2023年6月25日日曜日

〈藤原定家の時代402〉建仁4/元久元(1204)年11月3日~24日 畠山重忠の嫡男重保と平賀朝雅の「諍論」 北条政範(時政と牧の方の子)没 源空(法然)起請文 定家、良経・八条院に吉富荘(卿三位に横領された定家の荘園)の窮状を訴える

 


建仁4/元久元(1204)年

11月3日

「将軍家聊か御不例。」(『吾妻鏡』)

11月3日

・定家、石清水行幸に供奉。4日も。

石清水行幸の日。良経より、黒い小馬を賜っていたが、吉富庄から招来した、川原毛の馬の方がよいと思われたので、これに乗って供奉した。(『明月記』)

11月4日

・京都六角西洞院の平賀朝雅亭で酒宴の際、畠山重忠の嫡男重保は平賀朝雅に対して何らかの悪口を吐き、両者は「諍論」となった。このときは同席していた者たちに宥められたというが、このことが翌年の畠山重忠の乱に繋がる一つの契機となる。

「故遠江左馬の助が僮僕等京都より帰着す。去る六日東山の辺に葬ると。また同四日、武蔵の前司朝政が六角東洞院の第に於いて酒宴の間、亭主と畠山の六郎と諍論の儀有り。然れども会合の輩これを宥めるに依って、無為に退散しをはんぬの由、今日風聞すと。」(『吾妻鏡』11月20日条)

11月5日

・義時の弟政範(時政と牧の方との間の子)、京都で没。

「遠江左馬の助、去る五日京都に於いて卒去するの由、飛脚到着す。これ遠州当時の寵物牧の御方腹の愛子なり。御台所御迎えとして、去る月上洛し、去る三日京着す。路次より病悩し、遂に大事に及ぶ。父母の悲嘆更に比ぶべき無しと。」(「吾妻鏡」13日条)。

時政にとって、長子宗時はすでに亡く、次子義時は江間姓をもって分立させ、三子時房を嫡子に立てたものの、時政38歳にして誕生した政範が、おそらく枚方によって後継者に位置づけられたものと思われる。その政範を失った時、とくに牧方にとって、義時・時房という先妻の子を後継に据えることは認めがたかったのではないだろうか。そこで、政範にかわる後継者はだれかと考えた時、女婿の一人朝雅こそ、清和源氏の血筋を引く立場もあって有力候補であった。

11月7日

源空起請文。源空(法然)、天台座主真性に起請文を送る。

元久の法難(「浄土宗大辞典」より)

げんきゅうのほうなん/元久の法難

元久年間に起こった、南都北嶺が座主や朝廷に法然の専修念仏の禁止を求めた一連の動きのこと。三大法難の一つ。此岸での平等をも説く法然の専修念仏の思想は、その革新性のゆえに、また法然の教えを曲解した弟子の活動のために、北嶺延暦寺や南都興福寺から危険視されていた。それまでにも南都北嶺の衆徒が専修念仏の停止(ちょうじ)を求めて蜂起するかもしれないという噂があったが、ついに元久元年(一二〇四)の冬、延暦寺東塔・西塔・横川(よかわ)の三塔の衆徒らが大講堂前の庭に集まった。『四十八巻伝』三一では、鐘楼の鐘の音を合図に、四方から手に手に武器を持った裹頭頭巾かとうずきんの衆徒らが大講堂前に集まり幾重もの円陣が組まれている様子が描かれている。ここで衆徒らは天台座主真性に専修念仏の停止を訴えることを決めた。この動きに対し法然は一一月七日、法然から座主へ『送山門起請文』を送り偏執が本意でない旨を弁明した。また同日には門弟らに七箇条にわたる制誡を示し、それに弟子らは署判を添えた。これを『七箇条制誡』といい、署判者は信空をはじめとして一九〇名に及ぶ。聖光はこのときすでに京都を離れていたのでその名はない。『四十八巻伝』では、九条兼実が座主真性に手紙を送ったことでようやく衆徒の訴訟が止んだことが記されている。『送山門起請文』には、法然がこれまでにも比叡山に「起請」を送っていたことが記されており、この問題が根深いことを示している。ここで法然は「黒谷沙門」と名乗っているように、基本的には天台宗内部の問題であったが、専修念仏停止要求の動きは南都ヘも拡がった。(後略)

「近日の風聞にいはく、源空偏に念仏の教をすヽめて、余の教法をそしる。諸宗これによりて陵夷し、諸行これによりて滅亡す云々。・・・此等の子細先年沙汰の時、起請を進畢。其後いまだ変せず。かさねて陳ずるにあたはずといへども、厳誠すでに重疉のあひだ、誓文又再三にをよぶ。・・・伏乞、当寺の諸尊満山の護法、證明知見したまへ。源空敬白。 元久元年十一月七日 源空」

11月8日

・定家、安井殿行幸に供奉

11月8日

「将軍家御不例平癒の後、御沐浴の儀有りと。」(『吾妻鏡』)

11月9日

・定家、和歌所で有家とともに部類を行う。後鳥羽院御製を切り入れる

和歌所に於て、家隆と、部類に御製を切り入れる。明日春日の歌合、衆議判、巳の時に参ずべしと。毎日出仕、筋力の疲れ極めて甚だしく、堪え難し。(『明月記』)

11月10日

・『春日社歌合』。定家、講師、判詞執筆も勤める。当座歌合、判者を勤める

未の時、良経の許に参じ、御供して院に参ず。程を経ずして出でおわします。召しにより、和歌所に参ず。予召しにより、又講師を勤仕し、又勝負の字を付く。形の如くに判詞を書く。なまじいに右筆して、これを注し付く。四十五番、評定終りて退く。又三番の題、当座にこれを詠ず。此の間に燭を掌る。作者を隠して番を結ぼる。持ちて参ずるの後、又召しによりて参上し、これを読み勝負を付く。天気殊に快然、入興の御気色あり。通具・有家・保季・雅経・丹後、別に御教書を以て感じ仰せらるると。面々これを捧ぐ。自愛堪能の歌仙、境を得るの秋なり。深更に御退出。窮屈度を失す。(『明月記』)

11月12日

定家、良経・八条院に吉富荘の窮状を訴える

11月13日

・定家、賀茂行幸に供奉

11月16日

・良経、左大臣辞任。12月14日、太政大臣

11月20日

・去る4日、六角東洞院の朝雅邸における酒宴席で朝雅と畠山重保が口論したことが、今日伝わった。周囲のとりなしで大事にはいたらなかったが後の大事件の伏線となった。

11月24日

・明日、良経宇治におわします。宜秋門院の女房、同じく参ず。頻りに催しをこうむるといえども、所労術なきの由を申す。

「衰老ノ愁人、寒天ノ遠路ニ出仕、更ニ以テ興無シ。」。又出車を献ず。(『明月記』)


つづく

0 件のコメント: