1896(明治29)年
1月8日
この頃、毎日新聞社の横山源之助が来訪。
この頃、一葉は既に「大つごもり」(明治27年12月)、「たけくらぺ」(明治28年1月)、「にごりえ」(明治28年9月)などの代表作を書きあげている。一方、当時「毎日新聞」の記者であった横山も、初期底辺社会ルポルタージュの秀作が出揃っている。一葉を最初に訪れた明治29年1月は、横山が「都会の半面」(明治28年12月15~29日、1月9~12日、連載4回)という代表作をものしている。下層社会ルポルタージュ作家としての地位を不動にしたときであった。(立花雄一著『明治下層社会記録文学』昭和56年4月 創樹社)。
横山は一葉の許をしばしば訪れており、人間的にも思想的にも多分に共感するところが多かったことが推察される。一葉に送った横山の手紙から、一葉は横山に社会運動の実践にかかわる相談を持ちかけていたことも知られる。一葉は死後自分の全集の編集は、斎藤緑雨か横山にと考えていたふしがあり、横山も緑雨同様、一葉が知己と考えていた一人であった。しかし、二人の交友が進展するには時間が足りなかった。
横山源之助:
明治4年、富山県魚津町生まれ。弁護士をこころざして東京法学院(現・中央大学)に学ぶ。のち、放浪の時期に二葉亭四迷や松原岩五郎を知り、その影響から島田三郎主宰する毎日新聞に入社、社会探訪記者として下層社会や労働問題を取材し、優れた探訪記事を書く。3年後、名著『日本の下層社会』を著作。
横山が一葉を訪れた動機は、一葉の作品に下層社会が扱われているから。一葉は「世間は目して人間の外におけりしとおぼし」と、横山が疎外された人物であると受けとめる。横山は一葉に二葉亭四迷を引きあわせたいと語る。
「かどを訪ふ者、日一日と多し。「毎日」の岡野正味(しやうみ)、天涯茫々生(*横山源之助)など不可思議の人々来る。茫々生はうき世に友といふ者なき人、世間は目して人間の外におけりとおぼし。此人とひ来て、二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき。」
(家を訪ねてくる者が一日一日と多くなった。毎日新聞記者の岡野正味・天海茫々生など変わった人々が来る。茫々生はこの世に友という者を持たない人で、世間は彼を人間の仲間に入れていないように思われる。こういった人が来て、私を二葉亭四迷に引き合わそうと言う。半日ほど話した。)
「野々官きく子、閑如来との縁やぶれて、一度我れを恨めりき。しばしにしてうたがひの雲はれたれど、猶我(わが)もとを男のとひよる、ねたましう、あるまじき事にいひなす。教育社会の人々は、我れを進めて、「著作の筆たゝしむるか、もしくは教育趣味のもの書(かき)てよ」との忠告さへ聞えぬ。紛(ふん)たり擾(ぜう)たり。このほどの事、雲くらし。
あやしき事また沸出ぬ。府下の豪商松木何がし、おのが名をかくして、「月毎の会計に不足なきほど我がもとに送らん」と也。取次ぐは西村の釧之助。同じく小三郎協力して、我が家に尽さんとぞいふなる。松木は十万の財産ある身なるよし。さりとも、名の無き金子たゞにして受けられんや。「月毎いかほどを参らせん」と間はれしに答へて、「我が手に書き物なしたる時は、我手にして食をはこぶべし。もし能はぬ月ならば、助けをもこはん。さらば、老親に一日の孝をもかゝざるぺけれは」とて、一月の末(すゑ)二十金をもらひぬ。
身をすてつるなれば、世の中の事何かはおそろしからん。松木がしむけも、正太夫が素(そ)ぶりも、半としがほどにはあきらかにしらるべし。「かしたし」とならば金子もかりん、「心づけたし」とならば忠告も入るゝべし。我心は石にあらず。一封の書状、百金のこがねにて転ばし得べきや。」
(野々宮菊子は関如来との縁談が壊れて、一時は私を恨んでいたようだ。しばらくして疑いは晴れたが、それでも私の所へ男の人が訪ねて来るのを妬ましく思って、まるでいけない事のように言ったりする。教育界にいる人々は、私に小説の著作をやめさせるか、あるいは教育的内容のものを書くように忠告までしていると聞こえてくる。このところ色々な事がごたごたと入り乱れ、黒雲が覆っているようだ。
不思議な事がまた湧き出てきた。東京府下の豪商の松木某という人が、匿名で、月々の会計に不足しない程のお金を私に送ろうと言うのだ。取次いできたのは西村釧之助と弟の小三郎で、二人が協力して樋口家のために尽くそうという。松木は十万の財産のある身分だとのこと。しかしそういっても、訳のないお金をただで受け取れようか。毎月どの位の金額を送ろうかと聞かれて、
「私が著作をした時はそれで生活が出来ます。もし著作が出来ない月があったら、その時は援助を願います。そうすれば老母に対して一日も休まず孝行が出来ますから」
と言って、一月の末に二十円を貰った。
身を棄ててしまったら、世の中の事は何が恐ろしかろうか。松木のやり方も、線雨の態度も、半年もたてばその魂胆ははっきりと分かってくるだろう。貸したいと言うのならお金も借りよう、気にかけてやろうと言うのなら忠告でも何でも受け入れよう。然し、私の心は石ではない。一通の手紙ぐらいで、或は百円のお金ぐらいで、転ばそうと思っても、転ばすことが出来るものではない。)
1月8日
仏詩人ポール・ヴェルレーヌ(51)没
1月9日
衆議院、遼東還付および朝鮮政策に関する内閣弾劾上奏案を否決
1月12日
この日、漱石、子規に宛てて返礼の漢詩と俳句「東風や吹く待つとし聞かば今帰り来ん」を手紙に添える。
この頃 漱石の旺盛な句作。
「月末二十八日には、・・・・・「子規への句稿十、四十九句」、つづいて翌日も「句稿十一、二十句」と送り、さらに、三月には「十二、百二句。十三、二十七句。十四、四十句」と子規へ送り、句作旺盛である。漱石が松山で子規に送った句数は六百三十四句を数える。子規はこれらの句稿に評を加え、「海南新聞」、「日本」、「小日本」などに掲載している。漱石にとって、まさに子規は俳句革新の先達である。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))
1月13日
子規『従軍紀事』(『日本』7回連載~19日)。従軍記者に対する軍の対応の仕方を「台南生」という筆名で批判。
「・・・・・『従軍紀事』は、「軍人は規律の厳粛称呼の整正を以て自ら任ず、而して新聞記者を呼で新聞屋々々々といふ。新聞記者亦唯々として其前に拝伏す。軍人は自ら主人の如く思ひ従軍記者は自ら厄介者の如く感ず」と・・・・・従軍記者に対する軍の不当な扱いに対する生々しい記録となっている。
たとえば従軍記者団が乗り込んだ海城丸の船中で「一人の曹長」から「牛頭馬頭の鬼どもが餓鬼を叱る」ような調子で、船室内の居場所を縮めろと命令され、「詰める事が出来んやうならこゝを出て行け」と言われたことに対する従軍記者団の反応は、次のように記されている。
船に乗っているのだから出て行く先はないのであり、曹長の言うことは理不尽なのだが、「主人」と「厄介者」という権力的関係性においては、どんな理不尽なことでも受け入れざるをえなくなる。「ばかばかしさと恐ろしさ」という異質な二つの感情に二重に抑圧された瞬間、人間が人間として生きることを停止させられてしまうことが、「息を殺してひそみ居りぬ」という表現によって明らかにされている。
従軍記者団は金州に上陸してからも、待遇をめぐって軍との軋轢を繰り返す。子規は同行の「神官僧侶」たちに比べ、自分達の「取扱」が「不公平」だと「管理部長」に直接訴えた。しかし、「管理部長」は「あの人等は教正とか何とか言つて先づ奏任官のやうなものだ君等は無位無官ぢや無いか無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方が無い」と言われてしまう。・・・・・「此時吾は帰国せんと決心せり」と子規は書きつけている。
新聞というメディアが、戦争を遂行している国にとって、きわめて重要な役割を担っていても、その記事を書く新聞記者の社会的な評価はきわめて低いという現実を、「新聞屋」としての子規は目の当たりにし、心身で感じとったのであった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
1月15日
英仏、シャム王国の独立・領土保全同意。英仏条約調印。
1月16日
漱石の子規宛ての手紙。
「その後御病勢如何なるべく書状を見合せられたし。小生依例(れいによつて)如例(れいのごとく)日々東京へ帰りたくなるのみ。・・・・・」
つづく
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