2009年6月5日金曜日

秩父困民党群像(1) 秩父自由党の「麒麟児」村上泰治と妻ハン

秩父自由党の「麒麟児」村上泰治と妻ハン
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1.秩父自由党の形成
秩父と神流川を隔てた上州南甘楽郡坂原村の新井愧三郎は、高崎の宮部襄とともに上州自由党の幹部で、明治15年、坂原村には19名の自由党員がいます。
この上州自由党の影響を受けて、明治15年には、秩父にも自由党貝が出現します。
15年11月「自由新聞」は、秩父の入党者として中庭通處(67、通所、蘭渓、下日野沢村、16年9月没)・若林真十郎(20、新井愧三郎の実弟、秩父郡の若林家の養子)を発表します。
明治16年5月の埼玉県警本部が作成した名簿には、秩父の自由党員として若林哲三・福島敬三が付加されていますが、これら秩父の自由党員4名は秩父事件には参加していません(福島は逮捕されるが、取り調べ後放免)。
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「自由新聞」は、明治16年4月6日、村上泰治(17)の入党を発表します(実際の入党はこれ以前と推測される)。
同じ村の同年齢の新井蒔蔵は、17年3月に入党発表されますが、自身は15年9月15日入党と述べており、両者の関係を考慮すると、2人揃っての入党と考えられます。
明治17年には、泰治は宮部から「党中のきりん児」と呼ばれ、秩父自由党の幹事役になっています。
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明治17年秩父蜂起の年、泰治の人生と秩父自由党の方向は大きく転換することになります。
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2.田代栄助の自由党入党申し入れを泰治は拒否
明治17年2月、蜂起では総理に選ばれる田代栄助(50)は、自由党入党を希望し、下日野沢村重木の秩父自由党幹事役村上泰治(17)を訪問しますが、泰治は驕慢な態度で栄助に接しこれを拒絶します。
情勢は、侠客と言われる栄助までもが自由党入党を希望する段階に達していますが、「旦那」自由党員の泰治には、これが理解できていません。
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⇒詳細は、秩父蜂起(2)
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3.秩父自由党の新たな潮流(困民党指導部を形成)
同年3月23日になると、高岸善吉(紺屋の善吉)・坂本宗作(鍛冶屋の宗作)・落合寅市(半ネッコの寅市)・新井紋蔵・斉藤準次・小柏常次郎ら7名の自由党入党が、自由党機関紙「自由新聞」に発表されます(実際には入党はこれより以前)。これらは全て秩父事件参加者です。
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他にも、5月18日には、井上伝蔵・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名の入党が発表され、更に同20日には、新井国蔵ら2名の入党発表されます。
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なかでも、高岸善吉・坂本宗作・落合寅市・小柏常次郎・井上伝蔵らは、初期秩父困民党の指導的中核を形成し、負債農民救済の為の組織活動を情熱的に展開してゆきます。
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⇒詳細は、秩父蜂起(3)
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4.泰治の密偵謀殺、逮捕、入獄、そして獄死
一方の泰治は、同年4月、上州自由党幹部に依頼されて密偵容疑者を謀殺し、6月に逮捕され、2年後に獄死します。
(但し、謀殺事件はフレームアップ説もあり、真相は不明)
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⇒詳細は、謀殺については秩父蜂起(4)逮捕・入獄・獄死については秩父蜂起(5)
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5.泰治の妻ハン
泰治の妻ハン(はん子)は、東京生れというだけで素生は不明のようです。
以下、ハンの行動について。
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①泰治逮捕の警官に包丁を振り回して抵抗 ⇒ 秩父蜂起(4)
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②蜂起直前、大井憲太郎への使者をつとめる
10月23日前、緊迫した情勢の中で、ハンは恐らく井上伝蔵の依頼によるものと思われるが、東京の大井憲太郎への情勢報告の使者をつとめます。 
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⇒詳細は、秩父蜂起(12)
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③島崎嘉四郎の別働ゲリラ隊に本陣を提供
蜂起後、11月3日、甲大隊の加藤織平・新井周三郎は、群馬県からの警官隊迎撃の為、別働隊として島崎嘉四郎に約200人をつけて日野沢谷へ進発させます。
(島崎嘉四郎については、後に別途一項をもうけます)
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3日夜、別動隊は、上日野沢村小前耕地に分宿し、翌4日早朝から奈良尾峠を越えて矢納村(児玉郡神泉村)に向います。途中、峠上から警官隊の発砲うけますが、怯まず矢納に進出します。
4日夕方近く、別働隊は巡査1人を生捕りにして重木耕地に入り、その夜、幹部は村上泰治留守宅に宿泊し、残りは近くの民家に分宿します。
泰治の妻ハンは、自ら進んで本陣提出を申し出て、近隣の女衆を励まして焚出を行います。
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蜂起鎮定後、本野上分署は所轄内の村々に被害届を出させ、これをもとに「暴徒被害者調」を作成しますが、その中に村上泰治名義で、「一、脇差四本、倭銃(ヤマトジュウ)一挺、男綿入一枚、外二品」の被害物件があります。これは、蜂起軍への協力を偽装する為の被害届提出と思われます。
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尚、泰治の重木耕地では、殆どが蜂起に参加します。
警官隊が泰治宅を急襲した際、妨害したとして逮捕された加藤善蔵は、拷問によって健康を害していて参加できませんが、長男九蔵(19)は参加して重禁錮1年6ヶ月の刑に処せられています。
また、泰治の一族の中庭柳太郎家では、入聟駒吉が参加し、児玉進撃隊に選ばれ4日深夜の東京鎮台1中隊・警官隊との金屋の夜戦で、拇指に銃創を負います。山野を這いずり廻り逃亡しますが、群馬側で捕われ、前橋軽罪裁判所において罰金4円を申し渡されます。
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④泰治への面会・差入れ
泰治は、差入品に付いた差入名と品目を明記した送状を、「観世より」(コヨリ)にして保存していました。総数は392点あります。明治17年6月浦和監獄に収監されて同20年6月獄死するまでの3年間で、うち221回が妻ハンによるものであったといいます。
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明治20年9月(泰治獄死の3ヶ月後)の24日前後、ハンは村上の家を出ます。その後の消息は不明。
(9月20日、泰治の遺産相続に関する親族会議があり、結果、遺産は母が「一時相続」することになったといいます。ハンが家を出るのはその直後)
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