2024年7月4日木曜日

東京都知事選挙の争点か否か…「明治神宮外苑の再開発」めぐる各候補者の訴えは【news23】; 都市計画公園を削ったのも、外苑全体を再開発促進区としたのも、三井不動産などによる事業を認可したのも東京都。住民の声を聞かず、イコモスの批判も無視し、「プロパガンダ」と反発する小池都知事。争点でないと逃げ回るのはあまりに都民を愚弄している。(山添拓)   

〈小池知事は「たしなみ」が無さ過ぎる〉  堤伸輔氏 「小池都知事は公務に名を借りた選挙戦をやっている、名を借りるというのは、まだしも、それは結局、都庁の職員や都の予算を使って公務というのは行われるわけですから、それは現職都知事としての『たしなみ』が無さ過ぎると思いますね」 / 片山善博氏「知事選で職務代理を置かないなら公務の時には取材をかけないがルール。現職の旨味を利用してフェアで無いやり方と小池都知事を批判。」 「小池さんは公務優先と言い  公務の時に取材させ  公務に名を借りた選挙運動をしている。」   

東京都知事候補の元安芸高田市長「石丸伸二氏」の理解しがたい言動 / 石丸伸二候補に大逆風…「恫喝」訴訟で2連敗、都知事選後の国政進出シナリオも狂いが(日刊ゲンダイ) / 石丸伸二氏言動で控訴棄却 市に賠償の一審支持、広島 | 2024/7/3 - 共同通信 ; 石丸前市長のうその主張で名誉を傷つけられたとして、山根温子市議が市と石丸氏に損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、広島高裁は3日、市に33万円の賠償を命じた一審判決を支持し、控訴を棄却した。 / ドトールに注がれる「石丸効果」都知事選でヒモ付き隠さず3番手から猛追、株価も爆上がり(日刊ゲンダイ);「ちなみに、鳥羽氏は安倍元首相夫妻と親交があり、ドトール・日レスは5月に「安倍に最も食い込んだ記者」と呼ばれる元NHK解説委員の岩田明子氏を社外取締役に迎えている。」       

労働党431議席、保守党102議席」 英総選挙、直前の情勢調査(朝日) / 極右の予想議席、過半数届かず 「包囲網」で大幅減か―仏総選挙 ; フランス国民議会(下院、定数577)選挙を巡る最新の世論調査で、極右野党・国民連合(RN)の獲得議席は従来予想を大幅に下回り、過半数(289)に届かないという予測が3日公表されました。(時事)   

 

「異様な選挙戦」「滑稽極まりない」島根・丸山知事 都知事選めぐりメディア批判「マスメディアがまんまと引っ掛かって」 | BSSニュース | BSS山陰放送 ← 電通の魔力

「樹齢100年超の大樹」まで…木を伐っても伐っても「東京に緑が増えている」発言への違和感(Friday)

「一日中ボケッとしていても報酬は1500万円だった」 東京都の「天下り天国」を経験者が明かす(デイリー新潮)

小池知事「特命」/都庁に「地上げ」専門部隊 建設局用地部に新設された「機動取得推進課」は総勢60人余。ぶん取った予算は440億円。すべて小池百合子のトップダウン!(FACTA 会員用記事);「東京都庁に「地上げ」を専門とする部署がこの4月1日付で発足した。建設局用地部に新設された「機動取得推進課」である。初代課長には建設局総務部内で広報広聴担当課長だった宮原祐二が充てられた。行財政改革が叫ばれる今日には珍しく、総勢60人余の大所帯の部署の設置が認められた。都庁内に慎重論があるなか、押し切ったのは小池百合子知事であった。」   

大杉栄とその時代年表(181) 1896(明治29)年1月18日~2月15日 広島裁判所・軍法会議、全員無罪釈放 漱石、子規に宛てて句稿を送る 鴎外『めさまし草』創刊 子規、臥床の日が多くなる 一葉「裏紫」 朝鮮、親ロシア派クーデタ(俄館播遷)              

 

旧ロシア公使館塔(ソウル)

大杉栄とその時代年表(180) 1896(明治29)年1月8日~16日 横山源之助が一葉を訪問 「「かしたし」とならば金子もかりん、「心づけたし」とならば忠告も入るゝべし。我心は石にあらず。一封の書状、百金のこがねにて転ばし得べきや。」(一葉日記) 子規『従軍紀事』 「 小生依例如例日々東京へ帰りたくなるのみ。」(漱石の子規への手紙) より続く

1896(明治29)年

1月18日

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ドイツ帝国建設25周年記念日で演説。「ドイツ帝国は世界帝国となった。」。

1月20日

広島地方裁判所予審判事吉岡美秀、三浦悟楼ら全員無罪釈放。先立つ軍法会議、判士長大島義昌少将、全員無罪放免

25日、三浦ら東京帰還。大歓迎。

1月24日

鴎外、陸軍大学校教官を兼務。

1月25日

安達こうから一葉に借金返済の催促

1月28日

漱石、子規に宛てて句稿を送る。「正岡子規へ句稿その十」を送る。40句。

29日にも句稿を送る。「正岡子規へ句稿その十一」を送る。20句。

1月28日

アルバート・アインシュタイン、3マルクを支払い、もはやドイツ市民(正確にはヴュルテンベルク領民)ではないことを証明する証書を受け取る。以後5年間、無国籍のまま。

1月30日

鷗外(34)、『めさまし草』創刊。

『めさまし草 まきの一』は菊判、頁数44、定価1部金8銭。発行所は東京市本郷区元富士町二番地、盛春堂。表紙は鷗外の親友、原田直二郎。

この『めさまし草 まきの一』には、俳句に関するものが3頁半を占めている。子規、鳴雪、瓢亭、碧梧桐、虚子の五人が俳句を2句ずつ計10句、虚子の「七部集」、また1月3日、子規庵での句会の題「霰」に因み、子規が提供したと思われる、芭蕉、其角、蕪村等の古人の「霰」の句33句が掲載されている。

つまり「『しからみ草紙』が西洋美学に立脚した文学評論による啓蒙を目ざし、ドイツ留学からの帰朝者としての新進気鋭の姿勢からいわば気負って生み出されたのに比べると、多少の差違があることを否定し得ない。」(成瀬正勝「文学」昭和 三〇年三月号)とあるような、編集方針の穏やかな変化は、鷗外と俳人である子規との出会いが関係しているのではないだろうか。

子規については「一月下旬観潮楼に来訪する」(苦木虎雄『鷗外研究年表』)とあるので、子規が『めさまし草』の創刊号から関わり、その創刊号の打ち合わせであろうと推定される。

鴎外、露伴、緑雨、三人によるコラム「三人冗語」


「『にごり江』も『十三夜』も同じ段にありとの事なり・・・『わかれ道』の亦按排(またあんばい)に於て前の二作と巧拙なきのみならず材は寧ろ勝ちたり、唯われは一葉が筆のやゝみだれんとする者あるを窃かに認むるが故に今の新聞雑誌に流行する如き圏点付きの褒め言葉を際限もなく列ぬることをなさゞるなり」と、一葉の「筆のみだれ」について指摘し、評論界の批評に心ひかれるのがみだれの原因になると諭している。(緑雨「金剛杵」)

1月30日

『文学界』第37号「たけくらべ」(十五)(十六)を掲載。完結。



2月

朝鮮、ロシア公使ウェーバー、公使館警備名目で武装水兵120名上陸させ漢城入り。

2月

子規(30)、左腰が腫れ以後臥床の日が多くなる。

2月

尾崎紅葉『多情多恨』

2月

田沢稲舟、山田美妙合作『峰の残月』

2月1日

子規の鴎外宛て手紙

「拝啓 先日ハ失礼致候○目さまし草待兼て面白く拝見致候 

就てハ読之際思ひつきたる悪まれ口書き記して御参考といかぬも御一笑に供へ度存書きかゝり候處考へて見ると新聞の方種切れ故新聞へ廻し置候 今度の週報御一覧下度候

但シあとで御叱りなき様今から願ひ置候 呵ゝ

此四五日來例の腰骨が痛み出して今日抔は一歩も動けぬ様に相成候 悪口の罰にや

 春を待つ迠に我はや老いにけり」


2月1日

トスカニーニ、プッチーニのオペラ「ボエーム」初演。

2月2日

鹿島守之助、誕生。

2月5日

一葉「裏紫」(上)、『新文壇』第2巻第2号に掲載。1月20頃、鳥海嵩香の依頼により書き上げる。続稿は未完に終る。(中)以下が容易に完成せず、そのうち『新文壇』が第6号あたりで廃刊になる。

樋口一葉『うらむらさき』(青空文庫)

樋口一葉小説 第二十一作品「裏紫」のあらすじ

『太陽』第2巻第3号に「大つごもり」再掲。明治27年12月「文学界」の再掲載。一葉が博文館に金の相談に行くと、社主大橋佐平の女婿大橋乙羽が旧稿でもかまわない、持ってきた原稿には金を出すと言う。

2月5日

明治女学院(麹町区下六番町、校長巖本善治)、隣家からの出荷により消失。校舎、寄宿舎、教員用住宅の大半を失う。"

2月6日

大橋乙羽より一葉へ、昨日発行の『太陽』に掲載された「大つごもり」が旧作にも関わらず新作として掲載された詫びが届く。また、『通俗書簡文』の原稿の催促を受ける。

2月7日

この日付け斎藤阿具宛の漱石の手紙。


「小弟碌々(ろくろく)として遂に三十年と相成、甚だ先祖へ対しても面目なくこまり入候。近々の内当地を去りたくと存候へども、無暗に東京へ帰れば餓死するのみ、夫故少々困却致居候。」


1月16日付で子規にあてた手紙でも「依例如例(れいによつてれいのごとく)日々東京へ帰りたくなるのみ」と書いている。

2月10日

翻訳家若松賎子(31)、没。5日前の火災で持病の結核を悪化させる。「小公子」など翻訳。

2月10日

ラフカディオ・ヘルン、小泉八雲と改名。

2月11日

朝鮮、親露派李範晋・李允用・李完用のクーデタ。

早朝、高宗・世子はロシア公使館に逃亡(「俄館播遷」)。ここで新政府組閣(領議政尹炳始・2ヶ月後尹容善、外部大臣李容竣)。国王は金弘集ら開化派内閣の逮捕・処刑命令。改革派一掃。

12日、金弘集らは王宮で逮捕、民衆に殺害。魚允中は郷里へ向う途中で殺害。金允植は終身流刑。

ロシアの利権拡張:

咸鏡道の慶源と鏡城の鉱山採掘権、茂山と鴨緑江右岸及び鬱陵島の森林伐採権を譲り受け国策会社「東亜鉱業会社」(大株主ニコライ2世)設立。朝鮮政府に軍事顧問・財政顧問の送り込み(軍事・財政監督権掌握狙う)。

2月11日

オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」初演

2月12日

仏、オペラ作曲家トーマ(84)、没。

2月15日

衆議院、国民協会提出の朝鮮問題に関する内閣弾劾決議案上程。10日間の停会を命じられる。


つづく

三井不動産の利益を最大化。 神宮外苑再開発では、こういう問題も。

小池にも石丸にもつけずに都知事選「蚊帳の外」の東京維新…これは内部崩壊への予兆か!?(日刊ゲンダイ) / 馬場氏と吉村氏が語気強め言い合う場面も 会合の「非公開」動画データから読み取る維新リーダー2人の「ホンマの関係」 吉村氏はきょう「溝が生じているとかいうのはない」と改めて強調(カンテレ) / 吉村知事につくか、馬場代表か 維新の顔2人に亀裂 「3度目の都構想より3度目の分裂の方が早そう」(AERA) / ”自民党大阪支部”と猛批判にさらされ…日本維新の会・馬場伸幸代表に浮上した「交代論」の現実味(Friday)

 

《内部文書入手》小池百合子都知事“肝煎り部署”で残業時間月45時間超が続出 「労働基準法の上限を遵守できていない」(文春オンライン); 幹部らは小池氏と深く関わる部署に『異動したくない』と言っている 知事の思い付きでいつどんな指示が来るかわからないからです 特に知事と近い政策企画局では、数十人が昨年度末に退職したといいます」 (都庁元幹部) 

2024年7月3日水曜日

小池百合子(AIゆりこ)が「学校の先生の働き方改革」を言ってる。これに対して、「今年の3月末に都内のスクールカウンセラー250人を雇い止めしたくせに、よくそんなこと言えるよな。」と突っ込みが、、、。 ← ホント、白々しい! / 小池百合子都政で東京の教員の精神疾患病休者は1.5倍増。全国に占める東京の割合も増加。小池都政のもと公立の小・中・高校の教員1人あたり生徒数は全国最多で教員の非正規率も全国最悪水準。       

 



 

今日も「寅に翼」が突き刺さる ; 「おかしいと声を上げた人の声は決して消えない。その声がいつか誰かの力になる日が、きっと来る」 / 「尊属殺について、1973年の違憲判決の前に、戦後間もなく最高裁の合憲判決が出ていたこと、その時も少数の裁判官が反対意見を書いていたことを知った。そういう訴えや意見があって、次のステップとして違憲判決があったのだろう。そんな日に、強制不妊手術違憲の判決」(Shoko Egawa)  

 

 


 

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関東大震災「朝鮮人虐殺」に追悼文「送る」「送らない」 都知事選候補者はどう答えた 式典実行委が結果公表(東京)


〈ツイート全文〉

 小池都知事が断固として変えない2017年から始めた関東大震災での朝鮮人虐殺での追悼文の送付停止は、専門家さえ否定していない虐殺の史実を捻じ曲げる暴挙だ。

【関東大震災「朝鮮人虐殺」に追悼文「送る」「送らない」 都知事選候補者はどう答えた 式典実行委が結果公表:東京新聞 】

小池氏、蓮舫氏、田母神氏ら6人回答

 実行委によると、追悼文を「送付する」と回答したのは蓮舫氏。理由について「震災でせっかく救われた命が、人災によって失われた。痛ましい歴史だと思っている」「追悼文を送らないという姿勢は歴史修正主義という見方をされてしまうリスクがある」とした。

 小池氏は「送付しない」と明言。「(都慰霊協会が主催する)慰霊大法要において、先の関東大震災および大戦で犠牲となった全ての方に哀悼の意を表してきた。震災による極度の混乱下での事情で犠牲となった方も含め、全ての方々に対し、慰霊する気持ちを改めて表すもの」と説明した。

 同じく「送付しない」としたのは元航空幕僚長の田母神俊雄氏(75)。「大震災という天災に、加害者と被害者を固定化することは行政責任者としてふさわしくない」としている。

おわり

プチ鹿島氏「今回は討論会が少な過ぎると思う、TV討論会なんてないでしょ、なんで(小池知事は)出てこないんですか?、、、米国の大統領選が酷い酷いって言うけど、でもちゃんと討論会に出てくるじゃないですか、、、、

 

「東京都は土地をすごい勢いで三井不動産に差し出している」 小池都政の「三井ファースト」に疑問の声(デイリー新潮);「明治神宮外苑は都市公園で風致地区でもあるので規制がかかっています。都の都市整備局が規制を取っ払う手続きをして、容積率をバーンと上げて、三井などが高層ビルを建てて儲けられるようお膳立て」



 

なぜ日本のメディアでは小池百合子都知事の「荒唐無稽な噓」がまかり通るか《カイロ大「1年目は落第」なのに首席卒業》(文春オンライン)

 

大杉栄とその時代年表(180) 1896(明治29)年1月8日~16日 横山源之助が一葉を訪問 「「かしたし」とならば金子もかりん、「心づけたし」とならば忠告も入るゝべし。我心は石にあらず。一封の書状、百金のこがねにて転ばし得べきや。」(一葉日記) 子規『従軍紀事』 「 小生依例如例日々東京へ帰りたくなるのみ。」(漱石の子規への手紙)    

 

横山源之助

大杉栄とその時代年表(179) 1896(明治29)年1月7日~8日 漱石、東京より松山に帰る 一葉に宛てて斎藤緑雨から初めての手紙 「我が文界の為、君につげ度こと少しあり」 「今の世の評者がめくらなる事、文人のやくざなる事、これらがほめそしりにかかはらず、直往し給へといふ事」 「よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追ひ払ひ給へ。かれ等は君が為の油虫なり。払ひ給はずは、一日より一日と其害を増さんのみ」といひき。」 より続く

1896(明治29)年

1月8日

この頃、毎日新聞社の横山源之助が来訪

この頃、一葉は既に「大つごもり」(明治27年12月)、「たけくらぺ」(明治28年1月)、「にごりえ」(明治28年9月)などの代表作を書きあげている。一方、当時「毎日新聞」の記者であった横山も、初期底辺社会ルポルタージュの秀作が出揃っている。一葉を最初に訪れた明治29年1月は、横山が「都会の半面」(明治28年12月15~29日、1月9~12日、連載4回)という代表作をものしている。下層社会ルポルタージュ作家としての地位を不動にしたときであった。(立花雄一著『明治下層社会記録文学』昭和56年4月 創樹社)。

横山は一葉の許をしばしば訪れており、人間的にも思想的にも多分に共感するところが多かったことが推察される。一葉に送った横山の手紙から、一葉は横山に社会運動の実践にかかわる相談を持ちかけていたことも知られる。一葉は死後自分の全集の編集は、斎藤緑雨か横山にと考えていたふしがあり、横山も緑雨同様、一葉が知己と考えていた一人であった。しかし、二人の交友が進展するには時間が足りなかった。

横山源之助:

明治4年、富山県魚津町生まれ。弁護士をこころざして東京法学院(現・中央大学)に学ぶ。のち、放浪の時期に二葉亭四迷や松原岩五郎を知り、その影響から島田三郎主宰する毎日新聞に入社、社会探訪記者として下層社会や労働問題を取材し、優れた探訪記事を書く。3年後、名著『日本の下層社会』を著作。

横山が一葉を訪れた動機は、一葉の作品に下層社会が扱われているから。一葉は「世間は目して人間の外におけりしとおぼし」と、横山が疎外された人物であると受けとめる。横山は一葉に二葉亭四迷を引きあわせたいと語る。

「かどを訪ふ者、日一日と多し。「毎日」の岡野正味(しやうみ)、天涯茫々生(*横山源之助)など不可思議の人々来る。茫々生はうき世に友といふ者なき人、世間は目して人間の外におけりとおぼし。此人とひ来て、二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき。」

(家を訪ねてくる者が一日一日と多くなった。毎日新聞記者の岡野正味・天海茫々生など変わった人々が来る。茫々生はこの世に友という者を持たない人で、世間は彼を人間の仲間に入れていないように思われる。こういった人が来て、私を二葉亭四迷に引き合わそうと言う。半日ほど話した。)


「野々官きく子、閑如来との縁やぶれて、一度我れを恨めりき。しばしにしてうたがひの雲はれたれど、猶我(わが)もとを男のとひよる、ねたましう、あるまじき事にいひなす。教育社会の人々は、我れを進めて、「著作の筆たゝしむるか、もしくは教育趣味のもの書(かき)てよ」との忠告さへ聞えぬ。紛(ふん)たり擾(ぜう)たり。このほどの事、雲くらし。

あやしき事また沸出ぬ。府下の豪商松木何がし、おのが名をかくして、「月毎の会計に不足なきほど我がもとに送らん」と也。取次ぐは西村の釧之助。同じく小三郎協力して、我が家に尽さんとぞいふなる。松木は十万の財産ある身なるよし。さりとも、名の無き金子たゞにして受けられんや。「月毎いかほどを参らせん」と間はれしに答へて、「我が手に書き物なしたる時は、我手にして食をはこぶべし。もし能はぬ月ならば、助けをもこはん。さらば、老親に一日の孝をもかゝざるぺけれは」とて、一月の末(すゑ)二十金をもらひぬ。

身をすてつるなれば、世の中の事何かはおそろしからん。松木がしむけも、正太夫が素(そ)ぶりも、半としがほどにはあきらかにしらるべし。「かしたし」とならば金子もかりん、「心づけたし」とならば忠告も入るゝべし。我心は石にあらず。一封の書状、百金のこがねにて転ばし得べきや。

(野々宮菊子は関如来との縁談が壊れて、一時は私を恨んでいたようだ。しばらくして疑いは晴れたが、それでも私の所へ男の人が訪ねて来るのを妬ましく思って、まるでいけない事のように言ったりする。教育界にいる人々は、私に小説の著作をやめさせるか、あるいは教育的内容のものを書くように忠告までしていると聞こえてくる。このところ色々な事がごたごたと入り乱れ、黒雲が覆っているようだ。

不思議な事がまた湧き出てきた。東京府下の豪商の松木某という人が、匿名で、月々の会計に不足しない程のお金を私に送ろうと言うのだ。取次いできたのは西村釧之助と弟の小三郎で、二人が協力して樋口家のために尽くそうという。松木は十万の財産のある身分だとのこと。しかしそういっても、訳のないお金をただで受け取れようか。毎月どの位の金額を送ろうかと聞かれて、

「私が著作をした時はそれで生活が出来ます。もし著作が出来ない月があったら、その時は援助を願います。そうすれば老母に対して一日も休まず孝行が出来ますから」

と言って、一月の末に二十円を貰った。

身を棄ててしまったら、世の中の事は何が恐ろしかろうか。松木のやり方も、線雨の態度も、半年もたてばその魂胆ははっきりと分かってくるだろう。貸したいと言うのならお金も借りよう、気にかけてやろうと言うのなら忠告でも何でも受け入れよう。然し、私の心は石ではない。一通の手紙ぐらいで、或は百円のお金ぐらいで、転ばそうと思っても、転ばすことが出来るものではない。)

1月8日

仏詩人ポール・ヴェルレーヌ(51)没

1月9日

衆議院、遼東還付および朝鮮政策に関する内閣弾劾上奏案を否決

1月12日

この日、漱石、子規に宛てて返礼の漢詩と俳句「東風や吹く待つとし聞かば今帰り来ん」を手紙に添える。

この頃 漱石の旺盛な句作。


「月末二十八日には、・・・・・「子規への句稿十、四十九句」、つづいて翌日も「句稿十一、二十句」と送り、さらに、三月には「十二、百二句。十三、二十七句。十四、四十句」と子規へ送り、句作旺盛である。漱石が松山で子規に送った句数は六百三十四句を数える。子規はこれらの句稿に評を加え、「海南新聞」、「日本」、「小日本」などに掲載している。漱石にとって、まさに子規は俳句革新の先達である。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))

1月13日

子規『従軍紀事』(『日本』7回連載~19日)。従軍記者に対する軍の対応の仕方を「台南生」という筆名で批判。


「・・・・・『従軍紀事』は、「軍人は規律の厳粛称呼の整正を以て自ら任ず、而して新聞記者を呼で新聞屋々々々といふ。新聞記者亦唯々として其前に拝伏す。軍人は自ら主人の如く思ひ従軍記者は自ら厄介者の如く感ず」と・・・・・従軍記者に対する軍の不当な扱いに対する生々しい記録となっている。

たとえば従軍記者団が乗り込んだ海城丸の船中で「一人の曹長」から「牛頭馬頭の鬼どもが餓鬼を叱る」ような調子で、船室内の居場所を縮めろと命令され、「詰める事が出来んやうならこゝを出て行け」と言われたことに対する従軍記者団の反応は、次のように記されている。

船に乗っているのだから出て行く先はないのであり、曹長の言うことは理不尽なのだが、「主人」と「厄介者」という権力的関係性においては、どんな理不尽なことでも受け入れざるをえなくなる。「ばかばかしさと恐ろしさ」という異質な二つの感情に二重に抑圧された瞬間、人間が人間として生きることを停止させられてしまうことが、「息を殺してひそみ居りぬ」という表現によって明らかにされている。

従軍記者団は金州に上陸してからも、待遇をめぐって軍との軋轢を繰り返す。子規は同行の「神官僧侶」たちに比べ、自分達の「取扱」が「不公平」だと「管理部長」に直接訴えた。しかし、「管理部長」は「あの人等は教正とか何とか言つて先づ奏任官のやうなものだ君等は無位無官ぢや無いか無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方が無い」と言われてしまう。・・・・・「此時吾は帰国せんと決心せり」と子規は書きつけている。

新聞というメディアが、戦争を遂行している国にとって、きわめて重要な役割を担っていても、その記事を書く新聞記者の社会的な評価はきわめて低いという現実を、「新聞屋」としての子規は目の当たりにし、心身で感じとったのであった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

1月15日

英仏、シャム王国の独立・領土保全同意。英仏条約調印。

1月16日

漱石の子規宛ての手紙。


「その後御病勢如何なるべく書状を見合せられたし。小生依例(れいによつて)如例(れいのごとく)日々東京へ帰りたくなるのみ。・・・・・」


つづく


2024年7月2日火曜日

鎌倉散歩 大巧寺(アガパンサス、ギボウシ、ブットレア、オニユリ、アマギノクサギ、ムラサキシキブ) 本覚寺(ハス、ノウゼンカズラ) 妙本寺(ノウゼンカズラ) 2024-07-02

 7月2日(火)曇り

今日も朝から曇り空。でも、早朝には雨が降ったらしく、朝のゴミ出しの時もそこここに雨の痕跡があった。

ま、曇る空とはいえ薄日はさしているし、時折青空も見える。

なので、例によって、午前中はオウチでグズグズしていたけど、お昼前に久しぶりに鎌倉へ。といっても、駅周辺の定番、大巧寺~本覚寺~妙本寺のルートだけですけど。

▼大巧寺

アガパンサス(和名は紫君子蘭というそうです)。社務所の前にキレキレのアガパンサス。




▼ギボウシ

▼ブットレア

▼オニユリ

▼アマギノクサギ

▼ムラサキシキブ(又は、コムラサキ)

▼本覚寺の蓮(ハス)
「蓮」の連想です。
東京都民の方、7月7日(日)の都知事選投票には、是非、「蓮舫(れんほう)」へ一票宜しくお願いします。


▼ノウゼンカズラ

▼妙本寺
階段の上、結婚式の前撮り組。

▼ノウゼンカズラ
まだ咲き始め。蕾も多い。ニ天門をくぐって左側はまだ咲いていない状況。




もし、関心がおありなら下(↓)の記事へどうぞ



シリーズ都知事選「小池都政チェック」 抜け落ちた中高年単身女性の困窮対策 大学の非常勤講師として41年 社会保険に入れず年金は月5万円弱(阿久沢悦子) ; 今は単身高齢女性の問題だけど、もう少しすると氷河期世代が高齢化して、男女問わず非正規雇用だった人全体の問題になる。(中島みゆき)  

大杉栄とその時代年表(179) 1896(明治29)年1月7日~8日 漱石、東京より松山に帰る 一葉に宛てて斎藤緑雨から初めての手紙 「我が文界の為、君につげ度こと少しあり」 「今の世の評者がめくらなる事、文人のやくざなる事、これらがほめそしりにかかはらず、直往し給へといふ事」 「よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追ひ払ひ給へ。かれ等は君が為の油虫なり。払ひ給はずは、一日より一日と其害を増さんのみ」といひき。」 

 

齋藤緑雨

大杉栄とその時代年表(178) 1896(明治29)年1月6日 文名が上がり世間に騒がれ始めた一葉の戸惑いと自戒 もう引き返せないという覚悟 「われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。」 より続く

1896(明治29)年

1月7日

漱石、東京より松山に帰る。(7日神戸着、9日広島、10日頃松山帰着)


「金之助が松山への帰途についたのは、一月七日の朝である。鏡子は中根の細君に連れられて新橋ステーションまで見送りに来た。ほかに和三郎と姉お房の夫の高田庄吉、それに三人の級友が来ていた。めずらしく雲一点もない好天気だったが、腰痛に悩んでいる子規は姿を見せなかった。彼はのちに、


寒けれど富士見る旅はうらやまし


という句を書いた葉書を送って来た」(江藤淳『漱石とその時代1』)

1月8日

一葉、はじめて斎藤緑雨から手紙を受け取る。「『わかれ道』に於ては明らかに御作の漸(ようや)くみだれんとするの傾向あるをみとめ得らるべく候」と忠告。緑雨が一葉を訪問するのは一葉の死の半年前の5月24日。その後はしばしば訪問して作品についての疑義をただしている。

また、同日、自ら一葉との結婚の噂を振りまいていると言われる川上眉山が一葉の写真を無理に持ち帰る。


この日、緑雨から「わが文界の為に君につげ参らしたくおもうこと」がある、「但し我に一箇の癖あり、われより君を訪ふ事を好まず候」、親しい人にも秘密にすることを誓ってほしいという。

この手紙は、使いの者が持ち帰るというもので、一葉はこれを写しとり、翌日、緑雨宛に秘密を守ることを誓い、「男ならぬ身なればさるかたに御見ゆるし御教へのいたゞかれ候やう神かけねんじまゐらせ候」と、教えを乞う返事を出す。

緑雨からは即日、長文の手紙が届く。今回も噂の種になる証拠を残さぬよう、持ち帰るもので、一葉はくに子に読ませて写しとる。

緑雨は、「にごりえ」を高く評価するが、材料としては「わかれ道」が勝っている。しかし、「わかれ道」には「濫(みだ)れ」があると云う。

緑雨は、さまざまな批評にまどわされず、「君が思ふ所にまかせて、めくら共に構はずマツすぐに進まれん事」、また一葉を訪れる「文人と称するもの」について「夫等の輩は断然逐ひ払ひ玉はんかた御為と存候」と忠告

一葉は、「正太夫はかねて聞けるあやしき男なり」と警戒し、戸惑いながらも、その忠告や批評には耳を傾け、直接の交際を重ねていき、緑雨もしばしば一葉宅を訪れるようになる。


「正太夫のもとよりはじめて文の来たりしは、一月八日成し。われは君に縁あるものならねど、我が文界の為、君につげ度こと少しあり。わが方に来給ふか、我より書にて送らんか。われに癖あり、我れより君を訪ふ事を好まず。なほ我事聞かんとならば、いかなる人にももらすまじきちかひの詞、聞きたしと也。何事とも知らねど、此皮肉屋がこと、かならずをかしからんとて、返しをやる。人にはいふまじく候。つげさせ給はれかし。我れは男ならぬ身なれば、御もとをば訪ふ事かたし。文おくり給はらば、うれしかるべしといひき。

九日の夜書きたる文、十日にとどきぬ。半紙四枚がほどを重ねて、原稿書きたるがごと、細かに書したり。にごり江の事、わかれ道の事、さまざまありて、今の世の評者がめくらなる事、文人のやくざなる事、これらがほめそしりにかかはらず、直往し給へといふ事、並びに世にさまざまの取沙汰ある事、我れが何がし作家と結婚の約ありといふ事、浪六のもとへ原稿をたづさへて行給ひしときく事、などありき。何がし作家とは川上君の事なるべし。君よりは想のひくき何がしとしるしぬ。「一覧の後は其状(そのふみ)かへし給はれ。君よりのもかへしまつるべし。世の人聞きうるさければ」と成けり。直(すぐ)に封してかへしやる。これは『めざまし草』の出るより二十日も前の事成き。のちに紙上を見れば、われへ対する評言は、このふみの如く細かにはあらで、おほらかに此旨をぞ書ぬ。

正太夫はかねて聞けるあやしき男なり。今文豪の名を博して、明治の文壇に有数(いうすう)の人なるべけれど、其しわざ、其手だて、あやしき事も多くもある哉。しばらく記してのちのさまをまたんとす。」(日記「水のうへ」)。

(斎藤線両氏から初めて便りが来たのは一月八日でした。

「私は君に関係のある者ではないが、わが文壇のために君に話したいことが少しある。私の方へ来られるか、それとも私から手紙を書こうか。私には一つの癖があって、私が君を訪ねるのを好まない。それでも私の話を聞こうと思うなら、誰にも他言をしないという誓約の言葉がほしい」

とある。何のことか分からないが、この皮肉屋のことだから、きっと面白いことだろぅと思い、返事を出す。

「他人には決して言いません。どうかお聞かせ下さい。私は男の身ではないのでお宅をお訪ねできません。お手紙を下されば嬉しく存じます」

と言ってやる。

九日夜に書いたという手紙、十日に届く。半紙四枚を重ね、原稿のように細かに書いてある。「にごりえ」のこと、「わかれ道」のこと、その他色々あって、現代の評論家が盲目であること、作家が柄が悪いこと、こういう人の褒めや詰りは気にしないで、自分の道を真直ぐ進みなさいということ、また世間では色々な噂があること、この私が何とかいう作家と婚約したということ、また村上浪六の所へ原稿を持って行ったと聞いたこと、など書いてあった。何とかいう作家とは川上眉山のことでしょう。手紙には「君よりは才能が低い某作家」と書いてあった。

「ご覧の後はこの手紙は返して下さい。君からのも返します。世間の噂はうるさいので」

とある。すぐに封をして返送する。これは 「めざまし草」創刊号が出る二十日も前のことでした。後で同誌を見ると、私に対する批評はこの手紙のように細かではなく、おおよそこの趣旨のことが書いてあった。斎藤緑雨という人は、かねて聞いていた通り一風変わった人だ。今は文豪と呼ばれ明治の文壇では数少ない人のようだが、そのする事には不思議な事が多いようだ。ともかくここに記して、後の様子を見よう)


この頃、世にあやしき沙汰聞え初ぬ。そは川上眉山と我れとの間に結婚の約なりたりといふうわさ成り。「岡やきといふものおびただしき世なれば、伝へ伝へて文界の士の知らぬもなし」といふ。あるものは伝へて、「尾崎紅葉仲立なり」とさへいふめる。あるもの紅葉にかたりたるに、高笑ひして、「もしさる事さだまらは、我れ媒しゃくにはかならず立つべし」といひしとか。『よみうり新聞』新年宴会の席にて、高田早苗君は眉山が肩をうちて、「この仲立は我れ承らん」とたはぶれしとか。こゝにかしこに此沙汰かしましければ、いつしか我れにも聞えぬるを、あやしきは川上ぬし、知らずがほを作り給ふ事なり。「この人の有さまあやし」と思ひしは、過し八日の夜、「われに写真給はれ」とて、こばむをおして持行し事ありき。母君も国子もひとしういなみしを、「さらばしばしかし給へ。男の口よりいひ出づる事、つぶされんは心わるし」とて、しひていふに、「さらば五日がほどを」とて、かしつる其写真をば、さながら返さず。人、結婚の事をいひて、「君は一葉君と其やく有るよし、誠にや」と問へば、「そは迷わくの事いひふらすものかな」とて、打笑ひ居るよし。八日の夜のさまは、ほとんど物ぐるはしきやうに眼をいからし、面を赤めて、「なに故我れにはゆるし給はぬにや、我れをばさまで仇なるものとおぼし召か。此しやしん、博文館より貰はば事はあるまじけれど、あやしう立つ名の苦しければ、ここに参りてかくいふを、猶君にはうとみ給ふにや。男子一たびいひ出たる事、このままにしてえやはやむべき」とて、つく息のすさまじかりし事、母君かげに聞て、胸をば冷し給ひしよし。「我れに妻の仲立して給へや。此十五日を限りにして、其返事聞度し。いかでいかで」などせまられたる事ありしが、それこれを思ひ合せて、あやしき事一つならず。文界の表面(おもて)にこの頃あやしき雲気(うんき)のみゆるは、何ものの下にひそめるならん、眉山排斥の声やうやう高う成りぬ。

正太夫いはく、「君はおそらく文界の内状など知り給ふまじければ、瑣細の事とおぼしめさんも計られねど、我れの考へたる処にては、なほざりならぬ大事とおもへり。よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追ひ払ひ給へ。かれ等は君が為の油虫なり。払ひ給はずは、一日より一日と其害を増さんのみ」といひき。

(この頃世間に変な噂が立っている。それは川上眉山と私との間に婚約が成立したという噂。嫉妬の多い世の中なので、次々に伝えて今では文壇の人で知らない者はないという。尾崎紅葉が仲人であるとまで言っているらしい。ある人が紅集にこの話をすると、大笑いして、「もし事が決まったら、私が媒酌には必ず立とう」と言ったとか。読売新聞社の新年宴会の席で高田早苗氏は眉山の肩を打って、「この仲人は私が引受けよう」と冗談を言ったとか。あちこちでこの時がやか

ましいので、いつとなく私の耳へも入って来たのに、おかしいのは川上氏が知らぬ顔をしていることです。この人の様子がおかしいと思ったのは、今月八日の夜、私に写真をほしいと言って、断るのを無理に持って行ったことがあった。母上も邦子も一緒になって断ったので、

「では暫くお貸し下さい。男の口から一度言い出したことを断られては気持ちが収まらない」

と、しきりに言うので、

「では、五日間ほど」

といってお貸ししたのに、写真はそのままで返してくれない。ある人が、

「君は一葉さんと婚約があるというが、それは本当なのか」

と聞くと、

「それはまた迷惑な事を言いふらすものだ」

と笑っていたとか。

八日の夜は、全く気狂いのように眼をいからし顔を赤くして、

「なぜ私には許して下さらないのですか。私をそんなにまで敵視なさるのですか。この写真は博文館から貰えは何でもないのだが、炒な噂が立つのがいやだから、此処へ来てこうして頼んでいるのに、やっぱりあなたは私が嫌いなのですか。男が一度言い出したことを、どうしてこのままやめてしまうことが出来ますか」

と言って、つく息の凄かったこと。母上は隣室で胸を冷やされたとのこと。また別の折に、

「私に縁談を世話してくれないか。この十五日までに話を聞きたい。是非、何としても」

と迫られたことがあったが、あれこれ思い合わせると、おかしな事は一つや二つではない。文壇の表に出るほど、近頃妙な動きがあるのは、陰に何かたくらんでいる者があるのだろうか。眉山排斥の声が次第に高くなってきた。

「おそらくあなたは文壇の内情などご存知ないので、些細な事と思われるでしょうが、私の考えでは棄てておけない大事だと思います。何としても、あなたの所に訪ねてくる品の悪い文人たちを追い払いなさい。彼らはあなたにとっては油虫のようなものだ。いま追い払わないと、一日一日とその害毒はひどくなるばかりだ」

と斎藤緑雨は言うのでした。)

(緑雨に言わせれば、孤味も禿木も秋骨も眉山も、みな害虫であったのであろう。しかし一葉はもとより彼らを追い払おうとはしなかった。)


つづく


「木を切る改革」大阪市が市民の反対押し切り街路樹伐採を強行(週刊金曜日)

 

「安い」日本、トップ研究者どう集める 収入差3倍超も 科技立国 壁を越えろ(1) - 日本経済新聞 ;「米国の大学教授の平均給与は15年の約12万6000ドル(1ドル=160円なら約2000万円)から23年には約15万5000ドル(約2500万円)に増えた。有力大学は4000万円超にもなる。」

野党から逃げ、フリー記者から逃げ、ヤジから逃げ、討論会から逃げ、島に逃げ、川にも逃げる。(首都防衛ではなくて)自己防衛じゃないですか? / 「ずっとウソだった」という曲がありましたよね。(お答えください。14項目) / >小池知事は都知事選TV討論すべて拒絶…蓮舫氏が街頭演説で暴露し「逃げないで」と訴え(日刊ゲンダイDIGITAL)   



 

『築地は守る。豊洲は生かす』はどうした? ⇒ 「築地を守っていくという気持ちを踏みにじられた」 小池知事の「築地は守る」の公約。しかし現在の再開発計画に市場機能はありません。「築地女将さん会」の訴え / さらに大きな問題なのは、豊洲市場がまったく上手くいってないことです(中澤誠) / 築地に屋根付き5万人スタジアム、市場跡地の再開発 東京都が公表(朝日4/19);「「築地市場を守る」と言っていた小池百合子都知事があっさり裏切って三井不動産と読売新聞とトヨタにスタジアムやホテルを建てさせることにしたプロジェクト、朝日新聞も参画してます。」(町山智弘) / 豊洲移転、コロナ対策に東京五輪......。「小池都政」8年間の通信簿(週プレNEWS);「小池都知事は、17年に『築地は守る。豊洲は生かす』と記者会見で発表しました。豊洲に一時的に市場を移転し、その間に築地を食のテーマパーク機能を持った新たな市場に再開発する。5年後をめどに築地に復帰可能と説明しています。しかし、今はその気配すらありません。」

 



 

2024年7月1日月曜日

3選狙う小池都知事は情勢調査「一歩リード」も圧勝遠のき焦り…街頭演説も聴衆スカスカ(日刊ゲンダイ); 東京都知事選の情勢調査では小池知事が一歩リードしていますが、余裕しゃくしゃくかと思いきやどっこい。30日夕のJR蒲田駅で街頭演説には明らかな動員がみられ、会場には公明党の支持母体・創価学会の女性部とおぼしき人がチラホラ。神通力に陰りアリ。    

来なかった「第3次ベビーブーム」。 人数が多い団塊ジュニアが結婚・出産期だったころ,「痛みを伴う改革」とか言って,新自由主義路線を走った。 — 舞田敏彦

大杉栄とその時代年表(178) 1896(明治29)年1月6日 文名が上がり世間に騒がれ始めた一葉の戸惑いと自戒 もう引き返せないという覚悟 「われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。」

 

一葉『わかれ道』(「国民の友」)

大杉栄とその時代年表(177) 1896(明治29)年1月1日~5日 トロツキーの革命運動の第一歩 乙末義兵(朝鮮義兵闘争) 芝山巌事件(台湾) 一葉「この子」「わかれ道」 漱石・鴎外、子規の句会に参加 より続く

1896(明治29)年

1月6日

星野天知が、『文学界』の新年会に一葉と三宅花圃に対し「別席しつらへおきぬ」との招待するが、「さる所には、はしたなう立出づべきにはたあらねば断りいひやりて」欠席。花圃も欠席。一葉は古い倫理感、規範を変えようとはしない。


「六日に、『文学会』の新年宴会などいふ事ありき。「われと三宅ぬしには別席しつらへおきぬれば、かならず出席あらまほしき」よし、星野ぬしよりいひこされたれど、きる所にはしたなう立出づべきにはたあらねば、断りいひやりて我れはえ行かぎりしに、たつ子ぬしにも同じこと断り成しよし。こゝの間に心をかしからぬ事あれば、馬場ぬしも、「え行かじ」などいひ居られしものから、さもいなみあへて、出席有けるよし。有様いか成けん。」

(馬場氏は星野氏との間に面白くないことがあって最初は行かないといっていたが、そうも断りきれず出席されたとのこと。どんな様子だっただろうか。)


「こぞの秋、かり初(そめ)に物しつる「にごり江」のうわさ、世にかしましうもてはやされて、かつは汗あゆるまで評論などのかしましき事よ。「十三夜」もめづらしげにいひさわぎて、「女流中ならぶ物なし」など、あやしき月旦(げつたん)の聞えわたれる、こゝろぐるしくも有かな。しぱしばおもふて、骨さむく肉ふるはるゝ夜半もありけり。かゝるをこそは、うき世のさまといふべかりけれ。かく人々のいひさわぐ、何かはまこと至とのほめこと葉なるべき。たゞ女義太夫に、三味の音色はえも聞わけで、心をくるはするやうのはかなき人々が一時のすさびに取はやす成るらし。されども、其声あひ集まりては、友のねたみ、師のいきどほり(*)、にくしみ、恨みなどの限りもなく出来(いでき)つる、いとあさましう情なくも有かな。虚名は一時にして消えぬべし。一たび人のこゝろに抱かれたるうらみの、行水(ゆくみず)の如く流れさらんか、そもはかりがたし。われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。あさましのさま少しかゝばや」

*中島歌子は「緑陰著話」に「にごりえ」について、「場所がきたなくて、それに人間がどうやら活きて居ません様で」と酷評を述べている。

(去年の秋、軽い気持ちで書いた 「にごりえ」が世間を騒がせるまでもてはやされて、またその反面、あまりにやかましい程の評論に汗のにじむような思いもするのでした。また十二月発表の 「十三夜」も褒め騒がれて、女流作家中並ぶものがないと、大変な批評が聞こえてきて本当に心苦しい。思えば思うほど骨も肉も震え上がるような夜もあったのでした。これをこそ人生の姿というのでしょうか。こんなに人々が言い騒いでいるのが、どうして本当の褒め言葉でしょうか。例えば、女義太夫の三味の音色も聞き分けられないくせに、すぐ夢中になるような人たちが、ただ一時的に熱狂して褒めはやしているようなものでしょう。しかし、そういう声でも沢山集まると、友のねたみや、先生の怒り、憎しみ、恨みなどが次々に出てくるのは本当に嘆かわしく情けないことよ。虚名はしばらくの間のことであってやがては消えてしまうでしょう。しかし、一度人の心に抱かれた恨みは、果たして行く水のように流れ去るでしょうか、それはとても望めないことです。私は今はっきりと浮世の波の姿を見そめたのです。しかもその波の流れに乗ってしまった以上、どうして引き返すことが出来ようか。その嘆かわしい浅ましい世の有様を少し書こうと思う。)


「日ごと訪ふ人は花の如く、蝶の如きうつくしの人々也。大島文学士が奥がたのやさがたなる、大はしとき子の被布(ひふ)すがたわかわかしき、今は江木が写真師の妻なれど、関えつ子の裾もやうでたち、同じく藤子が薄色りんずの中振袖、それよりは花やかなる江間のよし子が秋の七草そめ出したる振袖に、緋むくを重ねしかわいのさまもよく、師はん校の両教授がねづみとひわの三まい着、取々(とりどり)にいやなるもなし、一昨年(おととし)の春は、大音寺前に一文ぐわしうりて、親せき近よらず、故旧(こきう)音なふ物なく、来る客とては悪処(あくしよ)のかすに舌つヾみ打つ人々成し。およそ此世の下(しも)ざまとて、かゝるが如きは多からじ。身はすて物に、よるべたきさま成けるを、今日(けふ)の我身の成(なり)のぼりしは、たゞうき雲の根なくして、その中空(なかぞら)にたゞよへるが如し。相あつまる人々、この世に其名きこえわたれる紳士、紳商、学士、社会のあがれる際などならぬはなし。夜更て、人定まりて静におもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そもそも何をたねとしてか、うき草のうきしづみにより、人のおもむけ異なる覧(らむ)。たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り。其こゑの大ひなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し。」

(毎日私を訪ねてくる人は、花や蝶のように美しい人々ばかり。大島文学士夫人みどりのすらりとした姿、大橋乙羽夫人とき子のお被布姿の若々しさ、今は江木写真館主人の妻であるが関悦子の裾模様姿、その妹藤子の薄色の綸子(りんず)の中振袖姿、江間よし子の秋の七草を染め出した振袖に緋無垢を重ねた可愛らしい姿、女子高等師範学校の安井哲子・木村きん子両教授の鼠色と鶸(ひわ)色の三枚重ね着の姿、皆それぞれに美しく嫌なものは一つもない。一昨年の春は吉原の大音寺前で駄菓子を売っての生活で、親戚も近よって来ず、旧い知人も訪ねてくる者もいなかった。来る客といえば品の悪い下町の貧しい人々ばかりでした。社会の下層階級の人でもこんな人は多くはいなかったでしょう。わが身は世間から見捨てられて、頼る所もない有様であったのに、今の私の成り昇った姿は根のない浮雲が大空に漂っているようなものです。今集まってくる人々は世間に名高い立派な紳士、商人、学士という上流社会の人ばかりです。人々が寝静まった夜更けに静かに思えば、私は昔のままの私であり、家も昔のままなのに、そもそも何が原因で人の身は浮草のように浮き沈みするのだろうか。思うに生きるのに容易なのも人の世であり、また侮ってはいけないのも人の世です。その声が大きい時は千里四方にまで響き、その声が低い時は隣りの人さえも知らないようなものです。)


「『国民のとも』春季付ろく書つるは、江見水蔭、ほし野天知、後藤宙外、泉鏡花および我れの五人なりき(*)。早くより人々の日そゝぎ、耳引たてゝ、これこそ此年はじめの花と待(まち)わたりけるなれは、世に出るよりやがて、沸出(わきいづ)るごとき評論のかしましさよ。さるは、新聞に雑誌に、いさゝか文学の縁あるは、先をあらそひてかゝげざるもなし。一月(いちぐわつ)の末には、大かたそれも定まりぬ。あやしうこれも我がかちに帰して、「読書社会の評判わるゝが如し」とさへ沙汰せられぬ。評家の泰斗と人ゆるすなる内田不知庵の、ロを極めてほめつる事よ。皮肉屋の正太夫が『めざまし草』の初号に書きたるには、「道成寺」に見たてゝ、「白拍子(しらびやうし)一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何がし、くれがし」と数へぬ。へつらふ物は万歳万歳とゝなへ、そね(おもて)む人は面を背けて、我れをみる事仇(あだ)の如かり。

*「国民之友』(明29・1・4刊)付録。江見水蔭「炭焼の煙」、星野天知「のろひの木」、後藤宙外「ひたごゝろ」、泉鏡花「琵琶伝」、一葉「わかれ道」が掲載

(「国民之友」春季附録に書いたのは、江見水蔭、星野天知、後藤宙外、泉鏡花と私の五人でした。早くから人々が注目し耳を立てて、これこそ今年の最初の文学の花と待ちかねていた雑誌なので、発宣されると同時に涌き出るような評論の、何と騒がしいことよ。少しでも文学に関係ある新聞雑誌では、先を争って載せないものはない。一月の末には大体の評価も決まった。そして不思議にも私の勝利となって、読書人の間では破れるような大評判だとまで噂された。評論家の泰斗と人も認めるあの内田魯庵が口を極めて褒めていたし、皮肉屋の斎藤緑雨が「めざまし草」創刊号に書いたのには、歌舞伎の道成寺に見たてて、「白拍子一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何某、何某」と数えたてていた。褒める者は万歳々々と唱え、憎む者は顔をそむけて私を仇敵のように見るのでした。)


「「にごり江」よりつゞきて、「十三夜」「わかれ道」、さしたる事なきをばかく取沙汰しぬれば、我れはたゞ浅ましうて物だにいひがたかり。「此二十四、五年がほどより打たえ寐(ね)ぶりたるやうなる文界に、妖艶の花を咲かしめて、春風一時(いちじ)に来るが如き全盛の場(ば)、舞台にしかへしたるは、君が一枝(いつし)の力よ」など、筆にするものあり、口にする者あり。「いかなる人ぞや。おもかげ見たし」など、つてを求めて訪ひよるも多く、人してものなど送りこすも有けり。雑誌業などする人々は、先をあらそひて、「書きくれよ」の頼み引もきらず。夜にまざれて、我が書つる門標ぬすみて逃ぐるもあり。「雑誌社には、我が書たる原稿紙一枚もとゞめず」とぞいふなる。そは、「何がしくれがしの学生、こぞりて貰ひにくる成り」とか。「閨秀小説のうれつるは前代未聞にして、はやくに三万をうり尽し、再はんをさへ出すにいたれり。はじめ大坂へはかり七百の着荷有しに、一日にしてうれ切れたれは、再び五首を送りつる、それすら三日はたもたざりしよし。このほど、大坂の人上野山仁一郎、「愛読者の一人なり」とて尋ね来つ。かの地における我がうわさ語り聞かす。「我党崇拝のものども打つどひて歓迎のもうけなすぺければ、此春はかの地に漫遊たまはらばや。手ぜまけれども別荘めきたるものもあり。いかでおはしませ」などいざなふ。尾崎紅葉、川上肩山、江見水蔭および我れを加へて、二枚折の銀屏(ぎんびやう)一つはりまぜにせまほしく、「うらばりは大和にしきにして、これをば『文学屏風』と名づけ、長く我家の重宝にせまほし。いかで原稿統一ひら給はらばや」など切にいふ。「金子御入用の事などもあらは、いつにても遠慮なく申こさせ給へ。いかさまにも調達し参らする心得也」などいふ。「ひいきの角力に羽をり投ぐる格(かく)にや」とをかし。」

(「にごりえ」に続いて「十三夜」「わかれ道」と、それ程でもない作品を、このように大げさに取り上げるので、私は驚いて物も言えない程です。

「この二十四、五年以来すっかり眠っていた文壇に妖艶の花を咲かせ、春風一時に吹き来るような全盛の舞台にしたのは君の作品の功績による」

などと筆にしたり、口にする者もいる。どんな人か顔を見たいといって、つてを求めて訪ねて来る者も多く、人を介して物を送ってよこす者もいる。雑誌の編集者たちは先を争って原稿依頼に来る者が後を絶たず、夜の闇に紛れて私が書いた門標を盗んで行く者もあり、雑誌社では私の書いた原稿が一枚もなくなったという。それは学生の誰やら彼やらが貰いに来るためだとか。「文芸倶楽部、閨秀小説特集号」が売れたのは前代未聞で、既に三万部を売り尽くし、再版をさえ出すに至った。初め大阪へだけ七百部送ったのが一日Hで売切れたのであと五百送ったが、それさえ三日ともたなかったとのこと。先日は阪の上野山仁一郎という人が、愛読者の一人だといって訪ねて来て、大阪での噂を話してくれた。

「我々、先生を崇拝する者たちが集まって歓迎会を催そうと考えていますので、この春にはおいで頂きたいものです。手狭ですが別荘らしいものもありますので、是非お出かけ下さい」

と誘いをかけてくる。

「尾崎紅葉、川上眉山、江見水蔭、それに私を加えて、二枚折りの銀屏風を一つ、貼り混ぜの形で作りたく、裏は大和錦にして、これを文学屏風と名づけて、長く家宝にしたいと思うのです。是非、原稿紙一枚で結構ですから頂きたいのです」

と、しきりに言う。また、

「お金がご入用の時などがありましたら、いつでもご遠慮なく申し越し下さい。どのようにでも準備いたす考えです」

などと言う。謂はば、贔屓の力士に羽織を脱いで投げるやり方と同じだと、面白く思ったのでした。)


つづく



税金、どれだけ投入したのか? ⇒ まだ都の土地なので都市計画税も固定資産税はゼロ! 選手村が終わった後の改修費445億! 都が借りたことになっていたので賃貸料38億! これまでに、都民の税金1,000億が晴海フラッグに使われた / 「公有地に建てられた“晴海フラッグ”が何故投資マネーが横行する舞台になってしまったのか。そのあたり東京都としても検証が必要」(NHK午後LIVE) / 蓮舫さんが晴海フラッグ、オリンピック選手村跡地の問題に光を当てたのは超絶に重要! / 晴海フラッグの分譲マンション 法人が多数購入 なぜ?7回落選した夫婦“ファミリー向けと聞いていたのに”(NHK) / 晴海フラッグの投資目的取得 都「販売に関与できない」と説明(NHK) / 元選手村「晴海フラッグ」 3割以上の部屋で居住実態確認できず(NHK) / 晴海フラッグ 法人所有4分の1以上の街区も 投資目的の実態は(NHK):「部屋の所有者を登記簿から調べたところ、全体の4分の1以上が法人だったことがわかりました。その多くは投資や不動産業で、中には38戸を所有しているところもあり、元選手村が、投資対象となっていた実態が明らかになりました。」    



 

【蓮舫と次の東京へ】 7月7日(日)は東京都知事選挙の投開票日です。東京を、未来を変えるために投票に行きましょう。「れんほう」とひらがなでもOK

 



 

この人、投票率を下げようとしているのか? → 「みなさん、時代は都知事選より陸上日本選手権ですよ! 」(爲末大)  / この人はエライ! → 小泉今日子「投票してきました」 著名人が続々反応「#都知事選を史上最大の投票率にしよう」ツイート(東スポ)  

 

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