2021年1月31日日曜日

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で河上肇「味噌」を読む 2021-01-31

 1月31日(日)、はれ

ふとしたきっかけで茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)を読んだ。

冒頭、谷川俊太郎の詩集『二十億光年の孤独』から「かなしみ」がある。


あの青い空の波の音が聞えるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい


そして、少し進むと吉野弘が出て来る。

僕らの頃の高校の教科書には谷川俊太郎だったが、その後は吉野弘と聞いている(「夕日」だったか)。ジュニア新書としての導入口としては最適。

そして石垣りんや金子光晴と続き、最後のあたりで河上肇さんが出て来る。河上肇さんの漢詩は知っていたが、詩も作ってたのかと少し驚いた。本書では、河上肇さんの詩は三篇紹介されているが、「味噌」が紹介されている箇所を、以下引用。


河上肇(一八七九 - 一九四六年)は経済学者でしたが、名文家としても知られています。京大教授の席を追われ、戦前の左翼の地下活動、検挙、五年近くの獄中生活、出獄、敗戦の翌年死亡という、波乱に富んだ生涯は『貧乏物語』『自叙伝』にくわしく、かつては、学問好きの若者にとって必読の書であった時代がありました。権力に屈しなかった、ひたすらな学問追究の態度、当然おそってきた悲惨な生活、それに耐え、最後まで人間らしい豊かな感性を失なわなかった人柄は、多くの人を惹きつけてやまないものがあります。

詩、短歌、漢詩も書いていて、ノートに整理されてあったそれらを集め、没後『河上肇詩集』一巻として出版されました。「河上肇の詩はいいですねえ、大好きです」と言うと、「河上肇? 経済学者の? 詩も書いたんですか?」とびっくりされるので、そんなに知られていないことだったがと、今度はこちらがびっくり。

(略)

『河上肇詩集』をよむとき、こちらを打ってくるのは、その性格のまっ正直さ、無邪気さ、ほほえましさです。ほほえましいといえば、一つの詩、一つの短歌を何度も手直しし、同じテーマを反復しているところがたくさんありますが、私の考えでは、一番最初のものが一番いいという結果になっていて、河上肇博士には失礼ですが、推敲すればするほどまずくなってゆきます。自分でもどれがいいやら皆目わからなくなったと書いているところがあって、吹き出してしまいました。

素人っぽさを残している反面、志の高さはなみの詩人より、はるかに上を行っています。漢詩の教養が深い人だったので、「詩は志なり」という、中国の古代からの詩観が抜きがたくあり、そしてまたその生きかたも、妥協を排し、マルクス経済学者としての信念を貫いた生涯であってみれば、当然、詩も、おおかたとは別種の香気を放たずにはいないでしょう。


味 噌       河上 肇

関常の店へ 臨時配給の

正月の味噌もらひに行きければ

店のかみさん

帳面の名とわが顔とを見くらべて

そばのあるじに何かささやきつ

「奥さんはまだおるすどすかや

お困りどすやろ」

などとおせ辞去ひながら

あとにつらなる客たちに遠慮してか

まけときやすとも何んとも云はで

ただわれに定量の倍額をくれけり

人並はづれて味噌たしなむわれ

こころに喜び勇みつつ

小桶さげて店を出で

廻り道して花屋に立ち寄り

白菊一本

三十銭といふを買ひ求め

せなをこごめて早足に

曇りがちなる寒空の

吉田大路を刻みつつ

かはたれどきのせまる頃

ひとりゐのすみかをさして帰りけり

帰りてみれば 机べの

火鉢にかけし里芋の

はや軟かく煮えてあり

ふるさとのわがやのせどの芋ぞとて

送り越したる赤芋の

大きなるがはや煮えてあり

持ち帰りたる白味噌に

僅かばかりの砂糖まぜ

芋にかけて煮て食(た)うぶ

どろどろにとけし熱き芋

ほかほかと湯気たてて

美味これに加ふるなく

うまし、うましとひとりごち

けふの夕餉を終へにつつ

この清貧の身を顧みて

わが残生のかくばかり

めぐみ豊けきを喜べり

ひとりみづから喜ベリ

     --『河上肇詩集』

一九四四(昭和十九)年の元旦の作です。

冬になると「味噌」という詩を思い出し、この通りに里芋を煮てみたりします。今は砂糖も味噌も、分量はおもいのまま、柚子をきざんで散らしたりして、おいしい一品ができあがります。

材料の仕入れから、料理順序までを詩にしている例はめずらしいのですが、物が乏しくすべてが配給だったせいで、一つ一つをそれはそれは大事に扱っていて、それが一篇の詩を成立させています。

関常(かんつね)という味噌屋のおかみさんが、こっそり倍の味噌をくれる風景も、当時をほーふつとさせ、そのおかげで、この店の名は記憶に値するものとなりました。「顔」がきかなければ、汽車の切符もろくに買えないような時代でしたが、作者は見返り品ひとつない政治犯としての、惨憺たる佗びずまいであったのに、庶民からも敬し、愛される何かをもっていた人のようです。

三十銭で買った一本の白菊。

「清福」という言葉、その内容を、これほどしみじみ悟らせてくれる詩もありません。


この「関常」さんという味噌屋さん、どうなったんだろうとググったら、どうやら2000年の初めまでは下(↓)の看板を掲げていたとのこと。


なお、河上肇さんはこの詩を書いた2年後の1946年1月30日(あ、昨日が命日だった)に66歳で亡くなられた。

お墓は法然院にあり、何度か訪れたことがある。

京都 法然院 河上肇夫妻の墓

京都 哲学の道を通って法然院へ 河上肇さんのお墓に参る 2016-01-01

《河上肇関連記事》

泥棒にも響いた伯父の正義感 河上肇のおい 河上荘吾さん(88) (『朝日新聞』2017-06-14)

河上肇「貧乏物語」100年 : 読売新聞 ; 「なぜ、100年前の著作が“熱い”ままなのか」 「生存はできても、社会的生活を送れない貧困層を科学的分析に基づいて明らかにした河上の指摘は残念ながら今も“新しい”というわけだ。」 / 安倍晋三「デフレでない状況 景気回復できてる」 「世界の真ん中で輝く日本を」 ← どこに目が付いてんのか? / 消費不振の長期化(15ケ月連続減少);「その大きな要因の一つには賃金の伸び悩みがある」

書評『現代貧乏物語』橋本健二著 ; 「河上肇は当時最先端の経済学者ですが、単に研究成果を発表するためにこの本を書いたのではなく、『貧困は悪』ということを人々に理解させ、世を動かし、貧困を根絶しようとした。」 「貧困を克服するためにまず必要なことは『貧困はあってはならない』という合意の形成。『機会の平等』論、『自己責任』論など格差拡大を正当化する考え方を論破し、最低賃金の引き上げ、富裕層への課税強化を提案する。」(中日新聞12/11)

〈年表〉明治38年(1905)10月1日 「文科大学学生生活」(著者XY生=正宗白鳥、今古堂書店)発行 漱石と柳村(上田敏) 『社会主義評論』(河上肇 「読売新聞」連載)と河上肇の煩悶


《茨木のり子関連記事》

詩人茨木のり子の年譜(8) 1976(昭和51)50歳 韓国語を習い始める 1977年 第五詩集『自分の感受性くらい』 1978年 「はたちが敗戦」 ~ 1979(昭54)53歳 「いちど視たもの」 『詩のこころを読む』

で、以下により暫くの間、茨木のり子を読み直す。








 


日曜討論(1/31) 自民下村博文(政調会長)のフテクサレ顔。しれっとウソついたけど、田村智子に速攻バラされた。

マナウスでは、半年前までに75%の住民が罹患し、集団免疫が得られたと考えられていましたが、集団免疫は全く形成されていませんでした。 現在生じている大規模エピデミックの感染者の2/3が変異株です。

コンサル契約への関与聴取 仏予審判事、竹田前JOC会長に 東京地検の協力批判(毎日) / 日本の捜査協力は限定的、と仏側 招致疑惑で竹田氏聴取内容が判明(共同)

2021年1月30日土曜日

自宅周辺散歩 富士山 熱海桜とメジロ 紅梅 枝垂れ梅 2021-01-30

1月30日(土)、はれ

今日は久しぶりに自宅周辺を散歩。

朝から富士山がクリヤーに見えたので、富士山ビューポイントを出発点に、梅や桜の開花状況を見てきた。梅はほぼ予想通りに咲いていたが、河津桜が咲き始め、熱海桜はもうかなりの花を付けていた。(河津桜の写真は割愛)

駅前の白旗神社の枝垂れ梅もかなり開花していた。

熱海桜と枝垂れ梅のところでメジロと遭遇した。この頃って、メジロ、まだペアではないのかな? 2ヶ所とも単独メジロだった。

総歩数は1万2千歩。



▼熱海桜





▼白旗神社の枝垂れ梅


また自分たちだけ…自民党全職員PCR検査にドン引きと非難轟々(女性自身) / 自民党が党本部の全職員にPCR検査 1人陽性判明 / なぜ「自民党本部全職員PCR検査」は大ブーイングを浴びたのか(毎日) / 二階幹事長が自民党全職員のPCR検査実施指示…ネット上は大荒れ「上級国民の集まりか!」;「国民には『PCR検査は正確ではない』とか説明しといて、自分たちが危険に晒されるとすぐ検査するのか」「無症状で即入院した石原伸晃といい、自民党は上級国民の集まりなんですかね」 / 「ここで「全国民にPCRを」といわず身内にことしか考えないのが自民党」      

 



 

2021年1月29日金曜日

鎌倉 由比ガ浜の松原庵でランチ 由比ガ浜と坂ノ下海岸 2021-01-29

 1月29日(金)、はれ

今日は、由比ガ浜の松原庵というお店でランチしたあと、

由比ガ浜~坂ノ下海岸~長谷~鶴岡八幡宮~鎌倉駅のルートを歩いた。

総歩数は1万7千歩。

松原庵さんは、食べログスコア3.76とのことだったが、この時節なので予約なしで行った。

結果的には早めに到着したのですんなり入店できたが、帰り際にみたところ数人が入店待ちしていた。予約は絶対必要。

お味もお店の雰囲気もスタッフの身のこなしもグゥでした。





▼坂ノ下海岸と由比ガ浜
水際のリフレクションがいい



森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ4)「子規は最後まで明晰だった。下痢が激しくなり、衰弱が甚だしく、病みに絶叫し、モルヒネも効かず、浮腫で足は仁王の足のように膨れても、ただ、生きていた。 「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(六月二日)。この感懐は胸にこたえる。」     

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ3)「子規は泣いた。「此夜頭脳不穏頻りに泣いて已まず」。日本の男は泣かないのを以て身上とする。また泣いてもこのように記録したりはしない。子規は明治日本の立身出世の道を断たれたから、男子の面目を忘れて素直に泣けたのではなかろうか。そして泣くことは慰安となった。十月二十九日で「仰臥漫録」はいったん途絶する。」

より続く

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ4)

二十六 へちま咲く 明治三十五年


最後の年、明治三十五(一九〇二)年となる。年を越すとは誰にとっても意外だった。碧梧桐夫妻は看護のため子規庵に近い上根岸町七十四番地に転居した。


(略)


正月以来、子規の容態は一進一退となり、いつ死が訪れてもおかしくなかった。ふたたびめぐり来る春に会えたうれしさ。絶望的な状況でも「うれしい」という子規。門人たちは三日に一回の看護のローテーションを決め、左千夫、虚子、碧梧桐が詰めた。これにのち、秀真、(森田)義郎、鼠骨も加わる。鼠骨が一番、介護がうまいと子規は記す。話は面白いし、癇に障ることを言わなかった。

伝染する病気の子規を皆が嫌がらずにそばにいた。・・・・・

(略)

月十日より「仰臥漫録」再開。

「此日始めて腹部の穴を見て驚く 穴というは小き穴と思いしにがらんど也 心持悪くなりて泣く」。この頃、苦痛に対しては麻痺剤(モルヒネ)を用いるようになっていた。前年にはあれほど、つくつくばうしやフクロウの鳴き声に敏感に反応していた子規が、三月二十日、飼っていたカナリアの声が気に障るとして、碧梧桐に譲った。

三月末に、碧梧桐一家が律を誘い、赤羽根(今の赤羽)につくしを摘みに行き、戻って楽しげに袴を取り、語るのを兄の子規はうれしく眺めた。その前に、左千夫が紅梅の下につくしを植えた盆栽を送ってきていた。


くれなゐの梅ちるなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ


碧梧桐夫妻は次の日曜には母八重を向島の花見に誘っている。門人たちはいつまで続くかわからない介護の家族を慰めることも忘れなかった。


「病牀六尺」は明治三十五(一九〇二)年五月五日、端午の節句に始まっている。「日本」に掲載されることが子規のいのちの証しであり、喜びであった。「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない」(五月五日)(全集⑪「病牀六尺」)

臨場感に溢れる、触覚の感じられる文章である。こちらは虚子などが口述筆記をしたようだ。

「五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であって此日は毎年の例によって雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であったので」とつけて、


鶯も老(おい)て根岸の祭かな

氏祭これより根岸蚊の多き


などを詠んだ。

(略)


子規は「自分の見た事のないもので、一寸見たいと思う物」として活動写真、自転車の競争及び曲乗、動物園の獅子及び駝鳥、浅草水族館、浅草花屋敷の狒々(ひひ)及び獺(かわうそ)、見附の取除け跡、丸の内の楠公の像、自働電話及び紅色郵便箱、ビヤホール、女剣舞及び洋式演劇、鰕茶袴(えびちやばかま)の運動会、などを列挙する(五月二十六日)。鰕茶袴とは女子学生のことである。

六月ころ、子規は絵を描くのも好きだったが、彩色本を枕もとに置いてそれを広げるのを無上の楽しみとした。渡辺南岳の「艸花画巻」などは乞いに乞うて、ついにわがものとした。「朝に夕に、日に幾度となくあげては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるような心地がする」(八月三十一日)

七月十一日には「根岸近況数件」として、「田圃に建家の殖えたる事」「笹の雪横町に美しき氷店出来の事」「某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事」「御行松のほとり御手軽御料理屋出来の事」など数件どころか十三件もの報告がある。「草庵の松葉菊、美人蕪等今を盛りと花さきて、庵主の病よろしからざる事」と結ばれている。ここでも鶴の声という音に愛着を持っていたことが知れる。

この頃、「病牀六尺」には女の教育の事を繰り返し書いている。家の女どもは家事に勤しむが、介護は甚だ気がきかない、という不満だった。「病人の看護と庭の掃除とどっちが急務であるかという事さえ、無教育の家族にはわからんのである」。だから女子にも教育は必要だ。具体的経験に発して、普遍的な結論を導き出す。自分の不平もあからさまに随筆のタネにするのも子規の特徴である。

飯を炊くのに無駄な手数がかかるので、「飯炊会社」を起こしたらよかろう、という説に賛成している。「飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、余程飯は甘美(うま)く喰える訳である。病人のある内ならば病牀について居って面白き話をするとか、聞きたいというものを読んで聞かせるとかする方が余程気が利いて居る」(七月二十四日)。一軒一軒で米を研ぎ、炊くのは無駄だろうという。「仰臥漫録」にも富貴の人の残飯を貧民に回したらどうか、とも書いている。こうした家事には当時の男性は関心を持たなかった。家に一日寝ている子規ならではの言である。いずれも宅配食事サービスや賞味期限切れの食品の再活用など、百年後を見すえたような予見力である。

「『病牀六尺』が百に満ちた」。八月二十日、子規はそう書いた。これがいつまで続くだろうか。当時は郵便送稿だから毎日宛先を善くのが面倒だ。そういうと「日本」新聞社は宛先を印刷した状袋(封筒)を三百枚刷ってくれた。そんな先までは覚束ない。しかしもう百回は越えた。「半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであろうか」


くれなゐの、旗うごかして、夕凪の、吹き入るなへに、

白きもの、ゆらゆらゆらく、立つは誰、ゆらくは何ぞ、

かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔


向島からひと鉢の白い花がもたらされた。夜会草とあるが、一名夕顔。その真っ白で大きな花を眺め、子規は最後の長歌を作る (九月五日)。

子規は最後まで明晰だった。下痢が激しくなり、衰弱が甚だしく、病みに絶叫し、モルヒネも効かず、浮腫で足は仁王の足のように膨れても、ただ、生きていた。

「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(六月二日)。この感懐は胸にこたえる。


つづく




2021年1月28日木曜日

官房機密費 小池晃(参院予算委1/28動画) 小池議員 「菅官房長官時代の官房機密費は総額95億円。そのうち官房長官本人に支出された額は86億8000万円」 菅首相 「厳正で効果的な執行となっている」 小池議員「毎年11億円。学術会議に対する支出よりあなた一人に対する支出の方が多い」 / 国民には自助を求めながら、あなたは公助にどっぷりつかってたんじゃないですか、と小池晃議員。 何に使ったのかと問われるも、菅首相が答弁に立たず、加藤官房長官が形式的な答弁 / 官房機密費、菅内閣で5億円 加藤長官「説明は控える」(朝日)←説明しなさい! だってコレ税金ですよ!          

-------------------- ------------------------------ --------------------------



 

スクープ! 「ワクチン供給が半年遅れ」の惨憺/河野担当相は「和泉・大坪カップル」の尻ぬぐいか(FACTA); ワクチン供給交渉を統括してきたのは菅首相の№1側近とされる和泉洋人首相補佐官と厚労省の大坪寛子官房審議官という「コネクトルーム」の破廉恥カップル.....

------------------- ▼もうこの人たち、ダメだわ!

経団連会長、日本の賃金「OECDで相当下位」 春季交渉(日経); 経団連の中西宏明会長が「日本の賃金水準がいつの間にか経済協力開発機構(OECD)の中で相当下位になっている」と発言したらしいが、儲かっているのに内部留保ばかり溜め込んで労働者の賃金に回さなかったからこうなった。「いつの間にか」はないだろう。



 

日本の首相の言葉はどうして心に響かないのか?……「密室トーク」を重ねて首相に上り詰めた途端、国民との直接対話のコミュニケーションを求められる(冷泉彰彦)— ニューズウィーク日本版

【まだ”自助”を言うんですか】 菅首相「最終的には生活保護ある」コロナでの困窮問われ / 「首相の『公助』は、生活保護なのか」 立憲・石橋議員 / 菅首相「最終的に生活保護がある」で「#もういらないだろ自民党」がトレンド入り「国会議員の給料は満額のままで…」 / 菅首相「最終的には生活保護がある」は何が問題か あまりに受けにくく自死に追い込む日本の生活保護制度(藤田孝典)      

 

------------------



 

2021年1月27日水曜日

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ3)「子規は泣いた。「此夜頭脳不穏頻りに泣いて已まず」。日本の男は泣かないのを以て身上とする。また泣いてもこのように記録したりはしない。子規は明治日本の立身出世の道を断たれたから、男子の面目を忘れて素直に泣けたのではなかろうか。そして泣くことは慰安となった。十月二十九日で「仰臥漫録」はいったん途絶する。」

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)「正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。.....いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で.....。(略)子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。」

より続く

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ3)

明治三十四(一九〇一)年七月二日、新聞「日本」への連載「墨汁一滴」が終了。

九月初めから「仰臥漫録」を書き始めた。発表を期した「墨汁一滴」と異なり、生活記録であり、飾りも何も捨てた絶叫である。これを後に「ホトトギス」に掲載したいとして虚子は叱られたらしい。

食い、寝る、出す。その繰り返し。それをそのまま書きつける。

食欲がなく、人が来ない日もあった。


菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も来ずくらしかねつも


そんな気分であった。しかし友人弟子は「ヒマナラスグコイ」などという無体な電報も嫌がらず、柿、ぶどう、りんご、梨、バナナ、レモン、マルメロ、鶏肉のたたき、鮭一匹などを土産に携えてやってきた。食べることしか楽しみはないことを知っていたのである。長塚節は鴫を三羽、虚子は小海老の佃煮など各種の口福を送り届けた。女家族も外出すれば、妹の律はパイナップルの缶詰と索麺を、母八重は下谷広徳寺前で焼き栗と罌粟(けし)や石竹の種を、子規を喜ばせようと買ってきた。広徳寺は樋口一葉も行った民間信仰の縁日があるところで、根岸からは歩いても近い。八重もたまには気晴らしをたのであろう。

(略)


九月二日の食事。

「朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干砂糖つけ

昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮

夕 奈良茶飯四碗、なまり節煮て少し生にても 茄子一皿

此頃食い過ぎて食後いつも吐きかえす

二時過牛乳一合ココア交て

煎餅菓子パンなど十個許

昼飯後梨二つ

夕飯後梨一つ」(全集⑪「仰臥漫録」)

健康な男子でも多すぎるが、これを末期の食べ過ぎというのは気の毒である。しかしよく胃と腸が悲鳴をあげなあったものだ。九月四日、子規は芋坂の羽二重団子を律に買わせにやった。

翌九月五日には「午前 陸妻君巴さんとおしまさんとをつれて来る 陸氏の持帰りたる朝鮮少女の服を巴さんに着せて見せんとなり」。

子規はその姿を写生し、「芙蓉よりも朝顔よりもうつくしく」と書き込んでいる。羯南の娘たちは、門人たちとは別にどれだけ子規を慰め得たか。

九月二十五日、「ひぐらしの声は疾くより聞かず つくつくばうしは此頃聞えずなりぬ 本膳の御馳走食うて見たし 夕方梟(ふくろう)御院殿の方に鳴く ガチヤガチヤ庭前にてやかましく鳴く 此虫秋の初めは上野の崖の下と思うあたりにてさわがしく鳴き其後次第次第に近より来ること毎年同じこと也」

(略)

子規の耳の鋭敏さといえば、「家人屋外にあるを大声にて呼べど応えず」とある(九月二十六日)。お前が屋外で低音で話すのは病床にいて聞えるのに、どうして俺が大声で呼んでも聞こえないんだ、と子規は律を叱った。子規は寝てるだけ、律は家事をしている。注意力にも差がある。そのたびに子規は癇癪を起こし、やけ食いをして腹が張る。しかし自分が生かされているのは、この妹の世話によるものなのだ。あとで反省して「午後家庭団欒会を開く」。陸家から秋の彼岸に貰ったおはぎを三人で食べた。

「浄名院(上野の律院)に出入る人多く皆糸瓜を携えたりとの話、糸瓜は咳の薬に利くとかにてお咒(まじない)でもしてもらうならん 蓋(けだ)し八月十五日に限る也」(九月二十七日)

(略)

子規の体に穴があいて膿が出た。歯茎からも膿が出て、子規は逆上した。        

「前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず 此日繃帯とりかえのとき号泣多時、いう腐敗したる部分の皮がガーゼに附著したるなりと 背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず」(十月七日)

十月十三日、この日は大雨が恐ろしく降った。律は風呂に行くと言って出て行った。

「母は黙って枕元に坐って居られる 余は俄に精神が変になって来た 『さあたまらんたまらん』『どうしようどうしよう』と苦しがって少し煩悶を始める ・・・母は『しかたがない』と静かな言葉」

子規は苦しいだろう。しかし「しかたがない」としか言えぬ八重も苦しいにちがいない。自分が腹を痛めて産んだ子が目の前でのたうちまわっている。

しかし既に寝付いて数年になる。介護に振り回される母は既に息子の定業を見据えている。明日死ぬかもわからないが、看病が続くかもしれない。どこまで続くぬかるみぞ。「しかたがない」という言葉より他はなかった。

子規は誰かに来てほしかった。母に頼んで坂本四方太に電信を送ることにした。「さあ静かになった 此家には余一人となったのである」

長く患う病人は同じことを考える。痛みが伴えばなおさらだ。自分がいるために母妹の暮らしは犠牲になっている。友人弟子たちにも重荷に違いない。自分さえいなければ、と思う。左向きに寝たまま前を見ると硯箱に小刀と千枚通しの錐が見える。「古白曰来」。自殺した古白が来いという。

「さなくとも時々起ろうとする自殺熱はむらむらと起って来た」

小刀で喉元を切るか。錐で心臓に穴を三つ四つあけるか。

「死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさえ堪えきれぬに此上死にそこのうてはと思うのが恐ろしい」。

これも死を思いとどまる人間の共通した心理である。自殺を断念した子規はしゃくりあげて泣き、十五日、こう認めた。

「吾等なくなり候とも葬式の広告など無用に候 家も町も狭き故二三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候」

「戒名というもの用い候事無用に候」

「自然石の石碑はいやな事に候」

「柩の前にて空涙は無用に候 談笑平生の如くあるべく候」

子規は泣いた。「此夜頭脳不穏頻りに泣いて已まず」。日本の男は泣かないのを以て身上とする。また泣いてもこのように記録したりはしない。子規は明治日本の立身出世の道を断たれたから、男子の面目を忘れて素直に泣けたのではなかろうか。そして泣くことは慰安となった。十月二十九日で「仰臥漫録」はいったん途絶する。

十二月十一日、虚子の配慮で子規庵で義太夫会を開く。左千夫、鼠骨、碧梧桐や近所の人三十人ばかりが、あの狭い子規庵に詰めかけた。十二月二十二日、子規が芭蕉より高く評価するようになった十二月蕪村忌を、昨年と同じく道灌山の胞衣(えな)神社で行うが、子規は欠席。


(略)


つづく




12人がコロナ感染 二階派“秘書軍団”が「和歌山カラオケバー会食」(文春オンライン);「鶴保庸介元沖縄北方相(53)の公設秘書2人と、門博文衆院議員(55)の公設秘書が、和歌山市内のカラオケバーで飲酒を伴う会食を行い、新型コロナウイルスに感染」



 

2021年1月26日火曜日

こういうのを「凛」というんだろうな → “選手として賛成、国民として反対” オリンピックへの葛藤(NHK);「アスリートとしてはやりたいです。人としてはやりたくないです」 「命というものは正直、オリンピックよりも大事なものだと思う」 / 五輪はコロナに勝った証しなのか? 山口香さんの違和感(朝日);「国民を置いてきぼりにした前のめりの姿勢は、五輪開催でスポーツ本来の価値を実現するのではなく、政治とか経済とか、別の理由や思惑があるのだろうと冷めた目で見られていると思う」       

 



 

[社説]自粛せずに自粛を求めるな(日経) / 平気でウソをつく松本純議員 クラブホステス同伴? まだある同席2議員の“問題写真”(デイリー新潮) / 公明・遠山氏、キャバクラに政治資金支出(共同1/29) / スガ氏と山口氏が陳謝。但し、「銀座で飲食」を、「銀座を訪問」と姑息に言い換え / 公明党のホープ・遠山清彦前財務副大臣「深夜に銀座高級クラブ」で党から厳重注意(文春);「すでに店のシャッターは下りていたが、遠山氏は人目を忍ぶように裏口に回ると、ビル内のエレベーターを使って店に入った」 / 1人で銀座のクラブ3軒、午後11時までまわる…松本・自民国対委員長代理が謝罪(読売) / 「松本氏は取材に対し、飲酒は午後7時までだったとし、店の要望・陳情を聞くために訪れたと説明」(毎日)←「自分はバレないと思うアホさ以上に、「店の陳情を聞くため」とか「クラブでは飲んでいない」とか誰が信じる?って話をしゃらっと言える図々しさ、不誠実がたまらなくイヤ」(Shoko Egawa)     

 

--------------------------------------- ---------------- ---------------------- --------------------- --------------------------- ------------------------



 

みなとみらいで寿司ランチ 桜木町あたりを散歩 2021-01-26

 1月26日(火)、くもり

今日は、みなとみらいで寿司ランチして、桜木町辺りを散歩、そのあと横浜駅まで歩いた。総歩数は1万5千歩。今月は今日で月の目標値(31万歩)達成。

野毛辺りも歩いてみたが、以前に二度ほど行ったことのある行列のできる焼鳥屋さんには2月7日まで休業の貼り紙。樹木希林さんのご実家は報道通り閉店していた。

横浜へはいつものグランモールと違う道を歩いたが、こちらの方は、素人のワタクシが大丈夫なの?と思う程、新しいビル(ホテル、韓国金星社などなど)が建設中だった。

お昼をしっかり戴いた日の夕食は軽め(サンドイッチなど)。



森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)「正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。.....いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で.....。(略)子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。」   

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ1)「.....子規のこの年九月九日の句がある。 八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声 これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。.....幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。」

より続く

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)

正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。子規はそれ以上書いていないけれども。いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で、上野東照宮では彰義隊の幹部で、足の怪我のため上野戦争の当日、上野に入れなかった本多晋(すすむ)が宮司を務め、長く上野でなくなった同志を弔い、榎本武揚などもよく来たという。

根岸の八石教会は子規の死後、明治の末にこの石毛老人の死去により急速に勢力が衰えた。子規の隣のりっぱな石毛邸もなくなった。そこの人々は茶道をしたり、夜には拍子木を打っていたのだろうか。画家谷文晁の末裔のおけいさんという女性や、木内重四郎の父も教会員だったという。下田は慶応義塾を出て、時事新報記者、その後大阪毎日新聞社の幹部となった。昭和五年刊の『東京と大阪』では、大正期、郊外住宅地としての日暮里渡辺町の形成によって佐竹屋敷あとの信者たちは跡形もなく消えたと述べている。


子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。

もちろん、「墨汁一滴」には病床の絶望を語る言葉もある。

「せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのう今日の我希望なり。・・・・・希望の零となる時期、釈迦は之を涅槃(ねはん)といい耶蘇は之を救いとやいうらん」(一月三十一日)

「背痛み、臀痛み、横腹痛む」(二月三日)。

二月一日、松山中学五友のひとり、竹村鍛(きとう)(黄塔)が肺結核で死去した。神戸病院で病む子規の世話をしてくれた友が先に逝った。

二月七日の『墨汁一滴』は彼が一生の事業として字書編纂を企てていたことを語る。「されど資力無くしては此種の大事業を成就し得ざるを以て彼は字書編纂の約束を以て一時書肆冨山房に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能わず」「我旧師河東静渓先生に五子あり。黄塔は其第三子なり。出でて竹村氏を嗣ぐ。第四子は可全。第五子は碧梧桐。黄塔三子あり皆幼」

まるで墓石の履歴のような文、最後に万斛(ばんこく)の涙がありながら、客観を失っていない。

文体は文語も口語も駆使し自在である。二月十三日、包帯の取り替えの苦病を紛らわすため、新聞か雑誌を読む。

「昔関羽の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであろうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであった。ナアニ今考えて見ると関羽も矢張読書でもって痛さをごまみして居たのに違いない」

これにはあとで読書でなく、囲碁であったと訂正がはいる。

「二月廿八日 暗。朝六時半病牀眠起。家人暖炉を焚く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯を取りかう。粥二碗を啜る。梅の俳句を閲(けみ)す」

この日、子規宅に、左千夫が釜を運び、麓は軸を携え、子規のために初めての懐石料理を整え茶会を催した。


氷解けて水の流るゝ音すなり


毎日毎日、子規は日常と、胸に去来することを忌陣なく「墨汁一滴」に書き続けた。「元老の死にそうで死なぬ不平」もあれば、新聞雑誌の投稿句に剽窃が多いことへの批判もある。六つになる隣の女の子、陸羯南の娘の描いた絵を家の者が持ってきたので筆を加え、合作にして菓子を付けてやったりする。「うれしくてたまらぬ」(三月十四日)。すべての楽しみと自由が奪い去られ残ったのは「飲食の楽と執筆の自由」のみ。

筆は鈍らない。露伴の『二日物語』について「露伴がこんなまずい文章(趣向にあらず)を作ったかと驚いた」と断じ、落合直文の「明星」掲載の歌を批判する。


舞姫が底にうつして絵扇の影見てをるよ加茂の河水


「『見てをるよ』というも少しいかがわしき言葉にて『そうかよ』と悪洒落でもいい度くなるなり」(三月三十一日)。知人でも容赦がない。このころ蓄音機を持ってきたものがあって、初めてレコードを聞いた。一方体調が思うに任せず、左の肺の中では絶えずブツブツいう音が聞こえる。子規は体力尽きて「ホトトギス」の俳句の選者を降板した。

四月二十八日、子規は藤の花の歌十首を掲載。


瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり


この本の冒頭に述べたが、寝ている子規ならではの視線である。

畳といえば、横になる子規が霞返りをうてるようにと、天井からの力綱の他に、畳の縁に麻の輪を取り付けた。来客などあって、包帯の取り替えが行われないと、翌日は膿が大量に流れ出、包帯と一緒に皮膚が剥がれてきた。子規は悲鳴を上げて泣いた。


佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび蓬はんわれならなくに

いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行水んとす


自分に再び春がめぐり来ることはあるまい。子規は花を鳥を虫を雪を季節の区切として生きていた。

五月半ば、「今日は朝から太鼓がドンドンと鳴って居る。根岸のお祭なんである」。三島神社の祭礼、また一つの行事がめぐりくるまで生きていたことの嬉しさ。

五月と六月の「ホトトギス」にはロンドンの漱石からの報告が載った。「倫敦消息」は「子規の病気を慰めんがため」に、子規に向ってのみ書かれたように見える。この頃、子規庵を訪ねれば、苦しい、痛い、の他は死ぬ話ばかりで、伊藤左千夫も閉口した。それでも寂しがりやの子規は、誰も来ない日には「ヒマナラスグコイ」という電報を左千夫や虚子宛に打たせるのであった。

いつのことかわからないが、子規庵で談論風発の後、母のいとこの三並良(みなみはじめ)が、暇乞いをして立ち上がるのを、子規は「良さん、もう少しいておくれよ。お前が帰るとそこが空っぽになるじゃないか」と言った。せっかく集まって楽しい時間を過ごしたのに、一人一人と客が帰っていくのを子規はとても怖がった。あとは八重と律の女二人しか残らない。

六月、根岸の藤寺横町に住んでいた中村不折も、横浜からヨーロッパに旅立った。


つづく



予算委員会議長バーニー。財政調整措置発動!😆 (お前昔批判したじゃないか、との共和党に) 「今日食べるものもない子供や老人を早く救うための措置を批判したいならしたらいい。あなた達が使った時は富裕層への援助でした。私も使います。一般の国民を守るために。」   


《関連記事》

バーニー・サンダース氏が大喜利に / 大統領就任式でのカジュアルな姿がネットで話題 / 「サンダース世代」とは何か? 社会主義者・サンダース氏を若者が支持する理由 / バーニー・サンダース氏の“普段着すぎる”就任式ファッション、チャリティになって人助けへ / サンダース氏のミトンの作り手、一躍有名に 2日で1万3000件の問い合わせ / ネットに溢れるコラージュのピックアップ




【コロナ感染を知らずに自宅で死亡 / 自宅療養中に死亡 増加中】 自宅などで体調悪化し死亡 全国で197人に 年明け以降に急増(NHK) / 自宅などで死亡、75人感染 警察が今月対応した事案(朝日) / コロナ自宅療養中の死者が全国で25人に 最多は東京の8人



《関連記事》

新型コロナ、自宅療養者数3万5千人(共同) / (動画)櫻井充参議院議員 「自宅療養」の大変さを語る

コロナ自宅療養、3万人超す 1週間で1.7倍に急増(共同) / 自宅療養者3万人超 基礎疾患あっても入院できず・・・ / 自宅療養者の死亡相次ぐ 病床逼迫で入院調整難航の高齢者も / コロナ感染の独居80代、6日間入院できず自宅で死亡 京都、病床使用率30%台でも受け入れられず / 療養先選定前の軽症者が死亡 保健所の業務逼迫で決定に遅れ 神奈川県

<新型コロナ>「自宅で次々死ぬのか…」 神奈川県担当者「そうなるかも」と危機感(東京) / 神奈川 医療・保健所逼迫(モーニングショー) ▶️大和市70代男性、陽性判明も保健所逼迫で電話で聞き取り遅れで、自宅で死亡 40歳以上にパルスオキシメーターを貸し出し、自分で健康状態確認(30代までLINE等継続)  ▶️病床逼迫(90.67%)  ▶️ある程度の規模の県内病院350のうち受け入れは100病院 





2021年1月25日月曜日

今季ようやく出現した冠雪富士山 七里ガ浜 稲村ケ崎 鶴岡八幡宮のオオカンザクラ 2021-01-25

 1月25日(月)、はれ

今日は漸く冠雪富士山が出現とのことで、七里ガ浜~稲村ケ崎へ行った。

鎌倉で大巧寺、本覚寺、鶴岡八幡宮にも立ち寄りたかったので、往路の鎌倉~七里ガ浜、帰路の稲村ケ崎~鎌倉は江ノ電を利用した。江ノ電はガラガラ。

今日の総歩数は1万6千歩。

▼七里ガ浜



▼稲村ケ崎
それ程の強風とは思えなかったが、波は高かった。



▼鶴岡八幡宮の大寒桜



【図解】新型コロナ:世界各国のワクチン接種状況;【1月19日 AFP】AFPが日本時間18日午後7時半にまとめた統計によると、世界で接種された新型コロナウイルスのワクチンは4000万本を超えた。 ← 日本の遅れ! 「6月見込み」ではなく「6月目指す」と ← 全くアカンレベルのスガ内閣の政権担当能力  

---------------------------



 

岡本あき子議員(衆院予算委1/25)「(小学生の言葉として)給食の時もコロナ感染症の為におしゃべりも禁止…黙って給食を…一生懸命我慢をしているのに大人はどうして楽しくご飯を食べていいのか…」 / 小6の疑問「大人はどうして楽しくご飯?」に首相の一言(朝日); 首相は「大変申し訳ない思いでいっぱいだ。安心して過ごせるそうした日常を取り戻すことができるように頑張っていきたい」と応じた。(またいつものように、答えずにはぐらかした)     

「Go Toトラベル」感染者増加に影響か 京都大学のグループ発表(NHK);「政府の観光需要の喚起策「Go Toトラベル」が始まった去年7月、旅行に関連した新型コロナウイルスの感染者が増えていて、キャンペーンが当初の段階で影響した可能性があるとする研究論文を京都大学のグループが発表しました。」

------------------------




 

2021年1月24日日曜日

【点描・永田町】不安と不信の「緊急事態再宣言」(時事);「就任4カ月、発信力不足を指摘されてきた首相だけに、年明け以降は連続的にテレビ出演を重ねているが、「出るたびに不信を招く“自滅の刃”」(自民長老)にも見える。現状の「神頼みのような対応」(同)を続ければ、3月にも政権危機に陥りかねないのが実態だ」 ← ”自滅の刃”にザブトン10枚! / 内閣支持率33%に続落、不支持45% 無党派層で急落(朝日)      

 



 

コロナ宿泊療養者の食事について国から予算が手当てされており、一食1500円、一日4500円上限 にも関わらず、大阪では一食300円にも満たないような内容の粗末な食事しか提供されないのはどういう事だろう!? / ネットで他府県と比べて見たら、大阪の見劣りが酷かった.....      

 

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ1)「.....子規のこの年九月九日の句がある。 八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声 これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。.....幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。」   

漱石の略年表作りをボチボチ進めているが、漱石の伴走者として漱石と同年令の子規の足跡も併せて追いかけている。

順不同になってしまうけれど、昨年末よりふとしたことで子規の晩年についてのノートを始めている。

「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ6終)「子規の叔父加藤恒忠(拓川、一八五九-一九二三)は、第四章第三節で述べたように仏学塾に学んだことがある。加藤は、陸羯南・原敬らと司法省法学校の同期で、同校を退学処分になった一八七九(明治一二)年二月直後から八三年フランス遊学に出発するまでの四年間、仏学塾に在塾していたようだ(『拓川集 日記』)。この加藤からの依頼で、陸が子規の面倒をみるようになったのである(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』)。子規は、兆民に対して、多少の思い入れがあったと思われる。」

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)「子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。」

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)「.....子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、.....『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。」 「要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。.....『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。」

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ13終)「紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。.....子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、.....話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は.....父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。」

で、今回からは、森まゆみ著『子規の音』(新潮社)の子規晩年(子規没の前年;明治34年以降)に関わる部分のノートに入る。

まず、本書の全体像を知るために目次を示す。

《目次》

はじめに   

一 松山の人 慶応三年~明治十六年  

二 東京転々 明治十六~十九年  

三 神田界隈 明治二十年  

四 向島月香楼 明治二十一年  

五 本郷常盤会寄宿舎 明治二十二年  

六 ベースボールとつくし採り 明治二十三年  

七 菅笠の旅 明治二十四年  

八 谷中天王寺町二十一番地 明治二十五年

九 下谷区上根岸八十八番地 明治二十五年

十 神田雉子町・日本新聞社 明治二十六年

十一 その人の足あとふめば風薫る 明治二十六年夏 

十二 はて知らずの記 宮城編 明治二十六年夏  

十三 はて知らずの記 仙台・山形編 明治二十六年夏 

十四 はて知らずの記 最上川・秋田編 明治二十六年夏 

十五 「小日本」と中村不折 明治二十七年

十六 根岸農村風景 明治二十七年後半 

十七 日清戦争従軍 明治二十八年  

十八 神戸病院から須磨保養院 明治二十八年夏 

十九 虚子と碧梧桐そして紅緑 明治二十九年 

二十 海嘯 三陸大津波 明治二十九年 

二十一 「ほととぎす」創刊 明治三十年 

二十二 短歌革新 明治三十一年

二十三 隣の女の子 明治三十二年 

二十四 和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男 明治三十三年 

二十五 八石教会 明治三十四年 

二十六 へちま咲く 明治三十五年 

あとがき 

参考文献 


二十五 八石教会 明治三十四年

・・・・・慶応三(一八六七)年生れの子規は明治三十四(一九〇一)年の春を、根岸で数え三十五歳で迎えた。・・・・・明治三十四年は一九〇一年、二十世紀の幕開けの年である。
(略)

元旦には物理学徒寺田寅彦が来た。二日には俳句の弟子、河東碧梧桐が来た。
七日、歌の弟子、岡麓(ふもと)が子規を慰めようと、春の七草を竹の籠に植えてもってきた。この間、年賀状を貰ったり害いたりして子規の時間は過ぎる。
十三日、横腹に疼痛を覚え、長いものが書けないので、一日二十行以内に文言短文を書いて、日本新聞社に送ることにする。これを「墨汁一滴」と題す。この日は輪飾りのことを書いてみた。
翌十四日には岡麓がくれた七草の籠について書いた。芹、薺(なずな)、五行、田平子(たひらこ)、鈴菜(小松菜のたぐいならん)、鈴白(赤蕪)、仏の座のかわりに亀の座とあるのは縁喜物をつくる植木師の心遣いであろう、とある。

あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため

「墨汁一滴」の最初の稿が思ったように一月十五日に掲載されなかったので子規はがっかりした。「何も嫌だ。新聞も読みたくない」と子規はいった。翌十六日より掲載。安堵した。七月二日まで百六十四回続くことになる。十八日の掲載は興味深い。
「此頃根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大槻博士の製作に係り、地理の細精に考証の確実なるのみならず我等根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我等の住みたる処は今鶯横町といえど昔は狸横町といえりとそ」。
(略)
さて、大槻文彦の地図の子規の家の近くに、八石教会と書いてある。四半世紀前から気になっている子規のこの年九月九日の句がある。

八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声

これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。幽学は寛政に生まれ、諸国を流浪して、神道、仏教、儒教を一体とする「性学」を開いた。下総国香取郡長部村の農業振興を頼まれ、日本初の農業協同組合といえる先祖株組合を設立した。幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。
「教会の人はどこに行くにも決して汽車や人力車を用いない。どこまででも徒歩で行く。また髪を決して刈らない。どんな小さな子どもでも皆まげを結っていた。会員は主に農業についていたが、中には大工もあれば左官もあり植木屋もあって、これらの人たちは冬こそその職に忠実に働くが、その収入は全部教会に納めて一銭も私しない。魚は食うが肉は食わない。無論洋傘や外套を用いない。つまり明治になってからの文明は殆ど取り入れていない世にも変わった団体であった」(藤井浩祐「上野近辺」『大東京繁昌記・山手篇』) 
反文明開化路線、アメリカでいうとアーミッシュやシェーカーのようなものであろうか。・・・・・
藤井浩祐は東京美術学校を出た彫刻家で、帝国美術院会員になったが、今では忘れられた。若いころは日暮里に住んでいた。同じくジャーナリストの下田将美も子供の頃見た八石教会について書いている。長いので要約したい。
創始者は遠藤良左衛門(亮規)といって「二宮尊徳そのままの人格者」である。下総の長部村字八石という小さな村に慶応年間、性学八石教会として発祥し、両総(上総、下総)に信者が多かった。「働け働け」「粗衣粗食に甘んじる」「他人のために尽くす」のが主眼で、説教を聞く間も手を動かし、生産物は平等に分けた・・・・・。なんだか引力がある解説だ。
それが東京にも広まって、根岸の「笹乃雪」付近と日暮里の佐竹の下屋敷を中心として明治十四、十五(一八八一、八二)年にはすばらしい勢いになっていた。守旧であっても彼らの平和主義に明治政府は弾圧の手を伸せなかった。佐竹の原は今の道灌山の開成学園のある辺から田端にかけて(現在の荒川区西日暮里四丁目)、ここに信者の家が多く、皆黒い綿服を着、男はちょんまげを結い、女は同じ櫛を付けていた。彼らは熱心に炭団をこね、干していた。それを子どものころ下田将美は珍しいものに眺めた。
根岸には東京の八石教会の取締、石毛源左衛門という長老がいた。
彼が東海道石部の椿の教会支部に出かけるとき、東海道線がすでに通っているのに、山駕籠でいったそうである。
女は髪に真鍮のかんざしに黒檀の櫛と笄(こうがい)を飾り、それは皆池之端の「川しまや」に注文していた。
そこの主人は生粋の江戸っ子で、こう述べていたという。
「何しろ昔風の山駕籠に石毛先生がのってそれをかついでいる人が皆丁髷(ちよんまげ)の黒い綿服に脚絆(きやはん)穿(ば)きなのですからずいぶん人の目にも立つ奇妙な格好なものでした。石毛先生はもういい年でして無論ちょんまげ、懐には、昔を忘れぬ懐剣が何か一本ぶち込んでいるのです。・・・・・とにかくかわっていましたな、いったいこの八石教会の人には旧幕時代を憧れた人が多かったようでしたね」(下田将美『東京と大阪』)


つづく