2024年7月4日木曜日

大杉栄とその時代年表(181) 1896(明治29)年1月18日~2月15日 広島裁判所・軍法会議、全員無罪釈放 漱石、子規に宛てて句稿を送る 鴎外『めさまし草』創刊 子規、臥床の日が多くなる 一葉「裏紫」 朝鮮、親ロシア派クーデタ(俄館播遷)              

 

旧ロシア公使館塔(ソウル)

大杉栄とその時代年表(180) 1896(明治29)年1月8日~16日 横山源之助が一葉を訪問 「「かしたし」とならば金子もかりん、「心づけたし」とならば忠告も入るゝべし。我心は石にあらず。一封の書状、百金のこがねにて転ばし得べきや。」(一葉日記) 子規『従軍紀事』 「 小生依例如例日々東京へ帰りたくなるのみ。」(漱石の子規への手紙) より続く

1896(明治29)年

1月18日

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ドイツ帝国建設25周年記念日で演説。「ドイツ帝国は世界帝国となった。」。

1月20日

広島地方裁判所予審判事吉岡美秀、三浦悟楼ら全員無罪釈放。先立つ軍法会議、判士長大島義昌少将、全員無罪放免

25日、三浦ら東京帰還。大歓迎。

1月24日

鴎外、陸軍大学校教官を兼務。

1月25日

安達こうから一葉に借金返済の催促

1月28日

漱石、子規に宛てて句稿を送る。「正岡子規へ句稿その十」を送る。40句。

29日にも句稿を送る。「正岡子規へ句稿その十一」を送る。20句。

1月28日

アルバート・アインシュタイン、3マルクを支払い、もはやドイツ市民(正確にはヴュルテンベルク領民)ではないことを証明する証書を受け取る。以後5年間、無国籍のまま。

1月30日

鷗外(34)、『めさまし草』創刊。

『めさまし草 まきの一』は菊判、頁数44、定価1部金8銭。発行所は東京市本郷区元富士町二番地、盛春堂。表紙は鷗外の親友、原田直二郎。

この『めさまし草 まきの一』には、俳句に関するものが3頁半を占めている。子規、鳴雪、瓢亭、碧梧桐、虚子の五人が俳句を2句ずつ計10句、虚子の「七部集」、また1月3日、子規庵での句会の題「霰」に因み、子規が提供したと思われる、芭蕉、其角、蕪村等の古人の「霰」の句33句が掲載されている。

つまり「『しからみ草紙』が西洋美学に立脚した文学評論による啓蒙を目ざし、ドイツ留学からの帰朝者としての新進気鋭の姿勢からいわば気負って生み出されたのに比べると、多少の差違があることを否定し得ない。」(成瀬正勝「文学」昭和 三〇年三月号)とあるような、編集方針の穏やかな変化は、鷗外と俳人である子規との出会いが関係しているのではないだろうか。

子規については「一月下旬観潮楼に来訪する」(苦木虎雄『鷗外研究年表』)とあるので、子規が『めさまし草』の創刊号から関わり、その創刊号の打ち合わせであろうと推定される。

鴎外、露伴、緑雨、三人によるコラム「三人冗語」


「『にごり江』も『十三夜』も同じ段にありとの事なり・・・『わかれ道』の亦按排(またあんばい)に於て前の二作と巧拙なきのみならず材は寧ろ勝ちたり、唯われは一葉が筆のやゝみだれんとする者あるを窃かに認むるが故に今の新聞雑誌に流行する如き圏点付きの褒め言葉を際限もなく列ぬることをなさゞるなり」と、一葉の「筆のみだれ」について指摘し、評論界の批評に心ひかれるのがみだれの原因になると諭している。(緑雨「金剛杵」)

1月30日

『文学界』第37号「たけくらべ」(十五)(十六)を掲載。完結。



2月

朝鮮、ロシア公使ウェーバー、公使館警備名目で武装水兵120名上陸させ漢城入り。

2月

子規(30)、左腰が腫れ以後臥床の日が多くなる。

2月

尾崎紅葉『多情多恨』

2月

田沢稲舟、山田美妙合作『峰の残月』

2月1日

子規の鴎外宛て手紙

「拝啓 先日ハ失礼致候○目さまし草待兼て面白く拝見致候 

就てハ読之際思ひつきたる悪まれ口書き記して御参考といかぬも御一笑に供へ度存書きかゝり候處考へて見ると新聞の方種切れ故新聞へ廻し置候 今度の週報御一覧下度候

但シあとで御叱りなき様今から願ひ置候 呵ゝ

此四五日來例の腰骨が痛み出して今日抔は一歩も動けぬ様に相成候 悪口の罰にや

 春を待つ迠に我はや老いにけり」


2月1日

トスカニーニ、プッチーニのオペラ「ボエーム」初演。

2月2日

鹿島守之助、誕生。

2月5日

一葉「裏紫」(上)、『新文壇』第2巻第2号に掲載。1月20頃、鳥海嵩香の依頼により書き上げる。続稿は未完に終る。(中)以下が容易に完成せず、そのうち『新文壇』が第6号あたりで廃刊になる。

樋口一葉『うらむらさき』(青空文庫)

樋口一葉小説 第二十一作品「裏紫」のあらすじ

『太陽』第2巻第3号に「大つごもり」再掲。明治27年12月「文学界」の再掲載。一葉が博文館に金の相談に行くと、社主大橋佐平の女婿大橋乙羽が旧稿でもかまわない、持ってきた原稿には金を出すと言う。

2月5日

明治女学院(麹町区下六番町、校長巖本善治)、隣家からの出荷により消失。校舎、寄宿舎、教員用住宅の大半を失う。"

2月6日

大橋乙羽より一葉へ、昨日発行の『太陽』に掲載された「大つごもり」が旧作にも関わらず新作として掲載された詫びが届く。また、『通俗書簡文』の原稿の催促を受ける。

2月7日

この日付け斎藤阿具宛の漱石の手紙。


「小弟碌々(ろくろく)として遂に三十年と相成、甚だ先祖へ対しても面目なくこまり入候。近々の内当地を去りたくと存候へども、無暗に東京へ帰れば餓死するのみ、夫故少々困却致居候。」


1月16日付で子規にあてた手紙でも「依例如例(れいによつてれいのごとく)日々東京へ帰りたくなるのみ」と書いている。

2月10日

翻訳家若松賎子(31)、没。5日前の火災で持病の結核を悪化させる。「小公子」など翻訳。

2月10日

ラフカディオ・ヘルン、小泉八雲と改名。

2月11日

朝鮮、親露派李範晋・李允用・李完用のクーデタ。

早朝、高宗・世子はロシア公使館に逃亡(「俄館播遷」)。ここで新政府組閣(領議政尹炳始・2ヶ月後尹容善、外部大臣李容竣)。国王は金弘集ら開化派内閣の逮捕・処刑命令。改革派一掃。

12日、金弘集らは王宮で逮捕、民衆に殺害。魚允中は郷里へ向う途中で殺害。金允植は終身流刑。

ロシアの利権拡張:

咸鏡道の慶源と鏡城の鉱山採掘権、茂山と鴨緑江右岸及び鬱陵島の森林伐採権を譲り受け国策会社「東亜鉱業会社」(大株主ニコライ2世)設立。朝鮮政府に軍事顧問・財政顧問の送り込み(軍事・財政監督権掌握狙う)。

2月11日

オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」初演

2月12日

仏、オペラ作曲家トーマ(84)、没。

2月15日

衆議院、国民協会提出の朝鮮問題に関する内閣弾劾決議案上程。10日間の停会を命じられる。


つづく

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