2021年1月17日日曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ13終)「紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。.....子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、.....話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は.....父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。」  

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ12)「ともかく虚子にとって、武士の裔(すえ)として同郷の後輩には常に家長的に振る舞う子規より、都会的な知性やセンスを持つ漱石の方が、付き合いやすい面があったのは確かだ。そういえば、虚子は中学生時代の初対面の時から《たゞ何事も放胆であるやうに見えた子規居士と反対に、極めてつゝましやかに紳士的態度をとってゐた》(「漱石氏と私」)漱石に敬意を抱いていたふしもある。」

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ13)

3 しきせんせい ー 紅緑

虚子は紅緑没後、遺句集『紅緑句集』が刊行された時、乞われて序文を書き、


紅緑君は子規門下生として最も古い交遊の一人であった。君が同郷の先輩日本新聞社長の陸羯南の家に書生をしてをり「小日本」といふ「日本」の分身の新聞が出来た時分に其手伝ひをすることになり、其の小日本の編輯を担当した子規と近づきになり、従って私との交遊も始まつた訳である。

「小日本」の校正をしてをつた石井露月と共に子規の影響を受けて俳句を作り始め、その後露月、紅緑と併称されて子規門下の有数な一人になったのである。


と紅緑との関係を紹介している。紅緑は一時、露月と共に虚子、碧梧桐に次ぐ子規門下の四天王と目されるようになったが、今は紅緑が俳人であった事を知っている人も極めて稀だ。

紅緑はもちろん佐藤紅緑のことで、詩人のサトウ・ハチローや作家の佐藤愛子の父であり、昭和初期、『あゝ玉杯に花うけて』や『少年賛歌』などで一世を風靡した小説家であった。

紅緑は十九歳の時、弘前中学校を四年で中退して郷党の先輩で遠縁に当たる羯南を頼って上京した。紅緑は後に子規から《敏捷にして馬の如し》(「明治二十九年の俳句界」)といわれたように奔放で波瀾に満ちた人生を送ることになる。新聞社も日本新聞社を振り出しに、五、六社を転々とし子親には心配のかけ通しで、よく叱られた。それでも紅緑は生涯子規を命の恩人として尊敬して、娘の愛子が父のことを書いた『花はくれないー小説佐藤紅緑』によると、話が子規のことに及ぶと先ず居住まいを正して、時には涙を浮かべながら語ったという。愛子は少女時代、行儀も悪く人の名は渾名で呼ぶか、それでなければ呼び捨てにしても平気な父が、子規のことになると「しきせんせい、しきせんせい」というのが不思議でならなかった。

これほど子規を慕っていた紅緑であったが、子規の臨終に立ち合うことは叶わなかった。ただ、九月十日の子規庵での最後の「蕪村句集」輪講会には、虚子、鳴雪、碧梧桐と共に出席できたのがせめてもの幸いだった。さすがにこの夜の子規は、苦痛が激しく、碧梧桐が何度も中止しようと子規に申し出たが、その都度、子規が継続を主張して予定の十二句全てを論考した。


講義が済んで鳴雪翁と余と軈(やが)て帰宅すべう暇(いとま)を告げた、どうぞ御大事にと言ふたら難有う明日までに死ぬかも知れませんと言はれたのでギョツとしながらも今まで幾度も旦夕(たんせき)に迫りながら一年も半年も持ち直した事もあるから左までに心に留めずに帰った。  (「子規翁終焉後記」)


これが紅緑が耳にした子規の最後の言葉になった。子規が危篤の時、紅緑は東京にいて電報をくれていたら駆けつけることができたのにと思うと残念だった。しかしこれは紅緑が事情を知らなかったから出た愚痴で、その夜、当直だった虚子はもちろん、母八重も妹律でさえ、子規が息を引き取る瞬間には立ち会えなかったのである。

そうと分かると紅緑は葬儀万端を率先して助け、この終焉記をはじめその後何篇かの追想記を書いて子規を偲んでいる。

子規没後三十二年後の昭和九年九月、「日本及日本人」(子規居士三十三年記念号)にも紅緑は「糸瓜棚の下にて」という思い出を書き最後に、


糸 瓜 忌 や 墓 前 に 恥 る 事 多 し     紅緑


という句を添え子規に詫びた。

ところで虚子と紅緑は明治七年生まれで同い年だったせいか、後に進む道は分かれたが終生変わらぬ交誼を結んでいた。昭和十六年五月未、当時、甲子園に住んでいた紅緑が病床にあると聞くと、虚子はその日神戸から満鮮の旅に出発することになっていたが、時間をやり繰りして紅緑を見舞った。幸い紅緑の病状も大したことがなかったのに安心して虚子は、


軽 暖 に 病 む と い ふ 程 に て は な し    虚子


と詠んで神戸港から出帆した。

また昭和十八年には二月生まれの虚子が紅緑より先に古希を迎えるので、紅緑は、


梅 が 香 に 隣 り て 老 う る あ り が た き   紅緑


と「虚子古希賛」の句を贈った。七月には、同じように古希を迎える紅緑に門人たちが記念句集を編んだ。虚子はそれを祝って、


隣 り 合 ふ 実 梅 の 如 く あ り し 事   虚子


という題句を贈り紅緑を喜ばせた。紅緑が病床に臥すようになったのは、戦後の混乱も少し落ちつきかけた昭和二十四年の春先であった。前年の秋から虚子は戦後初の『定本虚子全集』全十二巻の刊行が創元社から始まったばかりで忙しい時だったが、その事を聞くとただちに長女真砂子を伴って紅緑を見舞った。その日、紅緑は小康を得ていろいろ虚子と話ができ、涙を見せながら喜んだ。紅緑が七十六歳で没するのは、それから暫くたった六月三日のことであった。

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』はここで終り、次回からは森まゆみ『子規の音』(新潮社)に入る予定



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