2024年9月19日木曜日

小泉進次郎さん、大丈夫? → 小泉進次郎が地元後援会に送った「5万円おねだり」衝撃文書を独自入手!(FRIDAY) / 改憲「一気に国民投票へ」 小泉氏、仮定質問に発言 自民総裁選(時事) / 小泉進次郎氏のトンチンカンが止まらない!「大学に行くのがすべてではない」「改憲はファストパス」まで飛び出す始末(日刊ゲンダイ) / 石破氏、解散は国会論戦後 小泉氏「早期に」主張(東京)←解散の前に国会論戦する意思があるか? / 「台湾は行ったことがあるが中国は行ったことがない」(1972年日中共同声明知ってる?) / 拉致問題;「私が総理になった暁にはトップ同士が同世代」「親同士も会った事がある」←だから、どうなの? / トルドーは43歳で首相に、私も43歳。43歳で首相になったトップ同士が、胸襟を開き、新時代の扉を開けたい←中学生の生徒会長選挙? / 災害時、真っ先に対応してくれる自衛隊が憲法に書かれてない」←警察官、消防・救急隊も憲法に書かれてないけど、何か? / 「小泉進次郎」総裁選で「生き分かれた母」に言及のワケ 支持者は「お涙ちょうだいで票がほしいのか」と困惑 (AERA)



 

2024年9月18日水曜日

【虎に翼】主題歌 米津玄師「さよーならまたいつか!」オープニング映像をフルバージョンで公開!│NHK / 「虎に翼」タイトルバック制作 シシヤマザキインタビュー「ロトスコープという手法の面白さと豊かさが、画面上に結実したと感じます」

 

恒例の同級生交歓 日本橋の吉野鮨本店 銀座の教文館カフェ 老舗居酒屋三州屋 2024-09-17

 9月17日(火、昨日)はれ

まだまだ真夏の気温、35℃前後の日が続いている。

今月の同級生交歓は、日本橋の吉野鮨本店で。

吉野鮨さんでは、来月に予定している佐渡旅行の話で大いに盛り上がった。実際は、幹事をして貰ってるHさんが詳細計画を立案済で、残り二人は彼にオンブニダッコ、金魚のフン状態ということではあるが、、、

吉野さんのあと、銀座をぶらぶら歩いて、四丁目にある本屋さんの教文館のカフェでひと休み。我々はすんなり入れたが、帰りのころは入店待ちの人が居るくらい混んでいた。

これで解散、、、と思ってたら、誰ともなく、もう一軒行きますかということになって、銀座の老舗居酒屋三州屋さんへ。

ここではさすがにお腹イッパイなので、オツマミは軽めだった。冷酒は多めだった。

帰りは、有楽町から一旦東京に戻って、東京から横須賀線で。午後6時頃だったのかな? 幸い座れたので、自宅最寄り駅まで熟睡だった。









「誰に聞いたんや、名前言え」 兵庫副知事、強権的聴取の一部始終(毎日);「人事権を盾に強い口調で繰り返し「自白」を迫っており、公益通報者保護の観点から専門家は「非常に悪質だ」と指摘する。」 / 告発者と親交のあった現役兵庫県職員が証言「元県民局長は片山安孝副知事のやり方が問題と常々言っていた」(FNN)

大杉栄とその時代年表(257) 1899(明治32)年1月1日~23日 この年、維新號、神田に開店 永井荷風(20)、噺家の弟子になる 漱石、同僚と共に6日間の旅行に 子規、俳諧叢書第一編『俳諧大要』刊行 

 

維新號

大杉栄とその時代年表(256) 1898(明治31)年12月6日~31日 「ホトトギス」第3号発行(1,000部を売り切る) 東海林太郎・浅沼稲次郎生まれる 地租増徴法案を含む予算案、憲政党(旧自由党)の賛成で衆議院通過 フィリピン全土に軍政布告 第二回蕪村忌 朝鮮独立協会解散(協会員逮捕)、万民共同会解散 キュリー夫妻、放射性元素ラジウム発見 より続く

1899(明治32)年

この年、維新號、神田に開店

明治32年、神田区今川小路(現、神保町3丁目)に開店した維新號は、最初は名前もない小さな店だった。留学生が足しげく通って中国食材や雑貨品を買ううちに、求められて簡易食堂も兼ねるようになった。ピータン、塩卵、焼き飯、肉入り麺、豆腐料理、豚肉野菜炒めなど、ごく簡単な料理を出すだけだったが、下宿先で油物を口にできない留学生たちは喜び、評判になって繁盛した。

「『維新號』という屋号も、実は留学生がつけたものです」と言う(維新號の3代目経営者鄭東耀氏)。

開店当時、留学生たちは店に集まって中国料理を食べながら、祖国の未来について話し合った。日本が明治維新で近代化を成し遂げたように、祖国の未来もそうであってほしいと願い、我が家同然のこの店に『維新號』と名づけた。

維新號に集まる留学生たちの話題は時代とともに変化した。創業初期の明治時代にはもっぱら清朝打倒運動に花が咲いた。大正半ば以降は、日本の中国侵攻と留学生に対する思想統制が厳しさを増すに連れて、反日運動や反帝国主義運動について議論沸騰することが多くなった。

大正中期には、中華料理は日本人にも親しまれるようになり、神田には「維新號」のほかにも「中華第一楼」「会芳楼」「漢陽楼」など中華料理店が十数軒に増え、日本人が経営する日比谷の「陶々亭」「山水楼」、虎ノ門の「晩翠軒」、茅場町の「偕楽園」などは、中国人コックを雇って大規模に営業した。

こうして神田には、大正時代以降、一説には140軒もの大小さまざまな中国料理店ができた。その頃の中華第一楼は神田区神保町のすずらん通りにあり、現在では中央区銀座に移転している。漢陽楼は神田区猿楽町から小川町に移転し、今日も営業している。

1月

永井荷風(20)、落語家6代目朝寝坊むらくの弟子となり、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りする


「わたくしは朝寝坊むらくといふ噺家の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があった。その年正月の下半月(しもはんつき)、師匠の取席(とりせき)になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった」

寄席の仕事を終えた夜ふけ、若い女の三味線弾きと二人で帰る場面が出てくる。若い男女のことであるから、「身を摺り寄せながら」歩くうちには、「手を握る」だの 「顔が接近して互の頬がすれ合ふやうになる」といったこともあり、あげくの果ては 「二人の間に忽ち人情本の場面が其のまゝ演じ出され」たという(随筆『雪の日』、昭和19年)。


荷風は昭和7年4月11日つけの日記にもこのときのことを書き記している。

「酔ひて心の乱るゝま、路傍の小屋に女を引入れ戯れし事あり。女は年の頃十七八にて橘屋橘之助といひし浮れ節寄席芸人の弟子なりき」と。この時、荷風は満52歳。30年前の雪の日の記憶は「忘れがたきところ」と言っている。日記にも書き、随筆にも記したということは、荷風の頭の中ではかなり生々しい記憶だった。


1月

吉沢義則・八杉貞利ら「若菜会」創立。

1月

ゴーギャン(51)、タヒチ、パペーテの事業局の仕事をやめ、愛人パウラとともにプナアウイアに戻る。

1月

アンリ・マチス(30)、フヌイユで息子ジャンが誕生。ヴォラールからロダンの胸像「ロシュフォール像」、ゴーギャン「少年の肖像」、セザンヌ「3人の俗人の浴女」、ゴッホの素描を購入。

1月1日

「労働世界」に社会主義欄、片山と高野の対立

1月1日

漱石、同僚の奥太一郎とともに宇佐、耶馬渓から日田・吉井・追分への6日間の旅行に出発


「.....奥太一郎(前年四月、漱石の紹介で赴任する)と共に出発し、鳥栖・博多を経て、宇佐八幡宮に向う。小倉に泊る。

★一月二日(月)、宇佐停車場(現・柳ヶ浦駅。豊川線終点)で下車し、宇佐八幡宮まで(約四キロ)歩く。参詣して、約三キロの坂道を下って、四日市町に至り、一泊する。

★一月三日(火)、風の吹くなかを代官道を行き(推定)、曹洞宗羅漢寺(大分県下毛郡木耶馬渓町にあり、釈迦を初め、五百羅漢など七百の石像を安配してある)に参詣する。参詣寺の入口は笹の葉を結んで登る習慣になっている。雪降ってくる。巌頭の廊に、一丈余り(三メートル余り)の藁を積んで、その上に小僧が坐っている。風の吹くたびに崖下に落ちそうになる。危険ではないかと云うと、命は一つしかないので諦めていると答える。

★一月四日(水)、口ノ林(現・耶馬渓町平田)から、耶馬渓に向う。「谷深み杉を流すや冬の川」「石の山風に吹かれ裸なり」「目ともいはず口ともいはず吹雪哉」と詠む。柿坂を経て、守実温泉の河野謙吾(郵便局)方に泊る。

★一月五日(木)、守実温泉を出発、吹雪のなかを大石峠を越えて、日田(大分県)に向う。大石峠を降りる時、馬に蹴られて雪の中に倒れる。「吹きまくる雪の下なり日田の町」。日田町では、平野五岳(広瀬淡窓門下の奇才)を忍ぶ句を詠む。日田を過ぎて、筑後川の上流を下り、吉井(日田と久留米の中間、日田から西へ二十キロ、久留米から東へ二十五キロ)に至り、長崎屋(現在は酒場。吉井町天神町)に泊る。

★一月六日(金)、吉井を出発し、大将陣山(九百十メートル)、戸山(七百七メートル)の麓を通り、追分(現・久留米市山川町)を経て久留米市に至る。久留米市に一泊したか、または久留米停車場から熊本停車場に直行したとも想像される。」(荒正人、前掲書)

1月2日

~ 7日 貴族院議員と衆議院議員を訪問する。勝海舟宅には、参考のため被害地植物藁灰を持参して訪問する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

1月2日

フィリピン、マビニ革命政府首相、外務大臣に任命される。

1月5日

子規『蕪村句集』輪講会を開催

1月7日

仏、作曲家プーランク、誕生

1月8日

子規、俳句会

1月9日

渋沢栄一・大倉喜八郎ら、衆議院議員選挙法改正期成同盟を結成。

1月10日

子規『明治三十一年の俳句界』『俳句新派の傾向』『夢』(『ホトトギス』)


「○先日徹夜をして翌晩は近頃にない安眠をした。其夜の夢にある岡の上に枝垂桜が一面に咲いてゐて其枝が動くと赤い花びらが粉雪の様に細かくなって降つて来る。其下で美人と袖ふれ合ふた夢を見た。病人の柄にもない艶な夢を見たものだ。」(『夢』)

1月12日

大杉栄(14)、講武館師範の坂本謹吾から賞状をもらう。

1月14日

東京天文台、写真撮影による観測を開始。

1月19日

勝海舟(77)、脳溢血で没。

1月19日

英、スーダン協定締結。エジプトと共同でスーダン統治

1月20日

子規、俳諧叢書第一編『俳諧大要』刊行(ホトトギス発行所)。3千部。

1月20日

高柳健二郎、誕生。日本のテレビの父。

1月21日

フィリピン独立派、マロロス憲法制定。フィリピン共和国(マロロス共和国)樹立。初代大統領アギナルド就任。この頃までに、ルソン島、ヴィサヤ諸島の大半は革命政府が掌握。

1月23日

英、オスマン帝国支配脱却求めるクウェート統治サバーフ朝首長ムバーラクの要請受けペルシャ湾諸国手中に。


つづく

高市早苗さん、総裁選に立候補! → 高市早苗氏の猛追に旧統一教会が見え隠れ…熱心な信者がXで「サナエ一択」を大拡散(日刊ゲンダイ) / 高市早苗氏の政策パンフレット郵送、岸田首相ら執行部が「毅然とした」追加対応を党選管に要請(読売)←選挙違反ですね / 裏金議員が推薦人になるのはいかがかと問われ「選対チームに任せたので翌日の新聞まで、どなたが推薦人か知りません」と / 「裏金議員という言い方は正しくない、不記載のあった方、それぞれ説明を尽くされ皆さんに納得頂いてる」 / 学習院大学 野中教授「高市さんは13人も裏金議員がいて、キャッチフレーズが『自民党を作り直す』、これなんかは『トランプ風』だなと思って私は聞いてましたけど」 / 裏金議員への批判「おかしい」 高市早苗氏推薦人の衛藤晟一氏が反論 「法的に処分は終わっている」(東京) / 高市早苗氏の推薦人に杉田水脈氏ら「裏金議員」13人 5候補で計21人(東京) / 「主犯で関与した放送法の違法な解釈改変の責任を官僚になすり付け、経緯を記録した公文書を官僚らが悪意を持って自身を攻撃するため捏造したと主張し、捏造でなければ議員辞職すると答弁。 しかし官僚らが捏造していないと国会報告しても居座り続け、、、」(小西ひろゆき) / 高市早苗氏 裏金議員への追加処分なし「党の処分をひっくり返すような独裁的な行動は取らない」(スポニチアネックス) / 国家の主権を守ると強弁するが、首都圏を含む空域が米軍に支配され国家主権が侵されている「横田空域」を質問すると「横田空域に限っての質問について、この場でお答えすることはございません」と、、、、 / 高市早苗氏が断言した「旧姓で不動産登記できる」はミスリード? 法務省「旧姓だけではできません」(東京) ← これはウソ! / 「夫婦別姓はダメ」は安倍さんの遺言、と高市さん。そんな遺言の記憶はない。それを遺言と言って金科玉条のように守るのには付いて行けない、と田崎史郎(スシロー)さん。         

 


安倍氏・教団「面談」写真が火種 自民調査に疑義、早期解散影響も(時事) / 岸田首相「これまで説明した通り」 安倍氏と旧統一教会の面談報道(毎日) / 「安倍氏 旧統一教会会長と面談か」朝日新聞 政府「コメントは控える」(テレ朝) / 星浩氏「総裁室で、選挙前に、選挙について話をしたとみられるので、今まで自民党が言っていた『組織的関係は無かった』は崩れつつある、」 / 「これでもまだ再調査をしないという自民党の「国民の信頼回復」という言葉が、いかにインチキかがよくわかる。都合の悪いことはひたすら隠蔽。国民の声を無視。カルトのお陰で当選した議員も辞職しない。」(平野啓一郎)         

 




 

堕落「維新」の不祥事続く、、、今度は会派ぐるみ → 千葉市議会の議員2人が無断で請願作成 辞職勧告決議案が可決 名義を無断で使われた男性「請願を書いていない」 議員2人は辞職の意向なし(TBS) / 請願署名を偽造 千葉市議会、辞職勧告を決議(千葉日報) / 維新また不祥事…千葉市議2人が市民の請願を捏造して議会提出「間に合わせるため」のア然(日刊ゲンダイ) / 千葉市議が請願署名を偽造 17日にも辞職勧告案 「維新・無所属」会派議員へ(千葉日報オンライン) / 千葉市議会 議員2人が名義人の同意得ず請願を作成し提出(NHK) / 維新会派「自作自演だった」と謝罪 千葉市議会、請願の無効を決定(朝日) / 千葉市議会維新会派が請願書偽造か(チバテレ)

 



 

東電の当事者能力を疑う → 福島第一原発デブリ取り出し 映像確認できず中断(テレ朝) / 「・・・と思い込み手順書にもチェック項目がなく、作業員も元請も東電も現物確認をしてない」 / 福島第一原発 デブリ取り出し延期 パイプの並び順確認せず(東京);「パイプを並べる前にこの作業の予行練習を行っていなかったことや、東京電力と元請け企業も取り出し着手の当日まで1か月近くのあいだ一度も現場で並び順を確認していなかったことが、関係者への取材でわかりました」 / 現場に社員は1人もおらず…「協力企業任せ」の東京電力 ミスで延期の燃料デブリ試験的取り出し(TUF) / 「順番間違いが発生したのは7/28ですが 何度も最終確認したはずなのに8/22の現場まで気付かなかったと…」 / 「押し込むための棒の順番が間違っていることに現場の作業員が気付いたという。」 / 燃料デブリ初取り出し…「現世代の責任として、できるだけのことをやる」取り出し工法チームのトップに聞く“廃炉への道筋”(日テレ) / 東電、原発デブリ初採取を中断 福島県「人為的、初歩的ミス」(共同) / 福島第一原発 核燃料デブリ取り出し 直前で延期 再開時期未定(NHK)  / 福島第一原発デブリ、21日にも取り出し開始…東電が事故後初めて(読売);「東電は伸縮する釣りざおのような形の装置を原子炉の横から差し込み、先端にある爪で3グラム以下のデブリの採取を試みる。作業完了まで2週間を見込む。」 「1~3号機に計約880トンあると推計」 / 燃料デブリ回収、正念場 福島第1、2号機で初試験へ 専門家、リスク低減への道筋期待(毎日)     



 

【虎に翼が突き刺さる】 「暴力は、思考を停止させる。抵抗する気力を奪い、死なないために、全てを受け入れて耐えるようになる。」

【自民党総裁選2024 ; 衆院選のための事前選挙運動】 「自民党と旧統一教会との関係について新たな疑惑が出ていますが、再調査が必要ではないかと尋ねたところ、必要だと答えた候補はいませんでした」 / 井上貴博キャスター(Nスタ)「脱税まがいのことをして、脱税政党が、どう変わろうとしているのかと、その時に裏金事件について、皆さんおしなべて腰砕け、再調査をしない。」 / 自民党総裁選の「推薦人」に旧統一教会と接点ある“壺議員”が58人もいる非常識(日刊ゲンダイ) / 真山仁氏 「未来に対する情熱は、申し訳ないけど、誰にも感じられない」 / 大竹まこと 自民総裁選で私見「“裏金議員80人はいりません”と落ちてもいいから言える人はいないのか」(スポニチアネックス) / 裏金再調査、9候補ともに否定的 衆院選見据え国民の負担増を回避(共同) / 岸田から次期総裁への置き土産「憲法改正」は総選挙に向けた「裏金問題」隠しか(ニューズウィーク日本版) ;「政治資金問題は何一つ解決していないにも関わらず、自民党総裁選への出馬ラッシュが始まってから、自民党の支持率は回復傾向にある。メディアで毎日主要候補のアピールが報道されるからだ」 / 「自民党は政策活動費の廃止に消極的でした、ところが高市氏などは急に廃止に変わった、何で国会中に言わないのか?」 / 「アタリ」が入ってなくて全部「ハズレ」のクジみたい 又は、「凶」しか入ってないおみくじ、そのうちの何本かは「大凶」 



 

2024年9月17日火曜日

【鈴木エイト氏が追跡3000日】旧統一教会と関係していた国会議員168人名簿|NEWSポストセブン

 

大杉栄とその時代年表(256) 1898(明治31)年12月6日~31日 「ホトトギス」第3号発行(1,000部を売り切る) 東海林太郎・浅沼稲次郎生まれる 地租増徴法案を含む予算案、憲政党(旧自由党)の賛成で衆議院通過 フィリピン全土に軍政布告 第二回蕪村忌 朝鮮独立協会解散(協会員逮捕)、万民共同会解散 キュリー夫妻、放射性元素ラジウム発見  

 

キュリー夫妻

大杉栄とその時代年表(255) 1898(明治31)年11月11日~12月4日 徳富蘆花「不如帰」連載 二葉亭四迷、海軍編修書記 山県首相、憲政党との提携成立を声明 第13議会(衆院議長は憲政党片岡健吉) 狩野亨吉、一高校長に転出 より続く

1898(明治31)年

12月6日

島崎藤村、詩集「夏草」。

12月7日

栄禄、武衛軍を編成、袁世凱の新建陸軍は武衛右軍として配属される

12月8日

地租増徴案・地価修正案、議会提出。憲政党(旧自由党系)が与党となり衆院通過。

星亨は、党内を説得するとともに、政府から譲歩も引き出す。

①増税率の低減。当初2分5厘⇒4分のところ、3分3厘とする。

②地租算定の基準となる地価の地方的不均衡の修正(とくに地価が不当に高く評価されている地方にこれを行う)。

③増徴に5年間期限を付す。

④従来地方負担とされてきた監獄費を国庫負担とし、地方負担の軽減を計る。

⑤議員歳費800円を2千円に増額。田中正造のみ歳費を辞退。

12月8日

久野村鉱毒事務所で足利郡役所と「村治上ニ就」て協議する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

12月10日

「ホトトギス」第3号発行。1,000部を売り切る。


「「ホトトギス」は好調だ。

といっても、それはあくまで同人誌的文芸誌の範囲内でのことで、原稿料は出せないのである。しかし雑誌の売上げだけで編集専従者、つまり虚子の生活をきわどくであろうと支え得るかが「ホトトギス」の主題のひとつであり、「ホトトギス」永続の条件であった。

明治三十一年十一月発行の東京版第二号は千二百部印刷した。すると二百部余った。十二月十日発行の第三号は千部にした。今度は全部売り切ったうえに、少し足りなかった。虚子は「ホトトギス」の実力を、千部と見きわめた

千部刷って九百部売る。それでも文芸誌としては望み得る最高の堅調さである。一部十銭で九十円の売上げ。紙、印刷、流通などの基本経費が一号あたり六十円として、三十円余る。その三十円が編集費であり、虚子の一家の生活を支える日常費となる。

十二月、第三号を発行し終えた虚子は、それまでの金銭の出入りを計算してみた。

第一号から第三号までの基本経費は合計で百八十円、第一号を増刷したから二百円と少しかかった。一方、編集費と日常費は、明治三十一年九月から十二月まで、あわせてやはり二百円ほどであった。十二月十日に第三号を発行し、年末までに済ませなくてはならない支払いを前に、虚子の手元の資金は底をついた。

(略)

明治三十一年の暮れをどう越すか。思案した末に、虚子はまず家賃十二円の家を引払った。碧梧桐はじめ子規門の青年たちにとやかくいわれた高い家賃の家から、おなじ神田の猿楽町内、四円五十銭の家に移った。印刷所は、新年号となる第四号からかえることにした。前の印刷所は料金の督促の仕方が気に入らず、そのうえ新しい方がいくらか安かったのである。知り合いから最大五十円は借り出せる。それでも年末にはいくらか足りなくなる。妻の身のまわりのものを買ってやりたい。子供にもせめて正月の晴れ着一枚は欲しい。」(関川夏央、前掲書)


12月11日

東海林太郎、誕生。

12月13日

パリ条約締結(米スペイン講和条約)

キューバ独立。勝利したアメリカはキューバ,プエルトリコ,フィリピン,マリアナを取る。

12月16日

中枢院では、朝鮮政府である義政府の役人を選出する案を出した独立協会の崔廷徳(チョェ・ジョンドク)によって投票が行なわれるが、選ばれた11人のうちに大逆罪人とされて日本に亡命している朴泳孝と、アメリカ国籍の徐載弼が含まれていた。朴泳孝の選出をめぐって、議長の李鍾建(イ・ジョンゴン)をはじめ守旧派の議員は投票を拒否。独立協会の内部でも論争になる。しかし、朴泳孝選出賛成派は議長の代理として尹始炳を推戴し、問題となった選出結果をそのまま断行。

これに対して高宗皇帝は、まず役人選出の案を出した崔廷徳と議長代理の尹始炳を解任し、罪人を選んだ議員を捜索して逮捕し、軍隊と行商人を動員して万民共同会の鎮圧に乗り出す。

そして、高宗皇帝はついに独立協会に解散命令を下すことになる。尹致昊、尹始炳、李承晩、崔廷徳など、多数の幹部は外国人の家に逃亡して、議会設立運動は失敗に終わる。

独立協会は翌1899年1月に解散され、独立新聞は同年の12月に廃刊されることになる。

12月17日

チェーホフ「かもめ」、モスクワ芸術座で上演

12月18日

上野の西郷隆盛像の除幕式。隆盛未亡人は「主人に似ていない」とつぶやく

12月19日

河田小竜(75)、没。土佐藩士、中浜万次郎取り調べを行う。

12月20日

地租増徴法案(2.5%→3.3%)を含む予算案、憲政党の賛成で衆議院を通過。5年間の限定実施。27日、貴族院通過、成立。見返りとして憲政党の要求の一つである府県郡制の改革は、明治32年(1899年)3月16日に施行。

12月21日

米、マッキンレー大統領,フィリピン全土に軍政布告.「友愛的同化」宣言発する.

12月22日

高野房太郎、横浜鉄工共営合資会社を開業、その専従となる。

12月23日

藤田たき、誕生。津田塾大学学長。

12月24日

第二回蕪村忌

鳴雪、五城、四方太、繞石、麗水、豊泉、世南、廉郎、虚子らが集まり、子規は露石から送られた天王寺蕪を使って風呂吹きでもてなす。

「蕪村忌の風呂吹くふや鴨の側」の「鴨」とは、虚子が持ってきた鴨で、『雲の日記』には22日に「虚子鴨を風呂敷に包みて持て来る。盥に浮かせて室内に置く」、24日には「蕪村忌小会、今日は鴨の機嫌殊によし」、28日には「朝、目ざめて聞けばね鴨逃げて隣の庭に行きたりとてののしる」とある。

鴨は、そのうち隣の陸羯南の家の庭にある池に放される。子規は、カモを背負って陸の家に持っていき、石の上に眠る鴨を見届けて帰る。鴨はそのうち死んでしまったという。

12月24日

ヘルマン・ハイエルマンス「ゲットー」、アムステルダム・オランダ劇場で初演。

12月25日

朝鮮政府、詔勅により独立協会解散命令、協会員逮捕。万民共同会も解散

12月25日

フィリピン、砂糖プランテーション地帯の西ネグロスが独自の州政府樹立。

12月26日

キュリー夫妻、放射性元素ラジウム発見

12月27日

浅沼稲次郎、誕生。

12月28日

酒造法改正、公布。30日、地租条例、改正公布。地租、2.5%から3.3%に増加。翌1899(明治2)年2月13日、改正所得税法、公布。27日、醤油税則改正を公布。

日清戦後の第2次増税。

12月29日

~30日 貴族院に「鉱毒事件ニ付附託セラレシ」26名の特別委員への訪問運動を行う(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

12月31日

この日の虚子

「十二月三十一日、夜更けても東京中心部に人出は絶えなかった。長兄の送金百円で印刷所の未払いを処理し、子供の晴れ着を買って、つつましい正月の準備を終えた虚子だが、大みそかの夜はなんとなく落着かなかった。十二時近く、最後に残った五円を手に神田の街へ出掛けた。

深夜でもあけていた勧工場へ入って買物をした。勧工場はデパートの前身である。

欲しいものがあったわけではない。とにかく消費したかった。夏以来つづいた雑誌実務の多忙がもたらした緊張感の反動であろう。雑多な商品で懐と袂をふくらませて帰宅した。まだ余っていた二円を妻にわたし、何でも買ってこい、といった。すでに明治三十二年一月一日になりかわっていたが、妻もおなじ気分で夜の街区へ出掛けて行った。」(関川夏央、前掲書)


つづく


トランプ氏暗殺未遂の容疑者特定 米メディア(AFPBB) / 「取り押さえられた犯人(58歳)はノースカロライナ州出身でハワイ在住の白人。SNSにウクライナ支援の投稿を繰り返していたよう。」 「彼は共和党支持者で2016年にはトランプに投票していた。 しかしトランプのウクライナ政策を聞いてからヘイリー支持に転じた。 銃を持っていたので取り押さえられただけで、発砲したのは警官だった。」

 

 

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2024年9月16日月曜日

封じられた“第四の被曝(ひばく)” -なぜ夫は死んだのか-(NHK);「私たちの社会が、その存在すら忘却してきた被ばく事件がある。1958年、海上保安庁の船「拓洋」と「さつま」の乗員113人が被ばく。その1年後、乗員の永野博吉さんが急性骨髄性白血病で命を落とした。妻の澄子さんは事件の実態を知らされずにその後の人生を過ごしてきた。1945年、広島・長崎への原爆投下。1954年のビキニ事件。それらに次ぐ“第四の被ばく”とも言える知られざる事件。その実態に独自取材で迫る。」  / 「第四の被ばく」米文書“日米で巧みに対処”の記載も(NHK)   

 

大杉栄とその時代年表(255) 1898(明治31)年11月11日~12月4日 徳富蘆花「不如帰」連載 二葉亭四迷、海軍編修書記 山県首相、憲政党との提携成立を声明 第13議会(衆院議長は憲政党片岡健吉) 狩野亨吉、一高校長に転出    

 

徳富蘆花「不如帰」絵葉書

大杉栄とその時代年表(254) 1898(明治31)年11月1日~10日 「東亜同文会」設立 憲政本党結成(旧進歩派) 第2次山県内閣成立(超然内閣復活) 『ホトトギス』第2巻第2号(子規『車上所見』『雲』『山』、漱石『不言之言』) より続く

1898(明治31)年

11月11日

梁啓超、横浜華僑の鴻鏡如らの資金援助を受けて、横浜に移り『清議報』(10日毎に発行するミニコミ紙)を創刊。

この年の冬、梁啓超は「戊戌政変」に関する記事を連載し、後に『戊戌政変記』として1冊にまとめる。

この頃から、孫文ら過激な「革命派」に比べて、穏健な梁啓超が「改良派」と呼ばれるようになる。

11月12日

室田忠七の鉱毒事件日誌より


東京の鉱毒事務所より室田宛に書面が届く。そこには堤防築造について、吾妻・植野・界と久野の間で利害対立を煽る動きがあることが次のように述べられている。また1500万円の渡良瀬川改修大計画が図られていることが述べられている。

「四方八方ヨリノ通信ニ依レバ驚入候。果シテ其ノ事実ノ真偽ハ知ラザレトモ、近頃マタ加害者ノ間牒(諜)村々ニ出没、堤防新設ニ付回シ吾妻・植野・界・久野ノ間ヲ離間シ、夫レガタメ一般被害民ハ非常熱心ナルニモ関カワラズ、堂々タル有名ノ有志ニシテ瞞着セラレ、二十九年以来堤防請願ノ貫徹シテ漸ク茲ニ至リ一千五百万円大事業トナリ。素人ニテハ到底分ラザル大経画ナルニ、各々字々ニ割拠シテ眼小豆ノ如ク亦タ近眼ニシテ一寸先ハ真暗ニシテ愚論ヲ唱フルハ、一般ノ利害ヲ省リミズ政府ノ事業及ヒ外村々ノ妨害ヲ為スモノナリ」


11月12日

ジョン・中浜万次郎(72)、没。

11月18日

近衛秀麿、誕生。

11月20日

高等師範学校と高等商業学校との軟式テニス試合。テニス試合のはじめ。

11月22日

二葉亭四迷、海軍編修書記となる。月給50円。~明治32年7月頃。

26日、父吉数(60)、没。

11月23日

朝鮮、万民協会参加の市民学生による皇国協会本部襲撃、死傷者多数

11月23日

漱石、狩野亨吉から、文部大臣が第一高等学校校長に推薦した件を聞く。

11月29日

朝鮮、独立協会の議会設立の要求が受諾され、中枢院議員50人が選出される。万民共同会の会長尹始炳と李承晩が含まれているが、独立協会および万民共同会の関係者は過半数に及ばない17 人にとどまる。

11月29日

労働組合期成会幹事会、高野房太郎、常任幹事を辞任。後任片山潜。同日鉄工組合の参事会でも、高野、常任委員辞任。

11月29日

徳富蘆花「不如帰」連載(「国民新聞」11月29日~翌年5月24日)。

改稿して、1900年(明治33年)1月15日、民友社から『小説 不如帰』が刊行されベストセラーに。

初版1000部は1ヶ月で完売、2年間で1万部を売り上げ、蘆花が没した昭和2年には190版を重ね、50万部を売りつくしたという。虚子は「小説に 涙を落とす 火鉢かな」の句を詠んでいる。

11月30日

山県首相、憲政党代議士を招き茶話会を開催、憲政党との提携成立を声明。

隈板内閣陸相桂太郎、憲政本党成立後、主に星亨を通して憲政党との間に提携交渉を開始。第1次山県内閣下の第1議会で自由党土佐派と妥協して局面を打開して以来、桂と自由党系との間には「友誼上の関繋」が維持されている。

提携は第13議会直前に3条件で妥結。

①現内閣は超然主義を執るものにあらずとの宣言を発する。憲政党と提携して議会に臨む旨を公然発表する。

②憲政党の綱領を採用する(選挙権拡張や鉄道国有等の積極政策を政府が法案提出する)。③憲政党と利害休戚を同じうする(議会後に憲政党員を閣僚・官吏へ登用)。提携方式による超然主義の修正。

超然主義変質を促進させるが、同時にそれに伴う政党勢力の進出に対抗する措置も打ち出す。

①1900年5月、陸軍省官制・海軍省官制改正により、陸海軍両大臣・両次官の現役将官専任制を確立。陸海軍両大臣は現役の大将・中将、次官は現役の中将・少将を補任するものとする。

②1899年3月公布の文官任用令改正、文官分限令制定、文官懲戒令制定により専門官僚制を徹底させ、政党員の就官増大に歯止めをかける。


12月

後藤宙外「新機軸」(春陽堂)

12月

河井酔茗、河野鉄南、宅雁月ら、浪華青年文学会堺支会を結成、酔茗宅に本部を置く。与謝野晶子の弟籌三郎も会員。

12月

狩野亨吉が第一高等学校校長に転出。

12月

パリ、画商アンブロワーズ・ヴォラール(1865~1939)がゴーギャン(50)作品に関心を示し始める。 

12月3日

第13議会(衆院議長は憲政党片岡健吉)。~明治32年3月9日。

第2次山県内閣、憲政党を抱込み地租増徴案通過させる。一方で、議員歳費800円を2000円に増額する案を提案。田中正造、憲政本党を代表して反対演説。議会通過後、正造は歳費全額を辞退。

12月4日

東京音楽学校、定期演奏会。


つづく


『虎に翼』脚本家・吉田恵里香インタビュー 「今も解決していない問題を時間をかけて描きたかった」(Real Sound) / マイノリティーを描くことは挑戦か 「虎に翼」吉田恵里香さんの問い(朝日) / 『虎に翼』脚本・吉田恵里香に聞く。あらゆる立場の女性を描くこと、憲法第14条への思い 「寅子だけが正しいわけではない」 / いい母親という演出を、一つでも削ることに意味がある。『虎に翼』脚本・吉田恵里香さん「本当はもっと“我儘”な寅子のシーンを入れたかった」《インタビュー》 / 「虎に翼」花江(森田望智)は“もう1人の主人公”―脚本・吉田恵里香氏が託した思い 想像を超えた2人のキャラクターとは【インタビューVol.3】 / 吉田恵里香氏「みんなが自分の望む場所に立てることが大切」 「虎に翼」脚本家が作品に込めた思い(前編) / 吉田恵里香氏 憲法第十四条は「人間らしく生きるためのスタートライン」 「虎に翼」脚本家が作品に込めた思い(後編) / 脚本家・吉田恵里香が『虎に翼』に込めた願い 憲法第14条は「私たちにとってもすごく大事」 / 【虎に翼】残り2週…「もう1クールやりたかった」脚本家・吉田恵里香インタビュー 書き手の想定を超えたキャラクターは「小橋」 / 

 



 

寛弘5年(1008)9月11日 中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む 『紫式部日記』のこと

東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘5年(1008)
9月11日
・中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む。

彰子の出産や産養(うぶやしない)、一条天皇の土御門第行幸(10月16日)、五十日祝(いかのいわい)、百日祝(ももかのいわい)などを記録したのが、彰子に仕えた女房紫式部の『紫式部日記』で、土御門第がその舞台。

『源氏物語』は彰子の土御門第滞在中に大部分が書き上げられ、中宮が内裏に戻るまでの間に冊子作りが中宮御前の女房たちによって行われたと『紫式部日記』にみえる。
局(つぼね)においてあった草稿本を道長がみつけて持ち去り、中宮彰子の妹である尚侍(ないしのかみ)妍子へ献上してしまったことも書かれている。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし。池のわたりの木ずゑども、遣水(やりみず)のほとりの叢(くさむら)、おのがじし色づきわたりつつ、おはかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきよう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(『紫式部日記』冒頭)

彰子は出産を控えて、土御門第に退出し、女房として仕える紫式部もつき従った。
『日記』の冒頭、安産祈願の読経と、寝殿と東対の間から南庭の池へ流れこむ遣水の音が入りまじる、初秋の土御門第の美しい情景を描いている。

■彰子の御産と二つの日記
『紫式部日記』はふたつの部分から構成されている。
前半は、一条天皇中宮藤原彰子が皇子敦成親王を出産する前後の記事であり、
後半は消息文と呼ばれ、中宮彰子付きの女房たちや清少納言などに対する批評が有名である。

『紫式部日記』前半は、寛弘5年8月の土御門第の様子から始まり、8月20日頃からしかるべき上達部・殿上人も宿直するようになったこと、里住みの女房たちも参上してきたことなどが記されている。

9月9日夜中から御産の気色が見え始め、10日寅刻には日常使用する御帳台(柱を立て周囲を帳で囲った寝台)を片づけ、白木の御帳を立てて中宮彰子は移った。他の調度類も白一色になる。

天皇の出産関係について男性官人の各種日記類から記事を収集した『御産部類記』があり、その中に後一条天皇の誕生に関する史料が集められている。
その中でも、もっとも公的で詳細な「不知記(ふちき)」(日記の名称不明の意味)と『紫式部日記』を比較してみると、その特徴が明らかになる。

この「不知記」は恐らく中宮職関係の男性官人が記した公的日記だろう。
皇子誕生までの経過をふたつの日記でみていくと、「不知記」では御産の場にまきちらす散米が中宮庁によって準備され、種々の御祈がなされたことが記されている。

一方、『紫式部日記』の記載は詳細で、10日は中宮彰子の不安そうな様子、物の怪を調伏するために修験者や陰陽師が限りなく集められ、御誦経(おんずきよう)の使が寺々へ派遣されたこと、御帳台の周囲には東側に内裏の女房、西側に物の怪の憑人と修験者、南側に僧正・僧都、北側に女房たち40人が伺候している様子が描かれている。

皇子誕生の描写 
続いて、「不知記」では「午刻皇子平安に降誕したまう」と、もう皇子が生まれてしまっている。
しかし、『紫式部日記』では、11日に彰子は北庇に移動したこと、北庇二間のうち彰子のいる間には母倫子、乳母となる宰相の君(中宮女房)、産婆役の内蔵命婦(くらのみようぶ)、仁和寺の僧都、三井寺の内供(ないぐ、天皇の安穏を祈る僧官)が伺候し、もう一つの間に紫式部を含めた中宮の主立った女房たちが侍していたこと、凡帳の外に中宮の姉妹の乳母たちや頼通・教通ら中宮の兄弟、親しい貴族たちなどがいて、凡帳の上からのぞいていたことなどが記されている。

彰子は髪の毛を少し削いで受戒し、出産の後産が済むまで僧俗が声を張り上げて礼拝し、東庇では女房たちは殿上人たちに混じって涙で顔を濡らしながら茫然と顔を見合わせている様子などが記されている。
彰子が生む時には、物の怪がののしる声が恐ろしく手強いので、さらに阿闇梨(密教の伝法灌頂を受けた者)を加えたことなど、御産の現場の様子が生々しく描かれている。

そして、午の時に、男の子が生まれた。
安産である上に男の子であり、嬉しさは並大抵ではないとある。

御産が無事終わって、伺候していた人たちが退出して、中宮御前には年輩の女房たちが侍している静謐な様を描く。
殿(道長)や北の方(倫子)も退いて、僧や医師、陰陽師らに布施や禄を配り、御湯殿の儀式の準備をされているのだろう、とある。

皇子誕生後の行事についても、「不知記」と『紫式部日記』の記述では違いがある。
「不知記」では、皇子が生まれると一条天皇乳母である橘徳子が哺乳の儀を行い、その後、天皇から御剣勅使(みはかしのちよくし、守り刀をもたらす勅使)が遣わされて来る。そして皇子を産湯につかわす御湯殿の儀と読書・鳴弦が行われる。
『紫式部日記』では、皇子誕生後、中宮の母倫子が臍の緒を切ったことがみえること、女房奉仕の御湯殿の儀の記述が詳しく、御剣勅使と読書・鳴弦の記述はごく簡単である。
以上のように、『紫式部日記』の内容は彰子の近くに侍していた女房だからこそ書けたものだといえる。

記録性からみた共通点
『御堂関白記』『小右記』『権記』など貴族の日記にも彰子の御産についての記事はあるが、それらは夫々の貴族の立場から書かれたものである。
「不知記」『紫式部日記』は、中宮職官人と女房(彰子を支える関係者)によって書かれた公式記録という性格をもっている。
この二つの日記は、その記録内容が違うことによって相補って彰子の御産全体を記録している。
『紫式部日記』は、文章力に優れた紫式部が一大慶事である中宮の御産に関する記録をするよう、道長から要請されたと考えられる。

紫式部の位置
女房の身分は、上臈-中臈-下臈に分かれ、内裏に仕える女房は、乳母(めのと)・典侍(ないしのすけ)-掌侍(ないしのしよう、内侍ないしのかみ)-命婦(みようぶ)-女蔵人(によくろうど)に分類できる

『紫式部日記』から彰子の女房を見ていくと・・・
上臈女房として、まず、一条天皇乳母である「橘の三位(さんみ)」と呼ばれる典侍橘徳子が、内裏女房と中宮女房を兼務していた。
職務のある女房としては「宮の宣旨」もいる。
その他、「宰相の君」「大納言の君」「小少将の君」など上臈女房には道長や倫子の縁者が多い。

内侍には、「宮の内侍」「左衛門の内侍」や「弁の内侍」など、
命婦には、「筑前の命婦」や「左京の命婦」「大輔の命婦」などがおり、
内裏と中宮の女房を兼務している者もいた。

その他、中臈の女房として、「五節(ごせち)の弁」「大輔(たいふ、伊勢大輔)」などがいた。

紫式部は公的な役職にはついていなかったと考えられるので、その他の中臈女房の一人ということになる。
中臈女房には紫式部のように受領層の娘や妻室が多い。
摂関家家司で受領の者の妻には、摂関家出身の中宮やその子どもである天皇の乳母になる例もあった

女房には局を与えられて常に伺候する者と、里住みをして臨時に出仕する者とがいた。
紫式部には、土御門第では寝殿と東の対(たい)を結ぶ北の渡殿(わたどの)の東端に局があり、一条院内では彰子御所である東北の対の東長片庇(ひがしながかたびさし、細殿)の三つ目の間に局があった。

女房の仕事は、御膳や整髪など中宮の衣食住についての奉仕や、中宮の娯楽や諮問に答えるなどの精神的な奉仕、公卿や男性官人の取り次ぎなどであった。
紫式部も女房としての仕事をしており、中宮彰子に漢籍を教示したり、藤原実資の取り次ぎをしたりしている。中宮彰子の御産の記録を書くことも仕事の一つであった。

お産のあと
10月16日
一条天皇の土御門邸行幸があり、皇子は敦成(あつひら)親王と名づけられ、彰子の母倫子は、その外祖母として従一位を授けられた。

11月1日
生後五十日を祝う五十日(いか)の儀が、土御門邸で、大臣以下公卿・殿上人雲集して盛大に行なわれる。若宮に祝の餅を道長が進めたのが午後8時、それから大宴会となって、人々はすっかり酩酊した。
右大臣藤原顕光などは、六十五歳の老人のくせに几帳のほころびを引き破ってしまうほどの荒れかただし、女房と袖引き合うのもあり、歌をうたい、盃はめぐり、乱酔の宴となりはてたなかに、右大将実資がシャンとして、落ち着いて女房の衣裳の袖ぐちを手に取って、その色あいを楽しんでいるのがひときわ立派に見える。

ふと、中納言公任が、「恐れ入りますが、この辺に若紫はおいでになりますか」と言う。
若紫は源氏物語の女主人公、紫の上のことで、つまり紫式部を探している。
式部は、光源氏そのままのような人などいないのに、その相手の紫の上なぞいるものですかと思いながら放っておく。
あまりの乱酔ぶりに恐れをなして、同僚の宰相の君としめし合わせて凡帳の蔭に隠れたところ、二人とも道長につかまってしまった。
「和歌一首ずつ詠みなさい。そうしたら許してやる」とのことで、しかたないから一首を口ずさむ。

いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)の あまりひさしき君が御代をば
(若宮の八千年にもあまるご寿命はとても数えられるものではありません。最初に五十日(いか)ということばがちゃんと詠みこんである)

すると道長は、「うん、よくできた」と二へんばかり式部の歌を口ずさむと、すらすらとつぎの歌を詠みあげた。

あしたづのよはひしあれば君が代の 千歳(ちとせ)のかずもかぞへとりてむ
(わたくしに千年という鶴の寿命があったらば、若宮の千年のおん年もかぞえられるだろう)

道長もだいぶ酔ったらしい。声を上げて、
「中宮、お聞きになりましたか、われながら上出来」
と自慢して、さらに、
「中宮の父として、わたくしも不足な男ではなし、中宮もわたくしのよい娘だ。母の倫子も幸せを喜んでご機嫌上々らしい。いい亭主を持ったものだと思っているようですよ」
という。
中宮のご退座をお送りするとて、いそいで立ってゆきながら、「中宮もきょうのわたくしを失礼なとお思いかも知れないが、親のおかげで子供も立派になれるんだぞ」とつぶやいているのを聞いて、人々がほがらかに笑う・・・

11月17日
彰子は土御門邸から内裏一条院に入る。
その頃、彰子のもとでは女房たちが手分けをして、『源氏物語』の豪華な清書本作りに精出しているらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておいたら、道長が探しして見つけだし、次女でやがて東宮居貞親王(三条天皇)の妃となった妍子に贈ってしまった。
このほか、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませて聞き、式部の才を賞したという話もあり、宮廷では評判の物語だったらしい。
道長がこの『源氏物語』製作のスポンサーだったと見る向きもある。

紫式部
父は藤原為時、母は藤原為信娘。本名、生没年は不明。生年は、天禄元年(970)説、天延元年(973)説、天元元年(978)説がある。
姉と弟惟規(のぶのり、一説に兄)がいた。
父為時は冬嗣の子良門(よしかど)の子孫で、祖父為輔は堤中納言と称された著名な歌人。
為時は文章生出身の学者で、花山天皇と関係が深く、永観2年(984)、花山天皇即位後、式部丞で蔵人になったが、花山天皇が退位すると、官位に恵まれなくなり、長徳2年(996)年ようやく越前守に任じられた。その後は越後守となる。
母の父為信は冬嗣の子長良の子孫で、曾祖父文範は文章生出身で権中納言にいたっているが、為信も受領であった。
つまり、紫式部は父母とも文化人ではあるが地方国司たる受領層出身の中級貴族であった。

紫式部の若い頃のことは殆ど不明だが、父為時が弟惟規に漢籍を教えるのをそばで聞いていた紫式部の方がよく覚えてしまうので、父が男の子でないのを残念がったという話が『紫式部日記』にみえる。
父為時が越前守に任命されると、紫式部も共に越前国へ下っている。
『紫式部集』には越前へ下る途中や越前国で作った和歌がみえる。

その後、長徳3年冬から4年春に、紫式部は帰京した。
以前から交際のあった藤原宣孝(のぶたか)と結婚するためであった考えられる。
長徳4年(998)年晩秋から冬にかけて2人は結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
長保元年(999)年には長女賢子が生まれた。

ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
その後、つれづれなる生活のまにまに紫式部は『源氏物語』執筆を始めたと考えられる。
そしてその評判によって、寛弘2年(1005)年または3年、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が出仕する頃には、『源氏物語』は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が『源氏物語』の作者は「日本紀」(『日本書紀』)を読んでいるにちがいないと評したことが『紫式部日記』にみえている。
その漢学の学識がかわれて、中宮彰子から依頼されて自居易の楽府を講じたことも同じく記されている。
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12月29日
(実家から)宮中に参内する(『紫式部日記』)

12月31日
・『紫式部日記』に、この年の大晦日の夜、一条院内裏に盗賊が入って、女官2人が衣裳をはぎとられた記事がある。
都の治安は乱れ、内裏に盗賊や暴漢が入って来た例はこの他にもある。
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