2024年5月12日日曜日

長徳元年(995)5月~6月 藤原道長、内覧・右大臣・氏長者となる 7月24日、道長が伊周と口論 3日後、道長の随身が、伊周の弟中納言隆家の従者と七条大路で闘乱 

東京 北の丸公園
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長徳元年(995)
5月8日
・関白藤原道兼、歿。
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5月11日
・道長、内覧宣旨。

伊周と道長の対決
この時、伊周は内大臣22歳、道長は権大納言30歳。官位は伊周が上。一条天皇との関係では道長は叔父、伊周は従兄であるから道長の方が上。伊周の妹定子は中宮で、天皇のおぼえもいい。

天皇は迷っていたようだが、で強力に道長を推したのが、道長の姉で天皇の生母(「母后」)、女院となっていた東三条院詮子で、権大納言に内覧宣旨を出すことにためらっていた一条天皇を説得した。東三条院は天皇御所である清涼殿に赴き、天皇の寝所に入って訴えたという(『大鏡』『栄花物語』)。

5月11日の『小右記』には、道長に「関白詔」が下ったというので問い合わせたところ、頭弁源俊賢から、関白詔ではない、「官中の雑事、堀川大臣の例に准じて行なふべし」という内覧宣旨であることが伝えられている。
堀川大臣は兼通のこと。

道長は甥伊周との権力闘争に勝利して内覧となり、翌年左大臣となってから、一条朝、三条朝と20年間、内覧で左大臣という政治的地位を保持する。三条朝に一時准摂政になったが、その時も一上(太政官筆頭公卿)の地位は手放さなかった
このような道長のやり方は、それまでの、摂関になると天皇補佐に専心するため、一上の地位を次位の公卿へ譲るという、忠平以降のあり方とは全く異なっていた。
これは、太政官の権力の大きさを熟知していた道長が、太政官の実質的なトップである左大臣と、摂関と実質的には同じ機能をもつ内覧と、その両方の政治的地位を維持するためにとった方策であったと考えられる。
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6月19日
・道長が内大臣伊周をおさえ、右大臣となる。
左大臣源重信が没していたので道長は実質的には朝廷の最高位に立ったことになる。また、この時、道長は氏長者となる。

『御堂関白記』によれば、6月19日に右大臣に任ぜられ、「朱器台盤(しゆきだいばん)」が持参され、翌日には藤原氏の大学別曹勧学院の学生等が慶賀に参上し、27日に氏印(長者印ちようじやいん)を初めて用い、吉書(きつしよ)を覧ている。

朱器台盤は、朱塗りの食器セットとそれをのせる膳・机である台盤のことで、藤氏長者の地位に付属して授受される天皇家の三種神器にあたる重宝。
藤氏長者就任にあたっては、その象徴である朱器台盤とともに長者印・渡荘(わたりしよう)券文・蒭斤(まぐさのはかり)を受領するが、師実以後はこの「朱器渡り」は東三条殿で行なわれ、東三条殿と一体だった。

しかし道長はこの時には東三条殿は伝領していないらしい(吉書とともに冷泉院・東三条院請印目録」を覧じているが、これは冷泉上皇と詮子に関する文書のことで、邸宅ではない)。
そして伝領した朱器台盤は、のちのように東三条殿御倉ではなく、土御門第に納められた。長和5年(1016)7月に火事があり、土御門第も「数屋一時に灰と成」ったが、道長はまず「大饗朱器」を取り出させている。したがって朱器台盤は当初から道長の本邸である土御門第におかれていたと考えられ、東三条殿には藤氏長者のシンボルとしての意味はまだなかった。
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7月24日
・道長が伊周と口論する。

「右大臣・内大臣、杖座(じようのざ)に於いて口論す。宛(さなが)ら闘乱のごとし、上官及び陣官の人々・随身等、壁の後に群立して之を聴く。皆嗟(なげ)くこと非常なり」(『小右記』7月24日)。
陣座(公卿の会議室・控え室)でつかみあいになりかねないような口論。

3日後、道長の随身が、伊周の弟中納言隆家の従者と七条大路で闘乱し、殺害される事件がおきた。
さらに5日後、隆家の従者は道長の随身(護衛兵)を殺傷。隆家には犯人を差し出さなければ参内を停止するという命令が下された。
そして1週間後、道長呪詛の祈祷をする僧侶が伊周の外祖父高階成忠の邸にいる、これは伊周の差し金らしいとの噂が流れた。
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に続く



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