2021年1月24日日曜日

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ1)「.....子規のこの年九月九日の句がある。 八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声 これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。.....幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。」   

漱石の略年表作りをボチボチ進めているが、漱石の伴走者として漱石と同年令の子規の足跡も併せて追いかけている。

順不同になってしまうけれど、昨年末よりふとしたことで子規の晩年についてのノートを始めている。

「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ4終)「何度となく、死の淵に立った私は、そのたびに『仰臥漫録』を手に取り、力をもらったと考えている。 そうです、最後の最後に私の杖になり支えてくれているのが、『仰臥漫録』なのです。」

松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ6終)「子規の叔父加藤恒忠(拓川、一八五九-一九二三)は、第四章第三節で述べたように仏学塾に学んだことがある。加藤は、陸羯南・原敬らと司法省法学校の同期で、同校を退学処分になった一八七九(明治一二)年二月直後から八三年フランス遊学に出発するまでの四年間、仏学塾に在塾していたようだ(『拓川集 日記』)。この加藤からの依頼で、陸が子規の面倒をみるようになったのである(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』)。子規は、兆民に対して、多少の思い入れがあったと思われる。」

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ17終)「子規遺品は一度著作権継承者正岡忠三郎のものとなったのち、まとめて国会図書館に寄贈された。ひきつづき保存会の所有となった子規庵は、昭和二十七年十二月、東京都の文化史蹟に指定され、鼠骨没後の維持が約束された。鼠骨の努力は無とならなかったのである。」

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ9)「.....子規の悪口を自分への叱咤激励と心得て、.....『吾輩は猫である』を子規への手紙代わりに、その心の慰めにしよう、と言う。」 「要するに、子規の絶筆の滑稽も、『吾輩は猫である』のそれも、縁つづきだと言いたいのである。.....『吾輩は猫である』は、子規との滑稽を含んだ交際の中から生まれたものだ、と言いたいらしい。俺が作家になっちまったのは、お前のせいだといった口調である。」

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ13終)「紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。.....子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、.....話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は.....父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。」

で、今回からは、森まゆみ著『子規の音』(新潮社)の子規晩年(子規没の前年;明治34年以降)に関わる部分のノートに入る。

まず、本書の全体像を知るために目次を示す。

《目次》

はじめに   

一 松山の人 慶応三年~明治十六年  

二 東京転々 明治十六~十九年  

三 神田界隈 明治二十年  

四 向島月香楼 明治二十一年  

五 本郷常盤会寄宿舎 明治二十二年  

六 ベースボールとつくし採り 明治二十三年  

七 菅笠の旅 明治二十四年  

八 谷中天王寺町二十一番地 明治二十五年

九 下谷区上根岸八十八番地 明治二十五年

十 神田雉子町・日本新聞社 明治二十六年

十一 その人の足あとふめば風薫る 明治二十六年夏 

十二 はて知らずの記 宮城編 明治二十六年夏  

十三 はて知らずの記 仙台・山形編 明治二十六年夏 

十四 はて知らずの記 最上川・秋田編 明治二十六年夏 

十五 「小日本」と中村不折 明治二十七年

十六 根岸農村風景 明治二十七年後半 

十七 日清戦争従軍 明治二十八年  

十八 神戸病院から須磨保養院 明治二十八年夏 

十九 虚子と碧梧桐そして紅緑 明治二十九年 

二十 海嘯 三陸大津波 明治二十九年 

二十一 「ほととぎす」創刊 明治三十年 

二十二 短歌革新 明治三十一年

二十三 隣の女の子 明治三十二年 

二十四 和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男 明治三十三年 

二十五 八石教会 明治三十四年 

二十六 へちま咲く 明治三十五年 

あとがき 

参考文献 


二十五 八石教会 明治三十四年

・・・・・慶応三(一八六七)年生れの子規は明治三十四(一九〇一)年の春を、根岸で数え三十五歳で迎えた。・・・・・明治三十四年は一九〇一年、二十世紀の幕開けの年である。
(略)

元旦には物理学徒寺田寅彦が来た。二日には俳句の弟子、河東碧梧桐が来た。
七日、歌の弟子、岡麓(ふもと)が子規を慰めようと、春の七草を竹の籠に植えてもってきた。この間、年賀状を貰ったり害いたりして子規の時間は過ぎる。
十三日、横腹に疼痛を覚え、長いものが書けないので、一日二十行以内に文言短文を書いて、日本新聞社に送ることにする。これを「墨汁一滴」と題す。この日は輪飾りのことを書いてみた。
翌十四日には岡麓がくれた七草の籠について書いた。芹、薺(なずな)、五行、田平子(たひらこ)、鈴菜(小松菜のたぐいならん)、鈴白(赤蕪)、仏の座のかわりに亀の座とあるのは縁喜物をつくる植木師の心遣いであろう、とある。

あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため

「墨汁一滴」の最初の稿が思ったように一月十五日に掲載されなかったので子規はがっかりした。「何も嫌だ。新聞も読みたくない」と子規はいった。翌十六日より掲載。安堵した。七月二日まで百六十四回続くことになる。十八日の掲載は興味深い。
「此頃根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大槻博士の製作に係り、地理の細精に考証の確実なるのみならず我等根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我等の住みたる処は今鶯横町といえど昔は狸横町といえりとそ」。
(略)
さて、大槻文彦の地図の子規の家の近くに、八石教会と書いてある。四半世紀前から気になっている子規のこの年九月九日の句がある。

八石ノ拍子木嶋ルヤ虫ノ声

これは面白い。八石教会というのは上根岸百二十六番地、子規庵と鶯横町で隔てられた明治の不思議な教団である。幕末の農業思想家、大原幽学の衣鉢を継ぐものという。幽学は寛政に生まれ、諸国を流浪して、神道、仏教、儒教を一体とする「性学」を開いた。下総国香取郡長部村の農業振興を頼まれ、日本初の農業協同組合といえる先祖株組合を設立した。幽学が幕府の弾圧で切腹したのち、同志が金を出しあい設立した。
「教会の人はどこに行くにも決して汽車や人力車を用いない。どこまででも徒歩で行く。また髪を決して刈らない。どんな小さな子どもでも皆まげを結っていた。会員は主に農業についていたが、中には大工もあれば左官もあり植木屋もあって、これらの人たちは冬こそその職に忠実に働くが、その収入は全部教会に納めて一銭も私しない。魚は食うが肉は食わない。無論洋傘や外套を用いない。つまり明治になってからの文明は殆ど取り入れていない世にも変わった団体であった」(藤井浩祐「上野近辺」『大東京繁昌記・山手篇』) 
反文明開化路線、アメリカでいうとアーミッシュやシェーカーのようなものであろうか。・・・・・
藤井浩祐は東京美術学校を出た彫刻家で、帝国美術院会員になったが、今では忘れられた。若いころは日暮里に住んでいた。同じくジャーナリストの下田将美も子供の頃見た八石教会について書いている。長いので要約したい。
創始者は遠藤良左衛門(亮規)といって「二宮尊徳そのままの人格者」である。下総の長部村字八石という小さな村に慶応年間、性学八石教会として発祥し、両総(上総、下総)に信者が多かった。「働け働け」「粗衣粗食に甘んじる」「他人のために尽くす」のが主眼で、説教を聞く間も手を動かし、生産物は平等に分けた・・・・・。なんだか引力がある解説だ。
それが東京にも広まって、根岸の「笹乃雪」付近と日暮里の佐竹の下屋敷を中心として明治十四、十五(一八八一、八二)年にはすばらしい勢いになっていた。守旧であっても彼らの平和主義に明治政府は弾圧の手を伸せなかった。佐竹の原は今の道灌山の開成学園のある辺から田端にかけて(現在の荒川区西日暮里四丁目)、ここに信者の家が多く、皆黒い綿服を着、男はちょんまげを結い、女は同じ櫛を付けていた。彼らは熱心に炭団をこね、干していた。それを子どものころ下田将美は珍しいものに眺めた。
根岸には東京の八石教会の取締、石毛源左衛門という長老がいた。
彼が東海道石部の椿の教会支部に出かけるとき、東海道線がすでに通っているのに、山駕籠でいったそうである。
女は髪に真鍮のかんざしに黒檀の櫛と笄(こうがい)を飾り、それは皆池之端の「川しまや」に注文していた。
そこの主人は生粋の江戸っ子で、こう述べていたという。
「何しろ昔風の山駕籠に石毛先生がのってそれをかついでいる人が皆丁髷(ちよんまげ)の黒い綿服に脚絆(きやはん)穿(ば)きなのですからずいぶん人の目にも立つ奇妙な格好なものでした。石毛先生はもういい年でして無論ちょんまげ、懐には、昔を忘れぬ懐剣が何か一本ぶち込んでいるのです。・・・・・とにかくかわっていましたな、いったいこの八石教会の人には旧幕時代を憧れた人が多かったようでしたね」(下田将美『東京と大阪』)


つづく

0 件のコメント: