2013年10月13日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(8)「フエンデトードス村」(3) 「要するに社会的には絵師にすぎず、画家などという御大層なものではなかった。」

ゴヤ『戦争の参加』第1番「来たるべきものへの悲しい予感」
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ゴヤの誕生と父母
「一七四六年三月三〇日、ゴヤは当地フエンデトードス村で生れた。そうしてその翌日、村の教区教会で洗礼をうけ、洗礼名としてフランシスコ・デ・パウラ・ホセと名づけられた。

ゴヤの名は正式には、フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco de Goya y Lucientes)と呼ばれる。このおしまいのルシエンテスは母の姓である。スペイン人は、大体において母の姓を略して彼自身の姓でもある父の姓だけを名乗るのが普通であるが、なかには父の姓があまりに平凡であったり、母の姓の方が偉そうに聞えたりする場合に、母の姓を名乗ることもある。

父はホセ・ゴヤ、母はドーニァ・グラシア・ルシエンテスと呼ばれた。父のホセ・ゴヤの職業は鍍金師で、祖父は公証人であった。祖父が公証人であり、父が鍍金師であるということは、ゴヤ自身が、貧しい生れであるということにはならないであろう。そうして父は、サラゴーサに仕事場をもっていたものであり、フエンデトードス村の彼の生家は、父母の結婚以前はどうやら母方のルシエンテス家の所有になるものであったようである。

母方の系図は非常にはっきりしていて、ルシエンテス家はアラゴンの下級貴族、郷士であった。・・・父方の祖先が、バスク人の血をひいていることは明らかであった。」

「・・・
鍍金師は、誇り高い職業である。客筋は主として教会、修道院、異端審問所、官庁、貴族などであった筈である。さればこそ氏素性のはっきりした下級貴族の家から持参金つきの嫁をもらうことも出来たのである。ルシエンテス家は、この村におそらく土地と、水の権利をもっていたものであったろう。・・・。」

「ゴヤは一七四六年にこの村で生れ、一七五三年にはもう両親ともどもにサラゴーサへ引き揚げている。将来の画家は、五人の兄弟姉妹のうちの次男で、六つ年下の末弟カミーロは、後に聖職につき、マドリードにほど近いチンチョンという町の司祭になる。」

18世紀末のスペイン
「一八世紀の末、一七八七年-フランスの革命はもう目の前に迫っている-のスペインでは、なお一七の都市と二三五八の町、それに八八一八の村が領主支配の下にあり、三つの都市、四〇二の町、一二八〇の村が、各種の教団の支配下にあったものであった。・・・」

また、「一七八七年には乞食が全国で一五万もいたといわれる。この頃に人口が急増して一二〇〇万に達していたとすれば、ほぼ八〇人に一人が乞食であった勘定になる。・・・厖大な非生産的人口を抱えていたわけである。」

スペイン:芸術家の誕生する土壌
「この国は、歴史を通じて、どうにも近代化、資本主義形成へと他のヨーロッパ諸国がとりえた道を歩むことが出来なかった。そうして逆説的に言えば、そうした〝遅れた〞状態、たとえば異端審問に象徴される、近代の眼から見てまことに理不尽、なことのまかり通るところの、中世がいっまでも生きつづけている社会において、人間のやらかすこと、すること為すことについての透徹した認識を、ついに持たされた芸術家が誕生しえたのであった。たとえ、方法的にはほとんど無意識に近かったとはいえ、上は王侯貴族、枢機卿から、下は乞食や、ラ・プリュイエールの言い方によれば「野生の動物」である百姓までが描き切られた。絵画は、文学と異なって、時間のなかに動くものではないから、その定着にはある意味でいっそうきびしい認識力が必要であろう。」

「しかも、人間のやらかすこと、すること為すことについて、合理主義以前の、あるいは近代主義以前の、いわば中世的《迷蒙》と一般に呼ばれるものを勘定に入れない人間認識は、おそらく理屈倒れになるものであろう。」

ヨーロッパの東西の辺境、スペインとロシアの類似性
「そういう意味での人間認識においては、ヨーロッパの”遅れた”辺境である西端のスペインと、東の端のロシアとは、相対的に、意外に類似したものをもっているのである。ゴヤの晩年、彼の死の七年前に生れたドストエフスキーのことを思い出してみるのも無駄ではない筈である。『カラマーゾフの兄弟』中に挿入されている大審問官の劇は、スペインにおける異端審問にかかわっていることは言うまでもないであろう。

また近代のこととしても、たとえばレーニンは、農業国家としてのロシアとスペインの、資本主義への不適応性という点においての共通性を見ていたものであった。しかもこの不適応性の背後には、両者とも、革命運動の伝統を確実にもっていた。レーニンは一九二〇年代には、ロシア革命につぐ第二の革命をスペインに期待していた。」

ピニャテルリ家
「この村(ゴヤの生まれたフエンデトードス村)の領主がフエンテス伯爵であることは前に記した通りである。そうしてこのフエンテス伯は、サラゴーサで前記ルナ家と並び立つ名家であるピニャテルリ家に属する人であった。・・・このピニャテルリ家は、もとナポリの出身であって当時は全ヨーロッパ的に知られた家であり、ルナ家同様に、ローマ教皇インノケンチウス一二世を出している。当主フランシスコ・ピニャテルリ氏はストロンゴリ公と称され、その領地、あるいは財産は、アラゴン地方のことは別として、またナポリは言うまでもなく、フランドルにも、フランス、ドイツなどにもあった。年収は一九世紀のはじめに当時のイギリス・ポンドで一〇万ポンドもあり、支出はその倍であったという報告がある。」

「少年ゴヤは、やがてこのピニャテルリ家からの後見をうけることになる。フエンデトードス村の領主フエンテス伯爵は、当主フランシスコ・ピニァテルリ氏の伯父にあたる人であったと見られている。そうして、ついでにもう一つつけ加えておけば、当主フランシスコは、ルイ一三世の宰相・元帥であったリシュリューの孫にあたる人であり、・・・」

「少年ゴヤがサラゴーサにおいて、エスコラビオス修道会の経営する学校に入り、そこで読み書きをならい、やがて画才を認められて、ピニャテルリ家の保護していた画家ホセ・ルサーンのアトリエへ弟子として迎え入れられる。」

画家と絵師
「画家、画家といままで私は書いて来たものの、日本語としては、むしろ絵師、あるいは画工と書いた方が、当時の実状に近いであろうと思われる。たとえ、宮廷画家という称号と年金を、あるいは馬車などを与えられていたとしても、待遇としては、庭師などとそう異なったものではなかったのである。ベラスケスの如きは、画家としては、彼の傑作『宮廷官女図』のなかに、画家自身といっしょに描かれている道化師や一寸法師などと似たり寄ったりの格での待遇をうけていたものであった。彼はむしろ宮廷内での事務官僚としての宮内官職によって待遇されていたものであった。ベラスケスは晩年式部長官になり、結局はその劇職にたえられなくて死んだものであった。」

「要するに社会的には絵師にすぎず、画家などという御大層なものではなかった。王女や親王の肖像画を描くといっても、それは見合い写真の代りのようなものにすぎなかったのである。ある意味でゴヤは、宮廷絵師にすぎなかったものを、強引に宮廷画家なるものにでっちあげ、かつ画家という独立した芸術家としての存在をつくりあげた草分けであったかもしれない。」
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