2024年1月30日火曜日

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る   

 


大杉栄とその時代年表(24) 1888(明治21)年9月~10月 森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国 漱石・子規(21)、第一高等中学校本科第一部(文科)進学 二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」 皇居落成 ゴーギャンとゴッホの共同生活 スエズ運河条約締結 より続く

1888(明治21)年

11月

外相大隈重信、日本側新条約案を策定。明治20年7月中断していたものを再開。前の井上外相の一括処理と違い、好意的な国から個別交渉で実績を積上げる方式をとる。超大国イギリスが改正には消極的で最大の難関。

11月1日

東海道線大船駅、開業。

11月1日

馬場辰猪(39)、病没。

11月2日

幸徳伝次郎(18)、三度、故郷中村を出奔。大阪に向い、親友横田金馬の紹介で中江兆民の家の書生部屋に住み込む。兆民が手掛けている壮士芝居の脚本の手入れを行う。大阪事件をタネにした「勤王美談上野の曙」(「朝野新聞」栗原亮一脚本)が堅苦しいので、横田に頼まれ「獄舎の場」を執筆。

11月3日

北村門太郎(透谷)と石阪美那の結婚式。石阪家は結婚式をボイコット。

11月5日

ドイツ公使西園寺公望、親しい5歳年長のアメリカ公使陸奥宗光に宛て返書。

ベルリンは寒く、「百姓」のような「東洋紳士」が分からぬ理屈を述べて悲しみ憤慨している有様を見ると、気力がなくなってしまう、親しい友のいない土地は非常に物淋しくて耐えられない、等と記す。

11月16日

「みやこ新聞」、発刊

11月16日

大杉栄(3)の妹・菊(きく)が生まれる

11月18日

(光緒14年10月15日)西太后、光緒帝の皇后と嬪2人を決めると発表。皇后には西太后実弟桂祥の娘葉赫那氏(後、隆裕太后、21)、侍郎の長叙の娘姉妹(15、13)を嬪とする。

11月20日

「大阪毎日新聞」発刊。6月末に休刊した「大阪日報」の後継として。関西財界藤田伝三郎出資。柴四朗(東海散士)主筆。柴は藤田の長州閥との繋がりを嫌い、池辺三山の「経世評論」に力を注ぐ。部数も減じ、翌年6月「みやこ新聞」渡辺治(26)が主筆となる。


12月

~翌年1月、大同団結運動の盟主後藤象二郎の東海北陸遊説。

18日敦賀入り、万象閣で有志大懇親会、後藤・随行の綾井武夫・国友重章などの演説。19日武生入り、陽願寺で懇親会。「集まる者無慮二百」。20日午後福井市着、西別院で福井有志者の招請大懇親会。夜は宿舎三秀園に有志者と一行との会合、21日は照手座で政談大演説会。後藤一行の福井県遊説は、大同団結運動への関心を高揚させることに成果を収めるが、武生を中心とした旧自由党系の人々と、「福井新報」による旧士族層・商工層グループの改進党寄りの人々との間に違和感も漸次増幅。  

12月

「経世評論」創刊。主筆東海散士、編集長池辺吉太郎(三山、25)。大阪。

池辺三山;

18歳で上京、慶応義塾に学び、21歳で熊本県出身者の奨学機関の有斐学舎舎監となる。条約改正反対運動に奔走、「山梨日日新聞」論説を書き、言論界に乗り出す中で、明治18年大ベストセラー小説「佳人之奇遇」を書いた国際人東海散士(柴四郎)の知遇を得て、この月、「経世評論」(月2回発行)を大阪で創刊。1年半程で雑誌は経済的に行き詰まるが、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南、柴四朗とら一流言論人に伍して、若い三山も書く。当時「東雲新聞」主筆中江兆民は、同紙上で「流麗の中自ら一種峭葛の気あるを覚ふ」と、三山の文章に期待。

12月

「東京新報」、発行。伊藤博文。

12月

この月に警視庁新聞係が記録した東部日刊紙(17社)の発行部数。

①やまと56万、②郵便報知52万、③絵入朝野38万、④改進37万、⑤時事新報33万、⑥読売33万、⑦東京日日30万、⑧東京朝日24万、⑨毎日21万、⑩朝野17万、⑪絵入自由16万部。

12月

宮崎夢柳「仏国史談 義勇兵」(盛業館)

12月

平沼騏一郎、東京帝大法律学科卒業。司法省参事官補となる。

12月

大杉栄(3)、東京府麹町区富士見小学校附属幼稚室に入る

12月

ニーチェ、「この人を見よ」で「帝国」や「三国同盟」など現存秩序を転覆を、「アンチクリスト」でキリスト教襲撃陰謀を企て、ビスマルクやヴィルヘルム2世への「宣戦布告」草案を書いたり、キリスト教攻撃に際して「ユダヤ人の大資本」や「将校たち」との同盟を描いたりする。

下旬、母宛ての書簡で、自分はドイツでは無名だが、サンクト・ペテルブルク、パリ、ストックホルム、ウィーン、ニューヨークの地位も影響力もある人物や天才が自分を崇拝していると報告。オーヴァーベックに、ヨーロッパ諸国に働きかけて「ドイツ帝国」を転覆する陰謀について打ち明ける。月末から錯乱の徴候が手紙の文面に現れてくる。

上旬

若越同志会、結成。11月末結成の福井県会傍聴人懇親会が、この月上旬の第2回集会で改称。

福井県下の大同団結運動。全国的動向に主眼を置き運動を進める杉田定一を中心とする「若越親睦会路線」と、新しい地方制度の実施を前にして県内の地域的な政治勢力の結集強化を図ろうとする、「福井新報」を舞台する「若越同志会路線」との微妙な対立。こうした県内情勢のなか、杉田は離福し中央での政治活動を再開、離福中の県下政局への対策と連絡を武生の増田耕二郎に託す。 

12月2日

井川(恒藤)恭、島根県松江市に誕生。

12月2日

山県有朋(50)、横浜港から出航、ヨーロッパ各国の地方自治の現況を視察、アメリカを回り、翌年10月2日に帰国。

12月3日

川上音二郎、中江兆民後援で岡山出身壮士角藤定憲と「大日本改良演劇会」旗上げ。大阪新町座。

12月3日

香川県、愛媛県から分離独立。現在の都道府県が全て確定。

12月7日

「第十九世紀」、日清韓提携を訴える。

12月19日

板垣退助、旧自由党員との懇談会開催。愛国公党への結集を呼びかける。

12月20日

啄木の妹、光子(戸籍面ミツ)生まれる。

12月22日

11月24日通常県会、知事・常置委員に対する積年の不満が爆発。直接の契機は、8月の水害復旧の為の臨時土木費3万5582円が臨時県会なしに常置委員の急施会で決議されたことにあるが、底流には常置委員主導の県会運営に対する不満がある。通常会は冒頭より紛糾、常置委員辞職勧告提案。また、勧業費を巡る対立がこの紛糾を一層大きくする。松方デフレ後の企業勃興の時代的趨勢に対応する為、県は織物・製糸・製紙・畜産などに総額3万円余の予算を計上し、県官が議員に強引な根回しを行い、これが議員の多くを刺激。郡レベルの地域利害を背景に選出された地主議員にとっては、織物伝習所費などは福井のごく一部の機業家(士族)だけの為としか理解できず。このように常置委員や勧業費に対する反対から、県会はほぼ2分され激しく対立。20年度予算の土木費削減に対して石黒知事は内務大臣の指揮権発動により土木費復活をはかった経緯もあり、反対派は、議会解散を狙い師範学校費全廃という建議案を提出、25人の出席議員中18人の賛成で可決され、石黒知事は12月8日、通常県会を中止。この建議案の可決は、1県に必ず1尋常師範学校設置するとの師範学校令に反し、内務大臣は認可せず、12月22日、福井県会最初の解散という事態となる。 

12月23日

ゴッホ、ゴーギャンとの激しい喧嘩の後、彼は自分の左耳の下部を切り取り、翌朝、意識不明のままアルルの病院に運ばれる。ゴーギャンは事件をテオに知らせ、テオはアルルへ急行。/1/7.迄、入院。

12月27日

法律取調委員長山田顕義法相、民法最終案を黒田清隆首相に提出。

12月26日

菊池寛、誕生。

12月29日

女学生向け雑誌が13誌発行と伝える記事(「女学雑誌」)。明治18(1885)年「女学雑誌」。20年「いらつめ」など3誌。21年「婦人教会雑誌」「女新聞」「日本新婦人」など9誌。

12月30日

オーストリア社会民主労働者党結成。ハインフェルト(統一大会)でヴィクトール・アードラー指導下にオーストリアの社会主義者の穏健派・過激派合同統一大会。マルクス主義的綱領を採択、機関紙「労働者新聞」創刊。各民族の連合体としての性格から、民族問題の解決が大きな課題となる。~89年1月1日迄。

12月31日

原敬(32、パリ公使館書記官)に大隈外相より帰国命令。翌年2月22日パリ出発、4月19日東京着。

12月31日

幸田露伴、『露団々』の原稿料50円をもとに友人2人と旅行(2人とは途中で別れる)。野州佐野~横川~名古屋~京都。1銭残らず使い果たし、翌年(明治22年)1月31日に東京に帰着。

この時の紀行文は『酔興記』(明治22年2月)


「面白く無くて面白く無くて、癇癪が起つて癇癪が起つて、何とも彼とも仕方の無い中の閑を偸(ぬす)むで漸くに綴り成したる露団々は売れたり、書肆への談判一切を委ね頼み置きたる李山張水(仮設の名なり)二人の友は幾十枚の紙幣を手にして我が許に来れる。」


「夜、人あり、これを先生にとて出してがへりぬ。とりてみれば発句あり。

花やこれ 君が常盤の 筆のあと

とありて、露伴としるしぬ。ひらきて見れば、木の花漬といふものなり。この箱のうらに、君の御蔭をもて京大阪に遊び、西鶴・其碩・芭蕉の故蹟を訪ひ、木曾路より遥々とこの漬物をもち来りぬとあり。かの露団々の小説を金港堂ゆづりて路費などにせしにや。露伴は即ち幸田成行の事也。」(『学海日録』明治22年1月31日)


つづく


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