より続く
森まゆみ『子規の音』(明治34年以降)(メモ2)
正岡子規が根岸にいた時分、道を挟んで隣に、この八石教会があったことを忘れたくない。子規はそれ以上書いていないけれども。いったいに、根岸は旧幕の気分が漂っている所で、上野東照宮では彰義隊の幹部で、足の怪我のため上野戦争の当日、上野に入れなかった本多晋(すすむ)が宮司を務め、長く上野でなくなった同志を弔い、榎本武揚などもよく来たという。
根岸の八石教会は子規の死後、明治の末にこの石毛老人の死去により急速に勢力が衰えた。子規の隣のりっぱな石毛邸もなくなった。そこの人々は茶道をしたり、夜には拍子木を打っていたのだろうか。画家谷文晁の末裔のおけいさんという女性や、木内重四郎の父も教会員だったという。下田は慶応義塾を出て、時事新報記者、その後大阪毎日新聞社の幹部となった。昭和五年刊の『東京と大阪』では、大正期、郊外住宅地としての日暮里渡辺町の形成によって佐竹屋敷あとの信者たちは跡形もなく消えたと述べている。
子規はこんな町に病身を横たえ、八石教会の拍子木を聞いていた。
もちろん、「墨汁一滴」には病床の絶望を語る言葉もある。
「せめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのう今日の我希望なり。・・・・・希望の零となる時期、釈迦は之を涅槃(ねはん)といい耶蘇は之を救いとやいうらん」(一月三十一日)
「背痛み、臀痛み、横腹痛む」(二月三日)。
二月一日、松山中学五友のひとり、竹村鍛(きとう)(黄塔)が肺結核で死去した。神戸病院で病む子規の世話をしてくれた友が先に逝った。
二月七日の『墨汁一滴』は彼が一生の事業として字書編纂を企てていたことを語る。「されど資力無くしては此種の大事業を成就し得ざるを以て彼は字書編纂の約束を以て一時書肆冨山房に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能わず」「我旧師河東静渓先生に五子あり。黄塔は其第三子なり。出でて竹村氏を嗣ぐ。第四子は可全。第五子は碧梧桐。黄塔三子あり皆幼」
まるで墓石の履歴のような文、最後に万斛(ばんこく)の涙がありながら、客観を失っていない。
文体は文語も口語も駆使し自在である。二月十三日、包帯の取り替えの苦病を紛らわすため、新聞か雑誌を読む。
「昔関羽の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであろうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであった。ナアニ今考えて見ると関羽も矢張読書でもって痛さをごまみして居たのに違いない」
これにはあとで読書でなく、囲碁であったと訂正がはいる。
「二月廿八日 暗。朝六時半病牀眠起。家人暖炉を焚く。新聞を見る。昨日帝国議会停会を命ぜられし時の記事あり。繃帯を取りかう。粥二碗を啜る。梅の俳句を閲(けみ)す」
この日、子規宅に、左千夫が釜を運び、麓は軸を携え、子規のために初めての懐石料理を整え茶会を催した。
氷解けて水の流るゝ音すなり
毎日毎日、子規は日常と、胸に去来することを忌陣なく「墨汁一滴」に書き続けた。「元老の死にそうで死なぬ不平」もあれば、新聞雑誌の投稿句に剽窃が多いことへの批判もある。六つになる隣の女の子、陸羯南の娘の描いた絵を家の者が持ってきたので筆を加え、合作にして菓子を付けてやったりする。「うれしくてたまらぬ」(三月十四日)。すべての楽しみと自由が奪い去られ残ったのは「飲食の楽と執筆の自由」のみ。
筆は鈍らない。露伴の『二日物語』について「露伴がこんなまずい文章(趣向にあらず)を作ったかと驚いた」と断じ、落合直文の「明星」掲載の歌を批判する。
舞姫が底にうつして絵扇の影見てをるよ加茂の河水
「『見てをるよ』というも少しいかがわしき言葉にて『そうかよ』と悪洒落でもいい度くなるなり」(三月三十一日)。知人でも容赦がない。このころ蓄音機を持ってきたものがあって、初めてレコードを聞いた。一方体調が思うに任せず、左の肺の中では絶えずブツブツいう音が聞こえる。子規は体力尽きて「ホトトギス」の俳句の選者を降板した。
四月二十八日、子規は藤の花の歌十首を掲載。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
この本の冒頭に述べたが、寝ている子規ならではの視線である。
畳といえば、横になる子規が霞返りをうてるようにと、天井からの力綱の他に、畳の縁に麻の輪を取り付けた。来客などあって、包帯の取り替えが行われないと、翌日は膿が大量に流れ出、包帯と一緒に皮膚が剥がれてきた。子規は悲鳴を上げて泣いた。
佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび蓬はんわれならなくに
いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行水んとす
自分に再び春がめぐり来ることはあるまい。子規は花を鳥を虫を雪を季節の区切として生きていた。
五月半ば、「今日は朝から太鼓がドンドンと鳴って居る。根岸のお祭なんである」。三島神社の祭礼、また一つの行事がめぐりくるまで生きていたことの嬉しさ。
五月と六月の「ホトトギス」にはロンドンの漱石からの報告が載った。「倫敦消息」は「子規の病気を慰めんがため」に、子規に向ってのみ書かれたように見える。この頃、子規庵を訪ねれば、苦しい、痛い、の他は死ぬ話ばかりで、伊藤左千夫も閉口した。それでも寂しがりやの子規は、誰も来ない日には「ヒマナラスグコイ」という電報を左千夫や虚子宛に打たせるのであった。
いつのことかわからないが、子規庵で談論風発の後、母のいとこの三並良(みなみはじめ)が、暇乞いをして立ち上がるのを、子規は「良さん、もう少しいておくれよ。お前が帰るとそこが空っぽになるじゃないか」と言った。せっかく集まって楽しい時間を過ごしたのに、一人一人と客が帰っていくのを子規はとても怖がった。あとは八重と律の女二人しか残らない。
六月、根岸の藤寺横町に住んでいた中村不折も、横浜からヨーロッパに旅立った。
つづく
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