■明治17(1884)年秩父(12)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月16日
・「朝野新聞」雑報「年賦無利息請願党」。困民党を「無類ニケチナル党派」と揶揄。
この頃、「自由新聞」社説もまた、困民党は「国家心腹の病」「誠に恐るべき1大痼疾の開端」と突き放す。
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10月18日
・石坂公歴ら神奈川県出身の在京民権青年たちの読書会、始まる。~18年1月17日(9回)。神奈川県自由党系青年を結集。若林美之輔・堀江荘太郎・北村門太郎(透谷)・水島丑之助ら第1線民権家など20名。
北村門太郎(透谷、早稲田大政治科)は11月15日に1回出席のみ(透谷の心境は公歴から離れ始める)。
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10月19日
・「自由党中有名ノ弁士」を招いて大宮で演説会。
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19日
・露木殺し被告加藤民五郎ら8人全員死刑判決。横浜重罪裁判所。
農民や指導者(須長ら)の抱く先の「松木騒動」同等の処分との甘い期待は裏切られ、権力の強い意思を示す。
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10月20日
・秩父、新井周三郎宅で会合。
「周三郎宅ニ寄り集合シタル折、周三郎ガ延期願立御取上ゲニナラザレバ、債主ヲ打毀チタル上、警察署ヲモ破壊スルヨリ外ナシト云フニ同意致シヲリタリ。」
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・佐久。秩父郡三沢村の小野派一刀流剣士(田代栄助の子分)荻原勘次郎(23、のち三沢村小隊長、懲役8年)、南佐久郡相木村菊池恒之助(40)方を訪問。
自由党員菊池貫平・井出為吉に秩父蜂起の際の同調求め賛意得る。荻原が戻るとき井出代吉を視察のために同道させる(佐久の第1陣)。
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勘次郎、「今回大宮の田代栄助を首領と仰ぎ以て政府顚覆の革正軍を起すぺく、既に檄を四方に飛ばし、秩父一度蹶起せば四隣忽ち響応の策略である。就ては当地諸君に於ても是非参加を仰ぎたい。・・・来る二十六日には秩父郡石間村あのう山(莱野山)に大会を催するから様子見旁々有志両三輩の御臨場を仰ぎたい・・・」と言う。
北相木村の自由党員・有志は協議のうえ、菊池貫平、井出為吉、菊池市三郎、高見沢仙松の4人をまず派遣し、「篤と形勢を視察の上、模様によっては全部引揚げる事、又充分見込みがある様なら誰か一人帰還報告を待ち夫れより一同出発仕ようといふことにした」と云う。
また、「公然到着を報じ一旦同盟をなせし上、又其模様が面白からじとあって其処を立退くと云ふ事は、場合に依って或は出来兼ねるやも知れず。是は夜に入って、群集に交り、篤と様子を見極めた上にて充分見込みが相立つ様なら、其処で公然申込むも決して遅い話でない」と菊地貫平が主張。
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佐久からは、第1陣(21日)井出代吉、第2陣(25日)北相木村菊池恒之助(40)・菊池市三郎(20)、第3陣(27日)北相木村菊池貫平(37)・井出為吉(25)が、秩父へ出発。
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□秩父と佐久の関係。
萩原勘次郎を宿泊させた菊池恒之助(40)の判決文(罰金15円)に、「被告人ハ明治十七年九月頃萩原勘次郎外壱名ヲ剣道指南ノタメ自村ニ招待シテ宿泊セシメタリシ際、埼玉県武蔵国秩父郡ニオイテ困民団結ノ模様アルヲ聞知シ居タルトコロ同年十月二十日サラニ勘次郎来宅、同郡ニオイテイヨイヨ困民党ヲ結ビ債主ニ対シ年賦据置ノ談判ヲナシソノ急ヲ救ハント計画中ナレバ当地方ニオイテモソノ党ヲ結ビ彼我通牒シテ談判セバ困民ノタメナラント勧誘セラレ同意ヲ表シ」とある。
これを見るだけでも勘次郎は、既に9月に「剣道指南」の名目でこの村を訪問しており、秩父からのオルグのアプローチは以前よりあったと推測できる。
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10月20日
・この頃(20日頃)、群馬・山中谷の乙父村の鶴吉、上州自由党の拠点・南甘楽郡坂原村の党員新井省三に秩父の様子を尋ねる。石間の新井繁太郎に聞けとのことで、彼を訪問し11月1日蜂起を知る。
新井愧三郎の南甘楽郡坂原村には自由党員29名で2/3が明治15年以降入党者。しかし、秩父事件参加者は新井省三含む2名のみ。また、群馬側の秩父事件被告261名中、この村からは雇われた代人2名のみ。
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10月22日
・この頃(22日頃)、群馬・日野村の新井貞吉(小板橋禎吉)、恩田宇市のオルグを受ける。
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宇市は、「何レ当年之内ニハ秩父郡ニ於テ自由党ノ式ヲ挙ルニ付、其時ニハ自由党ハ出ル様ニ」と内々聞かされ、その後も、「式ヲ挙ル事モ荒増極マリ、今一度秩父へ往テ来レバ時日モ定マルニ付、村方ノ自由党へ能ク咄シヲシテ置イテ貰ヒタシ」と聞かされる。このとき宇市らは貞吉の家に泊る。
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10月23日
・この頃、大井憲太郎派遣の自重促す「鎮撫」使氏家直国、井上伝蔵宅入り。
「東京ノ本部カラ軽率ナキ様致セト申越シタル」(常次郎尋問)。先に秩父自由党(井上伝蔵か)が獄中の村上泰治の妻ハンを大井憲太郎の許に派遣。
ハンは、大井を竹川町の邸に訪ね、「兵を挙ぐる、まさに三日の中に在る」と告げる。大井は驚き軽挙妄動がことを誤ると戒め、氏家直国を秩父へ急派し説得させる。しかし、困民たちの堅い決意を翻意させることはできない。
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□「而して一方に於ては、村上の妻を遣はして大井憲太郎の所に到らしめ、兵を拳ぐるまさに三日の中に在るを報ず。大井大に驚き、其軽挙事を誤るを慮り、特に部下氏家直国を遣はして之を鎮撫せしむ・・・。」(「自由党史」)。
「東京ノ本部カラ軽卒ナキ様致セト申越シタルコト」
「問 東京本部ヨリ、何日、誰レカ伝蔵方ニ来リシカ、且ツ汝ハ本部ノ使ニ面会セシヤ。
答 使ノ来リシハ本年十月二十三日ノ夜ニ有之候、而シテ其使ノ氏名ハ自分知ラザルハ勿論、巳ニ面会モ致サザルナリ、尤モ暴発ノ事ニ決シタルガ為メ、使モ力ヲ落シ帰京シタリト伝蔵ヨリ承知セリ。」(常次郎訊問調書)。
村上泰治の妻ハンを本部に派遣したのは前後の文脈から井上伝蔵と推測できる。
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□常次郎供述に、「自由党本部ヨリ下吉田村井上伝蔵方ニ騒挙ノ事ナキ様ニ致セト申越シタル事モアレバ、自分外ニ井上伝蔵ハ強ヒテ平和説ヲ唱へクレドモ・・・」とあり、秩父国民党内で自由党中央に名の知られる正式党員伝蔵・常次郎は、本部指令の平和説をとったと推測できる。
この平和説は本部指令への盲従と日和見主義と見られ、常次郎は即時決起派加藤織吉・柏木太郎吉からと、関東一斉蜂起・蜂起延期説の栄助と、から挟撃される。
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23日
・ドイツ留学中森鴎外、衛生学者ホフマン訪問。
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to be continued
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