より続く
松永昌三『中江兆民評伝』(岩波書店) 第八章 ”一年有半”の世界(メモ6終)
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一九〇一年一〇月三日に、兆民のもっとも愛していた門下生の小山久之助が死去した。同じくガンであった。兆民の落胆は大きかった。・・・・・
石黒忠悳(一八四五-一九四一)も何回か兆民を見舞っている。石黒は、兆民中江篤介なる人物が不治の病に倒れたとの報を聞き、三〇年前、自分に診察を頼んだ一青年が中江篤介と名乗っていたことを思い出し、堺で療養する兆民に、見舞いかたがた問合わせの書状を送った。これに対し兆民は、診察を乞うたのは間違いなく自分だと返書を出している(第一章参照)。帰京した兆民を石黒は、確認されるだけでも、九月中旬、一〇月下旬、一一月一五日頃、一二月初旬と、四回も見舞っており、告別式にも参列している。元軍医総監・男爵という身で、気軽に、何回も見舞っているのは、医者としての職業意識から兆民の病状に関心を持ったということがあるにせよ、三〇年前の青年篤介の印象がよほど強烈であったこと、また石黒の磊落な人柄を物語っている。
もっとも、この石黒の見舞訪問や石黒と兆民の奇縁が新聞に報道されたことが、一つの波紋を投じている。森鴎外に次の一文がある。
「逢ひたくて逢はずにしまふ人は沢山ある(中略)。中江篤介君なんぞは、先方が一度私を料理屋に呼んで馳走をしてくれたことがあるのに、私は一度も尋ねて行ったことがない。それが不治の病になったと聞いて、私はすぐに行きたいと思つた。そのうちに一年有半の大評判で、知らない人がぞろぞろ慰問に出掛けるやうになつた。私はとうとう行かずにしまった」と。
この一文「長谷川辰之助」は、『二葉亭四迷』(坪内進通・内田魯庵編)に寄せたものである。主題は二葉亭にあり、文脈の上では必ずしも兆民を出す必要があったとは思えないが、鴎外は、ずっと心に溜っていた兆民のことが書きたかったのであろう。兆民の療養時、鴎外は第一二師団軍医部長として小倉に滞在していたから、容易には兆民を見舞うことはできなかったかも知れないが、上京の際、兆民を見舞うことは不可能ではなかったはずである。現に鴎外は、「すぐに行きたいと思った」と書いているのである。しかし鴎外は見舞に行かなかった。その理由を、鴎外は、「知らない人がぞろぞろ慰問に出掛けるやうになった」からだと読み取れるように書いているが、事実はそれだけではあるまい。かつて兆民は鴎外に再婚相手を紹介しようとしたこともある(森鴎外宛書簡⑯)。
鴎外は石黒に穏やかならぬ感情を抱いていたといわれる。軍医学界の長老石黒の意を迎えるような言動もしたよぅだが、鴎外には石黒は煙たい存在で、石黒も鴎外に全幅の信頼を寄せていたわけではないようだ。その石黒と兆民との交誼が新聞を賑わしているとあって、鴎外の気持を固くしたとも推測される。
以上は私の推察である。「小倉日記」を見ると、この年十二月三一日に東京に着いた鴎外は、その日の午後、兆民の主治医であった岡田和一郎を訪ねている。鴎外は、兆民の病状や闘病の模様を尋ねたに違いない。おそらくそれが目的で岡田を訪問したのであろう。行きたいと思ったけれど行かなかった、見舞が果せなかった悔恨を、鴎外はどこかに書き留めておきたかったのであろう。
不治の病気に薬物は無用としてきた兆民であったが、岡田の言を容れ、亜砒酸丸を取ることになり、一一月初旬には、くびの外の腫脹が著しく減退し、口内の臭気もほとんど去って、嚥下も呼吸も顔色も好転した。岡田は亜砒酸の効果であるとし、あるいはガンではなくリンパ肉腫かも知れないと思い、その旨、兆民や兆民夫人に告げている。
病状が一時小康状態にあった一一月一四日、見舞に訪れた板垣退助は、兆民に、無葬式の遺言を実行することを約束した。
その後のことであろうか、岡田の予想に反し、カニュール(挿入管)が脱れたり詰ったりして、呼吸困難になるといった異常が起こり、兆民の体力・気力は急速に衰えた。神経過敏となり、昼夜とも眠れなくなり、睡眠薬が使われた。
こうした状態で、家族も緊張していた時期に、兆民を不快にする事件が起こっている。
一一月二九日、雲照律師が、加持祈頑を営むとの理由で、強引に病室に入り病床で加持を試みたのである。これは、兆民の無神無霊魂説を遺憾とした河野広中夫人が、兆民に安心を得させるため、かねて尊敬していた雲照律師の授戒を勧めた結果の出来事である。兆民夫人はこれを固辞したが、雲照律師は強引であった。この事件で、雲照律師の方は、兆民を済度し、兆民が無神無霊魂を改めたと称したが、板垣退助の記すところによれば、兆民は、雲照律師の強引な加持に対し、
「ムクと頭を擡げて尚(ま)だ止めぬかと云ふ風に律師の顔を睨めつけた、軈(やが)て又伏したが又十分もすると愈々辛抱出来がたくなったと見へて、両手で枕を犇と掴んで投げ出さうとした(略)」(「中江氏の臨終に就て」)
とある。何時の時代にも、余計なおせっかいがいるものであるが、この一事は、兆民を極度に不快にした。
同じ一一月下旬から一二月上旬にかけて、正岡子規(一八六七-一九〇二)の「命のあまり」の発表とこれをめぐっての論戦があった。もっとも兆民には、もう耳には入らなかったことであろうが。きっかけは、『一年有半』の評判を羨んだ正岡子規が、『一年有半』をもてはやす新聞評を非難し、『一年有半』は奇行の人兆民の著書にしては、平凡浅薄、要するに死にかかった文士が、病中のうさ暗らしに書いたものにすぎず、たんなる同情心から、これを過大に評価するのは間違いであると、水をぶっかけたことにある。結核で同じく長年の病床生活を続けていた子規にとって、病者の心情を真に理解できぬ無責任な批評に我慢ができなかったかも知れぬ。しかし和歌・俳句の革新に心血を注いだ子規としては、むしろ同書中の、「和歌僅々三十一字、是れ世界文章中小品の又小品也、万葉、古今既に在り、後人は唯陳腐の文字を並列するのみ、是猶は七絶唐以後観るに足らざるが如し、体制甚だ小にして、意を致し舗陳するに処無きが故也、即ち俳句川柳も亦同じ」という和歌・俳句観に 「平凡浅薄」さを感じ、大きな不満を抱いたことであろう。
子規の叔父加藤恒忠(拓川、一八五九-一九二三)は、第四章第三節で述べたように仏学塾に学んだことがある。加藤は、陸羯南・原敬らと司法省法学校の同期で、同校を退学処分になった一八七九(明治一二)年二月直後から八三年フランス遊学に出発するまでの四年間、仏学塾に在塾していたようだ(『拓川集 日記』)。この加藤からの依頼で、陸が子規の面倒をみるようになったのである(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』)。子規は、兆民に対して、多少の思い入れがあったと思われる。
一二月に入ると、石盤に書く文意が明瞭さを欠くようになった。上旬、突然多量の出血があった。岡田はやはりガンであったと思い、兆民の衰弱が一層進み食欲もほとんどなくなったことで、余命数日とみて、死後解剖を約束した。一〇日ごろから意識が混濁状態に入り、一二月一三日午後七時三〇分、永眠した。衰弱のためであった。
一四日午後、東京帝国大学医科大学病院で、山極勝三郎の執刀により解剖した結果、食道ガンと判明した。体重は二〇キログラムで、骨と皮だけに痩せ細ったあげくの死であった。一七日、青山会葬場において、宗教上の儀式を一切廃し、告別式が行われた。板垣退助の弔詞、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、参列者の告別が行われた。参列者は、板垣、大石、野村のほか、石黒忠悳、浜尾新、林有造、片岡健吉、箕浦勝人、大井憲太郎、頭山満、柴四朗、栗原亮一、原敬、佐々友房、徳富蘇峰、三宅雪嶺、門下生初見八郎、加藤恒忠、伊藤大八、原田十衛、土居通豫、幸徳秋水ら、一千余名であった。告別のあと、長男丑吉と親族浅川範彦が参列者に挨拶をし、式は終了した。式後、遺骸は落合火葬場に送られ、茶毘にふせられた。遺骨は、東京青山墓地の母柳の墓の隣りに埋葬された。墓碑は建てられなかった。
一九一五(大正四)年一二月、友人門下生らが、埋骨地に、「兆民中江先生瘞骨之標」と刻した石碑を建て、それが現存している。
おわり
次回からは、
関川夏央『子規、最後の八年』から子規「仰臥漫録」、或いは妹律に関わる部分に関するメモを掲載する。
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