2008年11月26日水曜日

明治17(1884)年3月 秩父(3)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 初期困民党の中核形成 困民党と自由党(或は自由民権運動)


 「英一番館」跡(横浜市中区山下町1)
 撮影は2008/11/22。
 1859(安政6)年、開港と同時に日本に進出した英帝国主義の尖兵「ジャーディン・マセソン商会」が居留地1番地館で貿易を始めたことから、「ジャーディン・マセソン商会」は「英一番館」と呼ばれる。「ジャーディン・マセソン商会」は香港に本拠を置き、イギリスの対中自由貿易史を代表する最大の貿易業者で、当初はアヘン密貿易で富を蓄積。詳細はWikipediaをご参照下さい。
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 ジャーディン・マセソン商会横浜支店長だった実業家吉田健三とい人は、吉田茂の義父(養父)だそうです。
吉田茂の実父は自由民権土佐派の竹内綱という人で、茂は5男。竹内綱が後藤象二郎と高島炭鉱経営にあたった際に、実業家で自由党員の吉田健三から支援して貰った間柄ということです。
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 本エントリも、一部で自由民権とかぶるところがありますが、いろんなパターンがありますね。
①秩父で蜂起を指導する信州の菊池貫平、上州の小柏常次郎、秩父の田代栄助、井上伝蔵。
②武相困民党と債主との仲裁を試みる多摩自由党の指導者石坂昌孝。自らも没落しつつある豪農であるが、貧農の立場には立ちきれない。
③農民・民衆に依拠しない過激派。名古屋事件などを起こす人たち。
④金融業者、ブルジョアジー。
⑤昔の栄光だけの政治ゴロ。
⑥思想普及家。兆民~幸徳もここに入れるか。
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 おっと、忘れないうちに。あの「未曾有(みぞうゆう)」な失言を「頻繁(はんざつ)」に繰り返すマンガ好きの太郎ちゃんもこの系譜に繋がってんだ。
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英一番館
*英一番館
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明治17(1884)年秩父(3)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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3月
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・栃木県令三島通庸、第6回通常県会に陸羽街道の新開・改修工事の土木費提案(10万5,090円)、議決。
三島は沿道人民に寄付金を強制、各戸に数十日間の無賃労役を課し、欠勤の場合代人料1日25銭を上納させる(デフレ政策のもと壮丁男子の労賃は8~9銭)。8月乙女峠事件惹起。
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 計画は、栃木県を貫通し、東京~白河~東北に通じる陸羽街道(1等道路)を、氏家宿以北は旧道に沿って新開、以南は修繕するというもの。費用総額17万7千円で、地方税・国庫補助6万円・沿道町村協議費3万7千円を予定。この当時の栃木県の地方税総額は40万円前後。
 三島の土木政策は、政府の中央集権的な国益優先の殖産興業政策の先兵としての役割を担い、併せて県会に勢力をもつ民権派への打撃を狙うもの。県会は、前年土木費を2度廃案に追い込む経験をもつにも拘らず、足なみは乱れる。
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・神奈川県大住・足柄2郡に借金返済をめぐる農民騒擾。
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・釜石鉱山、藤田伝三郎に払下げ
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・宮崎夢柳「憂世の涕涙」。
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・子規(18)、旧藩主久松家の給費生となる。月額7円(大学入学後は10円)・教科書代の支給を受ける。
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・ドイツ、カール・ペータース、「ドイツ植民会社」設立。ドイツの東アフリカ進出の先兵となる。
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・黒田清輝(17)、パリ着。法律を学ぶため。
 画家ラファエル・コンテと出会い絵に夢中になり、周囲からも画家になるよう勧められる。86年5月21日、父に手紙。絵画への転向宣言。5年後、「読書」でサロン入選。帰国後4年、代表作「湖畔」発表。
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3月5日
・秩父自由党、大田村集会。14日、「自由党演舌」。春季自由党総会関連の動き。
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 「三月五日 ・・・自由党願込ニ集ル説有。此近辺ノ連中大田工集会ノ咄。」。
 「三月十四日 ・・・自由党演舌所々ニ有ル咄。三十四ヶ条ナリト云。」。(「木公堂日記」)。
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3月7日
・(露暦2/23)チャイコフスキー、ウラディミール勲章第4等授与。
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3月10日
・芝の浜離宮延遼館で行われた天覧相撲、横綱梅ケ谷と三枚目大達の勝負が30数分の大一番。
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3月13日
春季自由党総会。浅草井生村楼。議長片岡健吉。左派主導権(武装路線ぶくみの方向転換)。
 正式代議員61名中、富松正安・磯山清兵衛ら10名の茨城自由党、伊賀我何人・深井卓爾ら9名の群馬自由党、村上泰治・高岸善吉(秩父)ら8名埼玉自由党、佐藤貞幹・石坂昌孝ら6名の神奈川自由党など大井憲太郎傘下関東派27名の代表団が会場を席巻。
 常議員制を廃止、地方党員との連絡にあたる地方常備員設置(大井は関東5県の常備員)。
村上泰治・高岸善吉はこの興奮を持って秩父に戻る。
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□決議事項。
「第一、諮問若干名を置き、総理の参与たらしめ、其撰任は総理の指名に委すること。
第二、総理に特権を与え、党事を専断決行せしむること。
第三、文武館(館名未定)を設け、活潑有為の士を養成すること。
第四、各地へ巡回員を派遣すること。
第五、会議の総代を撰挙する区画及其人月を定むること。
第六、本年四月の例会を開かざること。第七、総理を改撰すること」。
但し、「・・・凡そ此数項は未だ十分に其意を尽さざる所ありとするも、亦露骨明言し難き事なきにしも非ざれば、諸君が静思熟考して自得する所あらんことを望む」と注意喚起されている。
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 党の統一を図る為、選挙による常議員制を廃止、総理指名による諮問及び常備員を設ける。これにより、制度上は板垣の中央集権体制が固まり、党内統一がもたらされる筈である。
大会をリードした星は、このとき大井・片岡と共に諮問となる。
板垣の党指導者としての不適格性は、星もよく認識しているが、党統一の為には中央集権体制確立しかなく、それには維新元勲のカリスマ性が必要。
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・この頃、落合寅市・高岸善吉・坂本宗作・井上善作・新井悌次郎・猪野太郎吉・影山久太郎の7人、石間部落加藤織平の土蔵の中で血盟盟約(落合寅市の回想録「綸旨大赦義挙寅市経歴」)。
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□血盟内容。
「一、我々は日本国にあり圧制官吏を断て直正の人を立つるに務むること。
二、我々は前条の目的を達するため恩愛の親子兄弟妻を断ちて生命財産を捨てること。
三、我々は相談の上、ことを決すること。
四、我々の密事を漏す者は殺害すること。
五、右の契約は我々の精心にして天に誓い生死を以て守ること。」(警部鎌田冲太が密偵情報より書きおいたメモ)。
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3月15日
・地租条例改正布告。税率固定・法定地価の決定(地租滅率と地価修正を行わない)。
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3月15日
・長谷川伸、誕生。横浜日ノ出町。
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3月16日
相州南西部の最初の本格的な大衆行動(松方デフレ下の負債農民騒擾)。
 相州大住郡土屋村字七国峠(平塚市)に数百の貧民集結。高利貸露木卯三郎への態度協議。
以後、大住郡一色村・露木卯三郎や戸田村・小塩八郎右衛門などの金貸を目標にした集会が散見。高座郡の吉岡村近辺(綾瀬市)や愛甲郡の愛知村(厚木市)あたりにも広がる。29日、相州大住郡大神村人民数十人集結。戸田村金貸小塩八郎右衛門に対して不穏形勢、解散。4月7日、相州高座郡吉岡村百名の人民集結。露木対策協議。
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3月17日
・制度取調局、宮中に設置。長官に伊藤博文が任命(内閣制度の改革)。憲法および皇室典範の起草に着手。
メンバー:
参事院議官井上毅、同議官補伊東巳代治、太政官から金子堅太郎、太政官書記官牧野伸顕(大久保利通次男)ら。
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3月21日
・植木枝盛(28)、神奈川県下に遊説。25日帰京。この月、「一局議院論」出版。
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3月24日
・仏、1884年労働組合法、制定。これにより同業市民(労働者)の団体結成を禁止していたル・シャプリエ法が廃止。労働組合は法律的に公認され、規約・役員名簿の登録を唯一の条件として自由に結成できるようになる。1890年代には労働者の組織化が急速に進行。
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3月23日
・群馬県北甘楽郡一ノ宮(現、富岡市)で自由党大演説会。
会主は群馬の有力党員清水永三郎ら7名。弁士宮部襄・杉田定一・照山峻三。「天に代って逆賊を誅す」の旗。
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 「当日は天気晴朗数旒の旗を門前に挙げ、聴衆堂内に満溢し堂外に著佇立する者も亦頗る多く、凡そ千余名あり。斯の如き寒村僻地には未曾有の盛会」(杉田定一「上毛紀行」)で、旗には「天に代って逆賊を談す」(『自由新聞』明治17年4月1日)。
 こうした人民の高揚は前年1883(明治16)年から群馬県下の北甘楽郡、南勢多郡、東群馬郡、緑野郡などの村々での数百人規模の負債農民騒擾事件の裾野があるから。
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3月23日
・秩父、高岸善吉(紺屋の善吉)・坂本宗作(鍛冶屋の宗作)・落合寅市(半ネッコの寅市)・新井紋蔵・斉藤準次・小柏常次郎ら7名、自由党入党発表(この日に「自由新聞」掲載)。これらは全て秩父事件参加者。
他に、5月18日、井上伝蔵・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名、入党発表。20日、新井国蔵ら2名、入党発表。
 自由党が貧農層の入党「認知」するほどの情勢変化(自由党自壊の始まり)
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○小柏常次郎:
 信州生。慶応3年、群馬県田胡郡上日野村(現、藤岡市)の茂太郎の養子。明治10年(42歳)ダイ(29)と結婚。屋根板割。2月から帳面を持回り自由党加盟者30~40名獲得(11月蜂起ではこれらを秩父へ動員)。この時点では、群馬蜂起を軸にして秩父への戦線拡大を目論む(常次郎は秩父へのオルグ)。しかし、群馬の激発は失敗。常次郎は群馬の経験を秩父に仕える扇動者として、9月初、秩父入り。
「・・・初メハ各県庁ニ押出スノ計画デアリシガ、(群馬事件による壊滅のため)北甘楽ノ方ガ纏マラザル故、日野村ノモノハ秩父ニ応ズル・・・訳ニ有之侯」(常次郎供述)。
屋根板割渡世の常次郎は、低き身分の故に、群馬では三下党員に甘んじていたであろうし、士族党員・豪農党員の体臭を留める群馬自由党の体質に異和を感じていたであろうし、この秩父にすんなりと自らをなじませる土壌を見出したのではないか。
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高岸善吉・坂本宗作・落合寅市・小柏常次郎・井上伝蔵らの自由党員が、初期困民党の中核を形勢
 秩父郡下日野沢村字重木の村上泰治(浦和の獄中にあり)邸に逗留していたある日(供述書では9月11日だが、もっと早い時期)、阿熊村の姓知らざる次郎吉なる男が来て、常次郎に対し、下日野沢の駕籠屋に是非合わせたい人が待っているからご足労願いたいと申し出があり、出向いたところ、そこに善吉・宗作・寅市がいて、頭分の善吉が口を開く。
善吉、「・・・困民ヲ救フ事ニ付是非御力ヲ乞ヒタシ」。
常次郎、「・・・山ナドニ集合致シテハ規則ニ背キ甚ダ宜シカラザルニツキ、モシ強テ大勢ヲ助ケタイトノ精心ナラバ、妻子家財ハ勿論身命ヲ捨テ為スノ所存ニアラザレパ到底成リガタイコト故・・・。モシ其ノ精神デナイナラバ、ムシロ茲に於テ旗ヲ巻キ、姓名ヲ留メラレタルモノハ、事ヲ為サナイ内ハ御処分ガ軽イ故、縛ニ就ク方可ナラン」。
善吉、「・・・自分共コノ辺ノ博徒デアツタガ、コノ上ハ善人トナツテ下民ノ苦ヲ何分カ助ケタイト決心致シ居ル儀ニツキ、家族財産ハ勿論、身命ヲ捨ツルハ更ニ苦シクナイ故、是非御カヲ乞フ」。
宗作らは、自らの戒名を既に背中に織り込んでいる。その意気に感じ、常次郎はこのトリオに溶け込む。
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■秩父蜂起と自由党(自由民権運動)との関連をどう見るか?
①秩父蜂起は、一方の自由党が困民を組織して戦った自由民権運動の最後にして最高の形態と見る。
②秩父蜂起は、農民一揆の最後にして最高の形態と見る。
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■①の立場で見た場合の二つの自由党
(ⅰ)村上泰治ら旦那衆の志士的な自由党。
上州自由党宮部襄の指示による密偵殺害により逮捕され潰える。
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(ⅱ)自由民権の政治理念を中・貧農の立場で読み換え、社会的平等の要求を掲げた「自由困民党」(困民らの自由党)。
明治16(1883)年12月、秩父困民党の落合寅市・高岸善吉・坂本宗作らトリオは負債農民を代表して秩父郡役所に請願行動を起し、請願運動を通じて大衆を捉えてゆく。一方、彼らは自由党に加盟し、大井憲太郎ら左派指導者の影響をうけ、徐々に困民党の中核を形成。
また、風布村大野福次郎・大野苗吉、西之入村新井周三郎らも自由党の加わり、借金問題で苦しむ村民たちに呼びかけ入党者を獲得してゆく。
この時の自由党は、初めから生活問題解決の為の党であり、減租や国会開設よりも、借金年賦返済・高利貸打ち毀しを主張することで糾合されてゆく。
上州上日野村新井貞吉の証言では、坂本宗作と北甘楽郡国峰村恩田卯一が村を訪れ、自由党のやり方がうまくゆけば「高利貸ヤ銀行ヲ潰シ世ヲ平ラニシ人民ヲ助ケル事」になると説得したという。
以降、明治17年夏、困民党が本格的に成立。郷党に人望厚い秩父の仁侠の人田代栄助を首領に引き出し、群馬県多胡郡上下日野村で数十名の自由党員を組織した小柏常次郎ら上州自由党、信州北相木村の菊池貫平・井出為吉らの参加をみて、中央(自由党左派大井)の蜂起制しの忠告をはねのけ、11月1日蜂起に至る。
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3月26日
・カナダ北西部サスカチワン地方、ルイ・リエル率いるメティスの反乱。
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3月27日
・3帝同盟(オーストリア・ドイツ・ロシア)、3年間延長。
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3月31日・~4月1日
上遠野農民騒擾。
 「借金返済は五十年賦に
 磐城平の借金党 先頃の紙上に、豆州に借金党と云うが起りし由報道せしが、今また奥州磐城平よりの報に、同地方の貧民党は先月下旬頃より何か不穏の模様ありしが、去る卅一日、菊田郡上遠野町金融社へ貧民数十人入り来たり、目下の不景気にかねて借用金の返済出切ざるより、このたび貧民党なるもの集合し、これまで借り受けたる金円を、五十ヶ年賦に返済することに取り極めたれば、当社にも御承知下されたしと申し入れに付き、詰合の社員はあまりの事に互いに顔を見合わせ居りたるが、ややありてこの儀は即答なし難き旨答えしに、貧民党は不満の有様にて引き取りしが、本年一日の朝、貧民党およそ五、六百人、竹法螺を吹き立て、竹槍等を携えて金融社へ押し寄せしも、時刻の早かりしより宿直の外社員はまだ出社せざりしかば、貧民党は総勢の内より五、六十人を分かちて、直ちに同社支配人赤坂忠兵衛氏の宅へ押し寄せ、ぜひとも今日中に年賦のことを取り極めくれと強談に及び、否といわば市中を焼き払わんなどと威嚇付け、立ち去らざりしが、この有様に市中の老少婦女子は他所へ逃げ避くるなど、その騒擾云わん方なかりしが、この事早くも平警察署へ聞こえければ、警部、巡査二十余名出張し説論を加えられしより、貧民党はようやく引き取りたるが、翌二日、その教唆者と覚しき者十二名を拘引され、目下取調べ中なりと云えり。」(4月8日「朝野新聞」)。
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・ニーチェ、「ツァラトゥストラ」第3部を刊行。
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to be continued

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