2023年7月17日月曜日

〈100年前の世界004〉大正12(1923)年1月5日~18日 大阪産児制限研究会設立(野田律太・三田村四郎・九津見房子ら) 過激社会運動取締法に反対運動 フランス、ルール地方占領 陳炯明の反孫文クーデタ失敗  

 

山本宣治(山宣

〈100年前の世界003〉大正12(1923)年1月 中国国民党改進委員会「改進宣言」発表 パリ賠償会議、フランスの反対でモラトリアム計画失敗 レーニン(53)遺書の補遣 より続く

大正12(1923)年

1月5日

・大杉栄、世界アナキスト大会出席のためフランス汽船アンドレ・ルボンに乗って上海を出発。2月13日、マルセイユ着。

1月5日

・野田律太・三田村四郎・九津見房子ら、大阪産児制限研究会設立。

産児制限運動の理論面での指導者として山本宣治(山宣、京都帝国大学理学部講師)が担ぎ出される。

「日本労働総同盟大阪連合会の或る組合で労働争議に於ける裏切り職工の統計をとって調べてみたところ、其大部分は子供を沢山抱へてゐる職工で、裏切るまでの苦悩は血が惨むやうな生活難が絡まってゐた。この現実に直面した・・・日本労働総同盟系の関西諸団体は、いよいよ本春から解放運動の一つとして、労働運動と併せて産児制限運動をやることとなった・・・」(「大阪朝日新聞」1月5日夕刊)。

山本宣治(山宣)は、前年(1922)春、アメリカの産制運動家サンガー夫人が来日したとき、その講演の通訳にあたったのを機会に、その講演の大要を紹介し、あわせて自ら欧米の関係書を読破して得た最新の知識により、これに批判的注釈を加え、『山峨女史家族制限法批判』と題して刊行。表題のものものしさは検閲をごまかすためである。また彼は、この年の碁、入洛中のアインシュタインと平和運動を論じ、日本において「愚なる好戦騒ぎに反抗を試み、それを未然に葬り去る丈の実力を将来に具へ得るのは労働者団体がある丈であらう」と断言していた。

産児制限の運動は急速に発展し、「産児制限研究会」が、大阪、神戸、京都、堺、岡山に結成された。山宣の足跡は他にも、例えば翌年、1924(大正13)年では、現在判明するものだけで長野県飯田町・鼎村、名古屋市、鳥取市、奈良県八木町・鴨公村・奈良市、沼津市、東京市、香川県琴平町・仏生山町・長尾町、松山市におよび、講演日数は31日に達する。これらは、総同盟、日本農民組合、水平社、長野県下伊那郡自由青年連盟ら人民組織の主催によるものであった。

山宣はこの産制運動の先頭に立つことによって、公然と無産階級の陣営内に身を投じた。この年、1923(大正12)年、賀川豊彦を校長とする大阪労働学校の講師となり、翌年には京都労働学校の設立に参画した。

1月5日

・夜、労働週報社(社長山崎今朝弥・編集者平沢計七)読者懇談会「週報雑談会」に集る都下の組合活動家に農民組合・水平社や、名古屋・大阪からの参会者を加え、出席者50余名が過激社会運動取締法案反対の運動方法を協議。過激社会運動取締法に反対する労働組合の共同戦線が構築されつつある

12日、出席者130名超が、共産党員と同調者が主導権を操る時計工組合・関東機械工組合・南葛労働協会と名古屋労働者協会が反対決議を発表、労働組合は思想団体とは別の組織をつくること、22日に全国各組合の連合委員会を成立させることを申し合わせる。

1月6日

・鈴木庫三、砲工学校に入校。翌日、結婚。この年4月より、日本大学予科に夜学生として通学。

1月7日

・広島仏教連合会、政府のローマ教皇庁への使節派遣に反対運動拡大。政府、駐派経費を予算から削除。

1月7日

・ソ連、レーニン、発作に襲われる。

レーニンは、1月~2月、数週間後に行われる党大会のために仕事を急いでいた。特に官僚制度と民族問題が彼の心を占めていた。彼は官僚制に関する強い猜疑心をもっていたので、それに関するデータを見ようとしたが、スターリンの許可が必要だった。このことが1月10日レーニンに癇癪を爆発させ、2月12日に神経の危機を引き起すことになった。

1月7日

・フランス・ドイツ・イギリス・ベルギー共産党のエッセン協議会、ルール占領反対宣言を採択。

1月8日

・セネガル、映画監督・作家センベーヌ、誕生。

1月9日

・パリ、賠償委員会、ドイツのフランスへの石炭引渡し遅延を確認。イギリスは再度反対

1月9日

・ニュージーランド、女流文学者マンスフィールド、没(1888.11.14生)。

1月9日

・スペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバが開発したオートジャイロが初飛行。

1月10日

・ハーディング大統領、ドイツ駐留部隊に対し復帰命じる

1月11日

・フランス、ルール地方占領。

フランスとベルギー、独の石炭による賠償支払不履行(1.9)を理由にルール地方に侵入・占領(~1924.9.1。イギリス・イタリア、不参加)。占領軍、炭坑と鉄道を押さえる。ドイツ、9.26まで消極的抵抗を行う。

1月11日

・フランス議会、ポアンカレ首相信任案可決。452対72票。

1月12日

・コミンテルン中央委員会、前年8月に決定されていた中国共産党員の国民党への個人加入に関して具体的な決議を採択し、共産党に宛てて指示。

1月12日

・葉山嘉樹(のち「海に生くる人々」著作)ら名古屋のポル派グループ、米騒動の先頭に立ったアナ派山崎常吉らと共に名古屋労働者協会に結集、前年春、新聞記者団の提唱の下に生まれた東海普選断行連盟に加盟。この日、協会は総同盟系のWP労働組合と共に名古屋労働同盟を名乗り、全国に先駆け「普選断行過激社会運動取癖法案反対演説会」を開催。

1月13日

・朝鮮水産会令公布。4.1 施行。

1月13日

・イタリア、ムッソリーニ(40)、ファシスト義勇軍とファシズム大評議会創設。反ファシスト議員・社会主義者弾圧強化。

1月13日

・ドイツ、首相クーノ、議会でルール占領への「受動的抵抗」宣言。

1月15日

・槙有恒、三田幸夫、板倉勝宣が立山でスキー登山中に遭難。

17日、板倉勝宣(25)、松尾峠で凍死。

1月16日

・孫文の檄に応じた雲南軍楊希閔・広西軍劉震寰・広東軍許祟智・湖南軍譚廷聞、広州解放。陳炯明の反孫文クーデタ失敗、しかし、広東省の半分は陳の支配下にある。

この事件を契機に、孫文は旧軍閥と手を切り、五・四運動以来盛り上がる大衆運動と結び、国民党を中国革命の中心たらしめようとする方針を固める。陳のクーデタの背後にイギリス帝国主義の手が動いていたことも、孫の決意を固めさせる原因となる。

1月16日

・後藤新平、ソ連のヨッフェ(在中国)を招待。23日、ヨッフェ受諾。

1月17日

・中国、改訂輸入税率を実施。

1月18日

・イギリス、BBC放送正式許可。1922.12.15 設立。


つづく

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