大杉栄とその時代年表(23) 1888(明治21)年7月~8月 漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業 子規ら、長命寺境内の桜餅屋月香楼で夏休みを過す 子規『七艸集』完成 「東京朝日新聞」発行 里見弴生まれる 磐梯山大爆発 子規(21)、江の島で喀血 二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」 三池炭鉱を三井組へ払下げる より続く
1888(明治21)年
9月
栃木県、政社再組織。旧自由党派の下野倶楽部組織。11月、安生順四郎ら保守派の下野同志会組織。
9月
「日本新婦人」創刊。
9月
トロツキー(9)、オデッサで聖パウロ実科学校受験。成績は悪くないが、10%枠(ユダヤ人の入学者数制限枠)や買収のため予科編入となる。実科学校を含め7年間をここで過ごす。
9月
ゴッホ、9月半ば、「黄色い家」へ移る。南仏のアトリエでの画家たちの共同生活を夢見ていたが、その最初の相手として、ゴーガンの名が次第にのぼってくる。
9月8日
森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国、横浜到着、東京に帰る。同日、陸軍軍医学舎(軍医学校)の教官となる。9月12日ドイツ女性エリーゼ・ビーゲルト来日。10月17日、帰国。12月12日、陸軍大学校教官・陸軍衛生会議次官を兼任。12月、海軍中将赤松則良の娘登志子と婚約。
9月8日
「文学会」第1回会合。この月、徳富蘇峰は、雑誌『国民之友』の文芸欄を充実させるため民友社の仲間森田思軒と共に「文学会」という研究会(一種のサロン)を作った。
第1回会合には、徳富蘇峰、森田思軒、朝比奈知泉、依田学海、矢野龍渓といった大物、新進気鋭の坪内逍遥という錚々たるメンバーに混って山田美妙(20歳)が参加した。
依田学海のその日付け日記(『学海日録』)にはこうある。
新知の人々多きうちに、殊に意外なりしは山田なりき、年は廿ばかりの美少年にして、色白く鼻筋透りて、女にしても見ま欲しを男なり。
更に9月25日の『学海日録』にも美妙が登場する。
山田武太郎来る。美妙斎といへる小説家なり。夏木立といふ書を著はして言文一致の文章を主張する才子なり。(中略) (*美妙は)金港堂にて小説の雑誌を発行するよし也。余編集の署名を請ふ。中根淑と余となり。
金港堂は、当時最大手の出版社で、この時学海に編者になってほしいと要請したのは文芸誌『都の花』(明治21年10月21日創刊)ある。
9月9日
一葉一家は、神田区表神保町2番地に転居。虎之助の借りた家を出て、則義の事務所に近い借家に移る。則義が退職後の生活の打開のために、この新事業に賭けた意気込が窺える。この月、東京荷車請負業の規約成立。
9月11日
漱石、子規、第一高等中学校本科第一部(文科)に進学。漱石は英文学を専攻。
漱石、英作文「討論――軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」執筆。
子規は本郷真砂町の常磐会寄宿舎に入る。スペンサーの哲学に影響を受ける。
数学も「非常に出来る様」になり、周囲の友人も彼は理系に進むものと信じていた。漱石自身も専攻を決めるさいはじめ建築科を希望し、将来は「ピラミツドでも建てる様な心算で居」た。ところが、落第によって同級生となった大秀才の友人米山保三郎に、「それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝へる可き大作も出来るぢやないか」と勧められたためそれに従ったらしい。「僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、其処で英文学を専攻することにした。」(「落第」)と述べている。
僕は其頃ピラミツドでも建てる様な心算(つもり)で居たのであるが、米山は又却々(なかなか)盛んなことを云ふので、君は建築をやると云ふが、今の日本の有様では君の思つて居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどゝ云ふことは、迚(とて)も不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝へる可き大作が出来るぢやないか。と、米山は恁(こ)う云ふのである。僕の建築科を択んだのは自分一身の利害から打算したのであるが、米山の論は天下を標準として居るのだ。恁う云はれて見ると成程然(そ)うだと思はれるので、又決心を為直(しなお)して僕は文学をやることに定(き)めた(「落第」(『中学文芸』明治39年(1906)6月20日))
「米山は脱俗的な「変物」で、金之助によれば「賦性活発、読書談禅の外、他の嗜好無し」という人物だった。・・・・・
だが米山は彼と同期に東大哲学科を卒業し、将来を嘱望されたが、明治三十年にチブスで夭逝した。金之助は米山の死を惜しみ、「同人如きは文科大学あつてより文科大学閉づるまでまたとあるまじき大怪物」(斎藤阿具宛書簡)と言った。教師時代の彼は、落第を心配する学生に対して、落第にもいいことがあると語ったが、おそらく米山との出会いを念頭に置いての発言だろう。」(岩波新書『夏目漱石』)
「・・・実はかうかうだと話すと、彼は一も二もなくそれを却けてしまつた。其時かれは日本でどんなに腕を揮つたつて、セント、ポールズの大寺院のやうな建築を天下後世に残すことは出来ないぢやないかとか何とか言って、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の方が生命があると言つた。元来自分の考は此男の説よりも、ずつと実際的である。食べるといふことを基点として出立した考である。所が米山の説を聞いて見ると、何だか空々漠々とはしてゐるが、大きい事は大きいに違いい。衣食問題などは丸で眼中に置いてゐない。自分はこれに敬服した。さう言はれて見ると成程又さうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、叉文学者になる事に一決した。随分呑気なものである」(『処女作追懐談』)
9月15日
山田美妙、9月15日発行『以良都女』第15号から編集兼発行人となる。
10月
康有為、第1次上書。11月から12月にかけて2度目の上書。
10月
ツルゲーネフ、二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」(都の花)10~22・1
10月
グスタフ・マーラー、ブタペストのハンガリー王立歌劇場音楽監督就任。「ドン・ジョヴァンニ」をハンガリー語で上演。ブラームスが絶賛。
10月1日
植木枝盛、上京。後藤象二郎と会う。7日、共に千葉の懇親会に出席。翌日、帰阪。
10月7日
1884年7月着工の皇居が落成。27日、宮城と改称
10月14日
全国有志大懇親会(大阪新生楼)。福井からは、県会議員永田定右衛門・青山庄兵衛・時岡又左衛門・加藤与次兵衛、武生の宇野猪子部、福井の大家理兵衛、松浦の7人が出席。
10月21日
文芸誌『都の花』創刊号(金港堂)刊行。
中根香亭(淑)「発行のゆゑよし」(発刊の言葉)に続いて山田美妙の小説「花車」と二葉亭四迷の翻訳「めぐりあひ」(原作ツルゲーネフ)が並び、さらに依田学海の戯曲「淑女の
操」が載っている。
美妙が『都の花』創刊に参画していることを紅葉たちは知っていたが、いざ実物を目にするとやはりショックだった。
其内に金港堂に云々(しかじか)の計画が有ると云ふ事が耳に入った、其前から達筆の山田が思ふやうに原稿を寄来(よこ)さんと云ふ怪むべき事実が有つたので、這(こ)は捨置き難しと石橋と私とで山田に逢に行きました、すると金港堂一件の話が有つて、硯友社との関係を絶ちたいやうな口吻、其は宜(よろし)いけれど、文庫に連載してある小説の続稿だけは送つてもらひたいと頼んだ、承諾した、然るに一向寄来さん、石橋が逢ひに行つても逢はん、私から手紙を出しても返事が無い、もう是迄と云ふので、私が筆を取つて猛烈な絶交状を送つて、山田と硯友社の縁は都の花の発行と与(とも)に断れて了(しま)つたのです。刮目(かつもく)して待つて居ると、都の花なる者が出た、本も立派なれば、手揃でもあつた、而して巻頭が山田の文章、憎むべき敵ながらも天晴(あっぱれ)書きをつた、彼の文章は確に二三段進んだと見た、さあ到る処都の花の評判で、然(さ)しも全盛を極めたりし我楽多文庫も俄に月夜の提灯と成った。(紅葉談話『硯友社の沿革』)
「敵ながらも天晴」と言えたのは、紅葉がこの談話をロにした明治34年には美妙は既に、ひところの人気を失い、世間から忘れられつつある存在で、一方の紅葉は押しも押されもせぬ文壇の大家、しかも二人はこの年2月、絶交以来十数年振りで交際を復活させた所だったから。
また、紅葉がその談話で、美妙と硯友社の縁が「都の花の発行と与に断れて了つた」とあるが、これには少し事実誤認がある。
『我楽多文輝』第10号(明治21年10月25日)~第13号(21年12月10日)に、紅葉の口述による「紅子戯語(こうしげご)」という文章が連載されている。硯友社同人たちが普段編集室でやり取りしている会話が紅葉によって再現されている文章である。その「紅子戯語」に、『都の花』発行直後の美妙も居心地悪そうにではあるが登場している。
10月23日
ポール・ゴーギャン(40)、アルル着。ゴッホの<黄色い家>で共同生活
10月26日
「宇内の現状を論じて日本国民の注意を喚ぶ」(「第十九世紀」)~11月9日)。日本の上流者の欧米への卑屈、跪拝ぶりが日本国民の抵抗精神を蝕む。
10月29日
イスタンブール、英・仏・蘭・独・澳・伊・西班牙・露・オスマン帝国間でスエズ運河条約、締結。運河の中立・国際化。
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