2020年12月2日水曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)「子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。」    

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ16)「いまわのきわにも、律は付き添う鼠骨に、「寒川さん、もう連れて帰ってください。家へ帰って養生しましょ」といいつづけたという。律が頼りにしたのは、加藤家から養子に入って正岡の家を継いだものの、性格のあわない義母を避けるように学校も仙台と京都を選んだ忠三郎ではなく、最期まで鼠骨であった。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)

やがて戦争。

米軍機による大空襲で子規庵が全焼したのは昭和二十年三月十日未明であった。鼠骨の住む家も焼亡したが、大金を投じて頑丈に建てた子規資料のための保存庫だけは焼け残った。しかしすぐに扉を開くと高温の内部に新鮮な空気が供給されて発火する。六日待ってあけてみると内部も無事であった。

焼け出された鼠骨は、その日子規庵そばの書道美術館に移った。それは中村不折旧居である。あの戦闘的なまでに元気のよかった不折も、最後は帝国芸術院会員となって、昭和十八年六月、七十七歳で死んでいた。

昭和二十一年九月、鼠骨は保存庫の前に六畳と三畳だけの簡易住宅を建てる。盗難を心配したのである。子規庵を旧のごとく再建する工事は昭和二十四年九月にはじまり、翌年六月に完成した。その費用は、改造社販『子規選集』六巻の印税からまかなわれた。このとき鼠骨、七十六歳。


昭和二十五年はじめ、正岡忠三郎が鼠骨を訪ねてきた。すでに四十七歳となっていた忠三郎は、『仰臥漫録』ほか、子規の自筆稿が古書市場に流出した事情を質しにきたのである。話合いはこじれ、忠三郎は鼠骨を告訴する。しかし子規の著作権切れまで残すところ一年の昭和二十六年夏、和解に至る。

問題は子規庵再建費用の捻出にあったようだ。・・・・・

ともかく子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。

昭和二十八年早春、もはや自力では歩けない鼠骨は、車に乗せてもらい、子規、八重、律が眠る田端の天竜寺を訪れた。これを最後の外出とした鼠骨が八十歳で死んだのは、昭和二十九年八月十八日であった。

他の子規関係者もつぎつぎ鬼籍に入る。佐藤肋骨は戦中、昭和十九年、七十二歳で死んでいる。昭和戦前に少年小説の大家となった佐藤紅緑は、昭和二十四年、七十五歳で死んだ。・・・・・三井甲之は、昭和二十八年、七十歳で死に、美校教授となり文化勲章を受章した香取秀真は、鼠骨に先立つこと七カ月の昭和二十九年一月、八十歳で死んだ。

それより以前の昭和二十八年九月、折口信夫(釈超空)が六十六歳で死んでいる。死に瀕した折口信夫は、弟子の岡野弘彦に、昭和のはじめ古泉千樫から預った子規自筆本『竹の里歌』を「アララギ」の歌人へ渡すよう遺言した。岡野弘彦は柳田国男と相談のうえ、それを正岡忠三郎に戻した。

その『竹の里歌』は昭和二十九年に岩波書店から刊行される。忠三郎に一冊を献じられた柴田宵曲は、草稿発見までの経緯を明らかにせずにいて、秀真、鼠骨の死を待つように刊行する気持がわかりにくい、と年若い友に語ったという。

子規より一歳年長、松山版「ホトトギス」を創刊した柳原極堂は昭和三十二年十月、九十歳で死に、虚子が昭和三十四年四月、八十五歳で死んで、子規直接の関係者は絶えた。子規没後五十七年である。柴田宵曲は昭和四十一年、六十九歳で死んだ。


司馬遼太郎は昭和四十三年(一九六八)から四十七年にかけて、大作『坂の上の雲」を書いた。・・・・・司馬遼太郎は、明治的時代精神の代表的人物として、明るく多弁で、仕事を自分の命よりも尊重した感のある子規を好んだ。

『坂の上の雲』の仕事を通じて、司馬遼太郎は秋山真之らの子孫や、正岡律の養子に入った正岡忠三郎を知った。

さらに忠三郎の仙台の二高時代の友、西沢隆二(筆名・ぬやまひろし)と知り合い、奇妙な友情を結んだ。忠三郎は養母の律と距離を置きたくて、府立一中四年修了であえて二高へ進み、大学も東大ではなく京大を選んだ。卒業後、阪急に就職したのもおなじ理由であった。

西沢隆二は元共産党員、戦前から戦後まで獄中にあった人である。戦後、徳田球一の義理の娘と結婚、党中枢にありながら詩人として知られたが、やがて除名された。

その西沢隆二が、昭和四十四年、『正岡子規全集』の刊行を発想したのは、阪急を退職後、六十七歳のとき卒中に倒れて病床にあった正岡家の継承者である忠三郎の余命があるうちに、子規関係の仕事を残させたいと願ったからである。

西沢隆二は司馬遼太郎に相談した。だが、全集となると生半可な仕事ではない。編集・校訂だけで大事業である。司馬遼太郎は困惑した。しかし、さまざまな偶然が重なった結果、講談社がその事業を引き受けることになった。

全二十二巻別巻三巻と予定された浩瀚な、かつ大正十三年から昭和九年までに合計三度出た子規全集・子規選集の決定版ともいうべき講談社版全集の編集委員は、松山出身で「常盤会寄宿舎」初代監督の子息である服部嘉香、それに久保田正文、和田茂樹、蒲池文雄の四人であった。・・・・・

監修に名を連ねたのは、正岡忠三郎、ぬやまひろし、司馬遼太郎、大岡昇平の四人であった。大岡昇平は、詩人富永太郎の二高時代の親友として正岡忠三郎を知っていたのである。講談社側の責任編集者は松井勲であった。

広汎な資料収集、高度な校訂を経て、これ以上は望めないというレベルに達した講談社版『子規全集』の第一回配本(第十一巻、随筆一)は昭和五十年四月。翌月、編集委員の長老、服部嘉香が八十九歳で他界した。

西沢隆二をとまどわせるほど周到な仕事ぶりをしめした松井勲は、『子規全集』が十四冊まで刊行された昭和五十一年七月二日に早世した。司馬遼太郎と同年生まれの松井勲の没年は五十三であった。そのあとを引き継いだ編集者・駒井昭二は、松井勲が編集者の領域を超えて「研究者の領域に踏み込み」、その完全主義の精神をもって学者を助けた、というよりリードしつつ本をつくっていた、と回想した。

正岡忠三郎が七十四歳で死んだのは松井勲の死の二カ月後、昭和五十一年九月十日であった。西沢隆二は、正岡忠三郎の死の八日後、七十三歳で死んだ。まるで申し合わせたかのようであった。

司馬遼太郎は昭和五十六年、『ひとびとの跫音』という不思議な小説を刊行した。それは、子規関係者のその後の生の営みをえがいた静かな「歴史小説」であった。・・・・・

司馬遼太郎が死んだのは西沢隆二の死の二十年後の平成八年(一九九六)二月、七十二歳であった。


(略)


おわり


次回は、今年9月に刊行されたばかりの

ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』

より、次期晩年の軌跡メモを掲載する予定。




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