2025年1月15日水曜日

自宅近くで梅が咲き始めた 2025-01-14

1月14日(火、昨日)はれ

自宅近く、梅が咲き始めた。
 


 

BBCニュース- 米国防長官候補ヘグセス氏に厳しい追及 トランプ次期政権の閣僚人事審議が開始 / トランプが国防長官に指名したヘグセク。ASEAN構成国を言えと言われて「韓国、日本、オーストラリア」

ひっそりと引き上げが決まった「高額療養費制度」の自己負担の上限額 ⇒ 高額療養費制度 引き上げで自己負担どうなる?年収別に詳しく2025年8月から 2026-2027年も段階的に引き上げ(NHK)

中居正広さん騒動、米ファンド「フジ・メディアに欠陥」 第三者委要求(日経);「中居正広氏を巡る騒動に関連する最近の一連の出来事は、単なる芸能界の問題にとどまらず、(フジが)コーポレートガバナンスに深刻な欠陥があることを露呈している」 / 中居さんトラブル「フジはあいまいにせず調査を」 米ファンド要求(朝日);「物言う株主」として知られるダルトンがフジ・メディア・ホールディングスの取締役会に対し、書簡を送付していたことが明らかに。 / 民放各局が中居正広に聞き取り調査へ、フランス報道で急展開…旧ジャニに続き “外圧” でしか変わらない “情けなさ”(FLASH) / 中居さん問題、フジテレビが調査 日テレは降板発表、代理人が回答も(朝日)        

 

米SEC、マスク氏を提訴 - ツイッター買収、証券法違反疑い(共同) / 証券取引委員会は14日、イーロン・マスク氏が2022年に開示規則に従わずにツイッター社の株を大量に取得し、証券詐欺を働いた疑いでイーロン・マスク氏を提訴した / 米加州知事とマスク氏、山火事の偽情報めぐり対立(AFP=時事) ; 「研究者によると、Xでは山火事をめぐる右派の偽情報が爆発的に増加している」

 

 

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私はウソをついてますと自白してる ⇒ 「4」千万円と「2」千万円を書き間違え?加藤財務相がパーティー収入を大幅減額 「弁明すればするほど不可解に」識者もあきれた国会での説明(共同)

大杉栄とその時代年表(376) 1901(明治34)年12月11日~29日 中江兆民(55)没 告別式参列者1千余名 大杉栄(14)陸軍幼年学校退校 「イスクラ(花火)」第1号発行 学生による鉱毒被害地救済運動始まる

 

イスクラ初版

大杉栄とその時代年表(375) 1901(明治34)年12月1日~10日 「中村屋」開業 堺利彦、角筈へ転居 福田英子と親しくなる エスエル党結成 日英同盟裁可 田中正造直訴 より続く

1901(明治34)年

12月11日

コロンビア政府は運河建設予定地を含む幅10キロの土地の永久貸与に同意したと米側の発表。

12月12日

マルコーニ(27)、大西洋横断無線通信成功。

12月12日

林董駐英公使、日英同盟の日本修正案を英外相に提出。

12月13日

中江兆民(55)、没。12月10日ごろから意識混濁状態に入り、この日午後7時30分、永眠。

14日午後、東京帝国大学医科大学病院で、山極勝三郎の執刀により解剖した結果、食道ガンと判明した。体重は20kgで、骨と皮だけに痩せ細った衰弱死であった。

弟子幸徳秋水に、「文章経国大業不朽盛事 兆民老人 為幸徳秋水兄」と絶筆。

臨終の前日、兆民の枕頭に駆けつけた秋水に麻布宮村町の自宅の家宅捜査の報。間もなく警視庁から出頭命令。田中正造の直訴を弁護した(無署名)「臣民の請願権」(「万朝報」12日)について取調べ。


〈幸徳秋水が伝える中江兆民の人となり〉

「・・・・秋水の号を兆民より譲られた幸徳秋水は、兆民の死後、『兆民先生』(博文館、明治三十五年)なる一書を編んで、兆民を偲んでいる。この書、兆民の人となりが髣髴(ほうふつ)として、すこぶる興味深い。例えば、同郷ということもあろう、坂本龍馬を崇拝していた兆民の左のごとき言葉を紹介している、といった具合である。慶応元年(一八六五)、長崎での出来事である。


予(筆者注・兆民)は当時少年なりしも、彼(龍馬)を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、『中江のニイさん煙草を買ふて来てオーせ、』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき。彼の眼は細くして、其額(そのひたい)は梅毒の為め抜上(ぬけあ)がり居(い)たりき。


龍馬、兆民のいかにも人間臭い実像が浮び上ってくるではないか。秋水は、『兆民先生』の中で「革命の鼓吹者」である兆民の思想的姿勢を、


階級を忌(い)むこと蛇蝎(だかつ)の如く、貴族を悪(にく)むこと仇讐の如く、誓って之を刈除(がいじよ)して以て斯民(しみん、人々)の権利を保全せんと期せるや論なし。


と伝えている。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))

12月14日

大杉栄(16)、11月の事件に関して退校届は受理されず、「品行不正、改悛の余地なし」として菅谷竜平とともに退校を命じられる

12月14日

坂東妻三郎、誕生。

12月14日

伊藤博文、ベルリン入り。ウィルヘルム2世と謁見。

17日、ロシア外相より日露協商修正案送付。日本はロシアの満州での行動を黙認、ロシアは日本の韓国での行動を制限する内容。

12月17日

中江兆民の告別式。青山会葬場において、宗教上の儀式を一切廃し行われる。板垣退助の弔詞、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、参列者の告別が行われた。参列者は、板垣、大石、野村のほか、石黒忠悳、浜尾新、林有造、片岡健吉、箕浦勝人、大井憲太郎、頭山満、柴四朗、栗原亮一、原敬、佐々友房、徳富蘇峰、三宅雪嶺、門下生初見八郎、加藤恒忠、伊藤大八、原田十衛、土居通豫、幸徳秋水ら、1千余名。告別のあと、長男丑吉と親族浅川範彦が参列者に挨拶をし、式は終了。式後、遺骸は落合火葬場に送られ、茶毘にふせられた。遺骨は、東京青山墓地の母柳の墓の隣りに埋葬された。墓碑は建てられなかった。

1915(大正4)年12月、友人門下生らが、埋骨地に、「兆民中江先生瘞骨之標」と刻した石碑を建て、それが現存している。

12月18日

アインシュタイン、ベルンの特許局に応募。

12月19日

英独の同盟交渉失敗(1898年~)。

12月21日

「労働世界」100号、次回より日刊「内外新報」に改称。

翌明治35年1月「内外新報」発刊。3週間で廃刊。

4月3日「労働世界」復刊(月3回)。

12月23日

オーストラリア、連邦移民制限法成立。労働賃金の安さを理由に非白人の永住を禁止。白豪主義的な移民制限法。

12月23日

伊藤元老、ロシア外相に不公平点指摘し回答保留。この日、ベルリンよりロンドンに向かう。

12月24日

ロンドン・ニューヨーク・天津・シドニー・モントリオール各領事館を総領事館に昇格。

12月24日

シュトゥットガルト、「イスクラ(花火)」第1号発行。プレハーノフ、ヴェラ・ザスーリッチ、アクセリロードらの「労働解放団」(1883)とマルトフ、レーニンらの「労働者階級解放闘争同盟」の結合

12月25日

荒畑寒村(14)、勤務先の英国人羅紗商リチャード・ホーショ商会からクリスマスに賞与金5円を貰い、新刊の「透谷全集」「藤村詩集」を買う。

12月25日

財政問題について政府・政友会首脳会談。妥協成立。

12月26日

ウガンダ鉄道、(モンバサからビクトリア湖)開通。ビクトリア湖畔のキスム到達。

12月26日

スウェーデンのアウグスト・ストリンドベリの戯曲『死の舞踏』、初演。

12月27日

鉱毒地救済婦人会、東京の学生に鉱毒地視察を訴え、1100余名の大学、専門学校、中学、学生、安部・木下・内村らに引率され鉱毒被害地訪問。以後、学生の救済運動始まる

30日、視察報告会。学生鉱毒救済会組織。学生鉱毒救済会を解散させられた後、青年修養会を設置、のちの谷中村事件まで運動継続。

12月27日

マレーネ・ディートリヒ、誕生。

12月29日

東海道線急行列車に食堂車ができる。

12月29日

桂太郎首相、伊藤博文に露との商議開始前に対英商議完結の意向を表明。


つづく


BBCニュース - 米アップル取締役会、多様性プログラム廃止案への反対を株主に呼びかけ / 多様性対策廃止相次ぐ トランプ大統領就任前に―米IT大手(時事);  SNSを運営する米メタ(旧フェイスブック)やインターネット通販最大手の米アマゾン・ドット・コムが、トランプ次期大統領の就任前に、保守派からの反対が強まる多様性を尊重する取り組みを後退させています / マクドナルドも多様性目標廃止 世界15万人社員に影響も 北米(日経 会員限定);「米マクドナルドは6日、多様性確保の目標を廃止すると発表した。米国内の保守系活動家からの圧力を受けたとみられる方針転換で、.....。米国では小売最大手ウォルマートなども相次ぎDEI(多様性、公平性、包摂性)の取り組みを縮小しており、同国発のグローバル企業の代表格であるマクドナルドも変更を迫られたかたちだ。」

2025年1月14日火曜日

横浜桜木町駅前、オークウッドスイーツ横浜46階展望台からの富士山 2025-01-14

 1月14日(火)はれ

横浜桜木町駅前、オークウッドスイーツ横浜46階展望台からの富士山


李恢成さんが亡くなられた。享年89歳。RIP

 

『見果てぬ夢』全六巻、発売日に本屋さんに走った思い出が懐かしい

メキシコ新大統領 「私たちは新自由主義には戻らない。特権と汚職にまみれた政治には戻らない。”みんなの利益のために、まずは貧しい人々を“それが私たちの姿勢です」

原発再稼働、武器輸出…経団連が言えば実現 それって「献金」パワーでは? 存続にこだわる側の言い分は(東京)

関西万博入場券、売れ行き目標の半分 開幕3カ月前も「口コミ」頼み(毎日) / 開幕まで3カ月の大阪・関西万博 パビリオン「完成」はわずか3カ国(毎日) / 「大阪万博には行きません」高村薫さんが地元で感じる70年との違い(毎日)    

 

ロス火災にトランプが州知事“攻撃”  玉川さん  ⇒ 自分の国の話じゃないけどウンザリしますね。この時期にこの話をするような人間が大統領かよと。本当ウンザリしますね。

トランプ氏、当選していなければ有罪だった 特別検察官(AFPBB);「「トランプ氏の再選と目前に迫っている大統領職への復帰がなければ、(特別検察官)事務所は、裁判で有罪判決が下され、それが維持されるに十分な証拠があると判断していた」と述べた。」

 

大杉栄とその時代年表(375) 1901(明治34)年12月1日~10日 「中村屋」開業 堺利彦、角筈へ転居 福田英子と親しくなる エスエル党結成 日英同盟裁可 田中正造直訴

 

大杉栄とその時代年表(374) 1901(明治34)年11月20日~30日 木下尚江ら、足尾鉱毒地救助演説会開催 鉱毒地救済婦人会(会長・潮田千勢子)結成 鉱毒被害地救済仏教者同盟結成 より続く

1901(明治34)年

12月

長野県諏訪地方の製糸豪奢、製糸女工の争奪防止を名目として製糸同盟を結成。

12月

日鉄矯正会、会社・警察の弾圧で解散。

12月

相馬愛蔵、東京本郷に「中村屋」を開業。パンを製造販売し、のちカレーライスで有名となる。

12月

年末、堺利彦(32)、鎌倉で療養していた美知子が回復してきたので、東京郊外に引っ越す。

新居は豊多摩郡淀橋町角筈七百三十八番地(現・新宿区西新宿七丁目)で、内村鑑三や福田英子の家が近くにあった。堺は「日本社会主義運動史話」で、福田英子について「元の景山英子。自由党の古い婦人名士。大井憲太郎等の国事犯、朝鮮事件に関与して、爆弾運びの任務に服した人。これが又平民社出入りの常連で、石川と深い親近の間柄にあつた」「平民社のシウトメとでも呼ぶべきか」と紹介している。これ以後の平民社と売文社時代を通して、福田英子は堺たちと親しい関係にあった。石川三四郎は。翌明治35年初秋、万朝報に入社。

また、この引っ越しは、それまでの堺の鬱々とした気分を一新する効果があった。また、日記に「自転車を始めようかと思ふ」と書いているように、この年の秋ごろ堺は自転車に乗る練習を始め、角筈に転居した後は、京橋区弓町二十一番地(現・中央区銀座二丁目百三番地)にある朝報社まで自転車で通勤するようになる。

12月

福岡県浮羽郡で小作農民1,800人が、小作料永久1割削減を要求して地主30人と交渉。地主は、翌年1月までに1割削減を約束。

12月

12月頃、大杉栄(16)父東が幼年学校に来て、退学届けを出し新発田へ連れ帰られる。

12月

ロシア、エス・エル党結成。1876年に始まったナロードニキ主義運動に刺激された。主な目的は土地の社会化。テロ・暗殺が手段。

12月

ハンガリーのブダペストで失業者のデモと暴動発生。

12月2日

大井憲太郎(58)・西川光二郎(25)、横浜・賑町の喜楽座での普通選挙期成同盟会横浜支部主催演説会で演説。大井は「代議政体の真諦」、西川は「吾人の最大武器」。

12月2日

ペテルブルク、伊藤博文、ラムスドルフ外相と会談。

3日、ウィッテ蔵相と会談。

12月2日

米連邦最高裁判所、プエルトリコ人は米西講和条約下では合衆国国民ではなく合衆国憲法によって国民に保証される権利や特典は認められないという判決を下す。

12月3

日本赤十字社条例公布。陸海軍大臣の監督下で、戦時衛生勤務幇助。

12月3

啄木(15)、「翠江」の筆名で友人たちと結成した「白羊会詠草」を翌年1月1日にかけて『岩手日報』に発表。啄木短歌で活字となった最初の作品。

12月4

ペテルブルク、伊藤博文、ラムスドルフ外相に韓国からのロシア軍撤退に関する日露協定案提出。しかし日英同盟締結を優先するため、7日に交渉中止。23日に交渉打ち切り通告。

12月5

清国、学堂章程制定。

12月5

大阪糸綿木綿取引所を大阪三品取引所(株)と改称。綿花・綿糸・錦布を扱う。

12月5

ペテルブルク、駐英公使館書記官が日英同盟草案を伊藤に示し意見を求める。

6日、伊藤、桂に日英同盟締結前に日露協商締結を忠告する電報。

7日、桂より伊藤へ、元老会議・閣議で日英同盟案決定と電報。

12月5

ウォルト・ディズニー、誕生。

12月6

袁世凱直隷総督代理、内田康哉駐清公使に天津還付を要請。各国公使にも。

12月7

元老秘密会議(桂太郎・小村寿太郎両相参加)、日英同盟の修正案可決

10日、裁可。12日、英外相に提出。

12月7

第16議会招集。10日開会、1902年3月9日閉会。

12月7

英伊、北アフリカのスーダンとエリトリア間の植民地国境を画定する協定書に調印。

12月8

ペテルブルク、伊藤博文、日英協約締結の延期を勧告。

10日、桂より同意せずの回答。

12月10

日英同盟日本側修正案、天皇裁可。駐英公使林菫より英国側へ。

12月10

午前11時10分、田中正造(61)、第16議会開院式帰途の天皇に足尾鉱毒問題直訴。直訴文は幸徳起草(前日夜更けに依頼され、徹夜で書く)、麹町警察署にて取り調べ、夕刻釈放。「毎日新聞」主筆石川安次郎(半山)の教唆という。

直訴後、正造は妻に離縁状。木下尚江は幸徳に対して「満腹の不平を抱い」た。

直訴は大きな反響を呼ぶ。新聞は被害民に同情を示す(「読売新聞」は直訴状全文掲載)。中学1年生の啄木は義捐、東京に苦学す黒沢酉蔵は正造を訪ね、以降鉱毒反対闘争に参加。

12月10

第1回ノーベル賞授与式(ノーベル賞創設は1895年)。

科学者に初のノーベル賞。物理学賞は独のW・C・レントゲン(X線発見)、化学賞は蘭のJ・H・フアント・ホフ、生理学・医学賞は独のE・A・フォン・ベーリング。


つづく

メタの"ファクトチェック廃止"がもたらす変化 誤情報拡散と表現の自由、ネット社会はどこへ向かう?(東洋経済) /  メタがポリシー変更、同性愛者とトランスジェンダーへの「精神疾患」発言を許容へ (WIRED) /  メタがファクトチェック廃止 トランプ氏接近へ方針転換(日経) / 米メタ ファクトチェック廃止を発表 トランプ氏就任踏まえたか(NHK) / メタ、ファクトチェックを廃止「表現の自由守る」 保守派の批判受け(朝日)

2025年1月13日月曜日

大杉栄とその時代年表(374) 1901(明治34)年11月20日~30日 木下尚江ら、足尾鉱毒地救助演説会開催 鉱毒地救済婦人会(会長・潮田千勢子)結成 鉱毒被害地救済仏教者同盟結成

 

矢島 楫子

大杉栄とその時代年表(373) 1901(明治34)年11月01日~19日 子規の漱石への最後の手紙 「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、(略) モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。(略)僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。」 より続く

1901(明治34)年

11月20日

木下尚江ら、足尾鉱毒地救助演説会開催。

11月20日

米、革命内戦中のコロンビア領パナマに武力介入。

11月21日

明治美術会、解散。

翌明治35(1902)年、「太平洋画会」結成(吉田博、満谷国四郎)。

11月21日

岡倉天心、インド旅行へ出発(帰国は1902年10月30日)。

11月22日

スーダンとエリトリア国境に関する英伊宣言。

11月24日

小村外相、駐ロシア代理公使杉村虎一に対して、伊藤はロシアと交渉する任務を持たないと打電。

翌25日、駐英林董公使に、伊藤は私人の資格でのロシア訪問であると露政府に伝えるよう訓令。

11月25日

グスタフ・マーラー(41)、第4交響曲ミュンヘンで初演。

11月26日

川崎長太郎、小田原町万年三丁目470番地に誕生。父は鮮魚商。

11月27日

丸山千里、誕生。丸山ワクチン。

11月27日

外務総務長官に珍田捨己任命。

11月27日

伊藤博文、ペテルブルク到着。

28日、皇帝ニコライ2世に謁見。最高位勲章授与。井上馨に、ロシアに協商の意向あり桂総理と協議し、結果を連絡されたし、と電報。

11月27日

アメリカ、陸軍大学開校。

11月28日

閣議、11月6日に英が提出した日英同盟草案に対する修正案を決定。

11月29日

桂首相上奏。天皇、日英同盟裁可保留。更に元老会議での検討と伊藤の意見聞くよう指示。

11月29日

足尾鉱毒・基督教婦人矯風会講演会。潮田千勢子、矢島楫子(司会)、山脇房子、安部磯雄、島田三郎。神田キリスト教青年会館。鉱毒地救済婦人会(会長・潮田千勢子)結成

翌3月迄70回の講演会。翌日、鉱山経営者古河市兵衛夫人タメ入水自殺

鉱毒地救済婦人会は、講演会で義捐金品を募りこれを被害地に送ったり、キリスト教婦人矯風会経営の慈愛会(西大久保)に被害地困窮者子女を収容。

本願寺派中心の青年仏教会、鉱毒被害地救済仏教者同盟を結成。義捐金品を送る。また、現地に施療院3ヶ所を開き被害者救済(3465人)を行う。

11月29日

幸徳秋水(無償名)「咄々怪事(警察の労働者迫害)」(「万朝報」)

3日の東北地方陸軍大演習時、先行の統監列車が事故で停止。後続の天皇御召し列車が急停止。会社の管理不良による事故を「日鉄矯正会」の列車転覆陰謀にすりかえ、日鉄矯正会に期限付き解散命令が下る。

11月29日

この日、雲照律師が、加持祈頑を営むとの理由で、強引に中江兆民の病室に入り病床で加持を試みる。これは、兆民の無神無霊魂説を遺憾とした河野広中夫人が、兆民に安心を得させるため、かねて尊敬していた雲照律師の授戒を勧めたことのよるもの。兆民夫人はこれを固辞したが、雲照律師は強引であった。この事件で、雲照律師の方は、兆民を済度し、兆民が無神無霊魂を改めたと称したが、板垣退助の記すところによれば、兆民は、雲照律師の強引な加持に対し、

「ムクと頭を擡げて尚(ま)だ止めぬかと云ふ風に律師の顔を睨めつけた、軈(やが)て又伏したが又十分もすると愈々辛抱出来がたくなったと見へて、両手で枕を犇と掴んで投げ出さうとした(略)」(「中江氏の臨終に就て」)

とある。この一事は、兆民を極度に不快にした。

11月29日

ペテルブルク、杉村虎一臨時代理公使、元老伊藤招宴。広瀬武夫・田中義一少佐・酒井忠利中佐出席。

11月30日

荻須高徳、誕生。

11月30日

ペテルブルクの伊藤へ井上馨より電報。日英同盟協約の日本側修正案に対する伊藤の意見を確かめるよう桂首相に勅命あり。

つづく

古川市兵衛の妻「タメ」については、下記に詳しい。

栗林佐知「かたすみの女性史」第1話 死の声――古河為子のこと (その1)

(その5)まで続く

2025年1月12日日曜日

トップ4はトランプ氏関連がずらり 世界の“10大リスク”発表 「金を払わないのなら守らない」主導国の不在=“Gゼロ世界の混迷”に最大のリスク懸念(TBS)

スキマバイト拡大の背景に安倍政権 働き方改革の名の下にスルッと成立した2つの規制緩和(東京)

大杉栄とその時代年表(373) 1901(明治34)年11月01日~19日 子規の漱石への最後の手紙 「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、(略) モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。(略)僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。」  

 

潮田千勢子

大杉栄とその時代年表(372) 1901(明治34)年10月23日~29日 「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」 (子規『仰臥漫録』)

1901(明治34)年

11月

『音楽之友』創刊。

11月

国木田独歩「牛肉と馬鈴薯」(「小天地」)

11月

米における公債発行交渉不成立に終わる。

11月

岐阜県郡上郡八幡町の小学校で、生徒の経文習読の慣行を差し止めたため、僧侶との間で争議が発生。

11月3日

東清(東支)鉄道(満州里~ハルビン)とその南満支線、開通。

11月4日

伊藤博文、パリ到着。

11日、桂首相から、日英交渉が進捗しているため、暫くパリ滞在を要望。

14日、日英同盟交渉中の駐英林董公使より日英交渉が順調であることの説明するが、伊藤は韓国問題解決は日露交渉によるべきと強調。

11月5日

海音寺潮五郎、誕生。

11月6日

この日付け、子規の漱石宛て手紙。

子規は、漱石に「モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と書き送るた。これが子規の漱石宛の最後の手紙となる。


(11月6日(水) 下谷区上根岸町82番地 正岡常規より 在倫敦 夏目金之助へ)


 僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往ッタヨウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)

 画ハガキモ慥(たしか)二受取夕。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナ力聞キタイ。

 不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処へ通ウテ居ルソウジャ。君ニ逢ウタラ鰹節一本贈ルサドトイウテ居タガモーソンナ者ハ食ウテシマッチアルマィ。

 虚子ハ男子ヲ拳ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。

 錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマック。

 僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来(こはくいわくきたれと)」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

しかし下宿に閉じ籠り、「神経衰弱と狂気」に陥る程に「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」と格闘する漱石は、子規に宛てて、さらなる「倫敦消息」を書き送ることは出来なかった。子規の願いを聞き届けることができなかったという思いは、漱石に深い後悔をもたらした。漱石は、帰国後、倫敦での自転車稽古の顛末を記した「自転車日記」(『ホトトギス』第6巻第10号)を執筆する。それは果たすことのできなかった子規への「今一便」であったのかもしれない。


小宮豊隆は小説家・夏目漱石が誕生する機縁を作ったのは子規だとし、次のように述べている。


 漱石は子規にせがまれて、『ホトトギス』に『倫敦消息』を書いた。漱石がロンドンから帰って来た時には、子規は既に死んでいたが、当時子規の後継者として『ホトトギス』を経営していた高浜虚子は、漱石にせがんで、漱石に『自転車日記』を書かせ、『幻影の盾』を書かせ、『坊つちやん』を書かせた。さうして漱石は、竟に教壇を去って、純粋な作家になった。(中略)子規は作家漱石を作り上げる上に、なくてはならない重要な人物であつたと言つても、決して過言ではなかつたのである。―勿論子規がなくても、漱石の内なる宝庫は、何等かの機縁に触発されて、その全貌を示し得たには違ひなかつた。然し若し子規がなかつたら、漱石は或は、学者としてのみ、その一生を過ごしてゐたのかも知れなかつた。その意味では、漱石と子規との交際は、作家漱石にとつては、殆んど運命的 なものであつたと言つて可いのである。

(小宮豊隆「『木屑録』解説」)

11月6日

英外相ランスダウン、日英同盟草案を林董駐英公使に手交。

11月7日

李鴻章、没(1823年2月15日生まれ)。清露交渉停頓。袁世凱、直隷総督兼北洋大臣に就任。

11月7日

日清間の重慶日本専管居留地取極書(9月24日調印)告示。

11月8日

小村寿太郎外相、露に満州撤兵を勧告すべき旨、ロシア公使に訓令。駐ロシア公使に栗野慎一郎任命(スウェーデン・ノルウェー兼任)。

11月9日

ペルシア、ロシアとの新通商条約に調印。

11月11日

明治34年文部省令第十五号「直轄学校外国人特別入学規程」発布

1901年、清国は義和団事変で8ヵ国連合軍に敗北し富国強兵の必要を強く感じ、留学生制度を再開。派遣先として近代国家・日本が定められる。日本は同じアジアの国で欧米諸国ほど文化的差異がなく、漢字も共通している。おまけに軍人教育も受け入れるという。

11月14日

板垣退助が中江兆民を見舞う。板垣は無葬式の遺言を実行することを兆民に約束。

11月15日

韓国、米穀輸出禁止解除。

11月16日

日本基督教婦人矯風会の矢島楫子・朽木よし子・島田のぶ子・潮田千勢子ら4人と毎日新聞松本英子、足尾鉱毒現地調査出発。木下尚江の勧め。3日間。

松本英子ルポルタージュ「鉱毒地の惨状」。「何ぞ速に渡良瀬河畔無告の同胞を救はざる。・・・看よ三十万、瀕死の民・・・」

11月18日

官営八幡製鉄所、開業式。本格的な製鉄・鋼鉄の一貫製鉄所。「鉄は工業の母、護国の基礎」。

11月18日

米英間、第2次ヘイ・ポーンスフト条約調印。米はパナマ運河の単独開設・管理権獲得、英は運河の権利放棄。

11月18日

ゴーギャン(53)、マルケサス諸島ヒヴァ・オア島、愛人のマリー・ローズ・ヴァエオホと内縁関係を結ぶ。 

11月19日

大杉栄(16)、夕食後に上級生に欠礼のあった下級生(2年生)を殴打。石川県出身の3年生から抗議を受け、愛知県人と石川県人の間で激論。

翌20日の夕食後、再び愛知県人と石川県人の口論となり格闘。ナイフを所持していた3年生の菅谷竜平から後頭部など2ヶ所を刺される。


つづく

2025年1月11日土曜日

英独の極右を支持して憎悪を煽るトランプの「右腕」イーロン・マスク(ニューズウィーク日本版) / マスク氏、英政界にも介入 首相辞任を水面下で画策か 警戒感広がる(朝日) / 映像:マスク氏がドイツ極右政党党首と対談、総選挙で同党への投票呼びかけ 不当介入と困惑の声(ロイター) / マスク氏、ドイツ極右政党に「無償広告」提供か-Xで共同代表と対談 (TBS) / マスク氏が「憎悪扇動」 スペイン首相、ファシズム復活に警鐘(AFPBB) / 英首相批判のマスク氏、退陣も画策か 関係者と協議の報道(ロイター) / BBCニュース - 【解説】 なぜマスク氏は各国の政治に介入しようとしているのか / BBCニュース - マスク氏の「口撃」を欧州首脳らが批判、24時間で4カ国から異議 / BBCニュース - 【解説】 2025年の英政界が始動 大きな影を落とすのはマスク氏 / マスク氏、欧州の極右を後押し 進歩派は警戒(AFP=時事) / マスク氏の英政府批判は「誤情報に基づいている」 閣僚が反論(afpbb) / マスク氏、英国に再介入 極右活動家の釈放要請(afpbb) / マスク氏、英国に解散総選挙を訴え-ドイツに続く同盟国への介入発言(Bloomberg)  / マスク氏に追随しないで、英右派政治家が米共和党議員に要請-関係者(Bloomberg) / マスク氏の極右支持が波紋 「選挙介入」、分断の火種に―独(時事)

 




 

核禁止条約会議への参加要望に石破首相は「ゼロ回答」 被団協、ノーベル平和賞後の初面会は「収穫なし」(東京); 30分のうち僅2分しか話させないって! / 「不誠実な態度」 石破首相の核兵器禁止条約オブザーバー参加言及なしに広島の被爆者団体が落胆(広テレNEWS) / 溝浮き彫り 被爆者落胆 被団協面会 核禁会議参加に「ゼロ回答」 首相、核シェルターにも言及 | 中国新聞        

トランプ流資本主義の到来 「身内第一」が奪う米の強さ(日経);「政治と企業がカネ・コネで密接に結びつく「縁故資本主義」が米国の先行きに影を落とす。」

トランプ氏「口止め」裁判で有罪判決 刑の執行は免除 職務を考慮(毎日);「州法違反の事件のため、トランプ氏は大統領就任後も自身に恩赦を与えることはできない」 / トランプ氏に有罪判決 NY地裁、刑罰科さず無条件放免(日経);「過去に有罪判決を受けて大統領となった人物はおらず、米国の歴史に汚点を残すことになる。」 

 

大杉栄とその時代年表(372) 1901(明治34)年10月23日~29日 「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」 (子規『仰臥漫録』)

 

田中正造

大杉栄とその時代年表(371) 1901(明治34)年10月15日~22日 「十月十六日 終日無客 夜秀真来る つとめて話を絶やさぬようにする苦辛(くしん)見えて気の毒なり」 / 「十月二十一日 客なし 夜に入りて癇癪起らんとす 病牀の敷布団を取り代うることによりて癇癪を欺きおわる」(子規『仰臥漫録』) より続く

1901(明治34)年

10月23日

田中正造、足尾銅山鉱毒事件に抗議し、衆議院議員を辞職


10月23日

「十月二十三日 ・・・田中某来る 手土産ビスケット

河東繁枝子(しげえこ)来る 手土産鮭の味噌漬二切

左千夫来る 手土産葡萄一籃、外に蕨真(けつしん)よりの届けもの栗一袋、・・・

夕刻大阪の文淵堂主人来る 手土産奈良漬一桶

左千夫と共に晩餐を喫す 繁枝子にも次の間において同じ晩餐を出すらし

夜秀真来る 故郷より携え来れりとて手土産柿二種(江戸一及び百目(ひやくめ)) マルメロ三個

(略)」(子規『仰臥漫録』)


この日、子規、虚子より2円借りる。


『仰臥漫録』の末尾

「赤黄緑三色ノ木綿ヲ縫ヒ合セテ財布ヲ作ル之ヲ頭上ノ力綱ニ掛ク 中ニ二円アリ コレ今月分ノ余ノ雑用トシテ虚子ヨリ借ル所」

10月24日

米での外債募集不成立が暴露されたため、日本の株式相場暴落。


10月24日

「十月二十四日 

(いつものように、朝昼夜の食事内容)

夜九月十三夜なり 庭の虫声なお全く衰えず

月は薄曇なりと 夜半より雨」(子規『仰臥漫録』)

10月24日

米、ブロウニー・ボックス・カメラの成功をうけてイーストマン・コダック社(株)が設立。


10月25日

「「十月廿五日 曇

(略)

『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物(きわもの)として流行し六版七版に及ぶ

近頃『二六新報』へ自殺せんとする由(よし)投書せし人あり」

その人が忽ち世の評判となり、金三百円ほどを得、煙草店まで出してもらったというエピソードを紹介し、これこそ『一年有半』と好一対のものとして、

「いづれも生命を売物にしたるは卑し」

と断じ、俳句四句を添えているのた。

「病牀の財布も秋の錦かな

栗飯や病人ながら大食(おおくら)ひ

かぶりつく熟柿や髭を汚しけり

驚くや夕顔落ちし夜半の音」

ことに最後の一句、不治の病に〝とらわれ人〞のねむれぬ夜の長さ、思いの深さを - 理でなく感性で、嘆かず、むしろ美しきに転化してみせていると見るのは私だけだろうか。」(早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」)


子規、虚子より20円を借りる。


「終(つい)ニ虚子ヨリ二十円借ルコトトナリ已ニ現金十一円請取リタリ

「コレハ借銭卜申シテモ返スアテモナク死後誰カ返シテクレルダロー位ノコト也 誰モ返サヾルトキハ家具家財書籍何ニテモ我内ニアル者持チ行カレテ苦情ナキ者也トノ証文デモ書イテオクベシ」

10月26日

臨時台湾旧慣調査規則公布。台湾総督の管轄下で、法制および農工商経済に関する旧慣を調査。


10月26日

「十月二十六日 

(いつものように、朝昼夜の食事内容)

女客三人あり

午後麓(ふもと)来る 手土産鶏肉たたき 外に古渡(こわたり)更紗の財布に金二円入れて来る 約束なれば受け取る

石巻匏瓜(ほうか)より生鮭一尾来る

夜鼠骨来る


この頃の容態及び毎日の例

病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰えて行くことは争われぬ。膿の出る口は次第にふえる。寝返りは次第にむつかしくなる。衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寐て居るような事が多い。

(略)」(子規『仰臥漫録』)

10月27日

台湾剣潭山に創建した官弊大社台湾神社、鎮座式挙行。

10月27日

長野県松本市、労働者大懇親会および普通選挙政談演説大会開催。大井憲太郎ら参加。女子600人が参加。

10月27日

10月27日 子規、虚子から借りた金で料理屋から会席膳2人分を取り寄せ母と妹に対して看護の労苦を労う。


「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」


「・・・・・病床ニアリテサシミ許リ食フテ居ル余ニハ其料理ガ珍ラシクモアリウマクモアル。平生台所ノ隅デ香ノ物バカリ食フテ居ル母ヤ妹ニハ更ニ珍ラシクモアリ更ニウマクモアルノダ。」(子規『仰臥漫録』)

10月28日

10月28日 子規の誕生日(旧暦9月17日)の『仰臥漫録』。


「前日の「御馳走ノ残り」を「午飯」に食べたことが記され、夕食も「誕生日」を祝う「小豆飯」で、「左千夫鼠骨卜共ニ」満足して食べたとある。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


「十月二十八日、繃帯取換えの際の傷みは堪えがたく「号泣又号泣、困難を窮む」。」(関川夏央、前掲書)

10月29日

10月29日 「十月二十九日 曇」で『仰臥漫録』が中断(翌明治35年3月10日に再開)


「十月二十九日、虚子がきて『仰臥漫録』を「ホトトギス」に連載できぬか、といったとき、子規は不快を感じた。自分の死への道程を『一年有半』のごとく万人の娯楽とするつもりか、と思ったのである。

子規はその日、十月二十九日の日付と「曇」とのみ書いて『仰臥漫録』を中断する。」(関川夏央、前掲書)


つづく

富士山を眺めながら片瀬西浜海岸散歩 2025-01-10

 1月10日(金、昨日)晴れ

久しぶりに片瀬西浜海岸。

富士山を眺めながら、鵠沼海岸近くから片瀬漁港までぶらぶら散歩。

晴れてて気持ちが良いけど、風が冷たい。





2025年1月10日金曜日

不法移民を抑止するためには「暴力・射殺もあり」 極右の半数以上が支持(クーリエ・ジャポン 会員限定)

大杉栄とその時代年表(371) 1901(明治34)年10月15日~22日 「十月十六日 終日無客 夜秀真来る つとめて話を絶やさぬようにする苦辛(くしん)見えて気の毒なり」 / 「十月二十一日 客なし 夜に入りて癇癪起らんとす 病牀の敷布団を取り代うることによりて癇癪を欺きおわる」(子規『仰臥漫録』)

 

ブッカー・T・ワシントン

大杉栄とその時代年表(370) 1901(明治34)年10月15日 「兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は咽喉に穴一ツあき候由われらは腹背中臀ともいわず蜂の巣の如く穴あき申し候 一年有半の期限も大概は似より候ことと存候 しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らずそれだけわれらに劣り可申すべく候 理が分ればあきらめつき申すべく美が分れば楽み出来申すべく候 杏を買うて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点の理がひそみ居り候」(子規『仰臥漫録』10月15日) より続く

1901(明治34)年

10月15日

10月15日~16日 ロンドンの漱石


「十月十五日(火)、「Cassel's Wild Birds and Illustrated Eng. Hist.」(「日記」)(二冊の本が届いたものと思われる)午後、 Dr. Craig を訪ねる。不在である。借りていた書物を返却。 Dr. Craig の氏名はこの日記以後見当らない。

十月十六日(水)、鈴木禎次から『太陽』届く。 Bernard Bosanquet (ボザンケット 1848-1923)読み始める。(「漱石文庫」東北大学附属図書館蔵には ""A History of Aesthetic"" 1892あり)""Studio""届く。」(荒正人、前掲書)


10月16日

「十月十六日 終日無客 夜秀真来る つとめて話を絶やさぬようにする苦辛(くしん)見えて気の毒なり」(子規『仰臥漫録』)


10月16日

セオドア・ルーズベルト米大統領、黒人教育家・改革論者のブッカー・T・ワシントンをホワイトハウスの晩餐会に招待。南部政敵の怒り。

28日、人種差別を不服とする暴動、死者34人。

10月16日

林董駐公使(51)、英外相ヘンリー・ランスダウン(56)と「日英同盟」交渉開始。


10月17日

「十月十七日 雨 鼠骨来る 鉱毒地より帰れるなり


午後碧梧桐来る 今日は神嘗祭なりと 夜紅緑来る これは山会参会なりと (略)」(子規『仰臥漫録』)

10月18日

海軍省、無線電信機を兵器として採用。火花式で、船舶間到達距離は約130キロメートル。

10月18日

伊藤博文(60)、横浜港から加賀丸で出航、日露漁業協商の交渉のため、アメリカ~ヨーロッパに向かう。翌年2月25日長崎に帰着。


10月18日

「十月十八日 (略)

秀真雨を犯して来る

(略)

鼠骨車にて来る 十一時頃車にて帰る 秀真泊る」(子規『仰臥漫録』)


10月18日

英、ウィリアム・ヘンリー・ウィルス、インペリアル・タバコ会社設立。

10月19日

河竹黙阿弥「弁天小僧」、深川座で無断上演。版権問題となる。

10月19日

この日の子規『仰臥漫録』


「十月十九日。子規はふと昔をかえりみた。

十六、七歳の頃は太政大臣になるつもりでいた。予備門入学後は哲学者たろうと思ったが、文学も男子一生の仕事と考えをかえ、元来好んでいた文学に志を移した - これは米山保三郎の影響であろう。

そののちも理論上は太政大臣を軽視するも、感情の上ではやはり無上の栄職となんとなく思いなしていた。だが昨年来、大臣も村長も公のためにつくすという点では軽重なきと悟るに至った - これは長塚節の態度から学んだのであろう。

もし自分が健康であり、文学で米代を得ることができない身の上であったなら、幼稚園の先生などをしてみたい。造林業もおもしろかろうと思う。

幼稚園の先生とはどこから出た考えかわからない。あるいは陸家の子供たちを見てのことか。造林業の方は、短歌の弟子蕨真(けつしん)の兄の影響ではないか。

しかし病は進む。子規の体はもはや穴だらけである。歯茎からの膿もとまらぬから、始終綿をちぎっては口に含んでいる。もはや左側の歯ではものが噛めない。」(関川夏央、前掲書)

10月20日

「十月二十日 晴 鼠骨来る 加藤叔父来らる 午後虚子来る

(略)

午飯三人共食う、・・・

(略)

晩餐虚子と共にす ・・・」(子規『仰臥漫録』)

10月20日

~1902年1月、アインシュタイン、シャフハウゼンにて臨時教職につく。

10月21日

各国公使に永代借地上の家屋に対する課税徴収を猶予せざる旨通告。英・仏・独など抗議。

10月21日

「十月二十一日 客なし 夜に入りて癇癪起らんとす 病牀の敷布団を取り代うることによりて癇癪を欺きおわる」(子規『仰臥漫録』)

10月21日

10月21日~22日 ロンドンの漱石


「十月二十一日(月)、「Hundred Pictures来ル」(「日記」)。

十月二十二日(火)、 ""Living London"" ed. by G.R. Sims. (London:Cassell & Co. 1901)と ""Cassell's Illustrated History of England"" 届く」(荒正人、前掲書)


10月22日

日本女子大学校、第1回運動会、東京飛鳥山。

10月22日

「十月二十二日 鼠骨来る ・・・」(子規『仰臥漫録』)

10月22日

第2回汎米会議開催(メキシコシティ)。


つづく

2025年1月9日木曜日

大船フラワーセンター 初春の花々 アイスチューリップ ヒナギク ビオラ パンジー ジャノメエリカ シクラメン アーコレード(桜) バラ ロウバイ スノードロップ サザンカ フユザクラ コブクザクラ スイセン 立寒椿 2025-01-09

 1月9日(木)晴れ

大船フラワーセンター、初春の花々。

▼アイスチューリップ(鉢植え)

咲き始めたばかりの初々しさに溢れてる。


▼ヒナギク


▼ビオラ
「パンジーとビオラ展」は1月26日まで

▼パンジー

▼ジャノメエリカ
干支の「蛇」にかけた縁起物展示の一つ

▼シクラメン

▼アーコレード(オオヤマザクラとコヒガンの交雑によりイギリスで作出されたらしい)

▼バラ

▼ロウバイ

▼スノードロップ
ひょっとしてピーク越えかもしれない

▼サザンカの一種
(まるで椿のようだが、花の散り方からしてサザンカ)

▼フユザクラ

▼コブクザクラ

▼スイセン

▼立寒椿


トランプがメキシコ湾を「アメリカ湾と呼びたい」と発言したことで、共和党議員たちがメキシコ湾をアメリカ湾と呼び始めた。

【円安で大安売り】 1棟買いに熱視線、中国人「不動産爆買い」の実態  1年間に首都圏で23物件を購入した富裕層も (有料記事 東洋経済オンライン)

大杉栄とその時代年表(370) 1901(明治34)年10月15日 「兆民居士の『一年有半』といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は咽喉に穴一ツあき候由われらは腹背中臀ともいわず蜂の巣の如く穴あき申し候 一年有半の期限も大概は似より候ことと存候 しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らずそれだけわれらに劣り可申すべく候 理が分ればあきらめつき申すべく美が分れば楽み出来申すべく候 杏を買うて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点の理がひそみ居り候」(子規『仰臥漫録』10月15日)

 

中江兆民『一年有半』

大杉栄とその時代年表(369) 1901(明治34)年10月13日~15日 「『続一年有半』は、無神無霊魂論から始まり、「自省の能」重視に到達した。思うに、「自省の能」は、一方において、人間の本来的自由、精神の自立を強調し、他方において、物質的存在としての人間の有限性を自覚する兆民の、”自由”と”物質的学説”とを結合する核として位置づけられるものであった。」 (松永昌三『中江兆民評伝』) より続く

1901(明治34)年

10月15日

この日付け子規「仰臥漫録」。中江兆民『一年有半』について書いたあと、自分の葬儀について書く。


「精神やや復した十月十五日、中江兆民『一年有半』と自分の墓について書いた。

中江兆民は、明治三十三年十一月からとまらぬ咳に苦しむようになっていた。明治三十四年に入ると咳に加えて喉にひどい痛みを覚えたので、四月に診察を受けた。喉頭癌であった。あとどれくらい生きられるかという兆民の問いに、医者は「一年半くらい」と答えた。書名『一年有半』の由来である。

「一年半、(・・・)若し短(たん)と曰(い)はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり」「鴫呼所謂一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無海上一虚舟」(『一年有半』)

明治三十四年五月に喉の切開手術を受けたあとは寝たきりとなり、豆腐しか喉を通らなくなった。枕を抱いたうつぶせの姿勢で兆民は原稿を書きつぎ、九月に『一年有半』を、ついで十月に『続一年有半』を刊行した。どちらもベストセラーとなったが、子規はまだこの段階では読んでいなかった。新聞広告と新聞の書評で知ったのみであった。

子規は書いた。

「(兆民)居士は咽喉に穴一つあき候由。吾等は腹背中臀ともいはず、蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も、大概は似より候ことと存候。乍併(しかしながら)居士は、まだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候」

『一年有半』は六、七万部も売れた。子規はそれに羨望したものか、今度はいちおう読んでから、「罵倒する程の書物」ではなく「真面目になってほめる程のものでもない」、「評は一言で尽きる。平凡浅薄」としるした原稿「命のあまり」を、十一月二十日付の「日本」に掲げた。

だが、子規にも死は切実なものとなりつつある。『仰臥漫録』十月十五日の項には、兆民批判とならべて自分の葬式についてしるしている。

葬式の広告は無用、何派の葬式でもいいが柩の前の弔辞無用、戒名無用、と書いたあと、こうつづけた。

「自然石の石碑はいやな事に候」

「柩の前に空涙(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候」」(関川夏央、前掲書)


「中江篤介(兆民)著『一年有半』(博文館)は、明治三十四年九月二日に出版されている。・・・・・

子規がはじめて兆民の『一年有半』に言及したのは、非公開の日記的随筆『仰臥漫録』においてである。明治三十四年十月十五日の条に左のごとく見える。この時、兆民は、まだ存命中。


兆民居士の一年有半といふ書物、世に出候よし、新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉に穴一ツあき候由、吾等は腹背中臀(しり)ともいはず蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も大概は似より候ことと存候。乍併(しかしながら)、居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申(もうすべく)候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば楽み出来可申候。杏(あんず)を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居(おり)候。


この記述によって、子規と兆民の接点と相違点が灰見えてくる(あくまでも子規の側からのものであるが)。子規は、先に示した『病牀六尺』の明治三十五年七月二十六日の条で(この時、兆民はすでに没している)。


病気の境涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。


と述べていた。ここに病子規の意地と矜持の二つながらを見て取ってよいであろう。兆民が『一年有半』の中で「一年半てふ、死刑の宣告を受けて以来、余の日々楽とする所は何事ぞ」と述べているが、子規の側からの争点は、ここである。旦夕(たんせき)に迫った有限の時間をいかに「楽む」か、ということである。子規は、有限の時間(命)への「あきらめ」は、「理」によって獲得し得るが、「楽み」は、「美」を解することによってのみ手中に収め得るというのである。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))


「子規は、兆民の死への対峙の仕方に、「美」がない、「理」があるのみだと言うのである。

『仰臥漫録』は公開されていなかったが、子規は、新聞『日本』紙上に、十一月「命のあまり」と超して、三回に渡って『一年有半』論を公表する。その第一回目に「居士(兆民-引用者注)は学問があるだけに、理屈の上から死に対してあきらめをつけることが出来た。今少し生きて居られるなら「あきらめ」以上の域に達せられることが出来るであろう」と結んでいる。

この「「あきらめ」以上の域」を、日々書くことで実行していたのは自分であるという自負が子規にはあった。明治三十五年の『病牀六尺』(七月二十六日)で、改めて子規は兆民について書いている。」(ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著))


「正岡子規の随筆『病牀六尺』は、明治三十五年(一九〇二)五月五日より九月十七日まで、百二十七回にわたって『日本新聞』に連載されたものである。高浜虚子の俳話集『俳諧馬の糞』(俳書堂、明治三十九年)の中に、虚子の「俳諧日記」なるものが収められているが、それを見ると『病牀六尺』が、折々、虚子によって「筆記」(口述筆記)されていたことが窺われる。・・・・・

(略)

明治三十五年七月二十六日の『日本新聞』には『病牀六尺』の第七十五回目が掲載されているが、その中に、左の一節が見える。


兆民居士(こじ)が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居(お)つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫(か)の天命を楽(たのし)んでといふやうな楽むといふ域には至らなかつたかと思ふ。(中略)居士をして二三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の墳涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。


子規は、境涯が似ているということもあり、中江兆民、そしてその著作『一年有半』に大きな関心を示している。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))


「子規がここでいう、「夫の天命を楽し」む境地とは、儒教の経典の一つ、『易経』の「天を楽しみ、命を知る、故に憂えず」の一節を意識したのであろう。さらに、言えばこうした儒学的「楽」の概念を、より一般に具体化して紹介した書物に儒学者貝原益軒の『楽訓』がある。江戸時代のベストセラ-であった益軒本の影響力は、明治半ばに至っても、まだ教護層には残っていたようで、子規の在籍する新聞『日本』とは提携関係にあり、子親も意識したはずの政教社の志賀重昂のベストセラー『日本風景論』(明治二十七年)の扉にも、『楽訓』の一節は引かれ、外なる欲望の刺激による楽しみでなく、内なる楽しみの好例として、風景を愛し、それを詩歌に詠む日本の伝統を賞揚していた。

子規は、こうした先賢の言を意識しながら、病を受け入れつつ、病の中でも楽しんで生きる境地を模索し、得ることができた、と言いたいのである。」(ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著))

「「十月十五日 (……)

兆民居士の『一年有半』という書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は喉咽に穴一ツあき候由(よし)われらは腹背中臀(はらせなかしり)ともいわず蜂の巣の如く穴あき申候」

兆民にむかって、穴一つで騒ぎ立てるなと言わんばかりに書いている。さらに、

「一年有半の期限も大概は似より候ことと存じ候」

と、余命も同じ位だとした上で、兆民の書物に痛烈な批判の刃を突きつけて、

「しかしながら居士はまだ美という事少しも分らず(…‥)」

と断じている。

この 〝美が分らない〞ということは、どういうことか。

つまり、兆民居士は、理ばかりで人生を組み立てていくので、死についての〝あきらめ〞をつけることはできても、〝人生の楽しみ〞を得ることはないと、子規は言っているのだ。

まさに - 平安の昔に背かれた〝遊びをせんとや生まれけむ〞(『梁塵秘抄』) の思いである。

子規さんは、理屈をこえた楽しみは、まことに日々の日常の中で感じよ、と日記に書いている。

「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処(ところ)何の理窟か候べき」 - と。

この〝日常の楽しさ〞〝日常の美しさ〞こそ、子規さんがかかげて止まない俳句改革、俳句実践の目指す世界にちがいないのである。」(早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」)

ついで、子規は、死後の葬式などについて記す。

一、葬式の広告無用。

二、何派の葬式をするとも、柩の前で弔辞、伝記の類を読みあげ無用。

三、戒名というもの無用。

四、「自然石の石碑はいやな事に候」。

五、柩の前で通夜無用。

六、「通夜するとも代りあひて可致」。

七、「柩の前に空涙は無用に候。」。

八、「談笑平生の如くあるべく」。

「電話にて虚子を招く 来る 午後秀真(ほつま)来る

今夜はホトトギス事務所にて山会(やまかい)あるはずなれば夕刻電話にて「ヤマクワイコイ」と言いやる 碧梧桐一人来りしのみ」


つづく