2021年1月27日水曜日

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ3)「子規は泣いた。「此夜頭脳不穏頻りに泣いて已まず」。日本の男は泣かないのを以て身上とする。また泣いてもこのように記録したりはしない。子規は明治日本の立身出世の道を断たれたから、男子の面目を忘れて素直に泣けたのではなかろうか。そして泣くことは慰安となった。十月二十九日で「仰臥漫録」はいったん途絶する。」

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)「正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。.....いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で.....。(略)子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。」

より続く

森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ3)

明治三十四(一九〇一)年七月二日、新聞「日本」への連載「墨汁一滴」が終了。

九月初めから「仰臥漫録」を書き始めた。発表を期した「墨汁一滴」と異なり、生活記録であり、飾りも何も捨てた絶叫である。これを後に「ホトトギス」に掲載したいとして虚子は叱られたらしい。

食い、寝る、出す。その繰り返し。それをそのまま書きつける。

食欲がなく、人が来ない日もあった。


菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も来ずくらしかねつも


そんな気分であった。しかし友人弟子は「ヒマナラスグコイ」などという無体な電報も嫌がらず、柿、ぶどう、りんご、梨、バナナ、レモン、マルメロ、鶏肉のたたき、鮭一匹などを土産に携えてやってきた。食べることしか楽しみはないことを知っていたのである。長塚節は鴫を三羽、虚子は小海老の佃煮など各種の口福を送り届けた。女家族も外出すれば、妹の律はパイナップルの缶詰と索麺を、母八重は下谷広徳寺前で焼き栗と罌粟(けし)や石竹の種を、子規を喜ばせようと買ってきた。広徳寺は樋口一葉も行った民間信仰の縁日があるところで、根岸からは歩いても近い。八重もたまには気晴らしをたのであろう。

(略)


九月二日の食事。

「朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干砂糖つけ

昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮

夕 奈良茶飯四碗、なまり節煮て少し生にても 茄子一皿

此頃食い過ぎて食後いつも吐きかえす

二時過牛乳一合ココア交て

煎餅菓子パンなど十個許

昼飯後梨二つ

夕飯後梨一つ」(全集⑪「仰臥漫録」)

健康な男子でも多すぎるが、これを末期の食べ過ぎというのは気の毒である。しかしよく胃と腸が悲鳴をあげなあったものだ。九月四日、子規は芋坂の羽二重団子を律に買わせにやった。

翌九月五日には「午前 陸妻君巴さんとおしまさんとをつれて来る 陸氏の持帰りたる朝鮮少女の服を巴さんに着せて見せんとなり」。

子規はその姿を写生し、「芙蓉よりも朝顔よりもうつくしく」と書き込んでいる。羯南の娘たちは、門人たちとは別にどれだけ子規を慰め得たか。

九月二十五日、「ひぐらしの声は疾くより聞かず つくつくばうしは此頃聞えずなりぬ 本膳の御馳走食うて見たし 夕方梟(ふくろう)御院殿の方に鳴く ガチヤガチヤ庭前にてやかましく鳴く 此虫秋の初めは上野の崖の下と思うあたりにてさわがしく鳴き其後次第次第に近より来ること毎年同じこと也」

(略)

子規の耳の鋭敏さといえば、「家人屋外にあるを大声にて呼べど応えず」とある(九月二十六日)。お前が屋外で低音で話すのは病床にいて聞えるのに、どうして俺が大声で呼んでも聞こえないんだ、と子規は律を叱った。子規は寝てるだけ、律は家事をしている。注意力にも差がある。そのたびに子規は癇癪を起こし、やけ食いをして腹が張る。しかし自分が生かされているのは、この妹の世話によるものなのだ。あとで反省して「午後家庭団欒会を開く」。陸家から秋の彼岸に貰ったおはぎを三人で食べた。

「浄名院(上野の律院)に出入る人多く皆糸瓜を携えたりとの話、糸瓜は咳の薬に利くとかにてお咒(まじない)でもしてもらうならん 蓋(けだ)し八月十五日に限る也」(九月二十七日)

(略)

子規の体に穴があいて膿が出た。歯茎からも膿が出て、子規は逆上した。        

「前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず 此日繃帯とりかえのとき号泣多時、いう腐敗したる部分の皮がガーゼに附著したるなりと 背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず」(十月七日)

十月十三日、この日は大雨が恐ろしく降った。律は風呂に行くと言って出て行った。

「母は黙って枕元に坐って居られる 余は俄に精神が変になって来た 『さあたまらんたまらん』『どうしようどうしよう』と苦しがって少し煩悶を始める ・・・母は『しかたがない』と静かな言葉」

子規は苦しいだろう。しかし「しかたがない」としか言えぬ八重も苦しいにちがいない。自分が腹を痛めて産んだ子が目の前でのたうちまわっている。

しかし既に寝付いて数年になる。介護に振り回される母は既に息子の定業を見据えている。明日死ぬかもわからないが、看病が続くかもしれない。どこまで続くぬかるみぞ。「しかたがない」という言葉より他はなかった。

子規は誰かに来てほしかった。母に頼んで坂本四方太に電信を送ることにした。「さあ静かになった 此家には余一人となったのである」

長く患う病人は同じことを考える。痛みが伴えばなおさらだ。自分がいるために母妹の暮らしは犠牲になっている。友人弟子たちにも重荷に違いない。自分さえいなければ、と思う。左向きに寝たまま前を見ると硯箱に小刀と千枚通しの錐が見える。「古白曰来」。自殺した古白が来いという。

「さなくとも時々起ろうとする自殺熱はむらむらと起って来た」

小刀で喉元を切るか。錐で心臓に穴を三つ四つあけるか。

「死は恐ろしくはないのであるが苦(くるしみ)が恐ろしいのだ 病苦でさえ堪えきれぬに此上死にそこのうてはと思うのが恐ろしい」。

これも死を思いとどまる人間の共通した心理である。自殺を断念した子規はしゃくりあげて泣き、十五日、こう認めた。

「吾等なくなり候とも葬式の広告など無用に候 家も町も狭き故二三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候」

「戒名というもの用い候事無用に候」

「自然石の石碑はいやな事に候」

「柩の前にて空涙は無用に候 談笑平生の如くあるべく候」

子規は泣いた。「此夜頭脳不穏頻りに泣いて已まず」。日本の男は泣かないのを以て身上とする。また泣いてもこのように記録したりはしない。子規は明治日本の立身出世の道を断たれたから、男子の面目を忘れて素直に泣けたのではなかろうか。そして泣くことは慰安となった。十月二十九日で「仰臥漫録」はいったん途絶する。

十二月十一日、虚子の配慮で子規庵で義太夫会を開く。左千夫、鼠骨、碧梧桐や近所の人三十人ばかりが、あの狭い子規庵に詰めかけた。十二月二十二日、子規が芭蕉より高く評価するようになった十二月蕪村忌を、昨年と同じく道灌山の胞衣(えな)神社で行うが、子規は欠席。


(略)


つづく




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