2023年7月31日月曜日

自民党“エッフェル騒動”が岩手県知事選を直撃!渦中の広瀬めぐみ議員がSNSストップし雲隠れ(日刊ゲンダイ) / このタイミングでフランス旅行の動画アップする今井絵理子 / 「税金で奢るつもり?」今井絵理子、パリ研修で撮ったと思しきTikTok動画が物議(週刊女性) / 自民党枚方市 出来成元 支部長の話 / 松川るいの元選対事務総長がフランス視察を徹底批判「人から預かったお金を気ままに使うな」「政治家の資質があるとは思えない」(SmartFLASH) / 今井絵理子ら「フランス研修」に国民激怒も自民党幹部は〝かん口令〟指示で「説明ナシ」の〝風化〟狙い(FRIDAY) / 自民フランス研修めぐり地方議員から松川女性局長の処分求める声(テレ朝) / 今井絵理子・松川るいが参加した「パリ視察」全スケジュール…研修はわずか6時間、セーヌ川クルーズ、シャンゼリゼで買い物(FLASH) / 「仏旅行」炎上の今井絵理子議員 約束した「報告」1週間なし→台風関連を投稿、案の定SNS荒れ「説明が先」千5百コメ殺到(デイリースポーツ) / 自民女性局のフランス研修写真が物議 SNSに投稿(毎日) / 自民党女性局の仏研修に批判殺到「38人も行ってなにすんの?」 今井絵理子氏は反論(スポニチ) / エッフェル塔前でポーズ 自民党女性局の仏研修、投稿に批判相次ぐ(朝日) / 松川るい参院議員、自民党女性局のフランス研修は「党費と自腹」 エッフェル塔写真は削除 - サンスポ / 松川るい自民党女性局長ら、フランス「観光」写真にSNSで批判殺到(産経) / 「税金無駄遣い」騒動の今井絵理子議員、「中傷DM」被害明かす フランス研修は「これからも積極的に行きたい」(JCAST) / 松川るいら自民党女性局フランス研修写真は「軽すぎ」 岸田長男の官邸大はしゃぎと根は同じ(AERA) / パリで“エッフェル塔ポーズ”…豪華なコース料理も 自民・女性局のフランス研修に「ただの観光」「税金で遊ぶな」批判殺到(FNN) / 自民研修、エッフェル塔前で撮影 - 女性局に批判「観光か」(共同) / 一説によると、国会議員4名はファーストクラス(往復300万円)で行って、1泊8万はする5つ星ホテルに泊まったらしい → で、自己負担は30万円で、残りは党費(その7割が政党助成金=税金) / 松川るい議員、フランス外遊に娘を同行させていた!「大使館が子どもの世話」外務省関係者が明かす “家族旅行” の内幕(FLASH) / 今井絵理子議員 1カ月で2回も海外視察!ベトナム視察中には「息子のプロレス観戦」、成果報告に高まる期待(女性自身)                       

 

▼慰安旅行です。

 

 

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▼こんな方たちまでも怒ってますね

 

放射能を最も熟知する小出裕章氏が語り尽くす『原発事故は再び起きる』~メディアが伝えない福島第一原発と原子力産業の現在~本日 全文無料公開

 

玉木氏「自民のアクセル役になりたい」 福岡市での集会で発言(西日本新聞); 国民民主党の 玉木雄一郎代表は30日、福岡市であった党員・サポーター集会で、党の立ち位置について「自民党のアクセル役になりたい」と述べた。自民との協調姿勢を鮮明にした。 ← 第二自民党の席は維新が確保したので、第三自民党ということでしょうか? それにしても、自民党、大人気!   



 

「維新の会」とは要するにどういう集団だったのか?【適菜収】 【隔週連載】だから何度も言ったのに 第40回 / 現実を直視しなければ「維新の強さ」はわからない 松本創氏が肌で感じた大阪の期待と熱狂(日刊ゲンダイ);「15年までが橋下氏、それ以降は松井氏と吉村氏の二枚看板、現在は吉村世代へ移行している。橋下氏と松井氏の引退は都構想の否決が原因ですが、維新支持者にはそれがまた「潔い」と映っている。私自身は維新の政策や政治手法に賛同しません。けれども、大阪維新の会ができて十数年のうちに、大阪では維新に代わる選択肢はほぼなくなった。全国化は未知数ですが、他の政党が現実を直視し、有効な対抗軸を立てられないと痛い目に遭うと思います。」   

 

▼代表が「第二自民党宣言」したんだけど、、、それでもコレ ↓

 


 

〈100年前の世界018〉大正12(1923)年5月1日~4日 有島武郎、山陰旅行の帰りに河上肇を3度目の訪問 第4回メーデー、準備会の段階から厳しい弾圧 小田原急行鉄道、新宿~小田原間で開業 大杉栄、パリのメーデーで逮捕、収監        

 

向って右より伊藤野枝、大杉栄、魔子、進

〈100年前の世界017〉大正12(1923)年5月 北大・小樽高商に社会科学研究会 宇野千代(26)、尾崎士郎と共に馬込に転居 「葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、...たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ。」(永井荷風「断腸亭日乗」) より続く

大正12(1923)年

5月上旬

・有島武郎、山陰旅行の帰りに河上肇を3度目の訪問。

山陰の旅先から、河上宛に是非お会いしたい事があるとまず連絡をとって、どうしても日程の都合つかぬことを残念に思うと絵葉書を送ってきた、そのすぐ後の突然の来訪。武郎は、この時、或る用件思い出したと、河上に云い残し20分後に帰る。実は農地に関する財産処理の全てを、河上に監査して貰いたいとの申出だが、河上はこれを丁重に断る。その時の用件・様子から察して、この段階で、武郎に死を決意させるものが確かに起こっていたと、河上は「泉」追悼号に書く。

また、この月、同じく山陰の旅先から与謝野晶子に宛ててうたを送って寄こす。

天(てん)を見て泣けど天ゆゑ泣かずして離れがたかる地のために泣く

われの死と薔薇(ばら)ことごとく落ちん日のありうべくして無き心地する

5月1日

・北京の天安門で張紹會内閣打倒国民大会開催。

5月1日

・第4回メーデー、準備会の段階から厳しい弾圧。

準備会では激論の末、スローガンの一つとして「植民地の解放」を採択(準備会の日付けは、4月9日の「報知新聞」は4月8日、『赤旗』5月号によると4月12日)。しかし、警視庁は「植民地の解放」をスローガンにすることを許可せず(『労働』5月1日)、社会主義ならびにその他の思想団体のメーデー参加を禁じた(『読売新聞』5月1日)。

さらに、5月1日前夜から事前検束を厳しく行い、日本人社会主義者70名、朝鮮人労働者50名、日本人労働者150名を検束(『報知新聞』5月1日夕刊)

当日は会場(芝公園)周囲を警官が取り囲み、「朝鮮人掛」「主義者掛」の警官が朝鮮人や社会主義者を検束した(『東京朝日新聞』5月1日夕刊)

不許可になった「植民地の解放」を掲げた旗はなかったが、「朝鮮の同胞をも解放せよ」という声が会場から上がった(『報知新聞』5月1日夕刊)

演壇に立った孫某は、「自国の独立、プロレタリアの解放」と叫び(『中央新聞』5月1日夕刊)、「労働者に国境はない」とも叫んだ(『労働』6月1日)。彼は、「演壇下の私服から忽ち突き落とされ・・・、四、五名の警官が目茶苦茶に蹴る、踏む、なぐるで、・・・更に手をねじあげ、なお靴でけりながら検束した」(『東京日日新聞』5月2日)。

デモ隊が芝公園から上野公園までの行進中に、刑事が朝鮮人30余名を引きずり出し、交番に投げ込み、更に頭髪をつかんで引きずり、自動車で運んだ(『報知新聞』5月2日)

5月1日

・小田原急行鉄道、新宿~小田原間で開業。

5月1日

・フリッツ・クライスラー、バイオリン独奏会。帝国劇場。~5月5日、18日~20日。

5月1日

・インド、マドラス、最初のメーデー、S.チェティアールの指導

5月1日

・モスクワ、メーデー、正午、開会。軍事人民委員トロツキーの閲兵・演説。荒畑寒村出席。

5月1日

・ドイツ、バイエルン、ヒトラー、5千人動員して国防軍兵器庫から銃器を持出し「陣中要務訓練」挙行計画。州政府により阻止。

5月2日

・パリ、大杉栄、メーデーで過激な演説、逮捕、収監、国外退去へ。7月11日帰国。

林倭衛「フランス監獄及法廷の大杉栄」(『改造』大正13年6月)によると、、、。

4月29日夜、大杉はパリの林倭衛に明朝着くと電報を打った。林が翌朝ガール・ド・リオンに行って待ったが彼の姿は見えず、宿へかえって見ると外套と手提カバンとが置いてあった。大杉は午後になってブラリと部屋へはいって来て、汽車が早く着いて、行きちがいになったといい、それでリベルテユル社にメーデー集会の場所をききに行って来たといいながら、今度は目下つづいている裁縫女工のストライキについて、彼女たちの生活状態の詳細な統計などを示しながら話しはじめた。

5月1日11頃、大杉がやって来て、サン・ドニの集会に行くといっていっしょに外に出て、別れた。

翌日午後5時ごろ、人相のわるい男が5、6人、どやどやと林の部屋に這入り込んだが、大杉もいっしょにつづいて入って来た。「捕まったな」、姿を見た瞬間そう思った、と林は書いている。

大杉栄「入獄から追放まで」(『日本脱出記』)によると、、、。

「リベルテエル社にコロメルを訪ねて、メエデエの当日、セン・ドニの集会で又会おうと云うことになった。メエデエの屋外集会は許されてなかった。労働者のプログラムの中にもそれはなかった。共産党の政治屋共や、C・G・T・Uの首領共は、警官隊との衝突を恐れて、出来るだけ事勿れ主義を執ったのだ。さればその屋内集会も、パリの市内では僅かにC・G・T・Uの本部の集会一つ位のもので、その他は皆郊外の労働者街で催された。イタリアの同志サツコとヴァンツェティとがアメリカで死刑に処せられようとするのに対する、アメリカ大使館への示威運動ですらも、共産党はむりやりにそれを遠い郊外へ持って行ったのだった。」

その日のメーデーの集会場サン・ドニの労働会館は、800人の集まりだった。大杉の期待に反する穏やかな集会だった。「もういい加減に出ろ」と叫ぶ人は『リベルテエル』や『ラ・ルビユ・アナルシスト』(無政府主義評論)の連中だが、それに応ずる声はない。大杉は「コロメルと集会がすんだらある打合せをする筈だったが、もうどうでもいいような気になった。この『そとへ出ろ』の叫びを演壇の上から叫びたくなった」と書く。大杉はコロメルの次に「日本のメエデエについてしゃべりたい」と司会者に申し入れて、やがて演壇に立った。

大杉が「日本のメエデエ」について威勢よくしゃべって演壇を下りて外へ出たところで、4、5人の私服に捕らえられた。

「僕は手どり足どり難なく引っぱって行かれた。やがて警察の前で多勢のインタナショナルの歌が聞えた。警察の中庭に潜んでいた無数の警官が飛び出した。僕は警察の奥深く連れこまれた。(これはあとで聞いた話だが、会場の中の十数人の女達が先頭になって、ただ日本の同志だというだけで名も分らない僕を奪い返しに来たのだそうだ。そして警察の前で大格闘が始まって、女達は蹴られたり打たれたりして、その結果百人ばかりの労働者が拘引されたのだそうだ。警察の中ででもなぐったり蹴ったり、怒鳴ったり、わめいたりする声が聞えた。)」

「翌日は朝早く二人の私服に護送されて、こんどは普通の自動車で警視庁へ行った。」

それから大杉が前にいたことのある下宿屋を連れ歩いて顔を主人やお神にたしかめさせ、そして警視庁へ帰って来ると、外事課の大きな傍の一室で、警視が「君は大杉栄と云うんだろう」と図星をさされた。そのあとで、いっしょに自動車で首実験に歩いた私服の一人が、

「日本でも、うんとメエデエをやったようだから安心したまえ」

といった。また大杉はその時、「共産党の日刊新聞『リュマニテ』のある小さな部分を指さして見せた。『数十名の負傷者あり』という文句がちらりと見えた。又サン・ドニの僕の事に関する一段ぬきの記事も見えた」と記している。"

翌日(2日)は、日本大使館からも人が来て、日本人大杉栄なることが確認され、綿密な身体検査を受けた。

そして、その翌日(3日)朝、大きな囚人馬車でラ・サンテの監獄に送られた。6月3日にマルセイユから追放されるまでをそこで過ごすことになる。

〈獄中で大杉が長女魔子を想うくだり〉

「もう今頃は新聞の電報で僕のつかまったことは分っているに違いない、おとなどもはとうとうやったなぐらいにしか思ってもいまいが、子供は、ことに一番上の女の子の魔子は、みんなから話されないでもその様子で覚って心配しているに違いない。

 いつか女房の手紙にも、うちにいる村木(源次郎)が誰かへの差入れの本を包んでいると、そばから「パパには何にも差入物を送らないの」とそっと言ったとあった。彼女をだますようにして幾日もそとへ泊らして置いて、その間に僕が行衛不明になってしまったもんだから、彼女はてっきりまた牢だと思っていたのだ。そして、パパは? と誰かに聞かれても黙って返事をしないかあるいは何かほかのことを言ってごまかして置いて、時々夜になるとママとだけそっと何気なしのパパのうわさをしていたそうだ。僕はこの魔子に電報を打とうと思った。そしてテーブルに向って、いろいろ簡単な文句を考えては書きつけて見た。が、どうしても安あがりになりそうな電文ができない。そしてそのいろいろ書きつけたものの中から、次のような変なものができあがった。

魔子よ、魔子

パパは今

世界に名高い

パリの牢やラ・サンテに。


だが、魔子よ、心配するな

西洋料理の御馳走たべて

チョコレートなめて

葉巻きスパスパソファの上に。


そしてこの

牢やのお蔭で

喜べ、魔子よ

パパはすぐ帰る。


おみやげどっさり、うんとこしょ

お菓子におべべにキスにキス

踊って待てよ

待てよ、魔子、魔子。


 そして僕はその日一日、室の中をぶらぶらしながらこの歌のような文句を大きな声で歌って暮した。そして妙なことには、別にちっとも悲しいことはなかったのだが、そうして歌っていると涙がほろほろと出て来た。声が慄えて、とめどもなく涙が出て来た。」

大杉栄『日本脱出記』(青空文庫)


5月4日

・ソ連のインド・ペルシャ・アフガニスタンでの反英宣伝に抗議。ソ連、譲歩。

5月4日

・ニューヨーク州、禁酒法撤廃。


つづく

2023年7月30日日曜日

賛成は「ゼロ」 高校授業料「完全無償化」 大阪府の計画案に関しABCテレビが私立高校にアンケート(ABC) / 大阪府が目指す高校授業料「完全無償化」 "私立"に子ども通わせる保護者団体が反対 文科省に要望書提出(カンテレ) / 私学悲鳴「教育の質低下は必至」 大阪府の高校無償化所得制限撤廃案(毎日) / 高校完全無償化 私学が悲鳴 所得制限撤廃 大阪府新制度案 学校側の負担増える仕組みに(毎日) / 「不公平を生む」「参加しない」 大阪の高校無償化案に府外の私立高(朝日) / 馬場伸幸代表『国会で言うと大問題だが選挙の時ですから。「括弧書きで所得制限はあるけど該当者の皆さんには完全無償化」という意味合いで言ってる』 / 吉村洋文大阪府知事は、2年前の総選挙では 「大阪の私立高校は完全無償です!」 と関東で連呼していました。証拠動画あり         



 

〈100年前の世界017〉大正12(1923)年5月 北大・小樽高商に社会科学研究会 宇野千代(26)、尾崎士郎と共に馬込に転居 「葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、...たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ。」(永井荷風「断腸亭日乗」)      

 

宇野千代(昭和7年頃)

〈100年前の世界016〉大正12(1923)年4月12日~27日 ヤンキー・スタジアム開設 朝鮮衡平社結成 ロシア共産党第12回大会(荒畑寒村ら傍聴、荒畑挨拶) 天津総領事吉田茂、日貨排斥に対する取締を要求 より続く

大正12(1923)年

5月

・鳥取市会議員選挙。鳥取立憲青年会、定員30名中13名の当選果たす。会長由谷義治の義兄の憲政会鳥取支部長米原章三の支援。翌年5月、由谷が憲政会から総選挙に立候補し当選。

・鈴木茂三郎、解放運動犠牲者を超党派で救援する「防援会」結成準備。布施辰治支援。関東大震災で立消え。昭和3年4月「解放運動犠牲者救援会」創立。

・北大・小樽高商に社会科学研究会設置

・吉野作造「朝鮮人の社会運動に就いて」(「中央公論」)。

朝鮮人の社会運動団体の動向を詳しく紹介し、日朝無産階級の提携を、「頗る注目すべき現象」とし、朝鮮民族運動が単純な政治的独立運動から脱皮しつつあることに「甚津の意義」を見出す。

・平林初之輔「戦線をつくる必要」(「赤旗」)。

山川の方向転換論が「観念的に硬化」することを戒め、「常に敵と味方との階級戦線の全線を見渡しつゝ大衆と共に動く準備を怠ってはならぬ」として、「無産階級が政治運動に於て獲得する寸尺の地歩は同時に労働大衆の解放へのそれだけの接近である」との見地より、合法的無産党の組織の急務を訴える。

・平林初之輔「釈明、弁駁及び啓蒙」(『新潮』) / 「山川均氏夫妻の印象」(『婦人之友』) / 「社会的正義の先駆者(アンケート?)」(『解放』) / 「演劇民衆化の二方面」(『演芸画報』)

・「貞操の切り売りを強いらるる娼妓の悲惨なる告白」(「主婦之友」)。発禁。この頃、「告白物といわれる暴露記事が流行。

・堀辰雄(19)、三中校長広瀬雄に伴われて田端の室生犀星を初めて訪れる。

・宇野千代(26)、尾崎士郎と共に東京府荏原郡馬込町1578番地に転居。

のちに、「馬込文士村」の拠点となる。

尾崎士郎は、愛知県幡豆郡横須賀村宮前に父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。早稲田大学を中退し、堺利彦の売文社に籍を置いたり、『毎夕新聞』や『東京毎日新聞』の記者になったりしたが、身は固まらず、高畠素之の食客になった。「獄中より」が『時事新報』の二等に当選して作家への足がかりを得、改造社の山本実彦の応援を受けて幸徳事件を主題にした「獄室の暗影」を発表したが、全体の三分の一が検閲で削除される始末で世評を賑わすにいたらなかった。

大正6年、山口県玖珂郡横山村(現、岩国市川田町号)の家を出て上京した宇野千代は、東京市本郷区小石川駕籠町の女髪結いの二階に下宿した。この下宿近くの燕楽軒は文士が集まる高級西洋料理店であった。千代は燕楽軒の女給になって芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、今東光、滝田樗陰らと知り合った。

千代は同郷の従兄弟の東京帝大学生藤村忠と婚約中であった。大正8年8月29日、千代は藤村と結婚し、9月上旬、北海道拓殖銀行札幌支店に就職した夫とともに札幌市で生活するようになる。結婚して1年後、無尽の籤で千円を当て、札幌市中央区に古い家を買って移った。この家で千代は小説を書きはじめた。

大正10年、千代は『時事新報』の懸賞短編小説に藤村千代の本名で「脂粉の顔」を応募した。この短編が1等に当選した。選者は徳田秋声、久米正雄、菊池寛で、2等が尾崎士郎、4等が横光利一だった。燕楽軒時代に知り合っていた久米は、宇野千代の名前は知っていたが、藤村千代の名前は知らなかったので、入選後に事情を聞いてびっくりした。

千代は新たに書き上げた原稿を『中央公論』の滝田のもとに送った。しかしその原稿はいつまでたっても掲載されなかった。11年4月、千代は上京し、滝田に会って、私が送った原稿は届いていますか、あなたは読みましたかと問い質した。滝田はここに出ていますよと言って、「墓を発(あば)く」の載った5月号の雑誌を投げてよこした。そしてついでのように原稿料を持って行きますかと365円をくれた。

千代はその金と雑誌を家族に見せるために岩国に帰った。年の暮れ、岩国から札幌行きの切符を買って夫のもとに帰ろうとしたが、滝田に礼を言うために東京で下車し中央公論社へ寄った。その足で「墓を発く」を褒めてくれた室伏高信の家を訪ねてお礼を言い、いざ帰ろうとした時、サーッと雨が降ってきた。雨宿りしているそこへ飛び込んで来たのが士郎だった。

吃りながら挨拶する士郎を見た瞬間、「ながい間、意識することもなしに過して来た渇望のようなものが、ふいに、堰を切って、溢れ出すような錯覚に襲われた」。千代は士郎に一目惚れし、彼が暮らしていた菊富士ホテルまでついて行き、二人はごく自然に性的関係に入っていった。千代は札幌へ帰る意志をなくし、そのまま士郎との同棲生活に入った。

11年12月、千代は藤村と協議離婚し、5月に結婚した。

・瀧本誠一編『続日本経済叢書』刊行開始。

・芥川龍之介「保吉の手紙」(「改造」)。のち「保吉の手帳から」と改題。

・横光利一「日輪」(「新小説」)、「蝿」(「文芸春秋」)

・宮沢賢治(27)、劇「植物医師」「飢餓陣営」を上演[花巻農学校開校記念行事]。

・若山牧水「山桜の歌」(「新潮社」)

・倉田百三、論文集「転身」(曠野社)。なかの「自由恋愛論」で多夫多妻論主張。2年半後、「一夫一婦の根拠について」を書いて転換。

・帝キネ、芦屋に現代劇撮影所を開設。

■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年5月、荷風45歳)

五月三日。雨終日小止もなく降りつゞきたり。・・・。午後一葉全集の中たけくらべ濁江の二篇を讀む。

(*註 一葉を読むところ、ワタシ的には嬉しい)

五月六日。立夏。曇りて夕暮れより雨ふる。・・・。深更地震。

五月七日。雨もよひの空なり。・・・。

五月八日。終日雨歇まず。

五月十一日。・・・。深夜雨聲あり。風呂をたきて浴す。

五月十三日。麦藁帽子を、購ふ。

五月十四日。・・・。風湿気を含みて冷なること梅雨中の如し。・・・。

五月十五日。昨日の如く曇りて風冷なり。濱町阿部病院に往きラヂウム治療の後、深川邊を散歩せむと新大橋を渡りしが、風甚冷湿なれば永代橋より電車に乗り、銀座にて夕餉をなして家に歸る。此日午前邦枝完二来訪。・・・。

五月十六日。・・・。雨ふり出して寒冷冬の如し。

五月十七日。曇りて寒し。・・・。

五月十八日。快晴。気候順調となる。・・・。

五月十九日。晴れて風爽なり。午後某雑誌記者の来訪に接したれば家に在るや再びいかなる者の訪ひ来るやも知れずと思ひ、行くべき當もなく門を出でたり。日比谷より本所猿江町行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿ふて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に歸る。大正二三年のころ、五ツ目より中川逆井の邊まで歩みし時の光景に比すれば、葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、蒹葭の間に葭雀の鳴くを聞かず。たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ

五月廿一日。風歇み蒸暑くなりて雨ふり出しぬ。深更に至りていよいよ降りまさりぬ。

五月廿三日。雨ふりつゞきて心地爽かならず。・・・。

五月廿四日。両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り讀書創作意の如くならず、夜々眠り得ず。大石國手の許に使を遣し薬を求む。午後雨の晴間を窺ひ庭のどうだん黄楊の木などの刈込をなす。夜四谷の妓家にお房を訪ひ歸途四谷見付より赤坂離宮の外墻に沿へる小路を歩みて青山に出で電車に乗る。曇りし空に半輪の月を見たり。

五月廿八日。黄昏驟雨。

五月三十日。・・・。此日曇りて風涼しく歩むによければ、神田橋より二重橋外に出で、愛宕山に登りて憩ひ、日暮家に歸る。初更雨烈しく降り出しぬ。

五月三十一日。陰晴定りなく時々雨あり。・・・。夜また雨。"


・ドイツ、ハンブルク市、警察の家宅捜索で秘密兵器庫・国防軍と右翼団体の連携文書発見。

・ドイツ、ザクセン州社会民主党指導部、共産党と連携してプロレタリア防衛組織結成決定。

・オランダ領インドネシアで電車・鉄道組合がストライキに突入。3週間で終息。スマウンら共産党指導者、逮捕の後、流刑や国外追放となる。

・バルセロナ地方でゼネスト。


つづく

2023年7月29日土曜日

自民、教団問題に幕引き? 「マザームーン」とたたえた議員も支部長(朝日); 自民党は28日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の韓鶴子(ハンハクチャ)総裁を「マザームーン」と呼んだ山本朋広・元防衛副大臣を、衆院神奈川4区の支部長に決めた。次期衆院選で公認する。       

小池都知事、ビッグモーター「街路樹」問題を調査指示するも支持は得られず…「明治神宮外苑と葛西臨海水族園で大伐採するくせに」(FLASH) ← だよな!

〈100年前の世界016〉大正12(1923)年4月12日~27日 ヤンキー・スタジアム開設 朝鮮衡平社結成 ロシア共産党第12回大会(荒畑寒村ら傍聴、荒畑挨拶) 天津総領事吉田茂、日貨排斥に対する取締を要求   

 

新旧ヤンキースタジアム

〈100年前の世界015〉大正12(1923)年4月1日~10日 天津商会で日貨排斥運動を議論、大デモ組織 共産党機関誌「赤旗」創刊 共産主義青年同盟結成(川合義虎) 中野鈴子(17)、「炊事兼監督」として兄重治と同居 より続く

大正12(1923)年

4月12日

・摂政・皇太子裕仁、台湾訪問

4月13日

・大阪鉄道の大阪天王寺駅が開業。

4月14日

・石井・ランシング協定廃棄の日米公文交換。16日、発表。

4月15日

・日華合弁魯大公司設立(鉱業会社)。

4月15日

・中野重治と愛し合った薄金まさを(「歌のわかれ」の頼子のモデル)、寺沢正好と結婚するため、横浜からサンフランシスコに向う。まさをの兄と寺沢が同級生であり、結婚話が進んでいた。

しかし、この結婚はうまく行かず、まさをは寺沢と離婚して帰国することになる。

のち、まさをは石川氏と再婚し、子どもはなかったが、幸福な晩年をおくった。

彼女は、1984年11月25日、京都市伏見区深草の自宅で急性心不全のために86歳で亡くなった。亡くなる3年まえ、彼女は兄の雨田光平と「重治さんとすず子さまのお墓詣でにまゐり、まはりの草をとり、つつじの間にお花の種をまきちらしてまゐりましたが、なみだで胸一はいで御座いました」と、大牧富士夫氏あて81年8月16日づけの手紙に書いている(『幻野』第27号)。

4月17日

・日本労働総同盟中央委員会、「朝鮮人労働運動の調査及提携を進めること」決議。

8月25、26日の中央委でも「植民地人民の無産階級運動の促進に努力する」と決議。

4月17日

・ソ連共産党第12回大会。~25日。レーニン不在。ジャノビエフ・カーメネフ・スターリンの3頭制台頭。トロツキー、工業製品と農産物の鋏状価格差に警告。トロツキーはグルジア問題に言及せず工業化の弁論を行う。スターリンは代議員選択を周到に行う。

4月18日

・ニューヨーク州にヤンキー・スタジアム開設。

「ヤンキースは1913年からポロ・グラウンズをニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と共用していた。しかし1920年、ベーブ・ルースがレッドソックスからヤンキースに移籍、54本塁打をマークする大活躍で一気にスター選手になり「ルース効果」でヤンキースの年間観客動員が大リーグ史上初めて100万人を突破した。これに気分を害したジャイアンツのジョン・マグロー監督は「1921年以降はポロ・グラウンズを使うな」とヤンキースに通告した。

そこでヤンキースは新球場の建設を決めた。最初はマンハッタンへの建設が検討されたがルース効果で儲かっていたヤンキースでさえ手が出せないほどマンハッタンの地価・花崗岩掘削費が高かったため、これは断念せざるを得なかった。他の地区を調査したヤンキースは1921年2月6日、ハーレム川を挟んでマンハッタンの反対側に位置するブロンクス区の材木置き場を10エーカー購入した。.....。新球場は、僅か230日で建設され1923年4月18日、ボストン・レッドソックス戦で開場。74,217人の観衆が集まり、さらに20,000人ほどが球場に入りきれなかったという。

こういった建設の経緯から、ヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」(The house that Ruth built )との異名をもつ(開場翌日の19日に「ニューヨーク・イブニングテレグラム」のスポーツライターフレッド・リーブが呼んだとされる)。しかし、開場時は左中間が異常に深く(「デスヴァレー」(Death Valley)=「死の谷」と呼ばれた)、逆にライトポールまでの距離が短かったため「(左の強打者である)ルースのために建てられた家」だという声も存在する。また、この球場で初の本塁打を放ったのもルースで、「ここで初めてホームランを打ったのは僕だけど最後に打つのは神様しか知らない」と発言した。.....

(略)

ちょうど開場50周年となった1973年のシーズン終了後、ヤンキー・スタジアムは老朽化のためいったん取り壊された。翌2年間新ヤンキー・スタジアム建設工事が行われ、その間ヤンキースはメッツの本拠地シェイ・スタジアムを間借りした。新球場は1976年4月15日に開場。その姿は、重厚な外観やフィールドの形状などの旧球場の特徴を残していた。.....

1980年代に入るとヤンキースは長い低迷期に入った。.....

1996年にヤンキースは15年ぶりのリーグ優勝・18年ぶりの世界一と復活を果たした。1976年以降は20,000人台だった1試合平均の観客動員が、世界一の翌年の1997年からは30,000人を下回らなくなった。2003年以降は観客動員が全30球団中1位となりながらなお伸び続け、球場移転へと至っている。

2009年には新ヤンキー・スタジアムが完成し、それにともない従来のヤンキー・スタジアムは2008年のシーズンをもって閉鎖されることとなった。.....」(Wikipediaより)

4月19日

・山崎今朝弥・平沢計七の「労働週報」、廃刊。山崎の労働戦線統一の企て破れ、意欲喪失。

4月19日

・エジプト国王ファード1世、憲法公布。立憲君主制(エジプト王国の独立)・普通選挙制・二院制を規定。9月27日民族主義政党ワフド党、選挙で大勝。1924年1月28日サード・ザグルール、首相に就任。

4月20日

・蒋介石、広州に至り大本営参謀長に就任。

4月20日

・内田外相、後藤新平に日ソ第3次交渉開始に異議のない旨を通告。

4月20日

・有島武夫、秋田雨雀・橋浦泰雄と山陰の旅(米子、松江、鳥取)に出かける。鳥取の講演会翌日、砂丘に遊び「浜坂の遠き砂丘の中にして寂しき我を見出たるかな」を与謝野晶子に送る。

4月23日

・第2次ローザンヌ会議。連合国・トルコ、ローザンヌ条約締結

4月24日

朝鮮衡平社(こうへいしゃ)結成。姜相鎬ら。40万人の被差別民(白丁)網羅。慶尚南道晋州。水平社(1922年結成)とも連携。

4月25日

・上海、大韓民国臨時議政院会議。議員13人の署名で臨時大統領李承晩弾劾案提出。大正14年3月除名。臨時大統領に朴殷植(80)。

4月25日

・午後、荒畑寒村・片山潜・山崎一雄、ロシア共産党第12回大会傍聴。議長カーメネフ。会場で、ラデック、ロゾフスキー、カラハン、ジノヴィエフ(26日)、ルナチャルスキー、セマシコに紹介される。トロツキー、ジェルジンスキーの演説。ジノヴィエフから大会での挨拶を要請され、コミンテルン極東部長代理ヴォイチンスキーに添削して貰い、夜、議事終了後、英語で挨拶。外務次官補リトヴィノフが通訳。

4月26日

・メキシコで1917年の革命以前に与えられた石油採掘権の効力が認められる。

4月27日

・政府、台湾銀行滞貸金整理資金5,000万円を特別融通。

4月下旬

天津総領事吉田茂、直隷交渉員祝惺元に、日貨排斥に対する取締を要求。だが、この段階の北京政府は運動にある程度支持的な態度を取っていたため、祝はすぐに返答しなかったので、吉田は直接省長王承斌に、再度取締を強く求める。


つづく


【「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代が到来した」】 「史上最も暑い7月」が確実に 国連事務総長「地球沸騰の時代来た」(朝日); 世界気象機関(WMO)と欧州の気象情報機関「コペルニクス気候変動サービス(C3S)」は27日、7月の世界の平均気温が観測史上最も高くなることが確実になったと発表した。 / 猛暑再び、26日から「10年に1度」の高温予想 熱中症などに注意(朝日) / 記録的猛暑、7月は「数千年ぶり」の可能性も 米NASA(日経) / 世界各地で猛暑、米デスバレー53度・フェニックス18日連続43度超え 韓国では豪雨被害で40人が犠牲に(ニューズウィーク日本版)

 

 

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2023年7月28日金曜日

〈100年前の世界015〉大正12(1923)年4月1日~10日 天津商会で日貨排斥運動を議論、大デモ組織 共産党機関誌「赤旗」創刊 共産主義青年同盟結成(川合義虎) 中野鈴子(17)、「炊事兼監督」として兄重治と同居

 

中野鈴子

〈100年前の世界014〉大正12(1923)年4月 満鉄ハルビン事務所に調査課(宮崎正義ら)設置 宮沢賢治、妹の死去後半年してようやく詩作を再開 窪川鶴次郎と中野重治が四高の短歌会で出会う より続く

大正12(1923)年

4月1日

・朝鮮民立大学期成会が創立

4月1日

・朝鮮水産令施行。

4月1日

・「科学画報」創刊(新光社)。

4月1日

・ソ連漁業庁と日本業者代表間でソ連沿岸漁区借区契約成立(但しソ連、日本の出漁を容認せず)。

5月10日、日本の漁夫への査証付与を承認。

4月1日

・樺太漁業税規則公布施行。

4月1日

・イギリス、タンガニーカに人頭税を採用。

4月1日

・フランス、義務兵役を1年半に短縮。

4月2日

・日本銀行、台湾銀行整理資金特別融通を承認(限度5,500万円)。

4月3日

・天津商会会董・行董会議、日貨排斥運動を議論(~4日)。

この日(3日)、商会会長は、「中国は武力を以って抵抗することがでない目下に於いて、我らにできるのは経済絶交のみ、この責任は吾輩商民にほかあるまい」と述べ、続いて団体代表会代表も「目下、政府による外交交渉の成敗は国民次第である。国民にして出来得ることは劣貨拒否であり、商人が日貨売買を止める以上、経済絶交の目的が達成できるのであろう」と呼びかけた。

会議の最後に、①政府国会に通電し、二十一個条撤廃の要求を促す、②日本政府に電文を発し、中日親善の真義を問い、中国政府による二十一個条要求撤廃の承認を促す、③全国各地商会に一致して行動を取るよう通電を発する、④日貨排斥にあたって、脅迫手段を禁ずるといった内容の決議。同日、天津商会は各業界公会に対し、「それぞれ代表を決め、毎日本会と連絡を取り、目的達成のため、民心鼓舞のために努めるべき」と求め、全国各省の各商会に「日本との経済絶交を公言し、日貨排斥を行う」と宣言し、「一致たる行動をとるよう」と呼びかけた。

翌4日の全体会議では、「民意の順応、輿情の体察、厳正な交渉、二十一個条廃止、旅大回収を以って、国権維持を図るよう」という政府に対する要請文が決定。尚、旅大に対する日本の侵略行為に抗議するため、商会が天津日本商業会議所に直接手紙を送り、「公約の保持と平和の維持がされるべく、貴国政府に旅大の返還、二十一個条要求無効の宣言を促してほしい」と求めた。

これに対し、天津日本商業会議所が「これは我が国の国策に関わることであり、一商業団体が容喙する事ではあるまい。政府に要請する事は到底できず、遺憾に存ずる」との意思を表明。天津商会会董楊暁林は、「日本商業会議所の回答に接し、日本商人が自国政府に対する声援熱意の高さが窺えた。吾人もまた我政府を必ず擁護し、外交交渉に声援し、我商人の人格を保つべき」と述べた。

4月3日

・共産党機関誌「赤旗」創刊。「前衛」「無産階級」「社会主義研究」3誌が合同。7月「階級戦」と改題。8月終刊。

「無産階級から見た朝鮮解放問題」と題する29人(うち朝鮮人2人)のアンケート。

①朝鮮の民族的独立と朝鮮無産階級の資本主義からの解放とを対立的に捉え、前者を無意義とし、後者とのみ連帯せよとする傾向。

国領伍一郎(総同盟京都連合会)、「「朝鮮の独立」と云ふ事は、朝鮮の資本家階級には日本の帝国主義的支配から独立して、自由に思ふ存分自国の労働階級の生血を吸ふ事を意味し、労働階級には日本の帝国主義支配から脱すると共に、同時に資本主義的搾取から脱する事を意味してゐると云ふ事が労働階級にも資本家階級にも解って来た。「朝鮮労働者共和国」こそ今日の朝鮮の無産階級の××運動の目標である。」。

赤松克唐(総同盟書記)は、「所謂朝鮮独立運動は時代遅れである」と答える。彼は、4月17日の総同盟中央委員会で、「朝鮮人労働運動の調査及び之れと提携の件」を説明し、「単なる民族独立運動であれは、それは大帝国主義に反抗する小帝国主義であるのだから、無産階級運動とは緑のないものである」と言う。

この日の中央委員会決議は、赤松提案を受けて、「朝鮮民族の解放運動は、それが無産階級化する限りに於て、日本無産階級の解放運動と共同の敵を有するものと認む」という表現をとり、赤松的見解が先進的労働者の間に一般的であったことを示す。1920年夏のコミンテルン第2回大会の、帝国主義国の共産党は共産主義的ではない革命的民族解放闘争を支持しなければならぬとの方針は、日本ではまだ理解されていない。

②朝鮮解放は日本革命達成によって初めて可能であるとの見解が支配的。

北原竜堆(「進め」主宰者の1人)は、「朝鮮を併合した者は、日本ではなくて「日本の有力者」です。それで此の権力者さへ消滅せは、併合そのものが消滅する」。

赤松克麿は、「極東民族の自決問題も極東無産階級の解放問題も、その一切の解決の鍵が日本の帝国主義的資本主義の没落に於て見出される」。

日本人27人の回答の中で、朝鮮放棄を迫れと明記しているのが、堺利彦(共産党総務幹事長)・渡辺政之輔・川合義虎(以上南葛労働会)、坂口義治(鉱夫庵連合会)、梶喜助(不明)の5人だけ。

③朝鮮無産階級は、日本無産階級と同一組織に属すペしとの主張が見られる。

野坂鉄(総同盟書記)は、「日本の労働者と朝鮮の労働者とが、一つの労働組合一つの政治的又は思想的団体を組織し、他方に、ロシアの援助を得て、朝鮮及び日本の資本主義に打突かることが朝鮮解放の唯一の手段と思ふ」と書く。「階級的解放即ち無産階級革命を目的とする運動と雖も、現に存在してゐる民族運動の勢力を無視せずに、飽くまでこの運動の内にペネトレートして、之を無産階級運動の方向へふり向ける事に努力すべきではないでしやうか」と、アンケートの中では例外的に独立運動を重視する荒畑寒村といえども、両民族の無産階紋は「同一の戦線を組織し、協同の戦術を採用し、合同の機運を促進」せよと主張。

組織合同論は、主観的善意から出ているとしても、①の朝鮮の民族運動の独自の意義の軽視と、②の日本革命優先の見解の結合から来る組織論としての結論である。朝鮮の解放はプロレタリア革命によらねは実現できず、それは日本革命があって可能だから、朝鮮革命家はすべからく日本の革命組織に合同して、まず日本革命に献身せよ。これでは、朝鮮人民のナショナリズムを無視した形を変えた同化主義だと云われても仕方ない。

南葛労働会指導者川合義虎 ;

「日本の労働者階級は、朝鮮植民地の絶対開放を叫び、経済的にも政治的にも民族差別撤廃を主張し、具体的には朝鮮よりの軍隊撤去、日鮮労働者の賃金平等を要求し、運動場の完全な握手と、同一戦線に立つことを、最大の急務として努めなければなりません。」

4月4日

・ソ連、トロツキー「日常的名人間関係における礼儀作法と礼節」。官僚の農民、労働者に対する粗暴さ

4月5日

・共産主義青年同盟結成。委員長川合義虎。

〈高瀬清の回想による青年同盟結成過程〉

高瀬は、この前年(1922年)1月、極東諸民族大会(モスクワとペトログラードで開催)に日本代表の一員として参加し、6月に帰国した。さらに9月末、高瀬はロシアへ向けて出発し、コミンテルン第4回大会(1922年11月、ペトログラードとモスクワで開催)において、日本共産党の創立(同年夏結成)を報告した。その際、高瀬は共産主義青年インターナショナルから日本共産青年同盟設立の指令をうけ、翌年1月頃帰国する。

青年同盟の組織準備委員会委員長に佐野学、委員に川崎悦行、荒井邦之介、高橋貞樹、猪俣津南雄、高瀬清が任命された。彼らは、1923年4月に青年同盟を非合法に結成した。暁民会事務所(東京都豊多摩郡戸塚町字源兵衛)が結成の会場で、委員長には川合義虎(本名川江善虎)、顧問として佐野、猪俣、高瀬、委員には川崎、荒井、高橋、岸野重春、高野実が選ばれた。

4月5日

・モンタナ、ネバダの両州で初の老齢年金法制定。

4月7日

・ドイツ、エッセン市内、アルバート・レオ・シュラーゲーター(ドイツの右派軍人)、フランス刑事警察に逮捕。

10日、デュッセルドルフのフランス軍法会議でスパイ・サボータージュにより死刑判決。2週間後処刑。極右派はプロイセン内相ゼーベリングに釈放運動を失敗させた罪ありと非難。事実無根。

4月8日

・中野鈴子(17、福井県坂井郡立女子実業高校を卒業)、金沢市古寺町の若林喜三郎方に下宿する兄重治と同居することになる。3月、兄重治は落第し、父藤作は重治が2年生を二度にわたり落第したことで危機感を抱いた。あと一度落第すれば、自動的に退校となり、重治の将来は閉ざされる。藤作は重治の「炊事兼監督」のために鈴子を金沢に送った。

この金沢の生活で、鈴子は村の家のなかに囚えられていだ自我の解放の時をむかえる。

鈴子ははじめて歌を知った。兄のまわりには歌があり、友があり、恋があり、青春があることを知った。

4月8日

・中原中也(3月、山口中学を落第し退学)、京都の立命館中学校に補欠合格し第3学年に編入。

中也は、京都市上京区岡崎西福ノ川沢田方に下宿(吉田神社と平安神官の中間にあり、広小路学舎(京都市上京区清和院口寺町東)へ通った。

9月、京都市上京区聖護院西町藤本大有方へ転居。

11月、京都市丸太町中筋菊ヤ方へ移る。

4月9日

・アフガニスタン、憲法発布

4月10日

・天津商会、商民10万余で天津商業界大デモ。同時に直隷省公署に請願書を宛て、省長に「この存亡に関わる事態に、輿情に目を向け、大総統及び国務院・外交部に旅大回収・二十一個条無効宣言するよう働きかけて貰いたい」と要請。請願書を受け取った当時の直隷省長王承斌が即座に「これは中国の存亡に関わる問題であり、中国人ならだれでも立向かわなければならぬ。国権国土の回復、子孫後世の幸福にも繋がる大問題である。旅大の回収に対する気持ちは諸君よりもなお一層強く、皆さんの行動に極めて同情しており、速やかに政府に打電するつもりである」と返答。

この月初めより、天津商会は商会直属の各同業会に日貨排斥の具体的方法を考えるよう督促していた。この督促により、海貨同業公会、祥号公会、綿糸綿布商同業公会などが相次いで日貨排斥の方法を決め、日貨排斥に対する確固たる態度を明確に示した。9日までに、「自覚的に(排斥方法)を報告してきたのは二十余行有り、国民の熱意そのものが感ぜられた」とのことで、同日に天津商会がこれらの方法を取り纏めて天津各業商に通告した。

具体的な排斥方法は、①日貨扱いのある各行商は在庫の日貨を棚卸し、その数量を本業公会と本会に報告、②新たに契約・購入することを禁ずる、③上記①の商品を忠実に申告すれば、その販売は許可する、④販売時にその販売証明を公会に提出し、闇販売を防止する。

4月10日

・競馬法が公布

4月10日

・樺太鉄道(株)設立(東京)。1927年11月20日、落合・知取間開業。

4月10日

・与謝野晶子(45)、評論集「愛の創作」刊行(アルス)。第11評論集。


つづく

2023年7月27日木曜日

横浜の野田岩さんでうな重を頂く 2023-07-27

 7月27日(木)はれ

連日、危険な暑さが続く。

今日は横浜の野田岩さんでうな重を頂く。

野田岩さんは初めて。当然、出てくるまで時間がかかるのを覚悟して、出てくるまでは何を頼もうかと思案してたら、意外にもサッサと出てきたので驚いた。

当たり前だけど、美味しかった。






「いのち輝く」「ブラック万博」 → 万博のためならルールも破る? 時間外労働の上限があるとパビリオン間に合わず 来年開催なのに、現地は今(東京) / 単なる繁忙は規制外と認めず 万博工事の残業巡り厚労相(共同) / 「労働者の犠牲やむなしと言わんばかり」 万博「残業規制外」に抗議(朝日) / 万博工事に「残業規制を適用しないで」 協会が政府に要望、異論続々(朝日) / 大阪万博の工事、残業規制適用外に 作業遅れ協会側要請(日経) / 十倉雅和経団連会長が会長を務め、副会長には吉村洋文大阪府知事と横山英幸大阪市長、新浪剛史経済同友会代表幹事、関西財界の大物が顔を並べる「日本国際博覧会協会」は、「いのち輝く」大阪万博のためなら底辺の作業現場で多少の死人が出ても構わないというのか。(山崎雅弘)   

 

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また維新の不祥事(現役国会議員和田有一朗氏) → 日本維新の会の衆院議員を事情聴取 神戸で当て逃げ容疑(関西テレビ) / 維新の和田衆院議員、事故不申告か 運転中にミニバイクと接触し走り去る 垂水署が任意聴取(神戸新聞NEXT) / 維新・和田有一朗衆院議員、事故不申告か 兵庫県警が任意聴取(毎日)      

𠮷村大阪府知事(維新)「街路樹は公共物」 → 「除草剤どころか、維新になってから大阪市は立派な街路樹何千本も切りまくってたやん。」と出るわ出るわ、維新の「木を切る改革」の実態

 

〈100年前の世界014〉大正12(1923)年4月 満鉄ハルビン事務所に調査課(宮崎正義ら)設置 宮沢賢治、妹の死去後半年してようやく詩作を再開 窪川鶴次郎と中野重治が四高の短歌会で出会う 

宮沢賢治

〈100年前の世界013〉大正12(1923)年3月15日~31日 共産党石神井会議(綱領草案(「22年テーゼ」)討議) ヨッフェ・後藤会談進む 陪審法成立 上海で対日抗議デモ 天津でも集会 荒畑寒村、モスクワへ出発 より続く

大正12(1923)年

4月

満鉄ハルビン事務所に調査課設置。嶋野三郎・宮崎正義らロシア語のベテランが配置、「北満およびこれに接壌せる極東露領の基本的調査」という要請にこたえ、設置後まもなく「労農露国研究叢書」(全6巻)、「露西亜経済叢書」(全8巻)を刊行、定期刊行物として「ハルビン事務所調査時報」も発行、~大正15年12月。

・(株)マキノ映画製作所創立(改組)。11月、マキノキネマ(株)となる(社長牧野省三。俳優阪東妻三郎ら)。1924年6月東亜キネマ(1923年12月設立)と合併。

・荒畑寒村(36)、「反対運動に対する所信(アンケート)」(『進め』算1巻第3号 4月号)

・平林初之輔「知識階級の分解」(『解放』)

・広津和郎、芸術社を設立、「武者小路実篤全集」刊行。事業は失敗、この年の震災で家屋は倒壊し会社は破綻。

・正宗白鳥「生まざりしならば」(「中央公論」)

・江戸川乱歩「二銭銅貨」

・太宰治(14)、青森県立青森中学校(現・青森高等学校)に入学。遠縁の青森市寺町14番地豊田太左衛門方に寄宿。

宮沢賢治(27)、~5月。詩「外輪山」、童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」(岩手毎日新聞)。詩「角礫行進歌」「青い槍の葉」[国柱会機関誌天業民報]。

前年(1922(大正11)年)11月27日、結核で病臥中のトシが死去。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。

また、この翌年(1924(大正13)年)4月20日『心象スケツチ 春と修羅』刊行。同年12月1日『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』刊行。

・武田麟太郎(19)、京都の第三高等学校文科甲類に入学。この頃、文学に対する疑問が生じ苦悩の日々を過ごす。上級に梶井基次郎、中谷孝雄、外村繋がいたが、交わりをもつのは上京後。同級の真下信一がこの頃を通じての友。

窪川鶴次郎、四高理科乙類を落第し、二度目の二年生を始める。自分で自分をもてあましていた鶴次郎は、堕落から抜け出す道を文学に求めることに決め、文芸部でやっている短歌会へ出席するようになる。

四高の短歌会は兼六園の貸席で開かれ、その会に出かけてゆくと、そこに中野重治がいた。その邂逅を手始めに鶴次郎は毎日重治とともに時を過すようになる。「ひとりでいると身体そのもののバランスが破れるようで、中野との文学的な交遊関係以外には私の生活はなかった」という具合になった。

・秩父宮、皇族としての素養をつむ為の進講を受ける。~大正14年4月の英国留学までの2年間。


■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年4月、荷風45歳)

四月一日。東京の櫻花は未開かず。風烈し。・・・。

四月二日。晴天旬餘。風強く塵烟雲の如し。市兵衛町表通の老櫻三分通花ひらく。午後四谷のお房来りて書斎寝室を掃除す。夜随筆耳無草を草す。

四月三日。・・・。風冷なり。

四月五日。風俄に寒く夜に入りて雨雪に変ず。

四月七日。雨歇みしが空晴れず風冷なり。富士見町に往き賤妓鶴代と九段の花を見る。

四月八日。夕刻驟雨。

四月十一日。快晴。・・・。夜に至り雨ふる。

四月十二日。雨午後に晴る。

四月十四日。・・・。春日駘蕩、品海の眺望甚佳し。・・・。

四月十五日。晴天。風猶寒し。今年花開きてより気候順調ならず。

四月十六日。俄に暑くなりぬ。・・・。

四月十七日。夕方より風吹き出で大雨となる。・・・。

四月十八日。日の光夏らしくなれり。・・・。風吹き出でしが雨にはならず。・・・。

四月二十日。晴れしが風猶冷なり。本年の春ほど気候不順なる時節は罕なるべし。宿痾よからず。深更雨。

四月廿一日。・・・。曇りて風寒し。・・・。

四月廿四日。午後散歩。・・・。風寒く日暮雨となる。四月末の気候とは思はれず、暖爐に火を焚く。

四月廿五日。雨ふる。・・・。

四月廿八日。・・・。薄暮細雨糠の如く風竹淅瀝たり。・・・。

四月三十日。曇りて風冷なり。・・・。


・アメリカ、共産党,コミンテルンの指導により地下指導部を解散し,アメリカ労働者党に一体化. 

・アメリカ、農業信用法制定。

・ブルガリアとユーゴスラビア、ニッシュ協約締結。マケドニア人のテロ行為防止のため、国境規制を強化。

・ブルガリアで選挙。農民同盟大勝。

・アルジェリア、財政審議会選挙でハーリド派敗北。

・トロツキー、ウクライナで『ロシア共産党第12回大会の課題』と題して演説をし、ネップの問題と民族問題を訴える。

・ヘミングウェイ(24)、「リトル・レビュー」誌に超短編6作と詩1編が掲載。


つづく

 

2023年7月26日水曜日

暑中お見舞い申し上げます 2023年盛夏 (写真は江ノ電鎌倉高校前駅 2023-07-26 この日の横浜の最高気温は37℃でした)

 


7月26日(水)

朝から大船でヤボ用あり、それがam11時頃終わったので、横須賀線~江ノ電ルートで、まず鎌倉高校駅に行きました。 

久しぶりの良い海です。 

そのあと、七里ヶ浜へ行って、次に鎌倉駅近くの大巧寺と本覚寺に寄りました。本覚寺のサルスベリ、まだほんのちょっと。

夜のニュースでは、今日の横浜は37℃だったとか。

危険な暑さ。

でも、明日も、どこかに行く予定。






初の核実験降下物を再解析 「人新世」モデルのカナダ湖にも到達(毎日);「広島と長崎への原爆投下に先立つ1945年7月に行われた人類初の核実験「トリニティ」の放射性降下物(フォールアウト)が、爆発から10日間に周辺へ広がる様子などを再現したシミュレーションを、米プリンストン大などの研究チームが作成した。これまで影響が過小評価されていた可能性を示唆する内容で、放射性降下物は米南西部ニューメキシコ州にあるトリニティの実験場から全米50州のうち46州とメキシコ、カナダ東部にも広がっていた。」    

 

〈100年前の世界013〉大正12(1923)年3月15日~31日 共産党石神井会議(綱領草案(「22年テーゼ」)討議) ヨッフェ・後藤会談進む 陪審法成立 上海で対日抗議デモ 天津でも集会 荒畑寒村、モスクワへ出発        

 

荒畑寒村

〈100年前の世界012〉大正12(1923)年3月1日~14日 普選法案否決 レーニンのトロツキー宛メモ(口述筆記) ヨッフェ・後藤交渉開始 日本初の「国際婦人デー」集会 「二十一個条撤回」「旅大回収」のスローガンを掲げた日貨排斥運動(上海、天津で熾烈) より続く

大正12(1923)年

3月15日

・朝鮮義烈団の陰謀事件、発覚。朝鮮総督府爆破陰謀の理由で義烈団員金始顕、黄鈺ら14人逮捕。黄鈺警部事件。

3月15日

・満州紡績(株)設立。

3月15日

・石神井会議。共産党第1回中央委員会総会(臨時大会を兼ねる)。東京府下石神井の料理店「豊嶋館」。総務幹事長から「細胞数十四、細胞員数五十八」と報告。綱領草案(「22年テーゼ」)討議。君主制廃止スローガンに堺利彦らが反対し審議未了。コミンテルン拡大執行委員会への代表として荒畑のモスクワ派遣決定(党成立の正式報告)。

①天皇制廃止を綱領に掲げる事の可否、②当面目標とすべき革命をプルジョワ(民主主義)革命とするかプロレタリア革命とするかの2点に議論を絞るが、結論を得られず。22年テーゼの政治・経済的分野での民主主義的スローガン、当面の具体的戦術として強調された普選運動への参加には討論が及ばず。合法政党結成問題も、執行委員内部では1人を除き賛成で、議会ボイコットはしない事で全員一致していたにも拘らず審議未了、大会延期という結末。

この事態は、①山川均ら共産党主流に、22年テーゼを理解する思想的準備がない、②22年テーゼに勢いづく議会進出派が、テーゼの趣旨に反する新綱領を主流派に作成させなかった、ことを示す。綱領起草委員会が成案を得なかった一つの理由は、普選問題を巡る意見対立であった。この会議で決定された唯一の議題は、コミンテルン拡大委員会への日本代表に荒畑寒村を指名したということで、それは起草委員会の一員で頑強な非普選派の荒畑に、直接コミンテルンの意向を確かめさせようとの配慮に基く。

渡辺政之輔は、議会ボイコット反対・合法無産政党即時結成を強調し、その政党の組織要素は無産階級に限ること、組合幹部を党の幹部としてはならぬことなど、注目すべき発言。

綱領草案は、日本を「封建制度の残存物が今なお優位を占めている」国家とみなし、権力は天皇を頂点とする大地主と一部のブルジョアの連携の上にのっているとみる。そこで、日本革命の第一段階は、プロレタリアートが農民や(権力に繋がっていない)ブルジョアと協力して起こすブルジョア革命(天皇制を廃止して共和制に)、その次の段階がプロレタリア独裁を実現するプロレタリア革命だという二段階革命論に立ち、ブルジョア革命はプロレタリア革命の「直接の序曲となりうる」と判断。この分析の上に、君主制廃止、普通選挙権、出版・集会の自由、労働組合、デモ・ストの自由、八時間労働制、天皇・大地主などの土地没収・国有化などからなる22項目の民主王義的スローガンを当面の要求として示す。

3月中旬

・芥川龍之介、3月中旬から1ヵ月、再び湯河原に静養。その間に「保吉の手帳」(『改造』1923年5月、のち「保吉の手帳から」と改題)を書く。虚構を生かした〈歴史もの〉が億劫になった彼は、身辺に取材した現代ものをこのころから書き始めるの。

3月15日

・ドイツ、シュラゲター事件。右翼急進派アルベルト・レオ・シュラゲター、ルール地方占領妨害の為デュッセルドルフ近郊鉄道爆破。フランス軍に逮捕、軍法会議。5月26日、銃殺刑。

3月15日

・連合国、ポーランド東部国境を確認。

3月18日

・有島武郎、波多野秋子に交際を絶つ手紙を届ける。

有島は15日付で秋子から、夫と有島の間で揺れる心の内を切々と語る手紙を受け取る。

3月18日

・奈良県で水平社員700人と八尾国粋会員および村民ら600人が衝突、軍隊が出動(水国争闘事件)。19日、双方各千数百人が激突。20日、和解。

3月18日

・クロアチア、選挙。急進党とクロアチア農民党が躍進。

3月19日

・埼玉、南畑村小作争議、小作地一斉返還。

3月19日

・日本勧業銀行法中改正(勧業債券の割引発行・農工業向け無抵当短期貸の実施など)・北海道拓殖銀行法中改正(樺太の公共団体向け貸出の容認など)の2法律公布。

3月20日

・衆議院、中野正剛ら提出のソ連承認決議案を否決。

3月21日

・天津団体代表会、①各商店が「二十一個条撤廃・旅大回収」を書いた白旗を店頭に掲揚、②本月26日、南開学校にて市民大会開催、を決議

3月21日

・3月7日付けヨッフェの三条件に対して、首相側からもたらされた回答は、尼港事件の解決や国際義務の履行など、一定の条件が満たされれば、ヨッフェの要求を受け入れるとするものであった。これに力を得た後藤は、3月29 日、30日の両日にわたり、熱海をおとずれてヨッフェと会談し、三条件の内容についての論議をかわした。

3月21日

陪審法成立。この日、貴族院本会議に上程。若槻礼次郎が4時間に及ぶ反対演説、花井卓蔵が2時間にわたる賛成演説。深夜11時すぎの記名投票で賛成派が圧勝、陪審法はようやく成立。

陪審制は明治43年政友会が党議として取り上げた。一般国民を司法に参与させるための、立憲政と不可分の制度として主張され、原敬がその実現に力を入れてきた。

しかし、この制度が司法権の独立を犯し、帝国憲法に違反するとの反対論が枢密院・貴族院の一部で強く唱えられていた。枢密院が陪審の結論の裁判官に対する拘束力を弱め、また陪審に付する事件の範囲を限定するなどの修正を行なったうえで、大正11年2月27日、ようやく陪審法案を可決した。高橋内閣はこの陪審法案を折から開会中の第四五議会に提出、衆議院は通過したが、貴族院では反対派議員の審議引きのばしにあい、結局審議未了・廃案とされた。

原・高橋両内閣で司法大臣としてこの問題の直接の責任者であった大木遠吉は鉄道大臣として閣内にあり、また新たに大臣となった岡野敬次郎もこの法案の実現に熱意を示したため、陪審法案は第四六議会に再び提出され。

同法案は3月2日衆議院を通過、3月5日より貴族院での審議に入り、委員会では可決された。

陪審法は5年の準備期間を経て、昭和3年10月1日から実施されたが、国民の間には定着せず、陪審事件数は昭和4年以降減少の一路を辿り、昭和18年3月には、ついに制度の運用を停止され、そのまま今日に至っている。

3月25日

・上海市民、対日抗議デモを実施(各省に波及)。

3月26日

・天津商会及び団体代表会の動員により、天津各界20万余が参加した市民大会が南開学校で開催。

大会開催後、日貨排斥計画がたて始められる。

27日、団体代表会が「貴会は天津商業を全うする重要な機関であり、日貨排斥につき、弊会はご指示を仰いでいる」との手紙を天津商会に出す。また、29日には、団体代表会が代表3名を天津商会に派遣し、日貨排斥問題について打ち合わせる。代表の訴えに対し、天津商会会長は「商会会董・行董会議を4月3日に開き、この件を討議する」と決め、同日、団体代表会が各商店に対し「本宣言発表の日を日貨購買の最後の期限とし、これ以降の購買は違反行為と見做す」といった宣言書を出した。

但しこの時点では、天津『大公報』は、「市民が連日でデモなり、講演会なり、市民大会なりと行って居るが、問題の根本は日貨排斥にあり、日貨排斥こそ敵を痛めつけることができる。だが、日貨排斥が行われるか否かは天津商会の会議決定にかかるのであろう」と指摘している。

3月26日

・海軍技術研究所設立。

3月26日

・5海軍区を3海軍区とし舞鶴・鎮海両軍港を要港とする旨公布。4.1 施行。

3月26日

・フランス、女優サラ・ベルナール(78)、没。

3月27日

・遠藤周作誕生

3月29日

・北京商連会、21ヵ条取消し運動への支援を各国に訴える。

3月30日

・工場法改正(15歳未満適用を16歳未満に引き上げ、雇用者の責任を加重)・工場労働者最低年令法(14歳未満者の就業禁止。1926.7.1 施行)各公布。

3月30日

・日本銀行、朝鮮銀行に対し、朝鮮・樺太事業の為に発行する第1回5分利国庫債券引受資金特別融通を承認(限度額1,228万円)。

3月31日

・対支文化事業特別会計法公布。対中国文化事業助成のため特別会計を設置。団匪賠償金その他を対中国文化事業に充当。5.7 対支文化事業局完成公布。

3月31日

・航空局官制改正公布。航空局を陸軍省から逓信省へ移管。

3月31日

・ドイツ、エッセン市クルップ工場流血事件。労働者とフランス軍の紛争。労働者殺害13、エッセン郊外ウェルデン町での軍法会議でクルップ社長に禁固15年など判決。ドイツ議会・新聞の抗議。

3月下旬

荒畑寒村、モスクワへ出発。下関~長崎~上海、マーリングに会い入露手続きなど教わる。4月1日上海発。~南京~天津~3日奉天着~4日長春~5日ハルピン着~7日満州里着。ロシア領事館に入る。夜8時、馬車でロシア領最端国境停車場「八十一駅」着。1時間でマツィエフスカヤ駅着。12時チタ行き列車乗車。8日午後5時チタ(ザバイカル州首都)着。8日間滞在。14日チタの極東事務局でモスクワまでの同伴者カガンを紹介される。16日午前11時半チタ発。24日午後5時モスクワ北停車場着。


つづく