2008年12月3日水曜日

明治17(1884)年4月、5月 秩父(4)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 村上泰治、新井愧三郎らと国事探偵(スパイ容疑)照山俊三殺害 群馬事件 武相困民党、露木卯三郎殺害事件(一色騒動) 秩父自由党、井上伝蔵らの入党発表


横井小楠殉節地
撮影:2008/01/02
所在地:中京区寺町丸太町下る東側
横井小楠:熊本藩出身。朱子学を学ぶが開国論者となる。福井藩(松平春嶽)に招かれ改革を指導。明治新政府の参与として出仕。明治2(1869)年正月5日、御所参賀の帰途、十津川郷士らによりこの地で暗殺される。61歳。
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横井小楠遭難地
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■明治17(1884)年秩父(4)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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4月
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-・案外堂小室信介「興亜綺談夢恋恋」(「自由新聞」)。
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-・自由党幹部、政府に対し対清戦争により韓国を勢力下に入れるよう進言。
 この文脈の中で、自由党員中江兆民・杉田定一は、樽井藤吉・和泉邦彦と協力して上海に東洋学館を設立(8月)。上海に渡航した樽井・和泉は参謀本部将校と福建省福州で暴動を計画。参謀本部命令で中止。この頃、自由党は「内治優先論」放棄。
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-・与謝野晶子(6)、宿院小学校(尋常科4年制)入学。同窓に曽我道家五郎。この頃、男の子のような姿をさせられる。
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 学習した教科は修身・読書・作文・習字・算術・体操。1日5~6時間、1週間30~36時間。作文は「絶佳の文」と評価され、算術の成績も良い。安西冬衛「桜の実」(昭和21年11月)「沙界挽歌」中「駿河屋」で、晶子の甥鳳祥孝(4代目)が晶子の「小学校卒業免状」の「書留」を見せてもらったとあり、「国語国文学」(昭和25年1号)で新聞進一が引用、「作文八十二点。読方九十六点。修身百点」で、席次は「二百五十八人」中「八十二席」であったという。
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4月2日
・この日付「自由新聞」、農村の土地喪失の有様を報じる。
□「能州七尾町は、・・・去月中公売となるべき戸数は殆んど二百に及びたりと云ふ。左すれば、七尾町全戸数の凡そ九分の一は公売の処分を受る者なりとぞ。
又た薩州よりの報に、鹿児島近傍にて家屋敷は抵当に入れ、田地は債主に取上られ、進退維に谷まりし貧民共は、遠く去って大隅郡田代郷山の口村に移住し、荒蕪の地を耕して纔(わず)かに此の日を過ごし居るもの、昨年末七十余戸に及びたりと云ふ。」。
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4月4日
・山本五十六、誕生。
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4月8日
・佐久北相木村から内務省に宛て「地租軽減の請願建白書」提出。総代高見沢薫(自由党員)。
 この頃の北相木村の自由党員は他に戸長井出為吉(25)のみ。井出為吉、4月21日付け辞表提出。
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□「・・・農民ノ窮乏何ニ由テ此ニ至ル乎、蓋シ一ニシテ足ラザルナリト雖モ、其大ナル者ヲ拳グレバ即チ曰ク協議費、曰ク土木費、曰ク公儲費、曰ク学校費、曰ク何、曰ク何ト、農民ノ応ニ負担スベキ出費日ニ月ニ増加シ、之ニ租税ヲ加フレバ終ニ得ル処以テ失フ処ヲ償ツテ足ラズ。入ル所モツテ出ス所ヲ充ス能ハザルニ至ル・・・」。
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 1年前に戸長となった井出為吉には3年余の東京遊学で得た知識があり、理念と現実の乖離とそれの統一への模索の中で、徐々に行動への意思を醸し始める。彼の遺したものの中には「天誅党主意書」「岡山県南備作三国有志人民ヨリ国会開設ノ儀建言書」などがある。
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4月13日
・東京、宮部襄宅で新井愧三郎ら、スパイ容疑の照山俊三(上州自由党長坂八郎の部下)殺害計画。16日、村上泰治(17)、新井愧三郎らにスパイ容疑の照山俊三殺害依頼される。
自由党の「麒麟児」村上泰治、秩父事件を引起す変化の胎動を掴みきれずテロに走る。
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4月15日
・植木枝盛(28)、東海北陸遊説(東海道西下、京都・大阪・福井・金沢・高岡・輪島・富山・糸魚川・直江津・長野・小諸・高崎)。~7月16日。途中まで片岡健吉と同行。目的は党資金募集。この年3月の春季大会までに目標10万円のところ1万円しか集らなかったため。20日、田原で川澄徳次らと、25日、名古屋で村松愛蔵らと会う。
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4月16日
・村野常右衛門、御岳山の帰途に五日市町に内山末太郎を訪問。石阪昌孝の伝言として、内山末太郎・深沢権八の多摩講学会への尽力を依頼。
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4月17日
・下日野沢村、村上泰治、新井愧三郎らと国事探偵(スパイ容疑)照山俊三殺害。6月30日、村上泰治、東京で逮捕。
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[経緯] 
 上州自由党長坂八郎の部下の闘士照山俊三は、自由党本部に出入し、各地の演説会に大井憲太郎・宮部襄と同行しているが、いつともなく、その言動が疑惑を生み、反対党か権力側スパイと疑われる。
明治17年4月、新井愧三郎は照山暗殺計画をたて、宮部・長坂の承認をとり、たまたま上京して芝の宮部の家を訪れた村上泰治に実行を依頼。
17日、泰治は照山を誘い上野駅から一番列車に乗り、午後4時頃、重木の自宅に到着。前後して新井愧三郎、同村の岩井、緑野郡三波川村の南が来合わせ、4人で酒宴。泰治は、途中で岩井を別室にまねき、宮部・新井からの照山殺害指示を伝え、岩井・南の協力を依頼。岩井は席に帰り、照山に対し、この辺は探偵の目が厳しく、集会条例違反のあなたがいてはまずいと照山を誘い出す。
下日野沢から本庄駅への道を行き郡境を越したところに上州の鬼石への道が分かれ、少し行ったと杉ノ峠で、夜2時頃、岩井が照山を短銃で背後から心臓を撃ち、南は仕込杖で頭部を斬り、口を割き、鼻をそぎ、顔皮を剥ぐ。密偵に対する伝統的処刑法ともいうが、裁判では身元不明にする目的と断定される。2人は死体を片づけ、泰治に手紙を貰い、翌日、東京の宮部の家に行く。
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4月20日
・第7回神奈川県懇親会。上野公園内八百膳で開催。
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4月20日
・矢野龍渓(33)、横浜港出航、ヨーロッパ外遊。19年8月18日アメリカを回って横浜港帰着。
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4月24日
・石阪昌孝、五日市の馬場勘左衛門・深沢権八に書簡。板垣総理の青梅近傍出張を通知。地元党員の懇請を受けての訪問。
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5月
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--・矢野龍渓「演説文章 組立法」。
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-・宮崎夢柳「鮮血の花」、デュマ「ジョセフ・バルサモ」続編(「自由新聞」)。
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-・「自由新聞」幹事星亨、これのみに満足せず、絵入新聞「自由燈」を発刊。小室案外堂「自由艶舌女文章」(「自由燈」)。
 党員以外の一般大衆用の広報紙。政治をわかりやすく説明し、一般庶民や婦人の啓蒙に努める。
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-・シェークスピア、坪内逍遙(25)訳「該撤奇談自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)」(東洋館)。文学士坪内雄蔵の名、序文に逍遥遊人の号を用いる
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-・後楽館に法学館を開設
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5月6日
・植木枝盛の北陸遊説。6日武生に着、~10日。11日鯖江、12~16日福井、17日芦原、18日金津を出発。
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5月7日
・区町村会法改正。区戸長・県令の権限強化戸長の公選を官選に変更
 自由民権運動激化・松方デフレ深刻化の状況下、上意下達(国政委任事務の遂行)徹底を図るため3新法体制を改正、戸長役場管轄区域拡大、戸長官選、区町村会法改正などの諸達を発す。 
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5月7日
・九州改進党・福岡大会。2,500人が会場を埋める盛況(この日付「福岡日日新聞」)。
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5月8日
・米、トルーマン、誕生。
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5月11日
・宮崎夢柳、政治小説「鮮血の花」(「自由燈」連載)。
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5月12日
・チェコ、スメタナ(60)、没。プラハの精神病院。
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5月15日
・群馬事件
 上州自由党湯浅理兵(北甘楽郡内匠村戸長)・小林安兵衛(一ノ宮光明院住職)ら、妙義山陣場ガ原農民大集会。予定の数が集結せず僅か34~35名。引上げ途中、菅原村指導者東間代吉・神宮茂十郎らと合流。
 翌朝未明、菅原村グループの主張により、近くの岡部為作の生産会社(金融類似会社)焼打ち。逮捕者52。主犯小林13年・湯浅12年徒刑判決。
 当時菅原村全戸167戸中111戸が高利貸しに土地を奪われ取立てに追われ山野に潜伏という状況。湯浅らは博徒の親分山田平十郎に加勢を求める。
 上州自由党宮部襄・長坂八郎らはこの事件には関与せず。事件の最中、大井憲太郎は常備員の辞表提出。
地方農民の貧窮化が地方党員の激化をもたらし関東一斉蜂起論さえ現れる中、自由党本部左派グループは、統一指導せず
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□[事件の経緯]
 前年1883(明治16)年末より、茨城県下館地方~群馬県甘楽地方~埼玉県秩父地方で、大井憲太郎、宮部襄、杉田定一らの関東遊説が契機となり、「関東決死隊」と称する急進的自由党員500余の間に、反政府活動計画が生じ始める。また、明治16年12月~17年5月、群馬県下の北甘楽郡、南勢多郡、東群馬郡、緑野郡などの村々で多くの負債農民騒擾。北甘楽・東西群馬郡農民は負債据置・年賦返済と減租を求めて集会。前橋の西南部・南勢多郡約10ヶ村農民数百名の集会など。
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 一ノ宮光明院住職小林安兵衛と北甘楽郡内匠村戸長湯浅理兵ら数名の没落小豪農の自由党員が武装決起を計画。
「小坂村、妙義町、松井田町等ノ土民ヲ煽動シ、地租軽減請願ヲ名トシ妙義山中ノ岳大黒天堂ニ数百名ヲ召集シ、現政府ヲ攻撃シ演説ヲ為シ或ハ政府顚覆ノ密議ヲ為シ或ハ日夜砲術ノ練習ヲ為ス等、撃挙ノ画策ニ腐心セリ」(富岡警察署史料)。
 また、この年1月の太政官布告「賭博犯処分規則」による「博徒大刈込」を怒る博徒の親分山田平十郎(城之助)に加勢を求め、山田の動員力を借りて碓氷郡の困窮農民を結集させようと考える。幹部の三浦桃之助や湯浅らは山田平十部から「猟銃四百挺、刀剣二百本ばかり」整ったとの連絡をうけ、碓氷郡の山田の居村を訪ねたり、連日部落集会に参加し決起を促す演説を行う。15日、小林・湯浅ら指導部は打も合せ通り集合地妙義山麓陣場ガ原に赴くと、期待の碓氷勢500余は延期を求めて集合せず、南甘楽郡や武州秩父方面にオルグに行っている三浦からの連絡もなく、連合勢力結集に失敗した為、「僅力近傍ノ人数三拾四五名妙義山下ニ集」まっただけとなる(湯浅理兵答弁書。「凡ソ百名程」との証言もある。群馬事件「予審終結決定原本」)。
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 小林らは已む無く20日まで延期を決定し、引き揚げる途中、菅原村の指導者東間代吉や神宮茂十郎らが集合しているとの連絡があり、決起した近村人民30余が集まる菅原村に赴く。菅原村では全村167戸中111戸の農民が土地を高利貸に奪われ、尚取立てに追われ、山野に潜伏し長く家に戻らないという惨状。彼らは到底20日まで待てず、まず近くの岡部為作の生産会社(金融類似会社)を襲撃し金穀を取り戻そうと決起。東間代吉を先頭に、近村人民を駆り出し、100余が焼打ちを行い大桁山に引き揚げる。
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 この焼打ちの主導権は、自由党員から負債民に移っている点で、群馬事件は困民党蜂起の先駆けと云われる。小林安兵衛ら指導部の自由党員が、政府転覆の革命行動を主張するのに対し、負債民は生活要求を先行させる。
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5月15日
・武相困民党の騒擾過程の第1段階
(明治16年10月頃~17年6月頃)のピーク。
露木卯三郎殺害事件(一色騒動)。相州南部負債農民(淘綾郡山下村児島直二郎ら10名)、相州一色村高利貸露木卯三郎殺害。捕縛。大磯駅。周辺一帯は恐怖状態に陥る。
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 武相困民党騒擾の策源地大住郡は、神奈川県下で小作地率63%(県平均43%)という小作地帯で、貧農が多く、その貧困故に質屋金融が栄える。明治15年以来の大不況(米価は14年の石11.17円から15年には9.26円に、17年には5.40円に下落。公租公課は逆に増加)の痛手は、この地域の貧農を襲う。破滅を逃れようとする農民と、不況を利用して益々土地・貨幣を集積しょうとする地主=商人資本(高利貸)との間に死闘が展開。
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露木の収奪方法(明治17年9月に書かれたと推定される「須長文書」中の一文より)。
 農民Aが10円の借用を申し入れると、証書面は金10円となるが、利子手数料2割が引き落とされ実際の受取りは8円となる(2分切、切金貸)。期限は大体4ヶ月で、1月に借りると4月20日には督促され、すぐ返済しても元利10円66銭6厘(利子66銭6厘)を払わねばならない。
1日でも遅れれば証書書換を納得させられ、証書面は12円79銭2厘(2分切・月しばり)となる。
書換せず支払遅滞すれば訴訟され、召喚状をうけ使丁賃を加算され、1日金1円につき5厘ないし8厘の日歩を加えて請求される。
召喚に応じなければ法規によって裁判所から罰金を言渡され、更に出頭納金しないときは連借入に同様手段で請求する。
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 露木卯三郎の負債圏は4郷100ヶ村にわたり、明治17年現在の債権額残高(5月事件により5割近く棒引した残)だけで5万円という(「東京横浜毎日新聞」明治17年12月7日)。
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伊豆の借金党の評判が広がり、小田原付近の峠や山林に不穏な負債民たちの姿が出没。
 3月16日夜遅く、土屋村字七国峠(露木の居村一色村を足元に見下ろす180m程の丘)に数百の貧民(大住郡井ノロ村外数ヶ村、足柄上郡赤田村外数ヶ村の人民)が集合し露木への態度を協議。小田原署内藤功警部は巡査2名を連れて3里の夜道を急ぐ。「集合人数凡そ百名頗る囂々(ごうごう)たり」と記す。
 29日夜、吉際村外7ヶ村の人民数十人が戸田村の金貸小塩八郎右衛門に対し不穏の形勢。内藤警部は大住郡大神村に行き、指導者大神村石井八重八ら3名に説諭をくわえて解散させる。
 4月7日、高座郡吉岡村でも100名程の人民が集合して露木の負債対策を協議、国分警察分署長に解散させられ(露木の負債圏が高座郡にも及ぶ。この吉岡村付近の人民はその後数10ヶ村連合して吉岡組なる小型困民党を結成)。
 露木卯三郎は大磯駅の旅人宿川崎伊三郎方で従者露木幸助と共に殺害される。首謀者は淘綾郡山下村小島直二郎ら10名ですぐに捕縛。
「此等の負債事件は紛糾久しきに渉るを以て、殺害の事直に遠近に伝聞し、村民の動揺一方ならず」。
一色村で暴徒が押し寄せ放火あるペしとの流言に、家財道具を担ぎ右往左往する者、「実に其の騒擾言ふべからず。警部巡査百方尽力其の驚者を安んじ其逃者を止め、暴言者を捕縛し、連累者を審査し、全く沈静村民安堵に至りたるは同十九日」である。
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5月18日
・この日付と20日付け「朝日新聞」の清国の状況に関する論評。
「清廷に人なく、清人に気力なく、この仏国の凌辱に遭ひながら恬として之を甘受するの極、一に此に至るやの嘆声を発せしむる」。清国がしばしば外国の屈辱を被り、土地を奪われ、償金を取られ、「清国の為甚だ悲まざるを得ざる所」とする。
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5月18日
・秩父の自由党。井上伝蔵(31)・新井吉太郎・田村竹蔵・田村喜蔵・竹内吉五郎・新井寅五郎・柳原類吉ら11名、入党発表。20日、新井国蔵ら2名、入党発表。
 自由党が貧農層の入党「認知」するほどの情勢変化(自由党自壊の始まり)。また、村上泰治が照山殺害後、地下に潜行中でも、高岸ら3月入党組が活発に活動を展開していたと考えられる。
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5月21日
・秩父自由党幹事村上泰治(18)、照山峻三殺害事件の重要被疑者として自宅で警官に襲撃されるが逃亡。
妻ハンが、逮捕に来た警官隊の前に立ちはだかり、庖丁を振りまわして抵抗、その間に泰治(18、16年4月6日入党)は新井蒔蔵(22、17年3月23日入党)と家の上端から裏山へ逃げ、途中から別行動をとって東京へ潜入。蒔蔵は、知人の多い群馬県多胡郡日野村へ逃れる。
泰治の逃亡幇助で逮捕された加藤善蔵(43)は、間もなく釈放、秩父蜂起には不参加。19歳の息子は参加して重禁錮刑となる。
「・・・日ノ沢泰治と云う者、杉の峠で高崎士族を殺した組にて先日巡査二十人斗(バカ)り召捕りに行く、其の女房庖丁を持て騒ぎ、巡査に面を伐られ、其の間に亭主は迯(ニゲ)去りたりと云う、此の者は自由党の頭組なり・・・」(木公堂日記」6月2日)。
「・・・下日野沢重木に村上泰治(旧自由党員)と云う者ありしが、本年一月比(ゴロ)何か嫌疑の廉ありて捕縛の為め警官廿四、五名が同人宅へ出張されしを、早くも其と察し同家に居合した新井牧蔵(旧自由党員、正しくは蒔蔵)と共に逃亡して黒沢善吉(旧自由党員、正しくは加藤善蔵)一名縛に就きしが、其の後村上は東京にて縛せられたり・・・」(「絵入朝野新聞」11月21日付「埼玉暴動余聞」)。
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5月25日
・長浜~大垣間の鉄道が開通。
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5月27日
・大住郡矢名村(秦野市)弘法山に44ヶ村300名余、集合、無利息35年賦の要求をかかげて周辺の金貸会社へ強談。1週間以上にわたり弘法山を根拠地にした運動続く。
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下旬・愛甲郡・大住郡農民数百人、集結。共伸社など高利貸業者から利下げなど譲歩勝取る。大規模な大衆行動がおこり、地域社会の動揺が大きくなるなか、金貸側は困民党の要求に配慮を示して3年賦程度の妥協を提示。6月11日、馬入村(平塚市外)江陽銀行社長杉山某宅に脅迫状。警察・戸長が債主・負債主を呼び示談。利子低減、支払延期が認められるが、負債主95名で金額は5,500円(1人当たり58円の零細借入れ=生計補助的借入れ)。
 第1段階でのこの地域の農民騒擾は分散的
債主の支配権に比べ、負債者側農民側は村・郡を越えた組織にならず。後の武相困民党にも 大住郡農民は結集せず。
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 愛甲郡申依知村・下依知村、大住郡笠久保村付近の農民数100が連判状を作って結束し、善波峠や弘法山に乗合。
大住郡の人民は、近くの尾尻村(現、南秦野)共伸社社長梅原修平宅に、「願の筋聞届呉れ候はずば、何程堅固防禦をなすと雖ども吃度焼討候間、其段承諾せよ」「つつがなき命はきのふ共伸社 あすは露木の友となる身ぞ」と貼紙して脅す。
露木事件の恐怖から立直る余裕のない債主層はこれによって譲歩を余儀なくされる。梅原にもテロを加えるとの風評が立ち、小田原警察署は指導者数名を逮捕。共伸社など付近の高利貸業者は、次々に利子引下げ、年賦払いの要求に応じていく。
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エンゲルス「家族、私有財産および国家の起源」完成。マルクス遺稿中の米民族学者ルイス・H・モーガン「古代社会」の摘要を利用して執筆。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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to be continued

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