2008年11月21日金曜日

明治17(1884)年1月、2月 秩父(2)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 村上泰治、田代栄助の自由党入党を拒否


 有名な坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された場所(石碑には「遭難地」とあります)。
 学生の頃からこの前をよく通っていましたが、有名な割には、これをしげしげ眺める人を見たことがなく、写真撮るのも気恥かしい限りでした。兎に角、京都市中京区河原町通蛸薬師下ル西側という、京都でもチョウ繁華街ですので、人が写らないようにするのがひと苦労です。
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 坂本龍馬といえば、平尾道雄「坂本龍馬海援隊始末記」「中岡慎太郎陸援隊始末記」(共に中公文庫)という、私が年表オタクになる第2のトリガとなった本があります。これはいい本でした。これを読んだ頃(もう就職してましたが)は、中公文庫ばかり読んでた記憶があります。
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 暗殺される場所は近江屋と云うそうです。2人は、風邪気味なので「とり鍋」でもといって、手代に鳥を買いに走らせます。
暫くして、階下で騒音がして、どちらかが(龍馬としておきましょう)、「ほたえな!」と言ったそうです。これは、関東に人にはわからない言葉だと思います。「ほたえる」=「騒ぐ」で、「ほたえるな!」がなまって「ほたえな!」となります。何も調べずに今の記憶のまま書いてますので、これは、すべて司馬遼太郎「竜馬がゆく」の受け売りだと思います。ということは、この「ほたえな!」も、司馬さんの創作なんでしょうね。

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 だいぶ前になりますが、かなり黄ばんだ「竜馬がゆく」を息子の本棚で見つけました。若い頃読んだ小説類は、スペースの関係もあるので処分しましたが、文庫本では司馬さんのもの、五木寛之「青春の門」、ヘミングウェイのものは、ひょっとして次の代でも読むかと残しておいたものです。例えば、松本清張のある時期までの文庫本は、どの文庫のものでも全て揃えてたのを処分しました。おっと失礼、「昭和史発掘」はキープしてました。
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 先日、家を出た息子から、ヘミングウェイ「移動祝祭日」はまだ家にあるかと問い合わせてきました。幸運にもカバーがない状態ですが、家に居る方の息子の本棚にありました。これ、岩波同時代ライブラリというシリーズで出たものです。この本は、「パリは移動祝祭日」で始まる回想記です。1920年代のパリ、第一次大戦後のパリで、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる若い文学者たちとの交友を描いたものです。1960年に完成、翌1961年、著者はライフル自殺。
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 これ、税込968円だったのが、中古市場で最低が4,786円なんです。出来のいいのはもっと高そうです。ちなみに、私めの所有するものはと言えば、只今いったようにカバーなし、しかも訳者解説部分には私がご丁寧に赤のボールペンでラインを引いている状態で、多分市場に出せるシロモノではないでしょう。
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 なんで私が「移動祝祭日」なるものを読もうと思ったかというと、同じくヘミングウェイのロス・ジェネ世代を扱ったフィクションで「日はまた昇る」がありますが、よくぞここまで「ハシゴ」できるなと思えるくらい遊びまわるその陰影深い無頼さに惹かれたからだと思います。映画化された時のエヴァ・ガードナーの濡れるまなざしが凄かった記憶が残っています。
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■明治17(1884)年秩父(2)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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明治17(1884)年
 「明治十四年の政変」後、大隈重信のあと大蔵卿に就任した松方正義は、紙幣整理のため、増税・緊縮財政を強行するデフレ政策をとり、15年後半から効果が現われ、米価をはじめ諸物価は急落、農民は激しい不況に見舞われる。
 神奈川県をはじめ関東・中部諸県は、幕末開港以降養蚕を通じて商品経済に組み込まれ、養蚕や生系の生産・営業活動が地域経済と民衆生活を規定し、繭価や生糸価の急落がそのまま地域全体の経済的・社会的状態に直結。明治14(1881)年と17(1884)年の物価、職人・人力車夫の手間賃は、30~50%の落ち込みとなる。
 中小農民は急速に没落、耕地を抵当に高利貸に頼り、借金が返せないで土地を抵当流れにする者が続出。土地は高利貸・大地主に集中。自由民権運動も、士族・豪農層に限られていたものが、没落中小農民層に移り、過激化の方向をとる。
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 一方で、鹿鳴館に仮装舞踏会盛行。女性の洋装盛んとなる。
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1月
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-・大政官布告「賭博犯処分規則」。 戦闘的博徒集団が反体制派に武器その他支援するのを予防。
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「明治十七年の大刈込」始る
 2~3月、全国的検挙(「博徒大刈込」)。2月25日、侠客山本長五郎(清水次郎長)、江尻警察署に逮捕。4月7日賭博の罪で懲役7年判決。愛知県でも、武器を持ち、戦闘経験のある、強固な団結を持つ一家が狙い撃ちされ壊滅。検挙を逃れた者達は、他県に逃亡・潜伏し、各地で続く蜂起の主体である借金党・困民党など反体制運動に関連してゆく。
 
□「賭博犯処分規則」。
①賭博犯処罰の手続き:従来は刑法い従い、裁判を経て刑が決まるが、「当分ノ内、行政警察ノ処分」に任せるとされ、東京では警視庁、地方では各府県警察署の権限で「規則」によって処罰することを許す。
②「処分規則」内容:従来の賭博の現行犯の他に、「博徒ニシテ党類ヲ招結」した者、その「招結スルニ応ジ」たる者、「凶器ヲ携帯シ又ハ四隣ニ横行」する者を、1年以上10年以下の懲罰及び50円以上500円以下の過料に処す。更に「賭場ニ現存スル財物ハ何人ノ所有ヲ間ハズ之ヲ没収」との条項も加えられる。
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□「明治十六、七年頃警察当局ハ彼等ニ対シ一大掃蘯ヲ試ミ各家ノ主要親分乾児ヲ逮捕処罰スルコト頗ル厳烈ニシテ至ル処彼等渡世人ヲ畏怖戦慄セシメ今日猶ホ<明治十六、七年ノ警察犬刈込>ト称シ彼等間知ルト知ラザルトヲ問ハズ有名ナル話柄卜為り居レリ、然レバ其当時相当ナル親分又ハ乾児ハ或ハ輔へラレ或ハ遠ク他府県ニ遁逃シ殆ド一時其跡ヲ絶チタルカノ観アリシト云フ」(「博徒二関スル調査書」)。
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○清水の次郎長の場合。
 治郎長は既に足を洗っており、江尻警察署の呼び出しは、博徒狩により次郎長の許へ逃げて来た者があり、その事だろうと思って出頭。しかし、そのまま留置され、即時家宅捜索、刀槍銃器を押収され、間もなく静岡井之宮監獄に回され、懲役7年、過料400円を科せられる。この時井之宮監獄に次郎長と共に回されたのは、安東文吉身内の大水道の菩之助、中泉の堀越の藤左衛門、堀之内の横須賀の清蔵、三島の玉川屋その他で、次郎長は大親分なので刑も一番重い。
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○三河、尾張の場合。
 三河では、幕末期に黒駒の勝蔵派〈平井一家)と清水次郎長派(吉良一家、形の原一家)に分かれ血なまぐさい闘争を繰り返した3つの博徒集団が対象。
尾張では、維新以来血なまぐさい縄張り争いを重ねて来た北熊一家と瀬戸一家の双方、北熊の前哨線の岡島一家、北熊の費場所を狙う山崎一家の4集団が対象。
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 三河の平井一家、尾張の北熊一家は、戊辰戦争の際に藩から草莽隊結成を呼びかけられており、この時は自らの軍事力補充、犠牲肩代りの為に戦闘的博徒集団を利用。
明治政権は、激化しつつある農民騒擾や民権運動に、戦闘的博徒集団が入り込み反体制運動にへの武力提供を未然防止するためこれの解体を狙う。
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-・自由党幹部、河野広躰ら福島・栃木急進グループを建物外へ追放。
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-・文部省、小学校の作文に注意する旨の諭告。少年に人気の投稿雑誌「頴才(エイサイ)新誌」に政論が掲載されるのを嫌う。
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-・「泰西活劇春窓綺話」(スコット、服部撫松名義−坪内逍遙、高田半峰ら訳・坂上半七発行)
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-・高野房太郎ら、横浜講学会を結成。横浜在住青少年の勉強会。図書共同購入、天野為之・高田早苗らの講演会を主催
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-・ウィーン、警察官や両替商の殺害続く
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-・ゴッホ、足を骨折した母を熱心に看病。夏、隣家に住むマーゴット・ベーヘマン(39)との恋愛関係は双方の両親の反対に会う。彼女は悲観して服毒自殺を図る。
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1月4日
・官吏恩給令改定。恩給制度が始る。
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1月4日
・英、フランク・ボドモアら「新生活団」所属の知識人、社会改革組織フェビアン協会設立。
 ローマの将軍で待機主義者のフェビウスに因んで名付ける。結成直後、ショー、S.ウェッブが参加、革命によらず漸進的な浸透により社会主義を実現するフェビアン社会主義の立場を明確化。1887年6月3日「フェビアン協会の原理」を採択、土地私有制廃止、産業資本管理の社会への移転、それによる機会均等と個人の自由の拡大等を主張。1900年労働代表委員会が結成されるとその構成組織となる。
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1月6日
・オーストリア、生物学者メンデル(61)、没
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1月11日
・小室信介「佐渡善兵衛氏の伝記」(「自由新聞」)全8回。
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1月14日
秩父の状況
 小鹿野の高利貸しの家に「生首ヲ取其上焼払」など張り紙。
不穏を鎮めるため政府は貯米1千俵を小鹿野に準備(「木公堂日記」)。2月5日、大宮郷で高利貸しが斬られて重傷。14日夜、上日野沢村大前部落で日分貸しが斬殺。また、博徒は賭場以外でも捕縛される。(「木公堂日記」2月16日)。
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□「一月二十四日 ・・・十日斗(ばか)り前ヨリ小鹿野工火札毎夜高利貸張ルル、中ニモ常盤屋ハ生首ヲ取其上焼払外三四名同断ノ咄有、小鹿野工天朝ニテ貯米千俵積ム。」。
「一月二十五日 ・・・大宮役所下身代限七百戸余咄。」。
「一月二十六日 ・・・坂戸宗八ハ家出シテ不知。」。
「二月十六日 ・・・有説ニ本年四月一日ヨリ自由党国会ヲ開カントテ願ヒノ最中ノ咄有。五日前大宮ニテ高利貸切ラレ手負シ咄。又日ノ沢ニテ十四日ノ夜日分貸大前ノ者切殺サレシ咄ナリ。日分貸取上ナシ。罪ニ相夕者代言封ル。又博奕モ揚場ニ限ラズ捕縛サレル。罰金モ懲役重クナリシ咄、罰金十円ヨリ少カラズ二百円ヨリ多カラズ。」
「二月二十日 赤芝ノ者、タゴ坂(団子坂)ニテ縊死ス、此前モ縊死有夕所」
「三月三日 伊豆沢ニ縊死有」(「木公堂日記」)。
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1月22日
・中島信行、石阪昌孝へ書簡。公歴の進学相談を受けた中島の返答。
「公歴生将来之事を考フルニ、日本ニ於而者東京大学校之右ニ出ル学校無之ハ万人之認知スル処ニ候、…」。公歴、2月に東京大学予備門への進学を目指して、出京。
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1月26日
・井上哲次郎ら、哲学会を結成
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1月26日
・植木枝盛「日本ハ宜シク自由主義ヲ行フベキ国柄タルヲ論ズ」(「自由新聞」~3月20日)。政府のドイツ型国家像(ドイツ型憲法草案作成準備)に対抗。
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1月27日
・馬場辰猪(33)、横浜・羽衣座での国友会政談討論演説会で演説。2月24日にも同所で不景気問題について演説。3月23日、住吉町湊座で「参政の権」を演説、中止解散となる。
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2月
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-・大井憲太郎、秩父訪問、講演会。自由党員増える。
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・この頃、侠客田代栄助(50)、自由党入党意思で下日野沢村重木の秩父自由党幹事役村上泰治(17)を訪問。拒絶される。
泰治の驕慢な態度に田代は深く傷つき、春~夏、秩父自由党から遠ざかる。
明治16年末、秩父の自由党員は16名で村上泰治が幹事役。これらは「旦那自由党員」で全て11月の蜂起には参加せず。
秩父一円に名の知れた老侠客田代栄助をして自由党入党を思いたたしめる社会的状況にある。
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 若い泰治は、栄助を警察のスパイと思い込み、適当にあしらって追い返そうとする。
栄助が自由党の主義は何かと訊ねると、「自由党には別に主義があるわけではない」と答える(「学もないお前ごときに自由党の主義がわかるはずはない」)。
栄助は下手に構え、「ともかく加盟したいからよろしくれのむ」と言うと、泰治は紙に「加盟ノ証如件」という言葉で結ぶ「自由党申込書」を書いて渡し、栄助はこれに署名捺印。
 栄助が更に、「自由党だけでなく、およそ結合をなしたものには主義がないはずはない。趣意書でもあったらお見せねがいたい」と詰め寄ると、泰治は漢詩2つを2回ずつ吟じる。「一タビ奸者ヲ斬り公党ヲ清メバ又是レ濶ノ辺り釣魚ノ人 丈夫ナンスレゾ妻子ヲ願ミン、奔走多年此身ヲ労ス」。栄助はのちまでこれを記憶している。
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 「その時、汝は暁(さと)りたるや」との取調べ官に、田代は、「・・・何ぞ暁るをえん。嘲弄も甚だしと思惟したるより泰治にむかい、人を愚弄するまた甚だし。老年の自分に対し大声詩吟するは何らの意なるか。この馬鹿者に言を交ゆるは無用なりと、憤然与市ともども座を立って、同夜は与市方に一泊せり。」と答える。
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 群馬自由党領袖宮部襄から「党中随一の麒麟児」(「自由党史」)と賞賛される村上泰治は17歳。
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地元日野沢の古老によれば、村上が党中央の信任を得ていたのは、主に彼の資金力にあったという。日野沢村重木の旧家に生まれた村上は、その家産の相当額を党活動に注ぎ、かつ秩父一円の豪農から強引な形で資金拠出を迫ったと云われる。
 両神と荒川を結ぶ「てごまる峠」の古池という部落に白壁の通り門と塀に囲まれた豪壮な蔵屋敷をもつ「古池大尽」と呼ばれる豪家がある。蜂起の際、宮川寅五郎隊はここを避け、間道を通って贄川に抜ける。その理由は、泰治が古池大尽から巨額の金を強奪に近い形で拠出させていたからと云われている。
「木公堂日記」に「四月二十八日 ・・・昨夜古池大仁エ追込八人這入り金千円余、古金迄取ラルル」とある。4月17日、密偵照山を殺害し地下に潜行した泰治一味(それに宮川寅五郎が加わり)の犯行と推測が成り立つ。
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 困民党組織者の殆どは、明治17年3月以降の自由党入党者。3月23日、高岸善吉・坂本宗作・落合寅市のトリオ、小柏常次郎が入党。5月18日、井上伝蔵ら入党。その間の4月17日、泰治はスパイ照山を殺害し地下に潜行、6月30日逮捕。
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もし泰治が獄外にいたなら蜂起に参加したか?
□泰治と同じ村の自由党員加藤団歳の証言。
「問 村上泰治捕縛前ナレバ、今般之暴徒二加ハリタルモノト惟フヤ如何 
答 決シテ今般之暴徒ニハ加ハラズ 問 何故斯ク断言セシヤ 
答 如斯領袖之事ニハ加ハラズ (栄助が総理になるような運動には参加しない
問 然ラバ汝ハ泰治ノ諭旨ヲ承知シタルモノト思料ス、有体ニ申立ヨ 
答 十六年三月中自由党ニ加盟シ、其後泰治ノ言フニ、全国中自由党員ヲ募り、大勢ヲ以テ地租減税セラレンコトヲ政府ニ強願スルノ見込ナリ 
 (泰治の運動は、困民党のような高利貸征伐という低次元のものではない。・・・)
問 如何程減額之見込ナルヤ 
答 百分ノ二減額スル見込ナリト泰治ハ言フ 
問 政府ニ強願スルハ減額ノコトノミカ将タ数条アルヤ 
答 強願ノ事ハ承知セリ、他ハ承知セズ 
問 強願ハ幾年頃卜言ヒタルヤ 
答 明治二十三年国会開設之前ニ事ヲ挙ゲザレバ、事成就セザルノミナラズ、此間ニ堪へ兼ルト言ヒタリ 
問 全国党員等卜協議中卜思フカ 
答 協議中トハ相考へタリ」(暴徒一件書類警視部「加藤団蔵訊問調書」)
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 泰治は、「他人ヲ誘導センガ為メ先ヅ己レガ小作人及ビ自家ノ負債者ヲ招集シ、或ハ金利ヲ減ジ、或ハ期限ヲ緩メ、或ハ小作金ヲ軽クス、而後誘説セシニ突嗟ノ間ニ加党スルモノ多シ」(「秩父暴動始末記覚書」)と云う。
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この頃の小柏常次郎のオルグ活動。
 常次郎のオルグによって同じ日野村から秩父に押し出した農民山田勇次郎の供述。
「・・・小柏常次郎、恩田宇一(甘楽郡国峰村)ガ帳面ヲ持廻り字田本辺ニチハ帳面ニ記入シタルモノ在ル由、尤モ是ハ当年二月頃ノ事ナリ。」。
帳面に署名するとは、一体どんなことをしようとしたのか、と問われ「自由党へ加盟スルト云フ事ヲ記シアル由、私耕地小柏ニテハ二十名計り加入スル事ニナリ」。
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-・伊豆地方に借金党騒擾。~3月。一部は示威により銀行より元利減額勝取る。
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-・河野広躰・鯉沼九八郎ら加波山グループ、東京芝の三島通庸邸を襲撃しようとして果たさず、自由党本部寧静館を根城として暗殺の機会を窺うが、内藤魯一・星亨ら党幹部に退去を要求される。警官導入の気配もあり、河野らは「もはや頼むに足らず」と訣別。
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-・品川ガラス製造所を稲葉正邦らに貸与
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-・大山巌、欧州視察旅行発。捨松、伊藤博文より華族女学校設立準備委員依頼される。
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-・井上哲次郎(28)、官費留学生でドイツに向かう。23年6月に帰国。
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-・高知県内に減租請願の声。
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-・石坂公歴、出京。中原貞七の開く成立学舎に入学。東大入学準備。
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-・子規(18)、随筆「筆まかせ」起筆(明治25年まで)。
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-・パリの地理学協会、ランボーの「オガディン地方報告書」を評価。会報に掲載。
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2月2日
・黒田清輝(17)、法学勉学のためフランスに向けて横浜を出発(滞仏中画学に転向する。9年後に帰国)
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2月10日
・「自由新聞」斯文一班欄、土佐勤王党の領袖武市瑞山の漢詩アンソロジーとして古沢編「貫誠録」掲載。
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2月13日
・「虚無党員怒つて憲兵都督を殺す」(「自由新聞」)全4回。
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2月15日
・(露暦2/3)チャイコフスキー、オペラ「マゼッパ」初演。モスクワ。
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2月17日
・八王子広徳館・南多摩郡自由党員、西多摩郡の青梅町で第2回自由政談演舌会を開催。
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2月22日
・三浦環、静岡県に誕生。
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2月24日
・第一国立銀行、朝鮮政府と朝鮮開港場のおける開港場海関税取扱の約定に調印
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to be continued  

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