建仁4/元久元(1204)年
9月1日
・今夜健御前有馬の湯に下向。(『明月記』)
9月3日
・定家、源顕兼の亡父宗雅仏事に参列
9月7日
・俊成猶子源隆保室没
9月13日
・健御前、今夜帰洛。(『明月記』)
9月14日
・実朝、義時邸に入る。
9月16日
・月蝕皆既。(『明月記』)
9月17日
・定家、宜秋門院懺法に参仕
後鳥羽院、熊野御幸。~10月6日。
今日、院御進発。(『明月記』)
9月23日
・定家、宜秋門院懺法に参仕。八条院舎利講に参仕
咳病に悩む。(『明月記』)。これ以降翌月初頭まで咳病を病む。
9月24日
「吉富ノ事、日ヲ逐ヒテ逼迫す。無縁ノ者、更ニ其ノ計無シ。将(は)タ奈何(いかにせん)ヤ。近日和歌ノ部類、日毎ニ催スト雖モ、所労術(ずち)無キ由、披露ス。万事ニ興無シ。交衆甚ダ無益ナリ」。道心なきを以て、なまじいに旬日を送る。ただ恥辱を増すあるか。(『明月記』)
9月30日
「暮レニ雨。病気減無シ。金商已ニ尽ク。」(『明月記』)
10月
・延暦寺衆徒、天台座主真性に専修念仏停止を訴える。
10月6日
・亥刻大地震(「吾妻鏡」同日条)。
10月14日
・実朝の妻に坊門信清の娘を迎えるため、容儀華麗の壮士を選出して、北条政範(16)以下、結城朝光・畠山重保(重忠の子)・千葉常秀ら多くの御家人が上洛。
坊門家は、信清の姉七粂院殖子(たねこ)が後鳥羽院の母であり、信清の娘坊門局(実朝の妻の姉)も後鳥羽の寵愛を受けるなど、院近臣の筆頭に位置しており、後鳥羽院の乳母として権勢を誇った卿局藤原兼子(のち卿二位と呼ばれた)がこの縁談を進めた。
「坊門前の大納言(信清卿)息女、将軍家御台所として下向せしめ給うべきに依って、御迎えの為人々上洛す。」(「吾妻鏡」同14日条)。
10月18日
・幕府、諸国の荘郷保地頭の違乱につき戒告。
「諸国荘園・郷・保の地頭等、事を勲功の賞に寄せ、非例を構え所務を濫妨するの由、国司・領家の訴訟出来するの間、今日その沙汰有り。名田と云い所職と云い、本下司の跡に任せ沙汰を致すべし。御旨に背かば、改職すべきの旨仰せ下さると。仲業・清定奉行すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月19日
・上皇、河陽におわします。伝え聞く、女房尾張(寵女)実快の房に於て逝去すと。(『明月記』)
尾張は、法眼顕清の子で、道覚法親王を生んでいる。この死を深く悲しんだ院は、水無瀬に御堂を造り、翌年10月20日に供養があった。
つづく
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