2023年5月31日水曜日

吉永小百合「週刊朝日」の休刊に寂しさ 「トップが悪いんじゃないですか」(AERA.d);「日本だけでなく地球全体がめちゃくちゃな方向に進んでいる。そういう時代になってきたと思います。だからこそ、きちっと正面から題材に取り組んで書く雑誌には、頑張ってほしいと思っていました。  そんなときに休刊の発表です。発言の場がなくなっていく寂しさを感じます。トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて。」      

〈藤原定家の時代377〉建仁3(1203)年5月19日~29日 頼朝の異母弟の阿野全成(51)、謀反の疑いで捕らえられる 常陸に配流 下野で殺害 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(5/20~24) 太白(金星)が昼見えたとの記録(「明月記」)    

 


〈藤原定家の時代376〉建仁3(1203)年4月1日~5月18日 定家、「新古今」の撰歌作業を終える 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(5/10~14) 水無瀬殿当座六首歌会 より続く

建仁3(1203)年

5月19日

・源頼朝の異母弟の阿野全成(51)、謀反の疑いで捕らえられる。

源義朝の7男、頼朝の弟、義経の兄、幼名を今若丸。源頼朝挙兵、その下に加わり活躍、その功績により駿河国(静岡県)阿野庄を与えらる。鎌倉幕府成立後も頼朝の下で働くが、頼朝没後、北条氏と対立。

頼家は、全成の妻阿波局(時政の娘、政子の妹、実朝の乳母)も逮捕しようとするが、政子の頑強な拒絶により果たせず。

25日、頼家により常陸に配流。

6月23日、下野で殺害。

阿野全成の長男は時元(隆元)は、源実朝の暗殺後、阿野庄で挙兵。失敗して時元は自殺、阿野庄を失う。

頼家排斥を目指す北条氏の策謀に対する頼家の先制攻撃。

「子の刻、阿野法橋全成(幕下将軍御舎弟)謀叛の聞こえ有るに依って、御所中に召し籠めらる。武田の五郎信光これを生虜る。即ち宇都宮四郎兵衛の尉に預けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

20日「将軍家比企の四郎を以て尼御台所に申されて云く、法橋全成叛逆を企てるに依って生虜る所なり。彼の妾阿波の局殿内に官仕するか。早く召し給え。子細を尋ね問うべきこと有りと。然る如き事、女性に知らしむべからざるか。随って全成去る二月比駿州に下向するの後、音信を通ぜず。更に疑う所無きの由御返事を申され、これを出し進せられずと。」。(「吾妻鏡」同日条)。

25日「申の刻、阿野法橋全成常陸の国に配す。」。(「吾妻鏡」同日条)。

6月23日「八田知家仰せを奉り、下野の国に於いて阿野法橋全成を誅す。」。(「吾妻鏡」同日条)。

7月25日「相模権の守の使者京都より到着す。申して云く、去る十六日在京の御家人等を催し遣わし、東山延年寺に於いて播磨公頼全(全成法橋息)を窺い、これを誅戮せしむと。」。(「吾妻鏡」同日条)。

5月20日

定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~24日

5月21日

・巳の時に参上。出でおわしまして後退出す。片野に出でおわします。人々競いて参ず。申の時、京を出づ。大渡りの辺りにて大雨。秉燭以後、冷泉に帰る。(『明月記』)

5月22日

・日出づる後、騎馬して京を出づ。巳の時、宿所に入る。すなわち参上す。出でおわします。(『明月記』)

5月24日

・巳の時に参上す。午の時に出でおわします。遊女退下するの後に、退出す。船に乗り、京に帰る。鳥羽に於て日没。東の河原より宜秋門院に参ず。亥の時、冷泉に帰る。(『明月記』)

5月25日

・今日、後鳥羽院、還りおわします。出で行かず。(『明月記』)

5月26日

・頼家、狩猟のために伊豆に向かう。(「吾妻鏡」)

5月26日

・定家、法勝寺八万四千基塔供養につき、百基を内裏に進上する。

良経より召しあり、巳の時に三条坊門に参じ、御供して、院に参ず。午終に神泉苑御幸。良経退出。女房参ぜざるにより、日﨟し陪膳。今日、塔百基、内裏に進む。宜秋門院には、五十基。夕に退下。(『明月記』)

5月27日

・法勝寺に於て、八万四千基の塔供養。御幸供奉の良経に、御供す。(『明月記』)

5月28日

・院に参ず。神泉苑に御幸。出でおわします後に、退出す。良経の許に参じ、夕に退出。(『明月記』)

5月29日

・良経の許に参じ、御供して、院に参ず。御幸の後、未の時に御退出。日入るの程に退下す。

この三ヶ日、星昼見ゆ。これ、太白天を経るという。(『明月記』)。

太白(金星)が昼見えた記録。


つづく

日本維新の会の馬場伸幸代表 「常識の範囲を逸脱しているんであれば、やはり身内だからこそ、厳しい処分をすべきだと思いますけれども、写真を撮ったぐらいでは許容してあげてもいいんじゃないかなと」 → 「翔太郎氏が普通の人と感覚がずれていたということだ。広島の一軒一軒を必死に回って、普通の人がどういう感覚なのかを学んだ方がいい」       

 

維新の離党はインチキ、すぐに復党している → 維新府議が2年連続で収支報告提出せず 過去にも発覚し一時離党(産経);「橋本氏は現在4期目。...令和元年12月に発覚していた。責任を取る形で大阪維新の会を離党し、翌2年8月に復党した。」     

新しい戦前 → 「国益なくして人権もない」日本維新・鈴木宗男の発言に「国害」「引退してください」と批判殺到(女性自身) / 鈴木宗男(日本維新の会国会議員団副代表)議員「国益なくして人権なし!あなたの何十倍も政治家やってきてるから信念持って言っている」「人権といえば善というものではない」 (動画) あげく、街頭演説で斉藤大臣の批判をするな、と石橋議員に言い始める。   

 



 

またまた維新の議員 → 女性市議に「セーラー服着てしゃべれば“再生数伸びる”」 飯塚市の男性市議が発言 本人に謝罪(FNN) / 「セーラー服で動画なら再生回数増」 福岡・飯塚市議会の維新新人議員、女性議員指し発言(西日本新聞5/31);「福岡県飯塚市議会の委員会で30日、日本維新の会の藤間隆太市議(35)が傍聴席にいた金子加代市議(57)を名指しし、男女共同参画をPRするため、「ユーチューブでセーラー服を着てしゃべれば(再生回数が)3千~5千くらいいくんじゃないか」と発言した。識者はハラスメント(嫌がらせ)の恐れがあると指摘し、江口徹議長は藤間氏を厳重注意した。」

2023年5月30日火曜日

鎌倉 長谷寺の紫陽花 3分~4分咲き 2023-05-30

 5月30日(火)曇り(のち一時晴れ)

今週は、梅雨入りが近いことや台風の影響もあり、木曜日以外は雨模様の日が続くようだ。

今日は、午後は雨も止んで一時晴れ間もあるらしい予報だったので鎌倉に出かけた。駅前周辺を2時間ほど歩いて帰る積りで出たのだが、長谷寺まで足をのばした。といっても、足を使わず、往復共に江ノ電に頼ってしまった。

長谷寺の紫陽花、三分から四分くらいの咲き加減のようだった。曇り空なので、やや精彩に欠けるが、すごくキレイだった。

人は多いとはいえ、ウィークデイの曇り空という状況もあってか、人の写り込みを常に心配するという程でもなかった。


▼紫陽花「アラモード」























▼イワタバコ、そろそろ終盤

〈藤原定家の時代376〉建仁3(1203)年4月1日~5月18日 定家、「新古今」の撰歌作業を終える 定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕(5/10~14) 水無瀬殿当座六首歌会

 


〈藤原定家の時代375〉建仁3(1203)年3月1日~29日 定家、元服した子為家(6)を後鳥羽院に披露 「感悦の余り、落涙禁じ難し」 後鳥羽院の熊野御幸(5回目) 定家、良経より讃岐の一村と若槻庄を与えられる 定家、結石を患う より続く

建仁3(1203)年

4月1日

・日蝕終って後、甚雨、終日止まず。(『明月記』)

4月3日

・北条義時(41)、鶴岡宮祭に奉幣御使を務む

4月6日

「伊豫の国の御家人河野の四郎通信、幕下将軍御時より以降、殊に奉公の忠節を抽んずるの間、当国守護人佐々木三郎兵衛の尉盛綱法師の奉行に懸けず、別の勤厚を致すべし。兼ねてまた旧の如く国中の近親並びに郎従を相従うべきの由、御教書を給う。平民部の丞盛時これを奉行す。通信年来鎌倉に在るの処、適々身の暇を賜り、明旦帰国すべきの間、御前に召しこの御教書を給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月10日

・定家、酉時に煙を出す北野社旧木のことを聞き道真の「夕されば野にも山にも立つけぶり…」を想起する。

良経の許に参ず。御参内。直盧に於て、装束を改められる。平野祭のためである。宣命を奏す。良経退下。今夜直廬におわします。夕に退出す。この四ヶ日、北野旧木の中、酉の時ごとに煙出づ。人を以て実検さるべき由、宮寺申すと。出納を遣わさる。定めて、これ吉事にあらざるか。愚案す。

ゆふされば野にも山にもたつけぶり嘆きよりこそもえまきりけり(『明月記』)

4月11日

・定家、撰歌を20日以前に進上するよう命あり。この20日ばかり旧歌を見て日夜を過ごす。

早旦、後鳥羽院、熊野詣より還御の由を聞く。よって京極殿に参ず。巳の時許りに、入りおわします。近臣浄衣を着し、多く水無瀬殿供奉に参ずと。皇后宮大夫・予・布衣にてこの御所にあり。信雅布衣にて供奉す。自余、皆御供にあらずといえども、浄衣・垂袴・立烏帽子・道は折烏帽子・脛巾(はばき)・つらぬきなり。すなわち退出す。家長、撰歌来る二十日以前に進むべきの由、書を以て示し送る。此の二十日ばかり、ただ旧歌を見て日夜を送る。(『明月記』)

4月19日

・定家、昨日より撰歌を清書、深更に終了し、翌日進上。

源相公、すでに撰歌を奏覧すと。予、昨日よりこれを書く。(『明月記』)

4月20日

夜前深更、わずかに撰歌を書き出す。今朝一見し、午の時に持ちて参ず。(『明月記』)

4月21日

「御鞠。」(「吾妻鏡」同日条)。

4月24日

・夜に入りて、良経三条坊門に渡りおわします。召しによりて、参ず。夜深く行幸に参ぜしめ給う(安井殿)。予、騎馬所労あり、供奉せずして退出す。(『明月記』)

4月27日

・藤原基家誕生


5月1日

・定家、基家産養五夜の儀に参仕。

終日、所労にて平臥す。夕、扶け起し、束帯して九条殿南殿に参ず。人未だ参ぜず、見参に入る。良経北政所に若君出生、その祝宴である。冷泉に帰る。窮屈更になす方なし。(『明月記』)

5月2日

・無力により、平臥す。蛭を飼う。(『明月記』)

5月3日

・定家、基家産養七夜の儀に参仕。

申の時許りに、忠弘の九条の宿所に行き、しばらく休息す。日の入る以前に、束帯して女院に参ず。この夜は宜秋門院が産養(うぶやしない)の儲けをした。(『明月記』)

5月4日

・心神不快。出で行かず。(『明月記』)

5月5日

・秉燭以後、蔵人語るにより、春宮の陪膳を勤めて、退出。心神なお悩む。(『明月記』)

5月10日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~14日。後鳥羽院の水無瀬御幸は25日まで。

巳の時許りに、京を出づるついでに、俊成に参ず。見参の後、退出。鳥羽の北門に於て船に乗る。午の時、宿所に着く。

未の時、御所に参ず。申終に入りおわします。遊女参入す。日入る以前に退出。(『明月記』)

5月12日

・午の時に参上す。今日、遊女舞女に衣を賜う。未の時、退出す。(『明月記』)

5月13日

・定家、急に題を賜り詠進、のち御製を賜る(水無瀬殿当座六首歌会)。

巳の時に参上す。向殿におわします。小時ありて、還りおわします。遊女着座す。神崎の妙すべりて顛倒す。

俄に六首の題を給わり、すなわち読進す。勅喚に応うる五人は、公経・通光・定通・定家・家長。詠進する後に御製を給う。己下これを見る。申終に、退下す。(『明月記』)

5月14日

・参上す。例の事終りて、向殿におわします。片野におわしますべし。御狩にあらず、ただ遊覧と。

退下して、宿所に入り、又出でて、船に乗る。船中に於て風雨。日入る以後、鳥羽に着く。夜に入り、冷泉に帰る。(『明月記』)

5月18日

「将軍家鶴岡別當坊に渡御す。伯耆少将・右近衛大夫将監親廣等扈従す。御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


政府が初認定した大阪IR計画は“捕らぬ狸の皮算用” 「年間来場者2000万人などあり得ない」と大前研一氏(マネーポストWEB) / 大阪のIR「開業時期遅れる」 吉村知事、斉藤国交相に伝える(毎日) / 維新が推進するIR、埋め立て地にアスベストが潜む可能性 ろくに調査がされていない現状(デイリー新潮) / 読売連合広告社が一転…契約辞退 大阪IRのPR業務 「新聞社の関連会社として検討が不十分だった」(ABCニュース) / 維新と読売「すき間風」…読売系広告会社が「大阪IR」広報業務辞退 / 大阪IR開業「2030年1〜6月に」 実施協定案は今秋にも(日経) ← ズルズル後退? / 大阪カジノの晴れぬ霧 銀行団、巨額融資にためらいも(日経) / 大阪IRを国内初認定も...国内に広がる「しらけムード」のワケ / 大阪IR計画「日本人の懐狙いなら共食いにすぎない」 鳥畑与一教授(朝日) / 大阪IRで1兆800億がそそがれる「バブルの負の遺産・夢洲」がかかえるヤバすぎるリスク(現代ビジネス) / 大阪IR、カジノ偏重を懸念 - 売上高の想定で関経連会長(共同) / (社説)大阪カジノ認定 懸念置き去り許されぬ(朝日) / 大阪IR、奈良美智の作品画像使用で運営会社が謝罪。「しかるべき承諾を得ていない可能性が高い」 ← 素直じゃない「謝罪」 / 大阪ダブル選の争点「カジノIR」初期投資はUSJの7倍、雇用は1.5万人!計画の全貌とは(ダイヤモンドオンライン) / 【藤井聡】「大阪のカジノ」の巨大リスク:経済被害約8兆円、大阪の各世帯の年間所得「数十万円喪失」という悪夢(「新」経世済民新聞) / 元大王製紙井川意高や、ホリエモンのようなカジノVIP客が「お先真っ暗」と評する夢洲カジノ / 大阪市長予備選審査員を務めるなど、熱心な維新支持者として知られる須田慎一郎でさえ「失敗に終わる」と断言する夢洲カジノ / 日本維新の会公式chで吉村洋文と対談するなど、熱烈維新支持者で知られる西村ひろゆきでさえ「重大な欠点アリ」と評する夢洲カジノ / 「洪水よわが後に来たれ」というのは資本主義者の定型句ですが、大阪のカジノほどこの言葉に似つかわしいものはありません(内田樹)。               

 

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【システム、運用、管理体制、トップの認識、問題だらけか】 マイナカードの運用ミス続々 公表遅れの裏でちゃっかり普及策 選挙ではだんまり それでいいのか:東京新聞 / トラブル続きのマイナカードへの不安指摘に、河野デジタル相は構造的欠陥を否定 / マイナンバーカードトラブル 全国保険医団体連合会の調査でマイナ保険証システムトラブル約6割が経験。 全国保険医団体連合会会長 ⇒直ちに運用を停止し、マイナンバー法改正案について廃案を求める。 (羽鳥モーニングショー)  / 「マイナカード」トラブル続きで3大臣が陳謝も…河野大臣の「感度が低かった」に集まる批判「言い訳になってない」「神経逆なで」(SmartFLASH) / マイナ保険証 開業医の7割がトラブル経験 埼玉で協会調査(毎日) / マイナ保険証“自分”以外に“別人”の情報 「2人以上ひもづくこと可能」(テレ朝) / マイナンバーカードのQRコードが平文なんだ、、、QR読み取りでナンバーが丸見え。

 

2023年5月29日月曜日

『朝生』で「高齢者が長く生き続けることが、少子化の第一原因だ」という悪魔のような発言を繰り返した三木圭恵(けえ)は、2021年衆院選において比例近畿ブロックでトップ当選した日本維新の会の議員 ← だから、少子化対策として「高齢者は早よ死ね!」って言ってるのか。

〈藤原定家の時代375〉建仁3(1203)年3月1日~29日 定家、元服した子為家(6)を後鳥羽院に披露 「感悦の余り、落涙禁じ難し」 後鳥羽院の熊野御幸(5回目) 定家、良経より讃岐の一村と若槻庄を与えられる 定家、結石を患う

 


〈藤原定家の時代374〉建仁3(1203)年2月17日~30日 密かに大内花見 「年をへて御幸(みゆき)に馴(なれ)し花の陰(かげ)ふり行(ゆく)身(み)をもあはれとや思ふ」(定家) 「定家は四十二歳、、、、なかで長明は最年長(四十九歳くらい)であったろうと思われるが、この長明が横笛を用意して来ていてそれを吹き鳴らす、というところが私には何とも言えず面白いのである。」(堀田善衛) より続く

建仁3(1203)年

3月1日

・定家、越中内侍を通じて元服した子為家(6)を後鳥羽院に披露したい旨申入れて容れられ、為家を連れて参院。御製の和歌一首と引出物を賜り、感涙禁じ得ず。

3月6日、為家を連れて今度は春宮に参り、造物(つくりもの)を賜り、女房からは饗応の詞を頂く。

・遅明、社頭を出で、京に帰る。巳の時、為家を相具し、院に参ず。一昨日、越中内侍を以て申し入る、勅許あるにより参上せしむ。内侍来り、北面より参ずべきの由、相示す。すなわち御前に参ず。御製一首を賜り、帰り出づ。感悦の余り、落涙禁じ難し。引出物を賜る由、仰せ事あり、恭々す。すなわち退出。(『明月記』)

3月3日

・除目の聞書を見る。日来風聞する事、行われず。さしたる事なし、善政か。良経の子道家は、侍従に任ぜられた

心神悩むにより、他所に参ぜず。明日、道家ご拝賀の御供、長兼これを示す。老の身の奉公、粉骨力を尽す。

夜に入り、春宮に参ず。雅経、陪膳により参入。清談、深更に及ぶ。(『明月記』)

3月4日

「将軍家隼人入道が宅に渡御す。・・・御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月4日

・定家、九条道家(良経の子)拝賀に供奉、後鳥羽院の大内御幸に供奉。

・直衣を着して、春宮に候す。道家の御供、催しをこうむる。午終許りに退出す。

束帯し、九条殿に参ず。今日の御幸、領状す。もし、刻限相逢わば、また供奉すべし。細劔なきにより野劔を帯す。侍従同じく参ず。此の間に御装束。打ち袖・濃き単衣・濃き張りの大口・綾瑩・例の下襲(したがさね)。先ず西の透廓に於て、女院に申さしめ給う。予、申すべき由仰せらるといえども、劔を解く煩いあり、弁を以て申さしむ。

次いで院に参ず。拝舞して、昇らしめ給う。良経、予を寝殿に召し、参じて進む。ただ、早く将来すべき由、仰せあり。すなわち、引導し奉る。簾中に女房具し奉り、御前に参ぜしめ給うと。やや久しくして、退出し、参内す。ついで八条院。御所に参じて、退出す。

九条殿に参じ給うの間、先ず法性寺殿に参じ給うべきの由、所司申す。雨を凌ぎて、河を渡り、峻岨を攀ず。進退、度を失す。予を召して、今日の事を問わしめ給う。租々申し終る。秉燭の程、帰りて良経の許に参ず。ついで退出して九条に入り、小食休息す。老骨疲れて甚だ堪え難し。雨を凌ぎて帰参す。女院御所・氏の院参賀。俄にして、学生等着座す。五献終り、退出して、九条に宿す。(『明月記』)

3月5日

・辰の時、熊野御精進屋に参ず。小時ありて退出し、良輔の精進屋に向う。僧都六条の房なり。すなわち家に帰る。

八条院仰せていう、良輔、来る九日、春日に参ずべしと。予、近日所労堪え難し。灸治の後、末だ例に復きず。進退度を失するの由、かねて申す。しかれども、昨日道家の御供に参ず。春日、定めて参ぜざらんか。遠近すでに異なる。嫡庶同じからず。甚だもって治め難し。繁昌御一門の譴責、一身に在り。刑有りて賞なし。遠路の事、身力堪うべからず。今度に於ては、なお術なき由を申す。(『明月記』)

定家は、連日の良経方の晴の儀に奉仕。又良輔の春日社参詣の御供を命ぜられ、迷った挙句辞退した。良輔は、八条院三位の局腹の兼実の庶子である。良経・道家の正系ではない。

3月6日

・定家、為家を伴い東宮に参る。為家は次いで外祖父藤原実宗邸に参る。

巳の一点許りに、為家を相具し、春宮に参ず。狩衣を着すといえども、北面の方より、密々に参ず。造物を給わる。女房饗応の詞あり。即ち退出し、大納言に参ぜしむ(乳人、車に在り)。未の時、帰り来る。恩言にあずかる。即ち相乗りて、家に帰る。為家を鍾愛懇切のあまり、出で行かしむ。身の疾、逐日相侵す。更に向後の事を期し難きの間、見参に入るるため、参ぜしむ。少年たりといえども、外人を嫌わず、「事ニ於テ穏便、至愚ノ者ニアラズ。」(『明月記』)

3月7日

・讃岐が摂政九条良経の知行国になり、この月、定家は讃岐の国衙領の村と若槻庄をあたえられる

後鳥羽院は第5回目の熊野御幸に出立する際、清書した撰歌を還御直後に進上するよう命じる。定家らは前日深更に及ぶまで清書を続け、翌日進上する。

巳の時、御精進屋に参ず。家長がいう、撰歌、この御熊野詣の間に清書、還御最前に進むべしと。当時散々といえども、承わるの由を申す。退出するのついでに、家隆の許に向う。清談移漏して帰る。夜に入り、春宮に参ず。今日、良経より、若槻庄の下し文、讃州一村の庁宣を賜る。畏みて賜るの由を申す。温潤の地、仙洞の地所なり。権門、意にまかせて撰び取り、残る所の立錐、奉公無縁の者に宛てらる。(『明月記』)

3月8日

為家を相具し、春宮に参じ、夕に退出す。(『明月記』)

3月9日

・巳の時許りに、九条に行き、出仕せず。今日、良輔、春日社に詣で給う。右中将御供に参ず。甚雨、老骨に符合せざる事か。適々休息するの日、なお他人なし。(『明月記』)

3月10日

後鳥羽院の熊野御幸。~4月11日。この日、定家は後白河院の熊野御幸進発に参仕。

暁鐘を聞き、御精進屋の門前に参ず。天明に出でおわします。鳥羽の北門に於て、小屋に入り、隠れる。すなわち騎馬し、四墓の辺りに於て、車に乗り、冷泉に帰る。諸病競い起る。終日平臥す。(『明月記』)

3月11日

・腹下りて辛苦。小便に極めて煩う。疑うらくは、これ石痳(せきりん、結石)の病か、明後日、一品宮熊野より御入洛。稲荷に参ずべき由、院・八条院両方より催しあり。病中にて不参。(『明月記』)

3月12日

為家、春宮に参ず。女房、御尋ねある由、示さる。(『明月記』)

春宮は、為家を格好の話し相手と思ったのか。

3月14日

・明晩、月蝕と。為家、春宮に参ず。ただし早く出づ。(『明月記』)

3月15日

・定家、日吉社を参詣。~22日。

天明、京を出て、日吉社に参ずる。日入る以前に宮廻る。病、辛苦。宿所に臥すの間、遂に以て石痳顕現す。この病者、必ず幾年を経ざるか。悲しむべし。(『明月記』)

3月18日

・病気を怖れて、宮を迫らず。(『明月記』)

3月21日

・夕、奉幣し宮廻る。夜前、吉夢あり。(『明月記』)

3月22日

・辰の時、大雨俄に降り、すなわち止む。遅明社頭を出づ。湖水あふるるにより、船に乗る。大津に於て叉車に乗る。関山に於て大雨。巳の時、冷泉に帰る。(『明月記』)

3月23日

・定家、八条院の美福門院月忌仏事に参仕。

御月忌にて、八条院に参ず。良輔の許に参ず。日来御不例と。見参するの後、良経・宜秋門院に参ず。九条に宿す。(『明月記』)

3月26日

「将軍家(御布衣)隼人入道が宅に渡御す。御鞠有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月29日

・定家、北野社に参詣。撰歌を祈念し奉幣。

早旦、撰歌の事を祈念するため、北野社に参詣、奉幣して帰宅。(『明月記』)


つづく

パワハラ・ストーカー行為で『除名』笹川府議 維新府議団幹事長は「議員辞職するよう“説得中”」と話す 一方、笹川府議…地元支援者から「辞めるな、頑張れ」の声あるとして議員辞職しない考え(カンテレ) / 維新の大阪府議笹川理(府議団代表辞任)のパワハラ、セクハラ問題(離党届提出するが受理されず、、、) → 車内で大声で怒鳴りつけドア殴る「威圧的な行動もあった」被害の女性市議が訴え 維新・笹川府議のハラスメント問題(ABC6/1) / ハラスメント問題で維新離党議員にも『ボーナス206万円は満額』本人は取材に応じず(MBS) / 維新・笹川府議を「除名」へ 口頭での「厳重注意」から一転 吉村代表「議員辞職すべき」とも(カンテレ5/29) / 現職府議のストーカー疑惑…被害に遭った美人市議が怒りの大反論「会見の内容は嘘ばっかりです!」(Friday) / パワハラの大阪維新・笹川理府議が離党届提出 吉村代表は取材応じず(毎日) ← ズルい吉村さん(いつもそうだ) / 松井一郎氏「僕の対応に少し甘いところがあった」維新・大阪府議のハラスメント問題(読売テレビ) ; 記者の「週刊誌報道の内容を当時知っていたら、当時どう対応したと思うか?」質問に対し、松井氏は「除名していた」と述べました。 / “一回えっち”府議をかばう維新“身を切る”のウソ(週刊文春) / 「身を切る改革」維新は不祥事“斬れる”か 「記憶ない」繰り返す維新・笹川大阪府議 府議団代表辞任も後輩女性市議へ“性的関係”要求も発覚 8年前は「同じ選挙カー」の上…ハラスメント背景は(カンテレ) / 維新・大阪府議団代表がハラスメント問題で辞任 吉村氏「辞職はせずに議員としての責任全うを」(読売) / 週刊誌報道に維新・女性市議「事実である。当時の責任者に報告上げ収まるようにしていた」後輩女性議員に”ハラスメント“笹川府議が府議団代表辞任(MBS) / 維新・横山幹事長「一般の方から見たら不適切、信頼回復につとめる」維新府議がハラスメント問題で府議団代表辞任(MBS) ← 一般の方?(維新は特殊とでも?) / 〈一回えっちさせたる〉維新・大阪府議団 笹川理代表のセクハラ・ストーカー疑惑に新証拠 性的関係要求か 「週刊文春」取材申し入れ直後に辞意 / 「ふざけんなや」などと後輩の女性市議に連続LINE…大阪維新の府議団代表が辞任へ(読売) / 女性議員へのハラスメントで“厳重注意”の維新・笹川府議 府議団代表を“続行”へ 会合で「異論」出ず(FNN) / 女性市議にパワハラの維新府議「一緒に帰るものだと…」 記者団とのやり取り詳報(産経) / 維新大阪府議団の笹川代表が女性議員にセクハラやパワハラ 厳重注意処分に「心からお詫び申し上げる」(YTV) / 維新・大阪府議団の笹川理代表に女性議員へのパワハラ&ストーカー疑惑〈証拠LINE入手〉(週刊文春) / 吉村洋文「大阪維新の会の大阪府議会議員団で代表を務める笹川理府議会議員が、同じ党に所属する大阪市議会の女性議員に対し、パワハラやストーカー行為」は「内容はほぼ事実」      

 

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2023年5月28日日曜日

拉致の国民大集会で語られ、拍手喝采された発言  「拉致問題解決には、日本を変えなければならない。 そして変えるべきは日本国憲法だ!」(拉致問題地方議員全国協議会会長 松田良昭)

 

〈藤原定家の時代374〉建仁3(1203)年2月17日~30日 密かに大内花見 「年をへて御幸(みゆき)に馴(なれ)し花の陰(かげ)ふり行(ゆく)身(み)をもあはれとや思ふ」(定家) 「定家は四十二歳、、、、なかで長明は最年長(四十九歳くらい)であったろうと思われるが、この長明が横笛を用意して来ていてそれを吹き鳴らす、というところが私には何とも言えず面白いのである。」(堀田善衛)   

 


建仁3(1203)年

2月17日

・巳の時、良経の許に参じ、御供して院に参ず。御修法結願。事終りて退出。窮屈度を失す。(『明月記』)

2月18日

・窮屈により出仕せず。夜に入り、良経御神事あり、人なき由、以経告ぐ。よって参入し、陪膳。深更に退下す。(『明月記』)

2月19日

・巳の時許りに、良経の許に参ず。ついで中納言中将殿に参じ、御供して参内。祈年穀定め。此の間、予、陪膳を勤む。ついで西の陣より、神祇官に参じ給うの間、予、大内に入りて桜花を見る。御供して良経の許に参ず。明日、一品宮、熊野御進発の間、中納言殿参ぜしめ給うと。夕、家に帰る。(『明月記』)

2月20日

・小童を相具し、一条黄門の亭に向い、謁し終りて、帰宅す。院に参じ、越中内侍に遇う。臨時祭の使、勤むべきの由、御気色あり。今年、殊に計略なし。但し、別の仰せに於ては、この限りにあらざる由、申し伝う。(『明月記』)

2月21日

・巳の時許りに、宜秋門院に参じて退出、八条院に参ず。中納言中将殿の御供して良経の許に参ず。ついで大内に向う。有家同じく参ず。外記の庁、南所等を歴覧。政の間の事、粗々沙汰す。申終許りに、良経の許に帰参、夕に退出す。(『明月記』)

2月23日

・和歌所歌合。定家、勧盃を勤める。相互に判を行い、定家の判は有家と番えられる。

乗燭以後、院に参ず。小時ありて、弘御所に出でおわします。公卿以下、召しによりて参着。殿上人長押の下に在り。今夜別の儀あり。各々二人、相替りて評定し勝負すべしと。着座し終りて、予を召し、歓盃。公卿、判者に番文を渡さる。各々披きて見る。ついで殿上人、召しによりて着座。ついで頭弁を召し、講師となし、和歌を読み上ぐ。良経・慈円の御判あり。ついで隆房・公継円座に着く。又読み上ぐ。難を陳ぶるに及ばず (只、猿楽の如し)。次第に相替る。通光、所労を申して参ぜず。よって雅経、中納言と対揚をなす。家長、具親参ずべき由、仰せらる。一巡終りて、鼻返す事、興あるべしといえども、大略言うに足らず。松火の題の如し。三溝終りて、講師退く。今夜、作者を顕わさず。人々皆退出す。甚雨。良経御退出の後、途より家に帰る。(『明月記』)

後鳥羽院は、通常の歌合の形式を破ろうと、いろいろ新儀を考える。この夜は、二人が交替で評定。しかし、定家は、興なくて「猿楽の如し」と評す。

2月24日

・密かに大内花見。帰宅後、雅経に誘われて再び大内訪問。家長・最栄・長明・中原宗安・景頼・秀能と詠歌、連歌。余興尽きず、帰路、即興の管楽の演奏まであった。あの鴨長明が横笛を吹く。

「廿四日。天晴ル。巳ノ時、正親町ニ向フ(女房、小童ヲ具ス)。相公(公経)ニ謁シテ即チ出デ、大内ニ向ヒ、密カニ花ヲ見ル。一時許リニシテ、帰宅スルノ間、藤少将・兵衛佐来タリテ、招引シ、又大内ニ向フ。南殿ノ簀子(すここ)ニ坐シテ、和歌一首ヲ講ズ。狂女等、謬歌ヲ擲(な)ゲ入ル。雑人(ざふにん)多ク見物ス。講了リテ連歌アリ。少将・兵衛佐・馬助家長・其ノ兄の最栄・長明・宗安・兵衛尉景頼・秀能等ナリ。家長盃酒ヲ取リ出ス。秉燭(へいしよく)、大内ヲ出ヅ。家長・長明横笛ヲ吹キ、少将篳篥(ひちりき)ナリ。四人相乗リ、蓬戸ニ帰ル(四人、又後車ニ乗ル)。」(『明月記』)

「このときに定家の講じた歌は、


年をへて御幸(みゆき)に馴(なれ)し花の陰(かげ)ふり行(ゆく)身(み)をもあはれとや思ふ


というものであり、(中略)

数え切れないほどの年をへて ー 新古今集では「春をへて」と変えられている ー 上皇の御幸にも馴れた御所の左近の桜、この桜の陰で老いて行く自分をあわれと思ってくれるだろうか、という次第である。

(中略)

定家は四十二歳、雅経は三十四歳であり、なかで長明は最年長(四十九歳くらい)であったろうと思われるが、この長明が横笛を用意して来ていてそれを吹き鳴らす、というところが私には何とも言えず面白いのである。

(中略)

その夜家長は後鳥羽院に「誰々が心とまる歌よめりつる」と問われ、この歌を教える。後鳥羽はこの歌を「述懐のこゝろもやさしく」と定家の苦衷を認め、「もっとも自讃すべき歌とみえき」とほめた。従って新古今集に自讃歌として入れられるべきものと、後鳥羽院はかんがえたのである。

ところが定家は頑強に拒否した。自分でもどことなく険があると思ったものであろう。

後鳥羽院もまた執念深い男である。後で隠岐の島での、今日『後鳥羽院御口伝』として伝えられている歌論書に「定家は左右なき物なり」、すなわち定家はもうどうしようもない頑固男だ、と前置きをしてこの時の歌を引き、「傍若無人、理(ことはり)も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず」とまで言い出す素地をつくるのである。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

2月25日

・大内花見御幸当座歌会。定家、講師を勤める。

召しあるによりて、歓喜光院に参ず。文車を披き見るの間、青侍奔り来り、院より召しある由を告ぐ。

騎馬し、大内に馳せ参ず。御供の殿上人・北面、春華門ならびに議所の辺りに充満す。定家の行方を御尋ねの後、程を経るの由、各々相示す。よって、敷政宣仁門より東階の方に参ず。中納言・有家、東階の簀子に坐す。その辺りに参ず。此の間、南階の簀子におわします。早く歌を置くべきの由、仰せ事あり。沈思するに及ばず。各々清書す。家長・清範・宣綱(以上、上北面)・長明・宗保・影頼・秀能、樹の下に在り。すなわち歌を進む。予を召す。参上して、読み上ぐ。納言読師。一反詠終りて、還りおわします。御製、

あまつ風しばし吹きとぢよ花ぎくら雪とちりまがふくものかよひぢ

白昼、見苦しといえども、騎馬し馳せ帰りて、休息す。後に聞く、此の花、御硯の蓋に入れ、良経に奉らる。御贈答ありと。(『明月記』)

「後鳥羽院は、前日の定家等の、大内での当座の小歌合に誘われて、急に大内の桜の下の歌合を思いついたのであろう。

この時の定家の歌は、

年を経てみゆきになるる花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ

であり、これは初句を「春を経て」に改めて『新古今集』雑に入集、詞書を、「近衛づかさにて年久しくなりて後上のをのこども大内の花見にまかれりけるによめる」と附している。隠岐本にも残された。

後鳥羽院と良経の贈答は、やはり『新古今集』春歌下に

ひととせ忍びて大内の花見にまかりて侍りしに庭にちりて侍りし花を硯のふたに入れて摂政の許に遣はし侍りし

太上天皇

今日だにも庭を盛と移る花さらずはありとも雪かとも見よ

かへし     摂政太政大臣

さそはれぬ人のためとや残りけむあすよりさきの花の白雪

とある。良経は、「このたびの撰集の我が歌にはこれ詮なり」と自賛したと、後鳥羽院は『後鳥羽院御口伝』に書いている。(中略)一方、定家は、この時の「年を経て」の歌に愛着しなかった。その事を院は、「定家は題の沙汰いたくせぬ者なり」「惣じて彼の卿が歌存知の趣、いささかも事により折によるといふことなし」と批判する。院にとっても、又良経に於ても、歌は宮廷のものであった。帝王として、摂政として左近の桜を詠じることは時と場を重く見たのであった。定家の詩人として純粋は、ただ風騒としてしか理解されなかったのか。『拾遺愚草』には、「大内の花ざかりに、宮内卿、藤少将などにさそはれて」の詞書のもとに記されていて、初句「春を経て」である。そして定家は院の大内歌合の前日の私の会として記録している。詞書の宮内卿は家隆であるが、この日も翌日も彼は参会していない。故意か、記憶違いか。いずれにせよ定家は、院には、自讃歌ではない、撰集に入れるのもいかがと思わせながら、この歌にひどくこだわっていると、私には思われる。『拾遺愚草』は、彼が再び侍従の官にあった、建保4年(1216)に、正編3巻が編まれ、天福元年(1233)の頃まで、みずからの手で増補されつづけた自撰家集である。よって、彼の到達した歌への思いが結晶した集と思われる。正二位の位を極めた定家が、久しい近衛の官を歎く、「年を経て」の述懐を、よしとしなかったのか。明らかに、この歌に於ても、後年隠岐の流され王を意識していたのであった。ちなみに、『源家長日記』もまた、「年を経て」の歌を家長も共にあった小歌合の作としている。院は、「さそはれざりけるこそくちをしけれ」と仰せられたと記す。」山中智恵子『「明月記」をよむ ― 藤原定家の日常』)

2月27日

・巳の時許りに、院に参ず。良経御参。御退去の後に退出。女房示し合さらるる事によりて、宜秋門院に参ず。良経・良輔御坐す。良経仰せていう、今夜、前駆等早く退出すべし。汝この辺りに宿し、明旦、院参に供すべしと。よってこの辺りに宿す。(『明月記』)

2月28日

・辰の時に参上。巳の時許りに御供して、院に参ず。未の時許りに還りおわしまして、退出す。(『明月記』)

2月29日

・巳の時、院に参ず。相次いで良経の許に参ず。慈円御坐す。見参せずして退出し、八条院に参ず。良輔に見参し、家に帰る。夜に入りて参内。蔵人俊光語るにより陪膳し、退出す。(『明月記』)

2月30日

・午の時、九条に向う。出でて日吉社に参ず。晩景に宮廻る。夜に入り、雨を凌ぎて通夜。(『明月記』)


つづく


2023年5月27日土曜日

大阪府の高校授業料“完全無償化”の制度案には「賛同できない」 私立高校などの団体が議決 「これまで無償化対象だった子どもの負担が増える」と危機感 吉村知事は「丁寧に説明をしていく」(カンテレ5/30) / 「教育の質、低下しかねない」 高校授業料「完全無償化」に懸念の声(朝日)

 

 

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