兵捕虜を殺害。
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3月18日の革命初期に、ヴェルサイユへ逃亡したティエール政府の軍隊は2万7千未満、その後、予備軍を呼び寄せ4万に増やす。3月末、ヴェルサイユ軍司令部とドイツ占領軍司令部とで協定が結ばれ、ヴェルサイユ派は8万にまで軍隊を増加させ、その後、主として帰還したフランス軍捕虜によって13万にまで増加させる。
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朝、ヴェルサイユ側では、モン・ヴァレリアンの砲台からヌイイ大通りに向かって砲撃。同時に警官隊、歩兵部隊、騎兵隊がクールブヴォワとヌイイに向かって進軍。
前日夜11時、ティエールは軍事会議を召集し、翌日早朝にデュ・バライユ将軍による敵兵力偵察を決定し、将軍はまだ暗闇の中をパリ南方のパトロールに出発。
ティエールは、この時、別にヴィノワ将軍率いる1歩兵部隊を誰にも知らさずに派遣。
7時前後、2部隊を編成し作戦展開のためモン・ヴァレリアンの北に集結。
①プリア師団第74混成連隊と海兵連隊及び陸戦隊で、ヴィノワ将軍と行動を共にする。
②ドーデル旅団第113、114連隊。支援を命じられたガリフェの騎兵隊と砲兵中隊の半分を加え、総兵力は約9千。
ヴィノワは既にクールプヴォワの円形交差路から100ヤード足らずの地点に進出。
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パリ側では、この朝、ベルジュレの命令によって連盟軍10箇大隊が偵察に出発。
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ヴェルサイユ側は、第113連隊をガリフェ軍と合流させ、クールプヴォワの交差路を北から包囲攻撃させる計画を立てるが、攻撃前、軍の主任軍医パスキエ博士が本隊から離れ連盟軍の中に迷い込み、捕えられて射殺される事件が起こる。
ガリフェ将軍が砲兵隊に発砲を命じるが、誰もそれに従わず、敵の砦からの最初の砲撃で、第113連隊の兵士たちが前進を止め逃亡する者も出る。ガリフェが馬から下り、幕僚と共に連発ピストルを抜いて砲兵を叱咤し、ようやく砲撃が始まる。
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ガリフェ隊の砲声を聞き、ヴィノワ将軍も砲撃を命令。
クールプヴォワ砦の連盟軍は混乱。
第74混成連隊がバリケードに接近した時、隣接する民家から一斉射撃が起こり、兵士は混乱し、将校をおきざりにして逃亡。非常事態のためヴィノワ将軍は、温存しておいた海兵隊の出撃を命じる。
しかし、バリケードの連盟兵は数において劣り、側面砲撃に脅威を感じ、セーヌを渡河して退却。
ヴィノワ軍は容易にここを占拠して捕虜30名ほどを得て、更にヌイイ橋まで殆ど抵抗なしに進出してこれを占領。
ティエールから前進禁止命令が届き、午後1時15分、ヴィノワ将軍は偵察行終了。パスキエ博士を含めて3名戦死、21名負傷。
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ヴィノワ将軍に命じられプーランジェ大佐指揮下の第114連隊は捕虜の内5名を射殺。外科医パスキエを殺したとされるサン・タントワーヌ郊外地区の床屋ルイ・ベーム(22)、連盟軍に寝返った兵士2名、国民軍兵士2名が犠牲となる。
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・パリに召集太鼓。午後3時、モンマルトル、ベルヴィルから5万人集合、「ヴェルサイユへ!」と叫ぶ。
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・ロセル、ベルジュレと中央委員会の命令に従い、逮捕され警視庁留置所に監禁される。ついで、リゴーとコミューンの命令によって釈放。
○[コミューン群像:ルイ・ナタニエル・ロセル(1844~71)]
工兵大尉、中佐として、普仏戦争に参加。メス要塞包囲の際、バーゼン元帥に対し、守備隊をたちあがらせようとするが失敗。メス降服後、国外逃亡。その後トゥールに赴き、国防政府のトゥール代表団長ガンペックの命令に服す。ネヴェール軍工兵指揮官に任命される。
3月19日、パリ蜂起を知り、辞職声明をだし、この中で、フランスを敗北に導いた「降服将軍たち」を非難。
3月20日パリ到着。
23日、国民軍中央委員会は彼を、第17軍団司令官に任命。
4月初め、軍事省参謀総長、4月中旬、軍法会議議長、30日、コミューンの軍事代表委員。
この地位で積極性を発揮(コミューン軍隊を再組織しようと努め、ヴェルサイユ軍に対する大規模進撃計画を作成)。
5月9日、イシ壁の陥落後辞職(コミューン議員たちへの公開状で、前線での失敗の貴任は彼らにあるとする)。コミューン命令によって逮捕されるが隠れる。
6月8日、警察に逮捕され、軍法会議で銃殺判決を受け、1871年11月28日執行。
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ルイズ・ミシェル「パリ・コミューン」で紹介されているロセルの文章。
「この章を終わるにあたって、ロッセルの文章を二つ引用しておこう。
最初のものは彼がコミューンの軍隊にはいる以前のもので、彼のコミューンにたいする評価がうかがわれる。これは七一年三月十九日、ヌヴェールのキャンプからヴェルサイユの陸軍大臣である将軍にあてた手紙の一節である。
「この国では二つの党派が争っております。私はためらうことなく、講和条約に署名しなかった側、その戦列に降伏の責を負うべき将軍たちをもたぬ側に与するものです」。
第二のものは、正規軍について、死の直前に自分の弁護士アルベール・ジョリーに言いのこしたものである。
「あなたは共和主義者です。もし今すぐにあなたが軍隊を再編成しなければ、軍隊が共和国を崩壊させるでしょう。私は兵士の公民権のために死ぬのです。少なくともこのことだけは私を信じてください。」」
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・パリの2つの権力の妥協。
クリュズレが軍事代表委員ウードの補佐となり、ベルジュレ、ウード、デュヴァルが合議の上で衛兵の総指揮にあたる。
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・教会と国家の分離に関する布告(2日起草、3日布告)。
「パリ・コミューンは、信仰の自由は諸々の自由のうち第一に位することにかんがみ・・・左のことく布告する-
第一条、教会は国家から分離される。
第二条、宗教予算は廃止される。
第三条、宗教団体に属するいわゆる譲渡不能の財産は、動産であると不動産であるとを問わず、国有財産と宣言される。」
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・行政機関・公共業務における俸給最高額(6千フラン)を定める布告。
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・住民に対する呼び掛け。
「王党派の陰謀家どもが攻撃を加えてきた。われわれが穏和な態度を示しているにもかかわらず、彼らは攻撃を加えてきた・・・
パリの住民によって選出されたわれわれの義務は、この偉大な都市を犯罪的攻撃者から防衛することである。われわれは諸君の助力をえて、この都市を防衛するであろう。執行委員会。」
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・夕方、パリ要塞から執行委員会に宛てた電報が掲示。
「わが軍は士気旺盛。戦列歩兵の兵士は、上級将校を除き誰れひとり交戦を望まない、と言明する。」
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・ペルジュレはコミューン議会においてモン・ヴァレリアンの砲列は連盟軍に対して火を吹くことはないであろうと言明。
クリュズレは友愛の感情がヴェルサイユ軍のあらゆる抵抗を排除するであろうと主張。
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・コミューン執行委員会の国民軍に対する檄。
「このような犯罪的侵略者たちから、偉大な都市を防衛することはわれわれの義務である。諸君の援助によってまもりぬこう」。
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・コミューン、ティエールとヴェルサイユ政府閣僚5人を裁判にかけ、彼らが「内乱を組織し、開始し、パリを攻撃し、国民軍兵士、戦列軍兵士、婦人、子供たちを殺傷した」ために、彼らの財産を差押えるという法令を採択。
ヴェルサイユ軍に対する戦闘で倒れた市民の家族を、コミューンの養子にする法令を採択。
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・ベルジュレ、ウード、デュヴァルがヴェルサイユ攻撃計画を作成し、クリュズレがそれを実行。
3つの縦隊(ルイユに対する牽制攻撃、ムードンからの集中攻撃、シャティヨン高地からの別な攻撃)で構成。第1縦隊が敵兵カの一部をルイユに引き寄せている間に、敵は合流した第2、3の縦隊によって分断され、包囲される筈。
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・連盟兵、ヴェルサイユ進撃にうつれと要求。国民軍諸大隊、命令なしにパリ西方防備強化の為に活動。
コミューン軍事評議会、ヴァンドーム広場で軍事会議。3日朝のヴェルサイユ進撃開始を決定。午後5時、デュヴァル軍、シャンティオンに向う。
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・マルセイユ。
臨時県委員会、市会を解散し、マルセイユの革命的コミューン選挙4月5日実施とする法令(法令は、「パリとヴェルサイユとの選択にあたって、マルセイユはパリを支持した」と述べる)。
家賃滞納分の部分的免除の法令。
反動勢力は攻勢に転じ、政府軍指揮官エスピヴァン将軍はマルセイユ市とブーシュ・デュ・ローヌ県を戒厳状態におき、国民軍兵士が武器をもって集会をすることを禁じる。
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4月2日
・ロンドン。K・マルクス、コミューンの社会改革実行こ賛成を求めたL・フランケルの手紙を受取る。
to be continued
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