2023年7月1日土曜日

〈藤原定家の時代408〉元久2(1205)年3月1日~2日 〈俊成卿女のこと Ⅱ〉 ■女流歌人として院へ出仕する ■「今相伴ひ、年来の如し」 ■出家、通具の死、嵯峨に住む ■播磨国越部庄に下向   

 

皇太后宮大夫俊成女 - 嘉永四年版女百人一首

〈藤原定家の時代407〉元久2(1205)年3月1日~2日 後鳥羽院、定家・家隆・俊成卿女の歌を『新古今』各巻巻頭に置くようにと指示 〈俊成卿女のこと Ⅰ〉 ■俊成長女の子として誕生 ■源通具との結婚と離縁、その後 より続く

元久2(1205)年3月2日

〈俊成卿女のこと Ⅱ〉

■女流歌人として院へ出仕する

建仁元年(1201)年7月22日にも、定家は押小路万里小路宅に向う。

この日の『明月記』。

「この女房(俊成卿女)が今夜始めて院に参る。この事は狂気の沙汰である。宰相中将(通具)が権門の新妻と同宿。旧宅(俊威卿女宅)が荒廃するの間、(彼女が)歌芸によって院より召しがあった。本妻を棄てて官女と同宿するのは世魂(世俗的な考え)あるの致す所である。その事は面目ないが、宰相中将が一昨日「行ってやってほしい」と頼んできた。また入道殿(俊成)も「助けてやりなさい」とおっしゃった。よってこうして(俊成卿女の家に)向っているところだ。この人(俊成卿女)を先妣(加賀)が特にかわいがっていたので見放すことはできない。ただし全て通具が手配したそうで、通親も俊成の手紙を付けて(院に)推挙し、既に禁色を聴されたということだ。誠に面目である。」

道具が新妻のもとへ去ったことで俊成卿女が困窮していたため、通具が手配し通親も俊成の手紙を添えて推挙したので、院への出仕が叶うことになった。この日は院への初参の日で、定家は御所まで彼女の車に同行し、局に参入するのを見届けた上で帰宅した。定家は、彼女の参院を「狂気の沙汰」と書いているが、これは、想定外の出来事として驚いた気分を表わしたもので、非難めいた文言ではない。

元妻の院への出仕に尽力した通具の行動が、別の女性と結婚したうしろめたさや後悔の念による、つぐないの振舞であったとしても、そのことを通して通具は、改めて俊成卿女への愛情を確認したのであろう。

院に仕えた俊成卿女は、翌建仁3年(1203)の俊成九十賀屏風歌、承元元年(1207)の最勝四天王院障子和歌などの作者に撰ばれ、和歌会にも出席するなど、女流歌人としての地位を確立していく。

『明月記』元久2年(1205)3月2日条によれば、撰集中の『新古今和歌集』「恋の二」の始めに彼女の歌を持ってくるように、と院が命じたことが記されており(定家の歌は恋第五の始め)、院に和歌の才能が認められていたことが知られる。『新古今和歌集』には29首も入集している(式子内親王に次いで二番目)。

鴨長明の歌論「無明抄」では、「今の御代には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔にも恥じぬ上手共成りける・・・」と称えている。

■「今相伴ひ、年来の如し」

元久元年(1204)11月26日、俊成は危篤状態に陥り法性事に移されるが、翌日最初に俊成を見舞ったのは、通具と俊成卿女であった。定家は「大理(通具)、女房〔押小路(俊成卿女)〕を相具して来らる。尤も芳志あるに似たり〔今に於ては、女房巳に別宿と云々。今相伴ひ、年来の如し〕。共に臥内に入りて(俊成に)見参す」と記す。

今では離縁して別居状態だが、一緒に居るのを見ると長年の夫婦のようだ、と感じ入っている。俊成卿女も通具の愛情に応えていた様子がうかがえる。

■出家、通具の死、嵯峨に住む

俊成卿女は建保元年(1213)1月20日に出家しているが、『明月記』にはその記述はない。そして安貞元年(1227)9月2日通具が亡くなるが、4日に石蔵(岩倉)に葬送されたとの記事があるのみで詳細は分らない。

この年あたりから彼女は嵯峨に住んだと見られ、『明月記』天福元年(1233)12月27日条に、出家した因子が嵯峨の清涼寺に参籠の間、来訪した俊成卿女と詠歌を贈答したことが記されている。日記には俊成卿女のことを「中陰尼上〔三位侍従母儀〕」と記しているが、それ以前から嵯峨中院に住んでいたことにちなむ呼び名である。

■播磨国越部(こしべ)庄に下向

嘉禎2年(1236)3月に通具との間の子具定が没し、仁治2年(1241)の定家の死を期に71歳で越部庄に下る。下向した彼女は、そこでも和歌を作り『越部禅尼消息』などを書き、求められれば歌を京都に送っているが、自身は帰洛することなく、80歳後半で亡くなっている。

後世定家が歌聖として世の評判を得るにともない、俊成卿女はいつしか「定家ゆかりの女性」として語り継がれるなかで「定家さま」と呼ばれ、それがなまって「てんかさま」になった。いまも越郡上庄(現たつ野市市野保)には、越部禅尼の基と伝えられる「てんかさま」の小祠があり、地元の人々によって大切に守られている。


つづく



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