2021年12月31日金曜日

【2021年 あの事件・騒動の今を直撃】大阪は5月に100万人当たりコロナ死者数“インド超え” 保健所や現場から上がっていた悲鳴(日刊ゲンダイ) / 日刊ゲンダイ1面で振り返る2021年の吉村知事①~⑤ / 日刊ゲンダイ1面で振り返る2021年の吉村知事以外の維新①② / 雑誌、新聞記事で振り返る2021年の維新①②     

 

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日本人は「若者の貧困」悲痛な実態をわかってない 「若いから働けば何とかなる」は本当なのか(東洋経済); 「時給高いから上京」の21歳女性を襲った“想定外”  「コロナで路上生活」38歳元派遣の“10年前の後悔”  「親が学費負担放棄」学生を絶望させる新たな貧困  データで解明「コロナで階級社会化が加速」の衝撃  経験者が激白!流行する「ギグワーク」過酷な末路  若者がハマる「ギグワーク」脱法的仕組みの大問題  「最低賃金も稼げない」米国ギグワークの衝撃実態  30代女性が"夜逃げ"した「ヤバい格安賃貸」の正体  コロナ禍で露呈「若者ホームレス」知られざる苦境  小学生で「自殺未遂繰り返す母」介護した彼の悲壮  竹中平蔵「私が弱者切り捨て論者というのは誤解」  日本人が知らない「脱成長でも豊かになれる」根拠  コロナで生活苦しい人に「使ってほしい制度」8つ                          



 

吉村洋文知事、休日の筋トレ姿を公開!たくましい筋肉に黄色い声殺到「カッコ良すぎ」「キャー!」(読売新聞) ← 翼賛体制構築中! ← バーベルあげてるフリしてるだけやん! / 読売新聞と大阪府との包括協定で問われるジャーナリズムの役割(立岩陽一郎) / 読売新聞(大阪本社)はどこに行くのか? → 【公民連携】大阪府と株式会社読売新聞大阪本社は包括連携協定を締結します!(大阪府報道発表) / 岩国市と包括連携協定(20年11月)  防府市と包括連携協定(21年3月)  宇部市とも包括的連携協定 ← 権力とか行政の監視がメディアの大きな役割だと思ってたけど、グルになってしまうワケだね   


 

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2021年12月30日木曜日

2021年、今年読んだ本

2021年、今年読んだ本(但し、この中には、雑誌1,展覧会図録1,再読・再々読18冊が含まれている)。

今年は特に、コロナ禍で苦しむ人々と彼らを支援する人々の現状を取り上げた本(レポート)が特に印象に残った。









『韓国からの通信の時代』の著者池明観(97歳)さんが亡くなられた

「知らないことが」 茨木のり子 (『対話』所収 初出「詩学」1955年10月 詩人29歳)  

 


知らないことが     茨木のり子


大学の階段教室で

ひとりの学生が口をひらく

ぱくりぱくりと鰐のようにひらく

意志とはなんのかかわりもなく


戦場である恐怖に出会ってから

この発作ははじまったのだ

電車のなかでも

銀杏の下でも

ところかまわず目をさます

錐体外路系統の疾患


学生は恥ぢてうつむき口を掩う

しかし 年若い友らにまじり

学ぶ姿勢をいささかも崩そうとはしない


ひとりの青年を切りさいてすぎたもの

それはどんな恐怖であったのか

ひとりの青年を起きあがらせたもの

それはどんな敬虔な願いであったのか


彼がうっすらと口をあけ

ささやかな眠りにはいったとき

できることなら ああそつと

彼の夢の中にしのびこんで

少し生意気な姉のように

”あなたを知らないでいてごめんなさい”

静かに髪をなでていたい


精密な受信器はふえてゆくばかりなのに

世界のできごとは一日でわかるのに

”知らないことが多すぎる”と

あなたにだけは告げてみたい。


(『対話』所収 初出「詩学」1955年10月 詩人29歳)






年越しの「相談村」、訪問者は前年の2倍に コロナ禍で生活苦しく(朝日)  / 「先が見えません」年の瀬、無料の食品求めて続く都会の行列 「パンク寸前」悲鳴上げる支援団体(東京) / 「年越し大人食堂」に列 コロナ禍、支援長期化―「貧困層の固定」懸念(時事)     

 

2021年12月29日水曜日

自宅近くのお寿司屋さんで二回目のプチ忘年会 2021-12-28

 12月28日(火、昨日)

次男が帰ってきているので、自宅近くのお寿司屋さんで二回目のプチ忘年会。二時間で切り上げようね、と言ってたが、三時間近くになってしまった。しかし、それでもいつもよりは大人しい方だった。








「行きずりの黒いエトランゼに」 茨木のり子 (『対話』1955年11月所収 初出「詩学」1954年1月 詩人28歳)

 


行きずりの黒いエトランゼに      茨木のり子


路上 何か問いそうな黒人兵のしぐさ


気がつくと

目にもとまらぬ迅さで私は能面をつけ

あなたの質問を遮断していた


澄んだ瞳にありありとのぼる哀愁・・・・・


すれちがつたあと 私の胸に

やみくもに湧く さびしさの雲霧

片道の言葉の通路がふたつあり

あなたの友人がビールかっぱらいの名人で


あなたの白い長官がむすめを拉する達人で


あなたのなかま数人がかたらい

沈丁花の匂うこの町のよるよる

植込みに月の輪熊のようにのっそり潜み

行人をねらつたということが


いいえあなたの属しているものを

決してゆるせないということが


いいえ分析できないもつとなにかが


もしかしたら

あなたには何のかかわりもないそれらが


低いひさしの

炊煙の洩れる

とあるろじで


あなたに小さな哀しみを与えてしまった

ものだ


私の国のだれかも見知らぬ遠い果の

石畳の鋪道でおなじ小さな哀しみを

いくつも受けとつたことだろう


おもえばおかしな世界である


行きずりの黒いエトランゼよ

あなたは口笛とともに

忘れ去ってしまったか


私はあのワンカットが

月日の現像液のなかで

ゆらめきながら・・・・・

次第に鮮明度をましてくるのを感じている。


(『対話』1955年11月所収 初出「詩学」1954年1月 詩人28歳)


・・・一九五四年一月に『詩学』に掲載された「行きずりの黒いエトランゼに」・・・。ここでは「黒人兵」との遭遇が謳われている。「路上 何か問いそうな黒人兵のしぐさ/気がつくと/目にもとまらぬ迅さで私は能面をつけ/あなたの質問を遮断していた」。

「黒人兵」への拒絶の意識。茨木が結婚して居住した埼玉県所沢市の基地のアメリカ兵を具体的な対象としているが、「黒人兵」に向かい、「あなたの友人がビールかっぱらいの名人で」「あなたの白い長官がむすめを拉する達人で」と内面で語りかけるとき、茨木のなかでは占領の光景と重ね合わせられていたはずである。「あなたのなかま数人がかたらい」「行人をねらった」とも書きつけ、茨木は占領の記憶を決して忘れず、たえず想起する。こうしたなかで、「わたしが一番きれいだったとき」が書かれ、敗戦時の葛藤が提示されていった。

茨木においては、あとで見るように、敗戦-戦争責任に集約していくことばと、植民地主義への批判的反省がなされるが、そのはじまりに、敗戦と占領の光景があったということとなる。

(成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』))


安倍元首相を再び不起訴に 「桜」夕食会の費用補塡問題、捜査終結(朝日);「かつて1000円の線香を有権者に配った小野寺議員は公選法違反で辞職し、今回、夕食会費用の一部、1人あたり3000円を補填した安倍元首相は不起訴に。釈然としません。— 宮本徹」 / ニューオータニの桜を観る会前夜祭宴会明細書を隠蔽したまま不起訴! / 安倍晋三後援会の3年分の「翌年への繰越額」の政治資金規正法違反(虚偽記入罪)の刑事告発はまだ捜査中ですよ!!!(上脇博之)        



 

神奈川でベーカリー閉鎖相次ぐ コロナ禍・材料高響く 神奈川(日経);「神奈川県内で2021年末、ベーカリー(パンなどの製造・販売会社)の倒産・廃業が相次いだ。ベルベ(大和市)が経営破綻し、小田急電鉄子会社が運営する「HOKUO」も全店閉店に追い込まれた。新型コロナウイルスの影響で客が減ったうえ、原材料価格の高騰や人材難などの悪条件が重なったことが響いたようだ。」 [有料会員限定]    

 

2021年12月28日火曜日

「武者修行」 茨木のり子 (『対話』1955年11月所収 初出「櫂」第三号1953年9月 詩人27歳)

 


武者修行    茨木のり子


乱雲飛び

どすぐろい風 はためく曠野

野分はいくつすぎていつたか・・・・・

ふたたび武者修行のはやる季節

きたえられた宝刀を抱き

仮寝をむすぶ根なし草の氾濫


かつて父祖ら仕官のための放浪

われら今、あらゆる君主すてる旅路

人と人とのはざまは

千仭の谷


目のくらむ寂蓼に堪え

無辺の空と切りむすべば

暗い暗い火花が散る

燃えつこうとして 燃えつかない

ひうち石の火のような


夜陰

丘にのぼって

小手をかざせば

無数のかれらの閃光もみえる

つめたく

もどかしい

不吉な陣痛のひきつりのような


のろし火

彼方にあがり 消え

合言葉解せぬまま

彼方にのろし火あがり 消え

狂鳥墜ち!

沼ははげしい静穏を保つ


この島にはじめて孵る深海魚の子ら!

五官にみづからの灯を入れて

野火の夢を拒絶せよ!


(『対話』1955年11月所収 初出「櫂」第三号1953年9月 詩人27歳)


・・・・・茨木の詩「武者修行」(一九五三年九月)は、占領解除後の光景を「ふたたび武者修行のはやる季節」として捉えたものである。「かつて父祖ら仕官のための放浪/われら今、あらゆる君主すてる旅路」との状況認識は、戦時-占領とは異なった「今」に対する認識を、緊張感をもって示している。「あらゆる君主すてる旅路」との決意を示し、あらたな歴史に入り込むという緊張感を謳う。


のろし火

彼方にあがり 消え

合言葉解せぬまま

彼方にのろし火あがり 消え

狂鳥墜ち!

沼ははげしい静穏を保つ


この下りには、運動への期待が「のろし火」という言葉に込められ、それが散発的になされていくことが記される。最終節は、「この島にはじめて贈る深海魚の子ら!/五官にみづからの灯を入れて/野火の夢を拒絶せよ⊥と書かれる。これが、敗戦と占領を経験した茨木の認識であった。その時代から、さらにその先の未知の世界へ踏みいっていく覚悟が語られている。

(成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』))





「半端ない数」 公明「ホープ」&「秘書トップ」にヤミ金対策法適用(朝日) / 「公明党のホープ」、再起の矢先 テクノ社と親交―遠山元議員(時事);「クリーンなイメージ。将来の公明党代表候補だった」 / 検察幹部「前代未聞の事件」 議員事務所で「貸金業」―多額の利益、悪質性高いと判断・特捜部(時事) / 「政治とカネ」議員摘発相次ぐ 在職中の犯罪、IR汚職以降6人目(時事)       



 

2021年12月27日月曜日

鎌倉散歩 鎌倉宮まえの河津桜満開 荏柄天神社の南天 妙本寺の最後の紅葉 2021-12-27  

 12月27日(月)、はれ

今日は朝から松飾を取り付けた。いよいよお正月だね。昔は「早く来い来い」だったけどね。

多分、今年最後の鎌倉散歩かな。鎌倉駅~鎌倉宮~荏柄天神~妙本寺~大巧寺~鎌倉駅を歩いた。途中の道草もあったので、今日の総歩数は1万5千歩。今日で、年間372万歩。

▼鎌倉宮まえの河津桜、もう殆ど満開状態。蕾もまだあるけど、開いた花は既にダメージが見える。昨年は、サクジローが来てくれたのに、今年はそれがゼロ。もう蜜、食べ尽くしたのかな。




▼荏柄天神社の南天

▼妙本寺の、これこそ最後の紅葉



片山さつき氏側が敗訴 文春の口利き報道は「真実相当性ある」と判決(朝日) / 片山議員の疑惑巡り文芸春秋勝訴 「重要な部分で真実相当」(東京) / 片山さつき議員敗訴 文春「口利き」報道めぐり―東京地裁(時事);「大浜裁判長は、文春報道について「公共の利害に関する事実に関わり、公益目的にあった」と認定。記事の重要部分について「真実と信じる相当の理由があり、意見や論評の域を逸脱したとも言えない」と判断」 / 「片山議員の東京事務所は27日、「本人と連絡が取れず、事務所としての正式な回答も難しい」と説明」(時事)  ← 要するに「やぶへび」だということですか? 裁判所が黒と判定した。じゃ検察は? 「斡旋利得処罰法違反」では?           

 



 

2021年12月26日日曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー4) 1945(昭20)19歳 「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」(「はたちが敗戦」)      

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー4)


1945(昭20)19歳

この年から、医学系の女子の専門学校にも動員がかかる。

この年の夏、茨木は世田谷区上馬にあった海軍療品廠、海軍のための薬品製造工場に泊り込みで詰めていて、「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」とある。

東京の空は日夜、爆撃機B29が来襲した。空襲警報が鳴り、防空頭巾をかぶって防空壕に入る日々 -。


昭和二十年、春の空襲で、学生寮、附属病院、それと学校の一部が焼失し、毛布を切って自分で作ったリュックサックに身のまわりのものをつめて、ほうほうのていで辿りついた郷里は、東海大地震で幅一メートルくらいの亀裂が地面を稲妻型に走っており怖しい光景だった。激震で人も大勢死んだが、戦時中のことで何一つ報道されてはいなかった。

医師も軍医として召集され、無医村になったところがあちこちに出来、父は吉良町の町議会から懇望されて、既にその町で開業していた、が、まるで野戦病院の観を呈していた。繃帯、ガーゼの類もなくなり、オシメ、古浴衣の袖ありとあらゆるポロ布を消毒して傷口に当てていた。治療してもらう患者は、ポロ布持参であり、家では一日中、煉炭でグツグツ消毒煮であった。

なにもかもが、しっちゃかめっちゃかの中、学校から動員令がきた。東京、世田谷区にあった海軍療品廠という、海軍のための薬品製造工場への動員だった。

「こういう非常時だ、お互い、どこで死んでも仕方がないと思え」という父の言に送られて、夜行で発つべく郷里の駅頭に立ったとき、天空輝くばかりの星空で、とりわけ蠍座がぎらぎらと見事だった。当時私の唯一の楽しみは星をみることで、それだけが残されたたった一つの美しいものだった。だからリュックの中にも星座早見表だけは入れることを忘れなかった。

東京の疲労は一段と深くなっていて、大半は疎開したのだろう、残っている人達は、蒼黒く、或いは黄ばんだ顔で、のろのろと動いていた。輸送機能も麻痺したらしく、布団を送った学生の集結地から世田谷区上馬の動員先まで一人一人が布団をかついでいけということになった。重くかさばる布団袋を地面をひきずり、国電にひきずりこみ、やっとの思いで運んだ。現在国立第二病院になっているところで、自由ケ丘のあたりを通るとき、そのときの蟻のようだった私たちの姿が幻覚されることがある。

七月初から八月十五日迄、短い期間だったが暑いまっさかり、ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった。八月十三日の夜、宿舎で出た魚が腐敗したものだったらしく、そこに配属されていた学生十人ばかりが全員吐いたり下したりで苦しんだ。

八月十五日はふうふうして出たが、からだがまいって、重大放送と言われてもピンとこなかった。大きな工場で働いていた全員が集まり、前列から号泣が湧きあがったが、何一つ聴きとれずポカンとしていた。自分たちの詰所に戻ってから、同級生の一人が「もっともっと戦えばいいのに!」と呟くと、直接の上司だった海軍軍曹が顔面神経痛をきわだたせ、「ばかもの!何を言うか! 天皇陛下の御命令だ」それから確信を持って、きっぱりとこう言ったのだ。「いまに見てろ! 十年もたったら元通りになる!」

(「はたちが敗戦」)



敗戦放送の翌日、友人と二人で郷里に向かう。東海道線は大混乱で、蒲郡までたどりついたが、無賃乗車であった。

東海道線で小田原を過ぎて熱海の手前、根府川という小さな駅がある。詩「根府川の海」の一連はこうである。

《ほっそりと

蒼く

国をだきしめて

眉をあげていた

莱ツパ服時代の小さいあたしを

根府川の海よ

忘れはしないだろう?》

根府川の海 茨木のり子 (『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)


郷里の吉良は、東京の激動と混乱が嘘のようにのんびりとしていた。

秋になって、再び上京。

大森の軍需工場の跡地が学校の仮の寮となっていた。


敗戦後、さまざまな価値がでんぐりかえって、そこから派生する現象をみるにつけ、私の内部には、表現を求めてやまないものがあった。

学校の再開もおぼつかなかったし、家の仕事を手伝いながら、いろいろ思いめぐらしているところへ秋頃、突然学校から文書が届き、「試験をやるにつき出てくるように。この試験を受けたものは、ともかく四年生に進級させる」というようなこと、が書かれていた。試験をするも何も、授業も勉強もしておらず、そんな具合でただただ四年生になるのかと渋ったが、父は「行ってこい」の一点張りで、「薬学への道を決めたのは私だが、お前もそれを肯い志を立てた以上、途中放棄はいけない。ともかく薬剤師の免許を取れ。それさえも出来ないようなら、これからやりたいという文学の道だって貫くことは出来なかろう」と理路整然と説かれ、それもそうかと説得されてしまい上京した。

焼けた学生寮に代り、今度は大森の、かつての軍需工場の寮が宿舎になった。東京の荒廃はすさまじく、防空壕を仮すまいとし虫のように出たり入ったりする人々の営みが、あちらにもこちらにも点々と連なっていた。銀座も瓦礫の山で、場所によっては一望千里の趣があった。アメリカ兵、復員兵が盗れ、闇市に食を求める人々が犇めき、有楽町、新橋駅のガード下あたり毒茸のようにけばけばしいパンパンが足をぼりぼり掻きながら群れていた。

同級生の中には進駐軍を恐れ、娘の操を守るべく、はやばやと丸坊主になってしまった人もいて、しばらくの闇頭巾をかぶって登校していた。

(「はたちが敗戦」)


《参考資料》

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)

後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)

金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)

成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)

芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)

中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)

高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)

小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)

蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)

『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)


『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考

長谷川宏「茨木のり子の詩」

若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」

姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」

河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか

 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」

野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」

細見和之「茨木のり子の全人性」


《茨木のり子の作品》

大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)

茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)

茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)

茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)

茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)

茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)

谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)

高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)


茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2021-12-26)



防衛省職員、決裁済み文書に追記 公文書偽造の疑い(朝日); 隠蔽・改ざんは今やこの国の文化。国交省による統計偽装も隠蔽されていたし、大企業でも目立ってきている。上が腐れば全部腐る。自民党長期政権の「成果」。政権交代なき国では腐敗は不可避。国の「良識」が問われている。 — 小沢一郎(事務所)



 

世界の超富裕層1%、4割を独占 コロナ影響、格差拡大に拍車(共同);「世界上位1%の超富裕層の資産が今年、世界全体の個人資産の37.8%を占めたことが、経済学者ら100人超による国際研究で分かった。下位50%の資産は全体のわずか2%だった。・・・特に最上位の2750人だけで3.5%に当たる13兆ドル(約1490兆円)超を占め、富の集中は鮮明。」   

 


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根府川の海 茨木のり子 (『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)


根府川の海           茨木のり子


根府川

東海道の小駅

赤いカンナの咲いている駅


たっぷり栄養のある

大きな花の向うに

いつもまつさおな海がひろがつていた


中尉との恋の話をきかされながら

友と二人ここを通ったことがあった


あふれるような青春を

リュックにつめこみ

動員令をポケットに

ゆられていつたこともある


燃えさかる東京をあとに

ネーブルの花の白かつたふるさとへ

たどりつくときも

あなたは在った


丈高いカンナの花よ

おだやかな相模の海よ


沖に光る波のひとひら

ああそんなかがやきに似た

十代の歳月

風船のように消えた

無知で純粋で徒労だった歳月

うしなわれたたった一つの海賊箱


ほっそりと

蒼く

国をだきしめて

眉をあげていた

菜ツパ服時代の小さいあたしを

根府川の海よ

忘れはしないだろう?


女の年輪をましながら

ふたたび私は通過する

あれから八年

ひたすらに不敵なこころを育て


海よ


あなたのように

あらぬ方を眺めながら…‥。


(『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)


翌昭和二十八年になって、一月十五日、詩学社の木原孝一氏から速達が届き、二月号の新人特集に載せたいから、四〇行位の詩を至急送るようにという依頼だった。

毎年二月号は、新人特集号で、投稿者のなかからと、同人雑誌で、いい仕事を果した人達が選ばれて、本欄に掲載される権利を獲得するのである。

うれしかった。詩学研究会という道場には忍者スタイルで、二年半近く通ったことになる。

たまたまその日は、成人の日で休日。夫と一緒に新宿へ映画「真空地帯」を観にゆくことになっていたが、一寸待ってもらって、原稿用紙に向い、十分位で、ちゃらちゃらと書いたのが「根府川の海」である。既に私の心のなかに出来上っていたとも言えるが、今ではもう、あんなふうに気楽には書けなくなってしまっている。

投函しがてら、新宿へ出て、予定通り「真空地帯」をみた。あの時の木村功は絶品だった。強烈な映画の印象にふらふらになって、濃い珈琲で人心地をつけ、紀伊国屋書店で前からほしかった金子光晴の詩集『人間の悲劇』を買って帰った。

しばらくの間、ラスト・シーンで木村功のうたった「色でかためた遊女でも、また格別のこともあるウ…」のうたが頭から離れなかった。

私の住む所沢町にも、戦後の遊女であるところの、ぱんぱんがひしめいていて、女湯では、いやでも彼女らと肌ふれあい、「ゆんべ、仙子のやつ殴られて(GIに)顔がどぶくれたってよウ」「へン、みものだったべな」などという関東訛の会話をしょちゅう聞かされていたし、すさまじい刺青にも、ぎょっとさせられた。敗戦後の実態を、日夜肌身に感じさせられた環境から、戦後の詩というものを望見すると、言い知れぬじれったさに駆られた。

この町に六年あまり住んでのち、この町を離れると、日本にアメリカ軍基地が沢山あることを、毎日の意識としては、そう感じなくなってきたのだった。おそらく沖縄の人たちが現在、本土に対して持つだろう、じれったさや感覚の落差を、私なりに想像してみることがある。

昭和二十八年、詩学の新人特集号(二月号)には、川崎洋、牟礼慶子、舟岡遊治郎、吉野弘、花崎皐平、といった名前が並んでいた。

(「「櫂」小史」)




2021年12月24日金曜日

鎌倉散歩 妙本寺(鮮やかに光彩を放つ名残りの紅葉、満開の蝋梅、紅梅・椿の咲き始め) 大巧寺の椿(氷室雪月花)とマンリョウ 2021-12-24

 12月24日(金)、はれ

今日は鎌倉の妙本寺など駅周辺の近場を散歩。総歩数は1万3千歩。

妙本寺では名残りの紅葉がまだ鮮やかに光彩を放っている一方で、蝋梅(ソシン蝋梅)は満開、ポツリポツリと早めの紅梅や椿が咲き始めている。









▼大巧寺の椿(氷室雪月花)とマンリョウ



大阪市(松井一郎市長)、アベノマスク受け入れ。和泉洋人さんを特別顧問に受け入れ。 → 和泉さんは所謂「コネクティング」で有名だけど、松井さんもあの安倍さんと随分コネクティングかな?   

 

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー3) 1942(昭17)16歳~1943(昭18)17歳 「そのために声帯が割れ、ふだんの声はおそるべきダミ声になって、音楽の先生から「あなたはあの号令で、すっかり声を駄目にしましたね」と憐憫とも軽蔑ともつかぬ表情で言われた。いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う。」(「はたちが敗戦」)       

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー3)

1942(昭17)16歳

この年の秋、いまの名鉄西尾線・吉良吉田駅前(愛知県幡豆郡吉良町吉田)に、父、宮崎洪が宮崎医院を開く。

この頃、吉良は無医村状態で、町議会が隣町・西尾の山尾病院副院長の職にあった宮崎に懇願し、医院開設となった。

三河湾に画した吉良町に転居。


・・・・・戦時期の茨木は、自ら後年に綴った文章によれば、「いっぱしの軍国少女になりおおせていだと思う」としている(「はたちが敗戦」堀場編一九七八)。

通っていた高等女学校は全国に先駆けて校服をモンぺとした学校であり、「良妻賢母教育と、軍国主義教育とを一身に浴びていた」。また、三年生のとき、「分列行進の訓練」で「中隊長」として選ばれ「号令と指揮」を取ることになり、「全校四百人を一糸乱れず動かせた」(同前)。

小旗をふって「出征兵士」を見送り、食料増産のために農家へ出張する「勤労奉仕」も多く、「勉学というものには程遠く、戦争にばかり気をとられ、ウワウワとした落ちつきのない四年間」であり、その後、専門学校に進学してからも、戦死した山本五十六の「国葬」に参列し(一九四三年)、薬品工場への動員も経験している。

また、敗戦後に「化学の世界」から「文学の世界」へと「私個人もまた、一八〇度転換を遂げたかった」と記すとともに、敗戦後の光景を「アメリカ兵、復員兵が溢れ、闇市に食を求める人々が犇(ひし)めき、有楽町、新橋駅のガード下あたり毒茸のようにけばけばしいパンパンが足をぼりぼり掻きながら群れていた」と描写した。同級生には「進駐軍を恐れ」「娘の操を守るべく」丸坊主になってしまうものもいたことを、書きとめている(同前)。(成田龍一)


太平洋戦争に突入したとき、私は女学校の三年生になっていた。全国にさきがけで校服をモンぺに改めた学校で、良妻賢母教育と、軍国主義教育とを一身に浴びていた。

退役将校が教官となって分列行進の訓練があり、どうしたわけか全校の中から私が中隊長に選ばれて、号令と指揮をとらされたのだが、霜柱の立った大根畑に向って、号令の特訓を何度受けたことか。


かしらァ・・・・・右イ

かしらア・・・・・左イ

分列に前へ進め!

左に向きをかえて 進め!

大隊長殿に敬礼! 直れ!


私の馬鹿声は凛凛とひびくようになり、つんざくような裂帛(れっぱく)の気合が籠るようになった。そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。

そのために声帯が割れ、ふだんの声はおそるべきダミ声になって、音楽の先生から「あなたはあの号令で、すっかり声を駄目にしましたね」と憐憫とも軽蔑ともつかぬ表情で言われた。いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う。声への劣等感はその後長く続くことになるのだが。

女学校の隣が駅だったため、私たちはしょっちゅう列を組んで小旗をふり、出征兵士を見送るのも学校行事の一つだったし、増産のため農家へ出張する勤労奉仕も多く、稲刈、麦刈、田植、兎狩り、蝗狩り、もっこかつぎ、なんでもやった。今でも鍬のふるいかたなど「奥さんの実家は農家ですか?」と言われるほどうまい。

勉学というものには程遠く、戦争にばかり気をとられ、ワウワウとした落ちつきのない四年間だった。・・・・・

(「はたちが敗戦」)


1943(昭18)17歳

「女も資格を身につけて一人で生き抜く力を持たねばならぬ」という開明的な父の方針により、東京・蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学。

父の敷いたレールに乗って薬学を学びはじめた茨木であるが、まるで向いていない世界であった。

勤労動員と空襲がはじまり、学校での勉学は有名無実となっていく。

6月、山本五十六元帥の国葬に一年生全員参加。

父は私を薬学専門学校へ進めるつもりで、私が頼んだわけではなく、なぜか幼い頃からそのように私の進路は決っていた。父には今で言う「女の自立!」という考えがはっきりと在ったのである。女の幸せが男次第で決ること、依存していた男性との離別、死別で、女性が見るも哀れな境遇に陥ってしまうこと、それらを不甲斐ないとする考えがあって、「女もまた特殊な資格をを身につけて、一人でも生き抜いてゆけるだけの力を持たねばならぬ」という持論を折にふれて聞かされてきた。・・・・・

明治生れの当時の男性としては、すばぬけて開明的であったと思うが、そうなった原因を探ってみると、二つのことに思い至る。一つは父の長姉が若くして未亡人となり、それから苦心惨憺、検定試験を受けて女学校の先生となった辛苦のさまを末っ子の父がつぶさに見聞しただろうこと。長姉が不幸のトップを切ったために次姉たち二人は発奮して、二人ともお茶の水女高師を出ている。教育県として知られる長野県人であったとしても、祖父もまた男女の区別をつけない人であったらしい。

もう一つは若い時、父はドイツへ留学して医学を学んだ経験があり、それが日本女性とヨーロッパ女性とを常に比駿検討させたか? と思う。日本では結婚しない女は半端もの扱いだが、ヨーロッパでは一生独身でシャンと生きてゆく女が一杯居るというふうなこともよく聞かされたし、ドイツ語の先生として、かつて父が選んだ女史もそういう人だったそうで、女らしい反面「○○月謝を持ってきたか」などとはっきり言える人でもあり、いずれにしても日本の女は経済的にも心情的にもあまりにも男性依存度が高すぎるということだった。

娘を育てるについても、質実剛健、科学万般に強く、うなじをあげ胸を張って闊歩する化粧気すらないドイツ女性が理想のイメージとしてあったらしい。

というわけで、東京の浦田にあったその名も帝国女子医学・薬学・理学専門学校の薬学部に入学した。現在の東邦大学薬学部に当る。当時は推薦入学制度というのがあって、女学校の成績と家庭環境が良ければ、無試験で何パーセントかは採るという、のんびりしたところがあった。担任の先生が推薦状に名文を草して下さったらしいお蔭で、女学校卒業前に決定した。そして私ときたら白衣を着て実験などすることに憧れているばかりだった。

昭和十八年、戦況のはなはだがんばしからぬことになった年に入学して、間もなく戦死した山本五十六元帥の国葬に列している。その頃から誰の目にも雲行怪しくなってきて、学生寮の食事も日に日に乏しく、食べざかりの私たちはどうしようもなくお腹が空いて、あそこの大衆食堂が今日は開いていると聞くと誘いあわせて走り、延々の列に並び京浜工業地帯の工員たちと先を争って食べた。「娘十八番茶も出花」という頃、われひとともに娘にあるまじきあられもなさだった。食べものに関する浅ましさもさまざま経験したが、今、改めて書く元気もない。

それでも入学して一年半くらいは勉強出来て、ドイツ語など一心にやったが、化学そのものはちんぷんかんぷんで、無機化学、有機化学など私の頭はてんで受けつけられない構造になっていることがわかって、「しまった!」と臍かむ思いだった。教室に坐ってはいても、私の魂はそこに居らず、さまよい出でて外のことを考えでいるのだった。全国から集った同級生には優秀な人が多く、戦時中とは言っても高度な女学校教育を受けていた人達もいて、落差が烈しく、ついてゆけないというのは辛いことで、私は次第に今でいう〈落ちこぼれ〉的心情に陥っていった。

(「はたちが敗戦」)


新刊本が少なかったこの時期、『万葉集』(武田祐吉編)を買い求め、熟読する。


茨木 ・・・、私の少女時代には、それこそ新刊本は無くて、読むものは古典くらいしかない。だから万葉集なんてよく読みましたよ、くりかえし。

大岡 ああ、そうですか、やっぱりね。

茨木 十代の後期 - 十七歳位の時。

戦争中だったから「み民(たみ)あれ生ける験(しるし)あり」とか、「醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは」などがもてはやされたわけですね。私はむしろ、若いから恋歌とか東歌に夢中になっていましたけど、ただ、学校で万葉集なんて習った覚えはないんですよね。教科書には古今集の十首くらい。万葉集は入っていなかったんです。

大岡 へ-え、それはユニークな教科書だったんだね。

茨木 それでね、私は自分で買って読んだ。武田祐吉編の、ザラ紙で印刷も悪いすさまじい製本のですが未だに愛着があって捨てられないんです。それを持ってお嫁に来て、まだあるけれど。

大岡 それも一人で発見したということですね。恋歌といえば、巻の一に出てくる額田王あたりから始めるということになりますね。

(大岡信対談)


《参考資料》

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)

後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)

金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)

成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)

芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)

中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)

高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)

小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)

蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)

『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)


『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考

長谷川宏「茨木のり子の詩」

若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」

姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」

河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか

 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」

野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」

細見和之「茨木のり子の全人性」


《茨木のり子の作品》

大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)

茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)

茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)

茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)

茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)

茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)

谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)

高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)


茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2021-12-23)





2021年12月23日木曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー2) 1928(昭3)2歳~1941(昭16)15歳 金素雲『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を少女時代に愛読していたこと

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー2)


1928(昭3)2歳

弟英一生れる。家庭内では母がしゃべる庄内弁をたっぷり浴びて育つ。


1931(昭6)5歳

父の転勤により京都に転居。京都下総幼稚園に入園。


1932(昭7)6歳

愛知県西尾市に転居。


1933(昭8)7歳

愛知県西尾小学校入学。母の影響で宝塚に夢中となる。

茨木 ・・・子供時代には宝塚ファンで、よく見ました。亡くなった母が好きでしたから。私も夢中になって。舞台の魔力はまず宝塚から。・・・

(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)


1937(昭12)11歳

母・勝が結核で没。のり子は小学校5年生。

「このごろは戦争戦争でいつぱいだ どこへいつても戦争だ 兵隊はどんどんゆく まつたく涙ぐましい次第である」

(昭和12年9月2日の日記) (別冊太陽)


「戦争が始ったんだって。いやだねえ。」

「ふうン、どこと?」

「支那とだが。」

校庭でドッジボールをしなから始業前のひととき三河弁でそんな会話がボールとともに飛びかっなのは、私の小学校五年生のときで、のちに日支事変と呼ばれるものだった。

子供ごころにも何やら暗雲のかげさして、いったいどうなるのだろうと不安になったのだが、それから太平洋戦争に突入して八年後には敗戦となる運命は知るよしもなかった。

(「はたちが敗戦」)


1939(昭14)13歳

愛知県立西尾女学校入学。「活字の虫」のような本好きで、夏目漱石、森鴎外、中勘助、佐藤春夫、吉川英治、林芙美子、吉屋信子、横光利一などを手当たり次第に読む。

この年、第二の母のぶ子を迎える。


1941(昭16)15歳

太平洋戦争勃発。

全国で最初に校服をモンぺに改めた学校で良妻賢母教育と軍国主義教育とを一身に浴びる。


先日、知人と話していて、私が、金素雲氏の『朝鮮民謡選』(岩波文庫)を、少女時代に愛読していたことに話が及び、

「じゃ、ずっと昔からじゃないですか」

と言われ、そう言われれば関心の芽は十五歳くらいからか・・・・・と改めて振りかえる思いだった。


麻の上衣(チョゴリ)の

中襟(なかえり)あたり

硯滴(みずさし)のよな

あの乳房、


莨種(たばこだね)ほど

ちらりと見やれ

たんと見たらば

身が持たぬ

  *

なんとしましょぞ

梨むいて出せば

梨は取らいで

手をにざる

  *

姑 死ぬよに

願かけしたに

里のおふくろ

死んだそな


いま読んでも、うっとりさせられるが、少女時代にもそれなりに隣国の民謡の神髄に触れ得ていたと思う。くりかえし読んだのは、言葉のわかりやすさ、素朴さ、愛情表現の機智に惹かれたのかもしれない。

一九三三(昭和八)年刊のこの本は、当時から名訳のほまれ高いものだったが、改めて読み直してみて、婦女謡 - 女たちの嫁ぐらしの辛さをうたったものに面白いものが多いのを新たに発見したし、また金素雲(キムソウン)氏の秘められた抵抗精神を受けとらざるを得なかった。

ほぼ四十年を経て、彼の蒔いた種子が、ひょっこり私の中で芽を出したと言えなくもない。・・・・・」

(『ハングルへの旅』)


のちに、金素雲の孫でシンガーソングライターの沢知恵が詩人の長編詩「りゅうりぇんれんの物語」を弾き語るというエピソードが生まれる(後述)


《参考資料》

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)

後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)

金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)

成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)

芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)

中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)

高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)

小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)

蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)

『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)


『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考

長谷川宏「茨木のり子の詩」

若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」

姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」

河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか

 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」

野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」

細見和之「茨木のり子の全人性」


《茨木のり子の作品》

大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)

茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)

茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)

茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)

茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)

茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)

谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)

高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)


茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2021-12-23)



2021-12-22吉村知事会見(目付きが悪くなっている) ; 大阪府知事、日本維新の会副代表、大阪維新の会代表なのに、「知りません」、「タッチしてません」と逃げ回る ①日本維新の会の鈴木宗男副会長の公職選挙法違反の北海道での寄附が公にされる。吉村知事は話を聞いていないと逃げる ②政党助成金の基金については、その会計にタッチしていないと逃げる などなど / 2021年12月23日松井市長会見 フランス10の及川さん 「組織維持なら、国会議員報酬も削減する必要ないと思いますけど、なんで政党助成金だけは削減出来ないんですか? 少しでも返したらいいんじゃないですか?15億も去年余ってるんですよ。」    

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灯   茨木のり子(「アムネスティ人権報告」1993年12月 67歳)

 


灯         茨木のり子


人の身の上に起ることは

我が身にも起りうること


よその国に吹き荒れる嵐は

この国にも吹き荒れるかもしれないもの


けれど想像力はちっぽけなので

なかなか遠くまで羽ばたいてはゆけない


みんなとは違う考えを持っている

ただそれだけのことで拘束され


誰にも知られず誰にも見えないところで

問答無用に倒されてゆくのはどんな思いだろう


もしも私が そんな目にあったとき

おそろしい暗黒と絶望のなかで


どこか遠くにかすかにまたたく灯が見えたら

それが少しづつ近づいてくるように見えたら


どんなにうれしくみつめるだろう

たとえそれが小さな小さな灯であっても


よしんば

目をつむってしまったあとであっても


(「アムネスティ人権報告」1993年12月 詩人67歳)

コロナ抗原検査、感染後2日間の精度低く 専門家が警鐘(日経) / 尾身会長「複数スポットで既に感染が始まっていると言える。その根拠のひとつは、空港検疫での見逃しが不可避ってことがあり、なぜかというと、PCR検査も抗原検査も感度が70%だから」←ずっと一貫してズレてる  

遠山清彦元副大臣、謝礼1000万円超を受領 銀座クラブの支払いに(東京) / 太田元衆院議員の元秘書も在宅起訴へ 遠山氏は複数ブローカー介在(産経) / 遠山元財務副大臣 貸金業法違反の罪で在宅起訴か 東京地検(NHK)  

招致時予算は7340億円。2倍に膨らんでるのに! → 東京五輪・パラ 開催経費は1兆4530億円 予算を下回る見通し(NHK) / 東京五輪・パラの開催経費は招致時から倍増 1兆4530億円に(東京)   

 

2021年12月22日水曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー1) 1926(大正15)年6月12日 1歳

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー1)

1926(大正15)年6月12日

宮崎洪(ひろし)と勝の長女として、父の赴任地の大阪(回生病院)で生れる。

父はスイス留学の経験もある長野県出身の医師、母は山形県庄内出身。

茨木のり子はペンネーム。本名は三浦のり子(独身時代は宮崎のり子)。


父・宮崎洪;

宮崎は信州・長野の出身で、生家は善光寺門前で味噌・醤油を商っていた。

1920(大正9)年、金沢医学専門学校(後の金沢大学医学部)を卒業、病院勤務を経て、スイス・ベルン大学に留学、「ドクトルメヂチーネ」(医学博士)となる。

帰国後、済世会大阪病院耳鼻咽喉科医長となり、大阪在住時に長女のり子が誕生。

その後、京都帝国大学医学部解剖学教室専修科生、医学部副手などを経て、1932(昭和7)年、西尾に、さらに吉良に居を構える。

1942(昭和17)年、吉良吉田駅前に宮崎医院を開く。

宮崎医院は現在三代目(二代目はのり子の弟・英一、三代目は英一の長男で、のり子の甥の宮崎仁)が継いでいる。

のり子の夫も医師で、夫、父、弟、甥と、彼女の周辺は医師たちの家系が続いている。

もう一人の甥、英一の次男・宮崎治も国立成育医療研究センターの勤務医。


「茨木 ・・・父は長野県人。末っ子で後を継がなくてもよかったものですから、金沢医大を卒業してドイツへ留学して、戻って来て就職するについて愛知県に来たんです。

・・・

茨木 初めは大きな病院の副院長をしてまして、途中で戦争中無医村みたいなところがたくさんできまして、町議会で医師を招く運動があって、それで吉良吉田というところへ行ったわけです。

大岡 ああ、吉良上野介のね。

茨木 そこで開業したんです。

大岡 その時初めて開業されたんですか。

茨木 ええ、私が女学校を卒業するくらいに開業したんです。おそいんですよ、とても。それまでは勤務医でした。私は物心ついたら愛知県で育っていた、ということですね。京都で研究生活したときもあって京都でも暮らしましたし、幼稚園のとき愛知県へまいりました。・・・」

(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)


茨木のり子(39歳)第三詩集『鎮魂歌』(思潮社1965年)収録の長編詩「花の名」は、この2年前に亡くなった父・宮崎洪の追悼詩。

告別式の帰り道での追想と、列車に乗り合わせた「登山帽の男」との会話が交互に登場する。出だしはユーモラスである。


「花の名」


(略)


女のひとが花の名前を沢山知っているのなんか

とてもいいものだよ

父の古い言葉がゆっくりよぎる

物心ついてからどれほど怖れてきただろう

死別の日を

歳月はあなたとの別れの準備のために

おおかた費やされてきたように思われる

いい男だったわ お父さん

娘が捧げる一輪の花

生きている時言いたくて

言えなかった言葉です

棺のまわりに誰も居なくなったとき

私はそっと近づいて父の顔に頬をよせた

氷ともちがう陶器ともちがう

ふしぎなつめたさ

菜の花畑のまんなかの火葬場から

ビスケットを焼くような黒い煙がひとすじ昇る

ふるさとの海べの町はへんに明るく

すべてを童話に見せてしまう

鱶に足を喰いちぎられたとか

農機具に手をまき込まれたとか

耳に虻が入って泣きわめくちび 交通事故

自殺未遂 腸捻転 破傷風 麻薬泥棒

田舎の外科医だったあなたは

他人に襲いかかる死神を力まかせにぐいぐい

のけぞらせ つきとばす

昼もなく夜もない精悍な獅子でした

まったく突然の

少しの苦しみもない安らかな死は

だから何者からかの御褒美ではなかったかしら

(略)

父の葬儀に鳥や獣はこなかったけれど

花びら散りかかる小型の涅槃図

白痴のすーやんがやってきて廻らぬ舌で

かきくどく

誰も相手にしないすーやんを

父はやさしく診てあげた

私の頬をしたたか濡らす熱い塩化ナトリウムのしたたり

農夫 下駄屋 おもちゃ屋 八百屋

漁師 うどんや 瓦屋 小使い

好きだった名もないひとびとに囲まれて

ひとすじの煙となった野辺のおくり

棺を覆うて始めてわかる

味噌くさくはなかったから上味噌であった仏教徒

吉良町のチエホフよ

さようなら

(略)



母・大滝勝;

1905(明治38)年、山形県東田川郡三川(みかわ)町の庄内平野有数の大地主の家に七人兄弟姉妹の次女として生まれる。

当主は、江戸・天保年間には江戸城西丸普請に冥加金を献上したと三川町史に記載されている。

戦後の農地改革によって豪農の世は終わるが、イギリス人研究者ロナルド・ドーアは大滝家に滞在し『日本の農地改革』(岩波書店、1965)という書物を書き残している。

勝は、明治の終わりから大正はじめにかけて小学校や女学校に通っている。女学校は鶴岡にある鶴岡高等女学校(現県立鶴岡北高校)。


母のくに

鶴岡市内から北へ車で十数分、地名でいうと山形県東田川部三川(みかわ)町東沼。広い敷地に、堂々たる家屋の農家が立っている。代々、当主は大瀧三郎右衛門を名乗って、戦前は庄内平野有数の地主だった。茨木の母、大瀧勝の実家である。

茨木十一歳、小学校五年生の日、勝は結核で亡くなる。後年、茨木は「母の家」と題する詩を書いている。

《雪ふれば憶う

母の家

たる木 むな木 堂々と

雪に耐えぬいてきた古い家(中略)

母はみの着て小学校へ通った

櫛はわらじをはいて二里の道を女学校へ通った

それがたった一つ前の世代であったとは!》

エッセイ「東北弁」では、「家のなかで奔放に庄内弁をしゃべりまくる母は天馬空を行くがごとしであった」のが、標準語を使うときはしおらしく、別人のように見えたとある。

《私が言葉というものになにほどか意識的になり、後年詩などを書いて踏み迷う仕儀に至るのも、遠因は母が二刀流のように使う二つの言葉のおもしろさに端を発していたのかもしれない》

とも記している。

母が故人となって以降も、茨木はよく山形に帰郷した。「沼のばばさま」こと祖母の大瀧光代が孫娘の茨木を可愛がった。後年、茨木の伴侶となる三浦安信も庄内の人であるが、彼との見合いをすすめたのもばばさまである。

(後藤『評伝』)


《参考資料》

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)

後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)

金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)

成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)

芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)

中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)

高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)

小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)

蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)

『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)


『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考

長谷川宏「茨木のり子の詩」

若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」

姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」

河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか

 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」

野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」

細見和之「茨木のり子の全人性」


《茨木のり子著作》

大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)

茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)

茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)

茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)

茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)

茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)

谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)

高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)


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