2023年7月21日金曜日

〈100年前の世界008〉大正12(1923)年2月1日~6日 京漢鉄道総工会ストライキ 弾圧(二・七惨案、二・七事件) 後藤・ヨッフェ会談 共産党第2回秘密大会(千葉県市川町) 「赤化防止団」の一員、後藤新平邸内に乱入、家財・窓ガラスを破壊 記者同盟の普選演説会(神田青年会館)    

 

ヨッフェ(A.A.Joffe/1883-1927) - 後藤新平記念館 - 奥州市公式HP

〈100年前の世界007〉大正12(1923)年2月 高橋新吉「ダダイスト新吉の詩」 山川均「当面の問題としての労働党」 西日本普選大連合結成 有島武郎と波多野秋子の恋愛感情が決定的となる 長谷川利行(32)《田端変電所》第4回新光洋画会第1回作品公募入選 より続く

大正12(1923)年

2月1日

京漢鉄道総工会(労働組合)、鄭州(ていしゅう)で結成大会。直隷派軍閥呉佩孚(かつて「五・四運動」支持し「愛国軍人」と評価された)は、イギリスの支持の下、大会禁止令を出し、当日戒厳令を敷き、開催を阻止しようとしたが、大会は開催された。呉はその報復として、軍隊に会場を占拠破壊させ、出席者を監禁させた。

4日、総工会はこれに抗議し、責任者の罷免、損害の賠償、労働条件の改善など5項目の要求を掲げ、正午より全線ストライキに入った。

7日、呉は軍隊を出動させ、復業を迫り、武力弾圧を行い、各地で労働者と衝突した。とくに江岸では軍隊が労働者を襲い、多数の者が虐殺されたり負傷した。(二・七惨案、二・七事件

9日スト中止指令が総工会から出され、ストは終結した。

全線での死者の総計は四十数人、負傷者は数百人、逮捕者は四十数人、解雇者1500人を出し、組合組織は壊滅。共産党は労働運動の基盤を一挙に失う。

1922年の労働運動高揚期には香港の海員スト・安源路鉱ストなど、労働者側勝利となるが、この頃は、軍閥の弾圧・帝国主義列強の武力介入などで大幅後退。

2月1日

後藤・ヨッフェ会談

早朝、前年の長春会議のソビエト代表だったヨッフェが船で横浜に到着、午後には築地の精義軒に入り、ここで後藤新平と最初の会談を行う。6月、日ソ非公式交渉へ発展。日ソ復交の基礎。

東京市長であった後藤は、ヨッフェが前年の長春会議後もモスクワに帰らずに北京に南下し、華南に入ろうとしているとの情報を得ると、ヨッフェが孫文と結ぼうとしているとみた。そしてこうした形でソビエトと中国の関係が出来あがる前に日ソ関係を打開しておくことを必要と考え、まず彼個人の資格でヨッフェを招き、両国政府が交渉に入る糸口をつくり出そうとした。

後藤は大正11年11月、加藤首相にこの構想をのべて了解を求めたが、加藤首相はヨッフェ招致に賛成しただけでなく、松平欧米局長をして非公式に会談せしめてもよいとまで言明、後藤は首相に対ソ交渉の決意ありとみて以後積極的に工作を進めた。

そしてこの年1月16日、神経痛に悩まされているヨッフェに、日本の温泉での療養をすすめる招電を発し、ヨッフェ来日にまでこぎつけた。

しかし加藤首相が了解を与えたにもかかわらず内務省にも外務省にもヨッフェを敵視する空気が強かった。「ヨッフェの来日に最も強く反対したのは、ヨッフェをひたすら共産主義宣伝の危険人物とみる内務官僚であったが、内田外相始め外務省幹部も半ばこれに同調していた。したがって、外務省はヨッフェの入国時の資格を全く私人扱いとし、たとえ支那駐在とはいえ一国の大使としてこれを遇しようとせんとせず、しかも初め外務省は在上海総領事に電訓してヨッフェの来日延期を勧告せしめたり、ヨッフェ入国に際して内務省側等の乱暴な取扱いにも黙認の形をとったりしたのみならず、その入国後も後藤子爵対ヨッフェ交渉中にもかかわらず、相当期間ヨッフェに暗号使用を拒否し続けたのである」(西春彦「日本外交史15 日ソ国交問題」昭和45年78頁)。

民間にもまたヨッフェ来日反対の動きが強く、右翼団体が2度にわたって後藤の邸に乱入するという事件が、また後藤・ヨッフェ間を斡旋した東京毎日新聞社社長藤田勇宅の襲撃などの事件が起る。

後藤は東京市長と日露協会会頭を辞め、外務当局の妨害を押切りヨッフェとの交渉を進める。漁区入札をもとめる北洋漁業資本や対ソ貿易を要望する関西財界も、対ソ復交を要望。この年の出漁問題はヨッフェの尽力で解決。6月、後藤・ヨッフェの私的交渉は日ソ両政府の非公式交渉に移り、7月末、ヨッフェと川上俊彦代表は予備交渉を終える。

2月1日

・外務省、ローマ教皇庁への外交使節派遣が何故日本の国体に反するか諒解に苦しむと談話を発表。

2月1日

・オーストリア・ウィーンで住宅建設税導入され、社会民主党の文化・住宅政策開始(赤いウィーン)。

2月2日

・尾崎行雄・松本君平らの提唱で婦人参政同盟結成(東京)。

2月2日

・カナダ政府、グランドトランク鉄道買収。

2月2日

・ミネソタ、アイオワ、ノース・ダコタ、ワシントン等の鉄道従業員罷業。~11月2日。

2月2日

・中米諸国、米と友好条約を締結。

2月3日

・孫文、中国国民党本部軍事委員会を組織。

2月3日

・溝口健二、日活作品「愛によみがへる日」で監督デビュー。

2月3日

・ハワイの外国人学校取締法提訴を受理したバンクス裁判官、日本語学校の提訴を却下。「試訴期成会」(指導者「布哇報知」社長牧野)は上訴。3週間後、第12回ハワイ準州議会でファーリングトン知事が日本人問題に関する法的措置の必要性演説。

2月4日

・共産党第2回秘密大会(千葉県市川町)。堺・荒畑・佐野・徳田など17名(山川は病気理由欠席、執行部には留まる)。「22年テーゼ」審議せず(3月15日の石神井臨時大会へ)。暫定執行部の正式選挙。委員長堺利彦・会計吉川守圀・国際佐野学。荒畑寒村は自ら望んで関西方面の組織担当(中央委員辞退)。近藤栄蔵、失脚。高尾平兵衛はこの月、離党。

コミンテルン第4回大会から帰国した高瀬清が、運動費横領の廉で高尾平兵衛を執行部に告発する事態が発生。党執行委員はこれを容れ規律委員会に付した為、憤慨した高尾は2月脱党届を出して離党(第一次共産党事件予審終結決定書)。

2月4日

・後藤新平、女婿の医学博士佐野彪太らにヨッフェを診察させ、2月10日には、療養のため熱海の海浜ホテルに送り込む。

2月4日

・ソ連、レーニン、論文「量は少なくとも質の良いものを」後半口述、労農監察部に関する論文

2月5日

・ロシアとの国交樹立路線に転じた後藤新平(東京市長、子爵)に反発する「赤化防止団」の一員が、後藤新平邸内に押し入って、家財や窓ガラスを破壊する。

後藤は、寺内正毅内閣での外務大臣在任中にみずから断を下したロシアへの干渉戦争(シベリア出兵、1918年)が失敗し、いまだ収拾できていないことに強く責任を感じていた。そこで、この年1月、革命ロシア政府(ソヴイエト社会主義共和国連邦)の極東代表ヨッフ工が訪中した機会をとらえて、打電して来日を求め、東京市長に在職しながら、個人的な交渉という体裁で、日ソ間の国交樹立に向けて局面打開を図ろうとした。ヨッフェは、それに応じて、すぐ日本に渡ってきた。

ヨッフエは来日に先だつ中国滞在中に「孫文・ヨッフェ共同声明」(1月26日)を発して、中国統一運動に対する革命ロシアの支援姿勢を示した。

後藤が、いまみずから実行に移そうとしているのは、かつて伊藤博文に建言した「新旧大陸対峙論」にもとづく政治行動である。ただし、以前の提携相手だった帝政ロシアは革命ロシアに変わっている。後藤自身は、これら二つの体制のあいだに、さほど本質的な違いを認めていないようだ。

日本は、革命ロシアとの国交を早期に開いて、中国を取り巻く旧大陸全体としての安定した関係を構築し、やがて進出してくる米国という新大陸の勢力に、対峙していくほかに道はない。

伊藤ができなかったことを、自分が果たさなければと、後藤は考えていた。そして、ヨッフェとの長期交渉のなかばで、これの打開に集中するために東京市長という重職を辞した(同年4月)。かつて後藤は伊藤に韓国統監辞任を求めたことがある。

2月5日

・国際刑事警察機構(インターポール)設立。

2月6日

・夜、神田青年会館で記者同盟の普選演説会。

翌7日、普選派の憲政会、革新倶楽部などの代議士と記者側の実行委員とが会談、そこでの打合わせ通り、11日、野党側は有志議員の議員提出の形で普選案を衆議院に提出。

また、同日、野党側と記者同盟との連合の大会。"

院外の普選運動の大衆的盛上がり。

加藤内閣は第46議会召集が迫った前年10月20日、衆議院議員選挙法調査会を置き(11月1日第1回会合)選挙法全般にわたって改めて調査するといった程度で、普通選挙の実現には熱意を示さなかった。それに対して、院外では普選を要求する動きが、議会開会に向けて高まっていた。特に加藤内閣を政党内閣への流れを逆転させたと批評した新聞記者の間には、この反動内閣に対しては一層強く普選要求をぶつけてゆかねばならないという考えが広まっていた。そしてこうした新聞記者の動きが、普選運動の高まりをリードする大きな力となっていた。

まず東京の新聞記者の間で普選記者同盟がつくられ、この年1月20日には、日比谷公園内松本楼で第1回在京記者大会が聞かれた。この会合には200余名の記者たちが参加し、国民新聞の馬場恒吾、東京朝日新聞の安藤正純、都新聞の大谷誠夫らが演説した。


つづく

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