2024年6月24日月曜日

「円の実力」は過去最低 64カ国・地域で最大の下落(毎日);「00年以降の主要20カ国・地域(G20)の実質実効為替レートの騰落率を調べると、日本円は57・88%の下落だった。アルゼンチン(72・76%下落)よりは下落幅は小さかったが、G20の中で19位だった。」    

東京都の幹部14人が神宮外苑再開発などを進める三井不動産グループ2社に天下りしていた。「赤旗」が6月16日に報じたスクープをフォローしたのは、「アサ芸プラス」と「日刊スポーツ〈政界地獄耳〉」のみ。企業による行政買収の疑惑だ。小池都政8年間の全面的な検証を。(有田芳生)   

 

小池知事は八丈島でも報道陣から逃げまくり 囲み取材ナシ&学歴詐称疑惑の問いかけにピリつく(日刊ゲンダイ);「選挙の時だけ来て八丈島の何が分かるの? 高齢化がひどく、目立った働き口もない。金が入るのは土建業ばかり。小池さんが何をしてくれたのって感じ」

大杉栄とその時代年表(171) 1895(明治28)年11月1日~15日 伊藤首相の辞任・欧州視察の希望叶わず 漱石、句作に励み子規に評を乞う 「貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」 「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害と浜茂の拘引に御座候。」(漱石の子規宛て手紙)   

 

白猪の滝

大杉栄とその時代年表(170) 1895(明治28)年10月26日~31日 (法隆寺の茶店に憩ひて)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規) 子規「俳諧大要」(『日本』27回) 近衛師団長北白川宮、台湾で病死 帝国京都博物館完成 子規帰京 歩行困難 「「リヨウマチのやうだ」と居士は言つた。けれども其はリヨーマチでは無かつた」虚子 より続く

1895(明治28)年

11月

朝鮮、江原道原州で起兵の李春永ら、師の柳麟錫を義兵将に推戴。

11月

伊藤首相、山県有朋(前首相、陸軍大将)か黒田清隆(前首相)か松方正義(前首相)に首相職を譲りロシアなどの欧州へ行こうとし、明治天皇に願い出る。天皇は同意せず。

陸奥外相は反対。山県は特に反対ではなかったが、西園寺外相臨時代理より陸奥の考えを聞いて同感する。問題は12月末迄続く。西園寺は、入手した天皇・山県の動向など機密情報を陸奥に伝え、陸奥の指導を仰ぎ連携して行動(陸奥宗光宛西園寺公望書状、11月23、24日、12月4、21、24、30日)。

伊藤がこれを希望した訳は、日清戦争後の朝鮮国など極東を巡る日露の対立を、ロシアなど列強指導者と会見することで解決したいと考えたから。

しかし、日清戦争後の軍備拡張の内容など、日本のあり方を決める第9議会が12月~翌年3月に予定されている。戦前から自由党(板垣退助総理)や改進党など政党が伸びており、日清戦後経営の為に必要な予算を議会で可決する為には、伊藤内闇と繋がりの深い自由党の協力を得る必要がある。そこで天皇はじめ西園寺らが伊藤の渡欧に反対。

11月

島村抱月「新体詩の形に就いて」(早稲田文学)11、12月

11月

漱石「愚見数則」(松山中学校友会『保恵会雑誌』)


「・・・・・漱石は求められて松山中学校友会の『保恵会雑誌』(明治二十八年十一月)に「愚見数則」なる檄文を寄せた。今の師弟関係が、客の機嫌を伺うばかりの宿屋の主人・番頭らと、金を払ってしばし滞在する宿泊客と変わらないことを痛烈に批判し、教育の質の向上を求めたのである。もちろん自己批判は忘れず、自身が「糊口の口」を欲しただけの「似非教育家」であることを認め、「余は教育者に適せず」「余の教育場裏より放逐さるゝときは、日本の教育が隆盛になりし時」だと放言している。

以下、月給の高下で教師の価値を定めてはならない、教師は必ずしも生徒より偉いわけではない、一度決心したら躊わず直進せよ、数を恃んで一人を馬鹿にするな、他の人を崇拝しても、軽蔑してもいけない、毀誉褒貶に左右されるな、人の値打ちは成功失敗で決まるわけではない等々、彼が年来の鬱憤を吐き出した感がある。『坊っちゃん』の「俺」が能弁だったら、職員会議できっと似たようなことを発言しただろう。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


11月

漱石、冬にかけて午前2時頃まで、勉強に励む。炭代は多少要ったがと漏らす(金子健二記憶)。

11月

ロシア、レーニン、「われわれの大臣たちは何を考えているか?」。ツァーリではなく大臣たちを攻撃すべきと主張。

11月

ロシア、特別会議で、日本の艦隊充実に対抗して極東用の造艦計画立案必要を確認。1898年計画決定。1905年完成。

11月

ロマン・ロラン(29)、エコール・ノルマルで芸術史講座を担当。

11月1日

加藤駐英公使、イギリス外相ソールズベリと会談し、イギリスは朝鮮が日本勢力下にあることを内心喜ぶと監察。

11月2日

鉄幹(22)、京都の父母のもとに帰り、12月、再び朝鮮に渡る。翌明治29年4月16日、日本に戻る。

11月2日

漱石、伊予鉄道に乗って松山東郊の山あいに滝見物に出掛ける。終点の平井河原で降り、河之内の近藤家に泊る。

近藤家は子規の遠縁にあたる造り酒屋で、子規も明治24年夏に訪れ、白猪(しらい)、唐岬(からかい)の両滝を見物して、「瀧湧くや秋のはらわたちぎれけん」と詠んだ。当主は亡く、未亡人と娘がひっそりと暮らす近藤家での一夜を漱石は、「嬬(やもめ)の家独り宿かる夜寒かな」と句作した。

翌3日、漱石は近藤家の使用人に案内してもらい、重信川(しげのぶがわ)上流の滝を見に行った。夕刻松山に帰り、すぐに句を清書して子規に送る。この日の書簡には本文がなく、内容のすべてが俳句で、その数50に及ぶ。


客人を書院に寐かす夜寒哉     漱石

唐黍を干すや谷間の一軒家


11月3日に18句、13日に47句、22日に69句、12月14日に41句、18日には61句つくった。それらはみな、評をあおぐため子規に送られた。

11月2日

一葉の許に、夜、禿木が来たが、妹邦子の計らいで門で帰す。入れ違いで眉山が来る。眉山が言うには、禿木と一緒に来たようで、妹が同じように留守である旨をいう。

11月3日

天長節。朝から車軸を流すような雨。一葉の許へ、神戸の小林愛から松茸一籠を送ってきたので、炊いて食べる。稲葉鉱が来たので振舞う。

午後から禿木と秋骨が来訪。昨日同様、妹邦子が一葉は不在だと行ったが、それなら少し座敷を貸してくれと必死に願うので、上げて母と妹とであしらっていると、手洗いに行きつつ廊下から一葉を探している様子。30分ばかりして帰ったが、夜にまた禿木と秋骨が来訪。眉山のところで遊んでの帰りだと言う。全く合わないのも気の毒なので、対面する。禿木は土産を買ってきていた。いろいろな物語をして遅くに帰る。

11月5日

一葉の許へ、夜、関如来来訪。落合直文のところに行くついでに立ち寄ったという。話しているうちに2時間が過ぎ、車夫は待ちくたびれて玄関でたかいびき。これならもう落合を訪ねることもできないだろうと引き留めて、改めて話を聞く。月給取りになってからというもの、月給を受け取っては、待合茶屋の二階に遊びに行かないことはなく、今日までには残りなく使い果たして、今は懐には5厘銭ひとつだけで煙草を買う銭もないというので、巻煙草を買ってあげる。語ること4時間。「読売新聞」文芸欄に載るさまざまな原稿などを見せて、禿木が「にごりえ」の評を書くと言っていたと語る。

11月6日

台湾、南進軍編成を解く

11月6日

この日付け漱石の子規宛て書簡。「正岡子規に送りたる句稿その五」を同封。


「(略)

十二月には多分上京の事と存候。この頃愛媛県には少々愛想が尽き申候故どこかへ巣を替へんと存候。今までは随分義理と思ひ辛防致し候へども、只今では口さへあれば直ぐ動くつもりに御座候。貴君の生れ故郷ながら余り人気(じんき)のよき処では御座なく候

駄句あひかはらず御叱正被下たく候。なるべく酷評がよし。啓発する所もあらんと存候。

以上。

十一月六日夜                           金之助

升様」


生徒たちが「探偵」の真似をして自分を見張っているのは不快の限りだ。松山は「不浄の地」とさえ思われる。

11月6日

一葉の許へ、午後、山下次郎来訪。関如来から昨夜の詫びの葉書が来る。

11月7日

子規、温めた蒟蒻で温湿布をすると、その効果がでたのか、11月末にはいくらか歩けるようになる

11月7日

一葉の許へ、早朝、禿木来訪。妹邦子が一葉は留守だと言うと、「文藝倶楽部」第9編を借りて帰る。「にごりえ」掲載誌であり、「読売新聞」の評を書くためであろう。

11月8日

遼東半島還付条約、調印。

11月8日

ドイツ、レントゲン、X線発見。

11月12日

閣議、伊藤首相、自由党との提携について説明し、各大臣の了解を求める。

政府は自由党のみならず、改進党・国民協会の支持も獲得し、衆院の絶対多数を基礎とする「挙国一致」内閣を目指す。自由党は政府と改進党との接近を警戒し、伝えられる大隈入閣説に猜疑の目を光らせている。

11月13日

この日付け漱石の子規宛て手紙。「正岡子規に送りたる句稿六」に「二十九年骨に徹する秋や此風」と心境を詠む。


「・・・・・仰せの如く鉄管事件は大に愉快に御座候。小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害と浜茂の拘引に御座候。・・・・・」


東京市への水道管納入汚職で日本鋳鉄会社社長浜野茂が逮捕される(10月31日)。


「閔妃殺害のような乱暴な行動が、漱石に「尤もありがたき」ことと印象されたことは興味深い。それは当時の日本人が日本の独立を脅かす存在として、いかにロシアを恐れていたか、また隣国の安全保障に無自覚な朝鮮に、いかにいらだちを高めていたかを示しているが、満二十八歳の漱石もそのひとりであった。彼もまた時代の子であった。」(関川夏央、前掲書)

11月15日

フィリピン、「団結」廃刊。


つづく

小池陣営は“ステルス作戦”徹底か…前代未聞「会いに行けない百合子」vs「街に出る蓮舫」の行方(日刊ゲンダイ) / 蓮舫「テレビ局報道番組から小池都知事と私の討論会企画への出演依頼をいただきますが、知事側から多忙を理由に断られ企画が成り立たないとの話を聞きます。」 / 「これからもTV番組が企画した討論会にぜひ一緒に出ていただけないでしょうか?」と蓮舫。なぜかイヤそーな小池百合子。


 わざわざ都庁にいるのに、記者が別室でのオンライン参加なんて、何で? よっぽどフリーランスからの質問が命取りなんだろうな。 / 「子育て・教育にお金がかからない東京へ」 小池百合子知事が公約発表 オンライン会見は40分 東京都知事選(東京); 質問できたのは僅か5人!40分で終了! / 「よほどフリーランスの記者の質問を受けたくなかった」 and/or 「よほど学歴詐称に触れられたくなかったんだろう」


対面を回避するいかにもこの人らしいズルい手口 ⇒ 「討論する機会を少なくする作戦(&これが実績と一方的に言い張る)の一環か」 / 小池知事は首都決戦も「AIゆりこ」任せの仰天…学歴詐称疑惑の追及逃れで街頭に立たず?(日刊ゲンダイ) / 「AIゆりこ」の“不気味さ”の正体は? 小池都知事の「付け焼刃」ぶりを識者が指摘(日刊ゲンダイ) / 「こんなことするよりも、都議会や記者会見での答弁拒否や答弁逃避を止めて、ちゃんと質問や疑問に答えてくださいよ(辻野晃一郎)」



2024年6月23日日曜日

長徳4年(998) 赤斑瘡(あかもがき)流行 道長、官職を辞し、出家して年来の本意を遂げたいと再三奏請 道長『御堂関白記』始まる。 「維衡・致頼等合戦」 紫式部、藤原宣孝と結婚

東京 北の丸公園
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長徳4年(998)
この年
・この年もまた赤斑瘡(あかもがき)が流行
この年は夏から秋に最盛で、一条天皇も罹病し、上下わずらわぬ者なしといわれ、死者も多かったが、下人はあまり死なず、四位以下の者の妻がもっとも被害を受けたという。
一条天皇は正暦4年(993)に疱瘡にかかり、今度も罹病したから、今度の疫病は天然痘ではないはず。『栄花物語』には赤い細かな発疹をともなうことが書いてあるから、おそらく麻疹であろう。
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・この年より道長『御堂関白記』(自筆本14巻が現存)始まる。~寛仁4年(1020)。当時一般のならいとして、具注暦(ぐちゆうれき)という暦の余白に書きこまれている。
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3月3日
・この日から道長が突如重病に陥った。
初め彼は全く万事を諦め、再三、官職を辞し、出家して年来の本意を遂げたいと奏請した。
この時の彼の病は、当時の記録では、腰病・邪気(腰の痛みで、もののけによるものらしい)というだけで、どんな症状か、誰のもののけか明確ではない。
再三再四の辞職出家の申請は聞き入れられず、陰陽師の勧めに従って転居してから、徐々に快方に向かい、約半年の後にようやく外出できる程度に回復した。
この年も赤斑瘡(あかもがき)が大流行し、天皇・中宮以下軒なみに罹病し、公卿以下の死亡者も多かったが、道長の病はこの赤斑瘡ではなかったようである。
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10月3日
・大地震。
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10月23日
・藤原行成、右大弁に就任。
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この年晩秋から冬にかけて
紫式部は藤原宣孝と結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
翌長保元年には長女賢子が生まれた。ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
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12月
維衡・致頼等合戦①
この年、伊勢国に居住する平貞盛の子下野前司維衡(これひら)と、平公雅(きんまさ)の子散位(さんい、官職についていない五位)致類(むねより)が合戦し、伊勢大神宮と伊勢国から政府に訴えられた。
二人は『続本朝往生伝』が「天下の一物」と讃える一条朝を代表する武士である。

この月、政府が両人を召喚して検非違使庁で訊問したところ、維衡は過状(かじよう、詫び状)を提出したが致頼は非を認めなかった。
翌長保元年(999)12月、維衡は五位のまま淡路に移配、致頑は五位を剥奪して隠岐に流罪と決まったが、維衛はまもなく赦されて京に戻り、致頬も長保3年に召還され、やがて五位に復した。

『今昔物語集』は、伊勢国で武芸を競い合っていた二人を中傷する者があったので、合戦に及んだとしている。
武芸を競い合う敵対関係は世代を越えて受け継がれていく。
維衛と致頼の対立は次の世代の正輔(まさすけ)と致経(むねつね)に持ち越され、2人は長元3年(1030)、伊勢国で合戦した。

武士の名誉と「私合戦」
2人は当代を代表する兵(つわもの)として知られた人物。
「武士には則ち満仲・満正・維衡・致頼・頼光、皆これ天下の一物なり」(『続本朝往生伝』)とか、「此党頼信・保昌・維衡・致頼とて、世に勝(すぐ)れたる四人の兵なり」(『十訓抄』)などと記されている。

武士にとって武名こそすべてであった。
武名を維持するためには、やられたらやりかえす復讐を身上としなければならなかった。
その復讐を「義」と感じた武士は、復讐を企てる武士を積極的に支援した。
将門の反乱の直接のきっかけは、常陸介藤原維幾(これちか)の迫害に対する藤原玄明(はるあき)の復讐への支援であり、純友の反乱も、備前国での介藤原子高(さねたか)の抑圧に怒った藤原文元(ふみもと)の報復を支援したことから始まった。

他人の中傷がもとで「一以当千(いちいとうぜん)」の誇りが傷つけられると、武士たちは私合戦=決闘によって自らの強さを証明しようとした。
『今昔物語』には将門の乱より以前、箕田源二宛(みたげんじあつる、摂津渡辺党の祖)と将門の叔父の村岡五郎良文が武蔵国の原野で一騎打ちの合戦をしたが決着がつかず、その後は互いの射芸に一目置き合う親密な仲になったという有名な説話があるが、この決闘の原因も他人の中傷であった。武士は登場した当初から、武名を競う決闘・報復という武士特有の行動規範を生み出していた。

この月の動き
12月14日、左大臣藤原道長が頭弁(とうのべん)藤原行成に奏上させた中に 「五位以上畿外に出づべからざるの由、法条の制する所なり。而るに前下野守維衡・散位致親等、数多(あまた)の部類を率ゐて、年来の間伊勢国神都に住む。国郡のため(欠)事の煩ひ有り、人民の愁ひを致す、と云々」とあり、両名を大神宮司・国司らに命じ京に追上げさせることとなった。

同26日、陣定(公卿による政務評議)において、維衡・致頼の合戦が議せられ、左右衛門府の番長のうち「事に堪へたる者」を使にして、改めて召上げるべきことが定まった(14日に決めた両人の召還は成功しなかった)。

同29日、伊勢国司が調査して上申した「維衡・致頼等合戦状文」を奏上(以上『権記』)。

平氏と伊勢
平維衡は、正度、正衛、正盛と続いていく伊勢平氏の祖といわれ、これは、伊勢に地盤を拡げ活動していたことのわかる最も古い事例である。
本来東国を地盤にしていた平氏が、いつの時点で伊勢と関係を持つに至ったか。
将門の乱追討に活躍した平貞盛が、その後、なんらかの縁で伊勢と関係を有するようになったと推定される。
初期の平氏の勢力圏は、鈴鹿郡以北の北伊勢を中心に一部は尾張に及んでいたとみられ、うち維衡流は鈴鹿郡・三重郡などに、致頼流はその北に、本拠を置いていたと思われる。

伊勢における平氏家人らの本拠の分布
三重郡には館氏のほか、治暦3年(1067)年頃に維衡の孫季衡の従者が居住していた(『大神宮諸雑事記』)。
また『三国地志』(宝暦13年編纂完)によれは、三重郡を本貫の地とする平氏家人には、別に日野十郎・黒田後平四郎・伊藤武者次郎などがいる。いずれも『平家物語』『吾妻鏡』などに登場する者たちである。
さらに『三国地志』は、上総介忠清・忠光・悪七兵衛景清らを、国衙所在郡で三重郡に南接する鈴鹿郡の住人、また古市の白児党を鈴鹿郡の東南に続く奄芸郡の住人と記している。
つまり伊勢を木貫とする平氏家人の大部分が、三重・鈴鹿・奄芸の諸郡に本拠をもつと伝承されているのである。このうち三重郡は、維衡・致頼の合戦のあった長徳4年より30年以上前の応和2年(962)年に「神郡」になっている。
伊勢平氏の最も古い根拠地は、三重郡を中心とする北伊勢地域と推定できる。

この頃の平氏の伊勢居住は「土着」ではない
9世紀以降、中級官人や貴族が、都に本宅を置いたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営を行なうことがあった。
この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持発展させるための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。
中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築こうとした。このような地方居住の概念を「留住」(戸田芳実)という。
この頃伊勢に居住する平氏も、農村に深々と根をおろす地方豪族ではなく、京に足場をもって農村との間を往来する一種の地域支配領主と規定される。
平氏の伊勢留任は、京都の官界・政界における諸活動の結果であり前提である

維衡の財力
『尊卑分脈』によれば、平貞盛には、維叙・維将・維敏・維衡の4人の男子がいた。
彼らはいずれも数カ国の受領を経験している。
維衝は兄弟の中では、最高の受領経験者であった。

寛仁4年(1020)頃、左大臣藤原顕光と娘一条天皇女御元子との間におこった京都堀河院の領有争いに触れて、『栄花物語』「巻一六もとのしづく」に、
「これは焼けたりしかば、故一条院のこれひら(維衡)して造らせ給へりし堀河の院なれば、女御は我領ずべしとおぼしたれど、」
という一節がある。
一条天皇が承香殿の女御元子のために、焼亡していた堀河院を修造させたのは、彼女が入内した長徳2年996)年2月から、懐妊し出産のため里第の堀河院に退出するまでの時期と考えられ、維衡と致頼の武力衝突の前年もしくは前々年にあたる。

堀河院は藤原基経の造営になり、数代を経て兼通、その子朝光、顕光へと伝領された。
『拾芥抄』に「二条南堀川東、南北二町」とあり、左京三条二坊の九町と十町を併せ、間を東西に通る押小路を吸収した堂々たる邸宅である。「堀川院は地形のいといみじき」(『大鏡』巻二)といわれ、山水の美は多くの文人・貴族によって詩歌に詠まれ、10世紀末および11世紀後半の二度の里内裏として重要な役割を果たした。
このような平安京屈指の名邸の修造に、維衡が起用されたのは、彼の財力が尋常のものではなかったことを示している
その根幹をなすものは、伊勢留任の成果や下野守など受領在任中に蓄えられた富である。
そして、余人をさしおいて維衛が修造に起用されたのは、彼が元子の父右大臣顕光の家人であったからと考えられる。
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【東京都知事選情報】6月23日 小池氏が先行 蓮舫氏追う 石丸氏は苦戦 都知事選 朝日情勢調査 / 小池百合子氏がリード、蓮舫・石丸伸二氏追う 序盤情勢調査(日経) / 小池氏大きくリード 都政「評価」約7割も プロジェクションマッピング「見直し必要」5割超 神宮外苑再開発「見直し必要」約4割(TBS)

 

▼JNN(6月23日、インタネット調査) ▼日経(6月23日) ▼JNN(6月23日、インタネット調査)

築地市場、神宮外苑に続き、葛西臨海水族園も破壊 ⇒ 葛西臨海水族園改修問題「水辺の自然」エリア最後の日…記者が感じた自然へのリスペクト欠如(日刊ゲンダイ);「伐採によって失われるのは樹木だけではない。東京都から自然が失われる中で、緑を回復しようとする考えや人々の努力が否定されるのです。一部エリアの話だからと伐採を容認してしまえば、悪しき前例となり連鎖してしまいかねません」  



 

岸田総理に新たな“脱法パーティー”疑惑 “岸田方式”と専門家が指摘する手法とは 自民党・萩生田氏にも新疑惑【報道特集】 / 立憲泉代表「何言ってるんだ?総理は2億円集めているんですよ!広島1区で誰が戦えますか?」

キックバック「派閥幹部から相談受け、会議で続けることに」 安倍派会計責任者 被告人質問で証言(TBS) /  自民党裏金真相 金庫番が新証言 安倍派会計責任者 松本淳一郎被告「ある幹部からある議員が還付(キックバック)してほしいと」 青木さん「法廷の場で言ってるのでこっちの方が正しい。一番の問題の根幹はこれを明らかにしてから政治改革議論するはずだった。一連の与党が主導した論議は0点」 / 「下村先生、西村先生、世耕先生、塩谷先生が集まり、還付を再開する結論になりました」     

橋下徹氏 維新の〝経験不足〟コキ下ろす「飲み食い政治のなれの果て」(東スポWEB)

大杉栄とその時代年表(170) 1895(明治28)年10月26日~31日 (法隆寺の茶店に憩ひて)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規) 子規「俳諧大要」(『日本』27回) 近衛師団長北白川宮、台湾で病死 帝国京都博物館完成 子規帰京 歩行困難 「「リヨウマチのやうだ」と居士は言つた。けれども其はリヨーマチでは無かつた」虚子      

 

             法隆寺境内にある句碑 〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

大杉栄とその時代年表(169) 1895(明治28)年10月16日~25日 三浦梧楼ら事件関係者(48人)全員日本召喚、広島刑務所収監 送還者名簿に「領事官補堀口九万一、従者与謝野鉄幹」あり 子規、松山を出立、大阪・奈良を経て帰京 台湾の組織的抵抗終結 第1回時代祭 より続く

1895(明治28)年

10月26日

前年に結成された孫文(29)の興中会が広東で武装蜂起を計画するが失敗

10月26日

子規、前日の服薬の効があったのか、痛みがやわらいだので、奈良へ行く。漱石に借りた金はここで使い果たす。宿で食べた御所柿のうまかったこと、柿をむいてくれた女中の美しかったこと、東大寺の鐘の音が心地よく響いたことなど、のちのちまであざやかに子規の記憶にとどまった。


(法隆寺の茶店に憩ひて)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)「海南新聞」12月8日掲載

この句は漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」(「海南新聞」9月6日)を無意識にふまえている。

大坂に戻り一泊し、10月30日の汽車で東京に向かう。

子規「くだもの」(『ホトトギス』明治34年7月号)によれば、東大寺周辺を散策、近辺の村で柿が盛んに成っているのを見た。柿は、漢詩でも和歌でも詠まれないもので、奈良との配合という意外性を感じて、東大寺近くの宿、角定(かどさだ)対山楼に入った。久しく柿を食べていなかった子規は、宿で柿を注文すると大きな鉢に御所柿が山盛りに運ばれてくる。「下女」が柿を剥き始めた。歳は16、7ぐらい、色は雪のように白く、目鼻立ちの整った美しい娘であった。子規が生国を尋ねると、梅の名所の月が瀬の者だといい、子規が《梅の精霊でもあるまいか》と思うほどであった。


《…やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいでゐる。柿も旨い、場所もいゝ。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜(そや)が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。余には此初夜といぶのが非常に珍らしく面白かつたのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ・・・》(「ホトトギス」明治三十四年四月)


初夜というのは戌の刻で午後8時。子規が彼女の開けてくれた障子から外を眺めると、なるほど、東大寺は自分の頭の上に当たる方角であった。

従って、この句は東大寺でもよかったが、あえて当時は東大寺よりはるかに無名であった、法隆寺とした。

日本のどこにでもある田園の、深まる秋の気配がこの句の主眼である。そこに東大寺のような「名所」は、観光地のイメージが付与されてしまう。

明治は東京へと人が集まった時代で、明治13年で108万、23年で139万、33年には195万と増大の一途をたどっている。故郷へのノスタルジーは、明治の「国民」の共通のものとなりつつあった。子規自身が、松山には帰るところのない、故郷喪失者である。「国民」共有の故郷のイメージを定着するものとして、東大寺よりさらに古く鄙びている法隆寺を選んだのは、そのあたりの事情があったと思われる。

子規研究家の古賀蔵人が子規の「奈良角定にて」と前書きのある「仏の足もとに寝る夜寒哉」を手がかりに調べた結果、「角定」は、對山樓という老舗旅館の俗称だったことが分かった。すでに對山樓は廃業していたが、古賀は近くに住む、当時の主人角谷定七の孫娘に会い子規の宿帳も見せてもらった。また、子規が「下女」と思っていたのは定七の姪で、評判の美人だったこと、庭には御所柿が数本あって鈴なりになっていたので、子規にもそれをちぎって食べて貰ったに違いないことなども聞き出せた(講談社版子規全集』月報3 古賀蔵人「〈柿くへば…〉の旅の宿」)。

10月27日

子規「俳諧大要」(27回、『日本』10月22日~12月31日)。


「一〇月二七日付の三回目までは『養痾雑記俳諧大要』と題されて、『日本』での連載が始まった。四回目から『俳諧大要』となる。「第一 俳句の標準」から始まり、「俳句は文学の一部なり文学は美術の一部なり」と、俳句を芸術として位置づけ、その芸術における「美の標準」とは何かを問うという論じ方で、体系的な文学論として俳論を構築しようとしていく。

この姿勢は「第二 俳句と他の文学」でさらに明確になる。子規は「俳句と他の文学との区別」は、「音調」にしかないとしている。すなわち、俳句の場合「音調は普通に五音七音五音の三句を以て一首と為す」という約束事があるだけで、「俳句と他の文学とは厳密に区別す可らず」というのである。そのうえで「小説」「長篇の韻文」は「複雑せる事物」をとらえるのに適し、「俳句和歌又は短篇の韻文」は「単純なる事物」をとらえるのに適しており、文学のジャンルの「優劣」を問うことに意味はないと子規は断言する。

この立場は「第三 俳句の種類」にも引き継がれていく。すなわち俳句は「意匠」(心)と「言語」(姿)の両側面を持ち、「意匠」は大きく「主観的」か「客観的」か、「天然的」か「人事的」かに区分され、「千種万様」の「意匠」に「適」する「言語」が選ばれるべきではあるが、「各種の区別」において「優劣あるなし」と強調している。

「第四 俳句と四季」においては、俳句における季語の問題を、和歌の季節観との差異において詳細に論じている。「俳句」というジャンルにおいて、「四季の題目」としての季語が特別な位置にあることを、「俳句に用うる四季の題目は俳句に限りたる一種の意味を有すといふも可なり」と説明している。「俳句」というジャンルが、「四季の題目」を中心とした、独自の約束事と価値体系を持つ言葉のシステムである、という認識に子規は達している。

「俳句」というジャンルの言語システムとしての約束事の基本を整理したうえで、『俳諧大要』の議論は、実践的な創作の方法とそのための様々な学習の在り方を提示していくことになる。

「第五 修学第一期」の基本は、「思ふまゝ」を表現すべきである、としている。「半句にても一句にても」まず「ものし置くべし」と子規は言う。まず言葉を書きつけること、そして中途半端な俳句の知識に縛られないことを強調する。とにかく「多くものし多く読むうちにはおのづと標準の確立するに至らん」ということなのだ。そして、この理論を実践するようにして、松尾芭蕉、室井其角、向井去来、与謝蕪村らの句を五十以上鑑賞してみせるのである。

さらに、創作した「句数」が「五千一万」ぐらいになれば、「多少の学問ある者」であれば「第二期に入り来たらん」と、「第六 修学第二期」の冒頭で述べている。「第二期」では自分の「長ずる所」をより発展させ、「及ばざる所」を克服していくことが重要となり、そのために「古今の句を多く読む」こと、あるいはすぐれた句の「摸倣」をすることも「可なり」と子規は言う。そして「壮大雄渾」「繊細精緻」「雅樸(がぼく)」「婉麗(えんれい)」「幽𨗉(ゆうすい)深静」「繁華熱閙(ねつとう)」などといった特徴に分け、五十以上の実例を紹介していく。

そのうえで、「俳句」における「写実」の重要性が強調されていく。「写実の目的」で「旅行」をするのであれば、「汽車」に乗って「洋服蝙蝠傘」という出立ちではなく、「草鞋」と「菅笠脚絆(ママ)」で「心を静め」「歩む」ことが大事だと子規は強調する。また、「名勝旧跡」ではなく、「普通尋常の景色に無数の美」を見出すべきだと主張している。

そして「第七 修学第三期」について子規は、「俳諧の大家たらんと欲する者のみ之に入ることを得べし」と、専門家になる決意を問うている。「文学専門の人」「篤学なる者」「自ら入らんと決心する者」でなければ「第三期」に入ることは出来ない。加えて、和歌をはじめとする日本の文学の全ての領域と、「支那文学」や「欧米文学」に通じ、「文学」だけでなく「美術一般」にも「通暁」していなければならない。それはまた「天下万般の学」に通じていなければならないということでもある。

この年の一二月三一日まで『日本』に連載された『俳譜大要』は、俳句を文学として確立しようとしていた子規の、自らの死を強く意識しての決意表明であった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

10月28日

台湾、近衛師団長北白川宮能久親王病死

10月28日

アルバート・アインシュタイン、アーラウの州立学校職業科に通う。~1896年初秋。先生の一人「パパ」ヨスト・ヴィンテラー宅に住む。この間、仏語エッセー「私の将来の課題」を書く。

10月30日

この頃、馬場狐蝶(9月に彦根の中学教師として離京)が一葉に恋文めいた手紙3通を送る。

10月31日

清国軍事賠償金2億両のうち第1回支払分、5千万両相当分をロンドンで日本に支払い。

10月31日

伊東巳代治、伊藤首相に通信社との密約を進言。前年「ニューヨーク・ワールド」紙が旅順虐殺事件を報道し、日米条約改正成立に悪影響を及ぼしかねない状況になったため。内閣より3千円・外務省より3千円を拠出し、ロイター通信者へ補助5千円・トラフォード特派員の駐在費用1千円を支弁し、日本よりの対外情報発信させようとするもの。

他に、元「トーキョー・タイムス」主宰者ハウス、「ニューヨーク・ヘラルド」特派員コックリルが親日派言論人として活躍、政府は個別に対米情報発信のエージェントとして使う。

10月31日

片山東熊(とうくま)、足立鳩吉設計の帝国京都博物館が完成

10月31日

子規、帰京。新橋ステーションには鳴雪、虚子、紺梧桐が出迎える。根岸の子規庵に帰る。

松山から須磨まで来たとき、子規は左の腰骨にリュウマチ性の激痛を感じ、歩行困難になった。帰京してからも腰痛はやまず寒い日はことに激しかった。


「余の之を新橋に迎へた時のヘルメツトを被つてゐる居士の顔色は予想して居つたよりも悪かつた。須磨の保護院にゐた時の再生の悦びに充ちてゐた顔はもう見ることが出来無かつた。居士は足をひきずりひきずりプラツトホームを歩いてゐた。

「リヨウマチのやうだ」と居士は言つた。けれども其はリヨーマチでは無かつた。居士を病床に釘附(くぎづ)けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄腰炎は此時既に其症状を現はし来つゝあつたのであった(高浜虚子『子規居士と余』十)

10月31日

日本鋳鉄会社社長浜野茂、東京市水道鉄管納入に関する汚職事件で拘引される。


つづく

「東京新聞」(2024.6.23) 【時代を読む】ーー法政大学名誉教授・前総長田中優子「拝啓・小池百合子様」

選挙で台頭の極右政党に、サッカー仏代表の主力黒人選手が反攻──エムバペ、テュラムも(ニューズウィーク日本版);「6月30日に行われる第1回投票では「極右」を勝たせるなと、スター選手が続々と若い有権者に訴えている。」

【沖縄戦、79年前の今日】 1945年6月23日 『第32軍の終焉』 掃討作戦 / 牛島司令官の最期 / 学徒への斬り込み命令 / 本当の勇気 / 生と死の淵 / 6月22日 『アメリカ世(ゆ)の始まり』 アメリカ世(ゆ) / 米軍記録 摩文仁司令部壕の最期 / 司令部壕、最後の晩餐 / 死者の畑 / アダンの陰に / 6月21日 『米軍の勝利宣言』 摩文仁の占領 / 沖縄の少年兵 / 包囲の摩文仁司令部壕と送別の宴 / シーガーアブの土 / 追われる女子学徒 / 「うつろな目の少女」/ 日本兵に殺される / 6月20日 『方面軍からの感状』 摩文仁に到達 / 残虐と寛大 / 「本土のための戦略持久戦」に感謝状 / 金武の住民移送 / 背後から日本兵に殺される / 6月19日 『無敵皇軍参謀たちの最後の姿』 参謀たちの脱出 / 復讐という名の住民虐殺 / ひめゆり解散という名の追い出し / 女子学徒の処刑 / 摩文仁の死の道 / 「沖縄戦デジタルアーカイブ」では、戦争体験者の足跡・戦没者の分布と、記録写真を閲覧できます      

 

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大手町の森は素敵ですが、だから神宮外苑、日比谷公園と葛西臨海公園の何千本の樹木を伐採してもいいわけではないです。 尚、大手町の森を作ったのは地権者で、小池知事じゃありません。彼女がこのようにして功績を自分のものとするのは誠実でない。 こんな投稿はあまりにも恥知らずですね。(ロッシェル・カップ)

2024年6月22日土曜日

8年前の記者会見。「良い成績だったよ」=「首席卒業」。  記者「カイロ大学を首席で卒業されたという経緯について」 小池知事「『良い成績だったよ』と言われたことは事実でございますので、喜んでその旨をその当時書き込んだ」 / 舛添要一氏は「首席卒業なんてすごいね!」と小池氏に言ったら「社会学部の学生は私1人だったから首席でありビリでもあるのよ」と返され「そんなこともあるのかと思った」と言ってましたよ。   

岸田首相のプレゼンシート。まったくタマシイが入ってない。聞いている方が馬鹿にされてるみたいでムカつく。早く退場して下さい。

 

大杉栄とその時代年表(169) 1895(明治28)年10月16日~25日 三浦梧楼ら事件関係者(48人)全員日本召喚、広島刑務所収監 送還者名簿に「領事官補堀口九万一、従者与謝野鉄幹」あり 子規、松山を出立、大阪・奈良を経て帰京 台湾の組織的抵抗終結 第1回時代祭     

 

妙國寺蘇鉄之図。寛延3年(1750年)

大杉栄とその時代年表(168) 1895(明治28)年10月15日~31日 一葉日記 「文学界」同人評(眉山、孤蝶、禿木、秋骨、上田敏) 文名が上がるに伴う不安 しかしもはや引き返すことはできないという自覚 より続く

1895(明治28)年

10月16日

台湾、第2旅団、鳳山を占領

10月16日

愛媛県尋常中学校住田昇校長休職を命ぜられ辞任。横地石太郎教頭、校長事務取扱いになる。

4年生の今井嘉幸が首謀者といわれ、住田昇校長排斥のストライキ起る。漱石は、生徒たちの態度に不快を覚える。

10月17日

政府、三浦公使の解任・召喚、小村の後任公使任命を決める。

10月18日

朝鮮、三浦梧楼ら事件関係者(48人)全員日本召喚命令。~22日。広島刑務所未決監の収監。

翌明治29年1月14日、第5師団軍法会議で楠瀬中佐以下全員無罪。

20日広島地裁の予審で全員免訴。

25日帰京。「沿道到る処、多人数群して、万歳万歳の声を浴せ掛け」られる(三浦談)。

杉村濬書記官は、広島の法廷で、この行動は「大鳥、井上両公使ノ所為卜同一ニシテ、其ノ手段ハ遙ニ昨年七月ノ挙ヨリ穏和ナリシ」と主張、今回の事件を「過失卜為シ、若クハ罪戻卜認メナバ、何故ニ昨年ノ挙ヲ是認シタルヤ」と開き直り、「政府ハ既ニ昨年ノ挙ヲ是認シタル己上ハ、後任(三浦梧楼)公使ガ其例ニ倣ツテ行ヒタル本年ノ挙モ亦是ヲ貴ムルヲ得ザルモノト確信」すると論じる。

事変は、朝鮮に対する「戦争」は継続中との認識のもとに出先機関が引き起こしたものであるが、日本政府指導者も共通の認識にたつ。事変後急派された井上馨大使は、小村寿太郎公使と連名で「我兵ヲ王宮ニ入ルルハ安寧秩序ヲ維持スル必要手段」三浦公使らの行動を擁護し、もし、彼の行動を否定するならば、「我兵ヲ此ノ国ニ駐屯セシムルハ何ノ為ナルヤ」と問い、「甚ダ了解ニ苦シム」と述べる。日本がこの態度を改めるには、国際世論の圧力と朝鮮民族の抵抗の激化が必要。

送還者名簿に「領事官補堀口九万一、従者与謝野鉄幹」あり。

鉄幹は事件当時不在で、広島で簡単な取調べのあと釈放(関係者の家族と同じ程度の扱い)。この年4月渡韓(日本語学校、乙未義塾教師として)。22歳。領事館に仮住まいして堀口と親しくなる。鉄幹はその後2度渡韓。明治30年の3回目は、欧州留学の資金稼ぎのため民間人には禁じれている朝鮮人参売買に手を出し、散々な目にあう。晶子に出会うのは明治33年。

関係者のその後:

三浦梧楼:枢密顧問官。

堀口九万一:ブラジル公使など歴任。

安達謙蔵:内務大臣、逓信大臣。

柴四郎:前後7回代議士当選。

小早川秀雄:九州日日新聞社長。

楠瀬幸彦:陸軍大臣。

岡本柳之助:明治45年上海で客死。

堺益太郎(巡査):統監府警保局警視として旅順監獄で安重根を取調べ。安を親切に取り扱い、安に「安応七(重根の別名)歴史」を書かせたと言われる。

10月19日

台湾民主国大将軍劉永福、ドイツ商船に乗って厦門(アモイ)に逃亡。兵は四散する。

10月19日

西園寺公望外相臨時代理、陸奥外相に「朝鮮一件」は「一大獄」となると思うと書く(陸奥宗光宛西園寺公望書状、10月19日)。実際には、三浦の免官のみ。

10月19日

子規、この日朝9時、西予丸で松山を出立、宇品に向う。広島、大阪、奈良を経て帰京。(21日須磨保養院、22日大阪、26日奈良、29日再び大阪、東京に向かう)


大阪での句

朝寒や蘇鉄見に行く妙国寺

妙国寺は堺にある日蓮宗の寺で、「本能寺の変」の時に徳川家康が滞在し、森鴎外『堺事件』の現場でもある。フランスの水兵と堺警備の土佐藩士が衝突し、10人を超えるフランス側の死者を出したため、幕府がフランスに賠償金を払うとともに、土佐藩士に切腹を命じた。フランスの立会人がこれを見るにしのびず、11人で切腹は中止された。樹齢千百年という蘇鉄も切腹を見ていた。

10月20日(推定)

柳原極堂が漱石を訪問。漱石は「嫁をとるんだ」という、「夫りや宜いな」と云うと、「寫眞結婚だ」と云った。(柳原極堂「寫眞結婚だ」 『渋柿』漱石忌記念号

大正六年十二月十二日)

10月21日

台湾、第2師団、台南に入城。29日、安平入り。

台湾の組織的抵抗終結

10月22日

子規、22日に大阪に突いた頃から左腰骨に強い痛みを感じ歩行困難となる。


「それから東京へ帰る時分に、君払つて呉れ玉へといつて澄まして帰つて行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せといふ。何でも十円かそこら持つて行つたと覚えてゐる。それから婦りに奈良へ寄つて其処から手紙をよこして、恩借(おんしやく)の金子は当地に於て正に遣ひ果し候とか何とか書いてゐた。恐らく一晩で使つてしまつたものであらう」(『正岡子規』)


10月25日

外相臨時代理西園寺公望、列強に対し、将来日本は朝鮮を撤退し、内政に干渉しないと通告。遼東還付も終結せず、台湾平定も完了しないこの時点で、朝鮮でも列強の疑惑を惹起するのは得策でないという判断。

朝鮮の内政に「無干渉ノ方針ヲ執ル」と声明し、朝鮮が「単独ニ秩序ヲ維持シ、外国人ヲ保護シ待ルニ至ル」場合、「駐屯セル軍隊ヲ召還スべシ」と宣言。

朝鮮における侵略政策の挫折と台湾の作戦終了により、大本営はようやく翌1896年3月に大本営を復員。完全な意味で平時に復す。

10月25日

京都、第1回時代祭り


つづく


小池百合子氏 アラビア語披露する動画を公開→即削除で波紋…再アップで追記された「一文」(女性自身) / 小池がアラビア語を話すポスト。 アラビア語の専門家からレベルの低さを指摘され削除された。 / 「学歴詐称」批判への反撃として小池百合子がポストしたキャスターや大臣時代のアラビア語発話の動画。少しして小池が削除。理由は簡単。アラビア語専門家の飯山あかり氏に完膚なきまでにその低レベルを暴露されたからだ。発音、文法全てデタラメ。飯山氏の印象ではカタカナをそのまま読んでいるよう!

記者は排除、ママたちは仕込み(さくらママ) 都知事選初日に狭い選挙事務所で小池知事は第一声 先着順で取材できた報道陣は30人程度 大勢が取材に参加できず排除 赤ちゃんを抱えた支援者のママたちと記念撮影してたけど、事務所スタッフは名簿で出席を確認 事務所側は動員を呼びかけたことを認めました さくらママ — 日刊ゲンダイ ニュース記者 

2024年6月21日金曜日

税金、どれだけ投入したのか? ⇒ 【ガラガラの晴海フラッグ】住人の評価は「安いうえに人が少ない」 投資目的で購入した人には誤算の“賃貸に出しても借り手がなかなかいない”状況(マネーポスト) / 「公有地に建てられた“晴海フラッグ”が何故投資マネーが横行する舞台になってしまったのか。そのあたり東京都としても検証が必要」(NHK午後LIVE) / 蓮舫さんが晴海フラッグ、オリンピック選手村跡地の問題に光を当てたのは超絶に重要! / 晴海フラッグの分譲マンション 法人が多数購入 なぜ?7回落選した夫婦“ファミリー向けと聞いていたのに”(NHK) / 晴海フラッグの投資目的取得 都「販売に関与できない」と説明(NHK) / 元選手村「晴海フラッグ」 3割以上の部屋で居住実態確認できず(NHK) / 晴海フラッグ 法人所有4分の1以上の街区も 投資目的の実態は(NHK):「部屋の所有者を登記簿から調べたところ、全体の4分の1以上が法人だったことがわかりました。その多くは投資や不動産業で、中には38戸を所有しているところもあり、元選手村が、投資対象となっていた実態が明らかになりました。」    



 

「待機児童数を減らした」と小池百合子は言うが、それは数を小さく見せたいために政府が定義を途中で変更し、東京都もそれに従ったからで、従来の定義通りなら25年前と比べて「6倍」にも増えている。(当議会での質疑応答、動画)

 

イスラエル軍報道官が異例の政府批判(毎日);「ハマスとは『思想』であり、人々の心に根付いているものだ。壊滅できると約束する人は国民を欺いている」(イスラエル軍のハガリ報道官)

 

「小池さんは空虚な独裁者」「利害関係がない限り人がどんどん離れていく」 都議が暴露する小池都知事の「ダーティーな本性」(デイリー新潮); 「完全なうそつき」 「権力のポジションに上り詰めたいだけの、空虚な独裁者」



 

大杉栄とその時代年表(168) 1895(明治28)年10月15日~31日 一葉日記 「文学界」同人評(眉山、孤蝶、禿木、秋骨、上田敏) 文名が上がるに伴う不安 しかしもはや引き返すことはできないという自覚  

 

山田美妙

大杉栄とその時代年表(167) 1895(明治28)年10月8日~15日 一葉の文名が上がり大西祝や依田学海が会いたいと言ってると告げられる 松山で子規の送別会 一葉随筆「雁がね」「虫の声」 漱石に兄直矩より見合い写真が送られてくる より続く

1895(明治28)年

10月15日

~31日。この間、関如来の来訪4回。用事があって来るのもあるが、ないのに来るときもあった。角雑誌の「にごりえ」の評を郵便で寄越す。頼まれていた縁組の件で、写真を下さいと言えば、すぐに送って寄越す。武骨に見えて子供っぽいかわいらしいところがある。


「木強(ぼくきやう)の男とふと見ゆめれど、物なるゝまゝに、おきな子のやうなる所うつくし。」


「文学界」同人について;

このころかち眉山と如来がしばしば来訪するようになる。反面、禿木とは疎遠になっている。秋骨もよく来訪したが、母と邦子が嫌うので「いかがはせん」と日記に記している。上田敏もよく来訪している。

〇川上眉山は頻りに来る。今月に入って4,5回は来ている。一度は如来と連れだって来たが、その次の時、二人が偶然はちあわせになった。二人とも話がしどろもどろになり、恥ずかしがっていたのがおかしい。


「我れにこゝろなければ、何ともおもひたらねど、二人の面(おも)やうのをかしき、物がたりのしどなさ、おもひがけず落あひしを恥あへるさま、「男も猶、ものつゝみはなす成けり」とをかしかりき。」

(。私は特別な感情を抱いていた訳ではないので、何とも思っていなかったが、二人の顔つきのおかしさ、話しぶりのしどけなさ、思いがけずかち合ったのを恥ずかしがる様子など、男もやはり気兼ねはするのだなと可笑しかった。)


〇彦根中学に勤め始めた孤蝶からの手紙について。今月に入ってから手紙は三通、長いものでは巻紙6枚を重ねて2枚切手の大封じである。一度は名所古跡の写真が2枚、紫式部の源氏の間(石山寺にある、紫式部が「源氏物語」を起筆したと言われる場所)などというものを送ってきた。いつもの細やかでつつみない言葉、自分の恋人に送るようなことがかいてあるのもおかしく、誠実な人なので自然と励ますような言葉も見られるようだ。心美しい人であるよ


「此月に入りてより文三通、長きは巻紙六枚をかさねて二枚切手の大封じなり。一たびは名所古址の写真二葉、紫式部源氏の間などいへるをおくりこし給へり。例のこまかにつつみなき言の葉、わが恋人にやるやうの事かきてあるもをかしく、誠ある人なれば、おのづからはげますやうのことの葉などもみゆめり。こころうつくしき人かな。」

〇禿木とは今月一度も会っていない。細々とした手紙は来るが、孤蝶と一葉との間にあらぬ仲があるのではと疑って、少し妬まし気なことも書いてあって煩わしいので、返事はしなかった。向こうから二度ほど訪ねてきたが、妹邦子の取り計らいで帰した。才能はあるのだが、みっともないところがあるのが情けない。


「平田ぬしには此月たえて逢はず。文こまごまとおこしつれど、孤蝶ぬしとの間に物うたがひを入れて、少しねたまし気などの事書てありしもうるさければ、返しはやらず成りにき。みづから二度ほど訪ひ来しかど、国子の取はからひて、門よりかへしぬ。才子なれども憎くき気のあるぞ口をしき。」


〇戸川秋骨も何度私を訪ねただろうか。大体毎週土曜の夜に来て、来れば11時を過ぎないで帰ることなどない。母も妹もこと人を嫌う。ある伴、眉山と来て語ってるうちに、興奮しだした時の恐ろしかったこと。「どうしよう、どうしよう、この家を離れがたい」と打ちふるえるのに、眉山も呆れながら、辛うじて一緒に連れ出した。翌朝早くに詫びる手紙をよこしてこれまで通りのつきあいを求めてきたが、気味の悪い哲学者だ

秋骨自身はユーモアのように心得て振舞っていることでも、一葉に快感を与えなかったようである。


「さる夜、川上君と共に来て、物がたりのうちにふるひ出(い)でぬる時などの恐ろしかりし事よ。「我れはいかにするとも、此家の立はなれがたきかな。いかにせん、いかにせん」とて、身をもみぬ。みづから、「こは怪し、怪し」といひっゝ、あと先(さき)見廻しつゝ打ふるふに、川上ぬしもたゞあきれにあきれて、からく伴(ともな)ひ出て送りかへしぬ。「其夜、なき寐入(ねい)りにふしたり」とて、あくる朝まだきに文おこしぬ。うちにさまざまありけれど、「猶親しき物にせさせ給はらずや。いかにも中空(なかぞら)に取あつかひ胎給ふ亊のうらめしき」など、書つらねありき。あなうたての哲学者よな」

〇優美なのは上田敏で、この人も最近頻りにやってくるが、全般に学問の雰囲気を漂わせて、洒落の気配など無いが、学生なのでその方が良いだろう。『桐一葉』の評を書くのを嫌がってあれこれ言い訳を言っているのも、高ぶってはおらず慕わしく思われる。とは言いながら心では世に立とうとしている人かもしれない。侮りがたくもある。


「されども、此人のは一景色(ひとけしき)ことなりて、万(よろづ)に学問のにほひある、酒落のけはひなき人なれども、青年の学生なればいとよしかし。「桐一葉」の評かく事をうがりて、かにかくといひわけなどいひ居(を)るも、たかぶらずしてなつかしう見えぬ。されども、心はいかならん。かく言ひ、かく見せて、世にたゝんの人なりや知りがたし。あなどりがたうもあるかな。」

〇考えるのも悲しいのは、争うの激しい世の交わったことだ。、、、だけどもどうしよう。舟は流れの上に乗った。隠れた岩に砕けない限り、引き返すことは難しいのではなかろうか。

桃水眉山など名の売れた作家たちでも実は金銭的には苦しく、また、嵯峨の屋美妙らの例から、人気の波や私生活の問題でも作家の苦しむことを知り、この頃から日記にしばしば不安を吐露している。自作の高い評価、またそれにより、文壇で名をなしていた年長の依田学海らから面会を請われるのも不安を煽った。


「さがのや」:

嵯峨の屋おむろ矢崎鎮四郎:明治22年(26歳)~明治24年頃、盛名はせる。昭和22年(84歳)没。

「山田の美妙」:

美妙山田武太郎。明治20年(19歳)「花の茨、茨の花」の完全口語体小説で世間を驚倒させる。明治21年「夏木立」の言文一致小説集で「東洋のシェイクスピア」とも呼ばれる。全盛期はここまで。明治28年暮、中島歌子の歌熟で一葉の友田沢稲舟と結婚。4ヶ月で破局。稲舟は明治29年9月10日没(22歳)。美妙は世間の攻撃にさらされる。明治43年(42歳)リンパ腺ガンで没。

「おそろしき世の波かぜに、これより我身のただよはんなれや。おもふもかなしきは、やうやうをさな子のさかいをはなれて、争ひしげき世に交(まじ)る成けり。「きのふは何がしの雑誌にかく書れぬ」「今日は此大家(たいか)のしかじか評せり」など、唯(ただ)春の花の栄(は)えある名計(ばかり)うる如くみゆる物から、浅ましきは其そこにひそめる所のさまぐ成けり。「わか松、小金井、花圃(くわほ)の三女史が先んずるあれども、おくれて出たる此人をもて、女流の一といふをはゞからず。たゝへても猶たゝへつべきは、此人が才筆」などいふもあり。「紫清さりてことし幾百年、とつてかはるべきはそれ君ぞ」などいふもあり。あるはとつ国の女文豪がおさなだちに比べ、今世に名高き秀才の際(きは)にならべぬ。何事ぞ、おととしの此ころは、大音寺前に一文ぐわしならべて、乞食を相手に朝夕を暮しつる身也。学は誰れか伝へし、文をば又いかにして学ぶべき。草端(そうたん)の一蛍(いつけい)、よしや一時(いつとき)の光りをはなつとも、空(むな)しき名のみ、仇(あだ)なるこゑのみ。我れに比べて学才のきは、なみなみならざりし、さがのやが末のはかなき事、山田の美妙が数寄(すき)の体(てい)、あはれ、あはれ、安き世の好みに投じて、この争ひに立まじる身、いか許(ばかり)かは浅ましからざらん。されども如何(いかが)はせん。舟は流れの上に乗りぬ。かくれ岩にくだけざらんほどは、引きもどす事かたかるべきか。」

(恐ろしい世間の波風に、これから私は漂うのであろうか。考えても悲しいのは、やっと子供の境界から離れて、争いのはげしい世界と交わることである。。昨日は或る雑誌にこう書かれたとか、今日はこの大家がこう批評したなどと、表面はまるで美しい春の花のように名誉だけを貰っているように見えるが、実はその底にひそんでいる色々な事が辛く苦しいのです。

「若松賎子、小金井喜美子、三宅花圃の三女史が既に世に出ているが、遅れて出たこの人を女流文学者の中の第一の人と言うことに遠慮はいらない。褒めても褒めても褒めきれないのはこの人の才筆」

というのもある。また、

「紫式部や清少納言がこの世から消えて既に数百年、今とって代るべき人は、この人より他にはない」

というのもある。或いは私を外国の女流文豪の幼少の頃と比べて褒めたり、或いは現代の秀才の仲間に入れて褒めたりする。何ということだろう。思えば一昨年の今頃は、大音寺前の通りに安い菓子を並べて、乞食同然の人々を相手に朝夕を暮していた身分である。学問は誰かについてまなんだというのか、文章もまたどうして学んだというのか。草の葉末の一匹の蛍のように、たとえ一時の光を放ったとしても、それは内実の伴わない虚名のみ、実効のない世間の声にすぎない。自分に比べて学問や才能のひと通りでなかった嵯峨の屋お室の末路のみじめなこと、山田美妙の不遇の有様、ああ、ああ、安直な世の噂好におもねって、この争いに参加した身が、なんとも情ない身の上でないことがあろうか。けれどもどうしようがあろうか。舟は流れの上に乗ってしまった。隠れた岩に当って砕けない限り、引き返すことは困難ではなかろうか。)

名声の不安に懐える一葉であるが、もはや引き返す途のないことを自覚してもいる。


つづく

NHK党のポスター枠「販売」いいの? 都知事選に大量擁立の立花孝志党首 法の抜け穴突く「荒稼ぎ作戦」(東京) / 都知事選候補者に警告 わいせつポスター掲示◆警視庁(時事) ← 何故、名前を出さない?

▼差別者は何も分かっていない(韓国学校/朝鮮学校)

2024年6月20日木曜日

オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる(NHK);「原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました」 / 「原爆の父」被爆者に涙して謝罪 通訳の証言映像発見、広島(共同通信)    

「このまま黙って死んだら私に悔いが残る」カイロ時代の友人が明かした小池百合子都知事“疑惑の大学生活”【実名告白】(文春オンライン) / 「『女帝 小池百合子』で描かれた北原百代さんの証言は極めて真実性が高いと思います。小池さんが、この本の出版元や著者の石井妙子さんを訴えないのは、裁判で真実性が認定されることを恐れているからです。でなければ、とっくに提訴しているはずです」(山口一臣) / 百合子さんの顔写真が大きく載っている記事を読み始め、私は驚きました。「カイロ大学文学部社会学科を日本人女性として初めて卒業した」 「そういうことにしちゃったの?」 あなたは、「うん」と、屈託なく言いましたね。     



 

まぁ、嫌な女でした ⇒ 週刊文春6月13日号の上沼恵美子氏のコラムに、同氏の番組にゲスト出演した小池百合子との初対面の様子が書かれている。「悪用しないでね」と名刺を渡され、TV局の上層部が挨拶に来ると「遅いのよ!もっと早く挨拶に来なさいよ」と偉そうだったとのこと。「まぁ、嫌な女でした」と総括しています😆。

下品な自民党 ⇒ 裏金の自民・細田氏が不信任案の討論中にヤジ 「日本酒はいいのか」(朝日); 自民党の裏金壺議員・細田健一 「お前の所も酒配ったりしてるだろ!」 「酒ェ配ったのはどうすんだ!」 「オイ!答えてェみろ!」 「答えられなかったらヤメろ!!」 「演説中止!!中止しろオイ!」 

万博のイメージ、どんどん悪くなる ⇒ 【物議】維新所属の大阪・箕面市長「万博行くなよ」「出入り禁止や!」 市議会で共産市議の発言にヤジ(読売テレビ) / 「万博行くなよ 出入り禁止や」箕面市長が見解示す「議会では不規則発言で上品ではないので以後気をつける、撤回・謝罪はしない」(MBS) / 「万博行くなよ。出入り禁止や」大阪・箕面市長がやじ 市議会で(毎日)     

 

玉川徹氏、都知事選主要候補を取材も小池氏には断られる「厳しい事聞かないから受けて欲しかった」(デイリー)

「私って攻撃的かしら?」蓮舫氏と専門家語る「もの言う女性」批判の裏にある女性蔑視(女性自身)

大杉栄とその時代年表(167) 1895(明治28)年10月8日~15日 一葉の文名が上がり大西祝や依田学海が会いたいと言ってると告げられる 松山で子規の送別会 一葉随筆「雁がね」「虫の声」 漱石に兄直矩より見合い写真が送られてくる  

 


大杉栄とその時代年表(166) 1895(明治28)年10月8日 乙末事変(閔妃殺害事件)そのⅢ 〈裁判〉 〈新聞関係者の事件への加担;朝鮮における日本人経営の近代新聞発行の経緯概要〉 〈閔妃暗殺事件直後の外交官堀口九萬一の書簡〉 より続く

1895(明治28)年

10月8日

漱石の菊池謙二郎宛て手紙では、山口高等学校から参事官宛に招聘の交渉があり、辞退したところ、また別の方法で招聘するつもりだからといって来たことを述べる。

同日、京城事変起り、共感を示す。

10月10日 漱石、子規の「名所読みこみ句会」に出席。

10月8日

朝から雨やまず。明日は萩の舎の月次会なので、道は悪いが銭湯にゆく。帰ると車夫が関如来の使いで昨日貸した傘を返しに来た。今夜再び上田敏を訪ねるみちすがらこちらをお返しする。上田の後に谷中の大野酒竹の庵に用事があるので、手紙にて失礼。今朝、依田学海が「にごりえ」を上出来の作と称えて、是非一度お会いしたいと言っていたので、一度訪ねるとよいなどと書いてあり、中には「月曜附録」のこともあった。最後には、縁談のこと、心よりよろしくお願い申しあげますなどと書いていた。真剣な書きぶりに皆で笑う。

朝鮮の王宮に突入した日本公使館守備隊、公使館警察官、日本人壮士らが、閔妃を殺害した、乙未事変起きる。

10月8日

ファン・ドモンゴ・ペロン、ブエノスアイレスに誕生。

10月9日

一葉、午前から萩の舎月次会。伊東夏子から、大西祝が是非会いたいと言ってるらしいという旨伝えられるが、こうしたのも一時の人気ではないかと空恐ろしくなる。

夜、中町の金清堂に原稿用紙を買いに行く。安井哲子が岩手から貰ったという大きな林檎を持ってくる。夜、手紙を2通。一つは関如来へ、「月曜附録」のことなどについて。もう一つは、孤蝶へ、長く音信不通なのでご機嫌伺い。夜も大層更けたので、その他は特になく就寝。関如来より原稿の再催促。

10月10日

朝鮮、「廃后の詔勅」、官報に発表。

内外の反撃強く、11日、「廃庶人の閔氏に嬪号を特賜する」と発表。

各国公使の反論強く、26日、「廃后の詔勅」取消し。

10月10日

台湾、混成第4旅団 (旅団長:貞愛親王) 布袋嘴より上陸

10月11日、第2師団 (師団長:乃木中将) 枋寮より上陸

10月10日

一葉に、大嶋みどり子が歌を詠んでくれと頼みに来る。その他は安井哲子と野々宮菊子らが稽古に来たのみ。田中みの子から2通と本願寺から1通の手紙。

10月11日

一葉に宛てて、この頃、孤蝶から写真を同封した手紙が来る。

10月12日

朝鮮、第4次金弘集内閣成立。反閔氏・反ロシア派。

10月12日

松山二番町の花廼家で子規の送別会。


「・・・・・送別会には子規、漱石を含め、十八人が出席した。小万という芸妓がひとりだけ呼ばれた。


十八人女とりまく夜寒哉   子規


小万は、この年三月十六日、松山にやってきた子規のために旧友らが催した従軍行送別会にも呼ばれていた。そのとき参じた十五人のうちのひとりから、「新派」すなわち「日本派」俳句の真髄はなにかと問われた子規は、以下の一句をしめした。


僧や俗や梅活けて発句十五人


「俗」「発句」、それから十五人の連なる「座」が、主たる条件としてそこに盛られていた。」(関川夏央、前掲書)


漱石、子規を送る五句を作る。


疾く帰れ母一人ます菊の庵

秋の雲只むらむらと別れ哉

見つゝ行け旅に病むとも秋の不二

この夕野分に向て分れけり

お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花


子規は、席上で漱石の雅号を詠み込んだ俳句を作る。「石女(うまずめ)の蕣(あさがお)の花にうがひかな」。別に、「行く我にとゞまる汝に秋二つ」も贈る。

10月14日

一葉、『読売新聞』月曜付録に随筆「雁がね」「虫の声」を掲載。

樋口一葉『あきあわせ』(青空文庫)の中の2編


10月中旬

漱石に兄直矩より見合い写真が送られてくる。


「十月中旬、漱石のもとに兄夏目直矩から見合い写真が送られてきていた。貴族院書記官長中根重一の娘、鏡子の写真である。漱石の十歳下、明治十年生まれの満十八歳とあった。

福山藩士族であった中根重一は、大学南校でドイツ語とドイツ法を学んだ。新潟開港場の病院でドイツ人院長の通訳をつとめたのち、行政官に転じた。中根重一の父、鏡子の祖父にあたる人が牛込矢来町に住んでおり、囲碁仲間のひとりが以前、牛込郵便局で直矩の同僚で、彼らの雑談からこの縁談は起こった。

中根重一が調べてみると、漱石の評判はよい。写真交換へと進んで、漱石自身大いに乗り気になった。早くも十月二十日頃には、下宿を訪ねてきた柳原極堂に、「嫁をとるんだ、写真結婚だ」と自慢している。」(関川夏央、前掲書)

10月15日

朝鮮、弁理大使任命小村寿太郎(外務省政務局長)、横浜地裁検事正安藤謙介、仁川領事官補山座円次郎、海軍大佐伊集院五郎、陸軍中佐田村怡与造、海軍少佐安原金次、陸軍少佐渡辺鉄太郎、同原田輝太郎の調査団、漢城到着。

17日、小村は西園寺へ「この事件の使嗾者は三浦公使にて、大院君と同公使との間を周旋したるは岡本柳之助と察せらる」と報告。


つづく