2023年6月30日金曜日

〈藤原定家の時代407〉元久2(1205)年3月1日~2日 後鳥羽院、定家・家隆・俊成卿女の歌を『新古今』各巻巻頭に置くようにと指示 〈俊成卿女のこと Ⅰ〉 ■俊成長女の子として誕生 ■源通具との結婚と離縁、その後         

 



〈藤原定家の時代406〉元久2(1205)年2月21日~29日 『新古今』恋部・釈教部の部類終る 定家、和歌所の饗宴を設ける(伊勢物語の故事にちなむ趣向) 定家、兼実より『源氏物語』の話を聞く より続く

元久2(1205)年

3月1日

・法輪寺に参じ、地蔵講を修す。(『明月記』)

3月2日

・定家、当世歌人の歌を歌人別に能書に書き出させ、後鳥羽院に進上。

院は、巻頭の歌、大略故人の歌が多いが、定家・家隆・俊成卿女の歌を置くようにという。俊成卿女は、悲運に逅う身、ひとすじに歌を以て仕えているので、面目をほどこす。

日の出づる以前に、(嵯峨にて)阿弥陀講を修し、騎馬して京に入り、二条大路にて車に乗る。巳の時計り、院に参ず。

人々いう、当世の人の歌、多少をしろしめさず。先ずこれを注出して、御覧を経べし。増減せしめんがためなりと。能書の人を以て、これを書かしむ。定家、ただ雑の部の三巻を見て詞等を直す(或人の進むる所の歌、非分の事多きによりてなり)。又仰せていう、巻の始め、大略故人を以てこれを置く。然るべからず。定家・家隆・俊成卿女等三人をもって、各々一巻の始めに立つべしと。又これを継ぎ直す。家隆をもって秋下の部の始めとなし、俊成卿女の歌を以て恋の二の始めとなす。定家の歌を以て、恋五の始めとなす。身の事たるにより、わざわざ末に入るべしとしたのであったが、この仰せ、もっとも面目となす。ただし、当時の如くば、三十一字を連ねる人、未だ知らざる者多くこれに入る。又昨今の末生等、十首に及ぶ。予が歌四十余り、家隆二十余りと。今の仰せ、すこぶる人を撰ぶに似たり、如何。夕に退出す。(『明月記』)

〈俊成卿女のこと Ⅰ〉

■俊成長女の子として誕生

俊成卿女は、俊成と加賀の長女八条院三条と藤原盛頼との間の子(俊成の孫)であるが、7歳の時、父盛頼(成親の弟)が鹿ヶ谷の変(1177年)に加わって失脚したため、俊成の庇護を受け養子となり、俊成・加賀夫妻の鍾愛を受けて育った。年齢は定家よりほぼ10歳年下。のちに女流歌人として名を成し、鴨長明『無名抄』には「昔にも恥ぢぬ上手」と評される。

■源通具との結婚と離縁、その後

俊成卿女が九条家の政敵源通親の子、源通具と結婚した経経は詳かでない。二人の間には具定(ともさだ)建久元年(1190)に生まれている。この縁で定家と通具は院御所などで言葉をかわす仲となり、それなりに親しかった様子が『明月記』からも読み取れる。

しかし、通具が土御門天皇の乳母として権勢を誇る従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)藤原信子(しんし)と結婚したため、通具と俊成卿女は10年余りで離縁する。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし、承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房。

だが、この二人は、それで縁が切れたわけではなく、定家は複雑な思いでこの二人を見ている。

正治2年(1200)2月20日、俊成卿女は母(五条の上・八条院三条)を失う。定家は日記に、亡くなったのはこの長姉が最初であると記し、初めて直面した同母の姉の死を深く悲しんでいる。3月9日の四十九日法要に俊成や成家と参加した定家は、女婿として出席していた通具から挨拶を受けている。

半年後の9月28日、定家は通具邸で行なわれた歌会の判者をしたが、最も良かった歌について、これは恐らく室家(しつか、妻の俊成卿女)が詠じたものであろう、と記す。彼女が定家も認める歌の上手だったことが知られるとともに、この時期二人はまだ夫婦であったことが分る。
しかし翌建仁元年(1201)12月28日条には、既に二人が離縁していたことを示す話が記されている。この日、院の石清水八幡宮歌合に参加し講師を務めた定家は、夜宿所で通具と心閑かに雑談をしているが、日記には「新妻の事など、且つこれを語る。誠に当初の本意を失すと雖も、旧室更に離別すべからざるの由、会釈(心づかいを込めたあいさつ)の詞等あり。若しくは実議(実際のこと)たるか。又内府(通観)の例なり。恨みを為すべからざるか。近代の法、唯権勢を先と為す。何をか為さんや」と記す。この時道具は俊成卿女と別れ、父通親の命により承明門院在子(ざいし)の妹信子(後鳥羽院女房)と結婚していた。定家はその辺の事情を察し、近頃は権勢を優先する、どうしようもないものだと書く。また、ただ通具が語った、旧妻とは離別すべきではなかったという告白は、通具の本心であろうと思い、彼を恨むべきではないとも思っている。

恐らく通具の言葉は本音であり、通具は、俊成卿女への愛情を捨て去ることはできなかった。
『明月記』には、そんな通具の心根を語る場面がいくつか見られる。

建仁2年(1202)2月1日条では、この日定家は、参院ののち押小路万里小路にの新宰相中将(通具)の上(俊成卿女)の許(伯宅=神祇伯仲資王宅)に向うと、そこには俊成が来ており、通具も同席していた。俊成卿女を含めた4人は清談に時を過し、定家は夕方帰っている。離縁しても前妻のところに通具が訪ねていることが知られる。


つづく

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