2012年7月27日金曜日

天徳5年/応和元年(961)~応和2年(962) 「東西の二京を歴く見るに、西京は人家漸くに稀にして、殆んど幽墟に幾し。」(慶滋保胤『池亭記』)

東京 北の丸公園 2012-07-09
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天徳5年/応和元年(961)
2月16日
・「皇居火灾並に辛酉革命の御慎」によって、応和に改元。
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11月
・村上天皇は、冷泉院(冷然院を改称、然の字は火に関係があり、それをさけた)から新造の内裏に移った。
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応和2年(962)
この頃
度重なる洪水によって西京(右京)の大半の地域は年ごとにさびれていった


慶滋保胤(よししげのやすたね)は、天元5年(982)に執筆した『池亭記』冒頭で、
「予二十余年(この年の頃)以来、東西の二京を歴(あまね)く見るに、西京は人家漸くに稀にして、殆んど幽墟に幾(ちか)し。人は去ることありて来ることなく、屋は壊(やぶ)るることありて造ることなし、その移徒(いし)するに処なく、賤貧に憚ることなき者はこれをれり。・・・」
と述べている。

これは、この年頃(10世紀後半)の西京の実状を忠実に描いたものと考えられる。
梅雨期の出水は西京の低湿地に長く汚水を溜め、そこにさまざまの疫病が発生し、蔓延した。
官人あるいは地方民の都への出入りが激しく、流行病は京に運ばれて来て、またここから諸国に伝播もした。悪疫の淵源は、平安京であった。

「東京(ひがしのきよう)四条以北、乾・艮の二方(北西・東北)は、人々貴賤となく、多く群聚する所なり(水難がないので)。高き家は門を比(なら)べ堂を連ね、少さき屋は壁を隔て簷(のき)を接す。東隣に火災有れば、西隣余炎(よえん)を免れず。南宅に盗賊有れば、北宅流矢を避け難し。南阮(なんげん、院)は貧しく北阮は富めり。富める者は未だ必ずしも徳あらず、貧しき者は亦猶恥あり。又勢家(せいか)に近づき微身(びしん)を容(い)るる者は、屋破れたりと雖も葺(ふ)くことを得ず、垣壊れたりと雖も築くことを得ず。楽あれど大きにロを開きて咲(わら)うこと能わず、(かなしび)哀あれど高く声を揚げて哭くこと能わず。進退懼あり(勢家をおそれはばかる)、心神安からず。・・・」


東京の東北・北西には富貴と貧賤が雑居していた
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