北の丸公園 田安門前千鳥ヶ淵 2013-10-18
*明治37年(1904)
2月25日
・「義州開市に関する韓国外務大臣の宣言」。韓清間の交易地の平安北道義州の開放。
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2月25日
・住友吉左衛門の寄付により、大阪府立図書館開館式。
3月1日閲覧開始。
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2月27日
・政府、日韓議定書を官報告示。秘密協定だが帝国新聞が大要発表したため。
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2月27日
・松山捕虜収容所設置。所長陸軍騎兵大佐河野春庵。
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2月28日
・韓国皇室、皇帝が10万円、皇太子が5万円を日本軍へ献金。
これに対して日本政府は、3月、特派大使として枢密院議長伊藤博文を渡韓させた。
天皇の親書を携えた伊藤は、天皇からの贈物として30万円を皇帝に差し出し、韓国の政治改革について意見を述べた。
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2月28日
・村井弦斎「国民の外交」(「報知新聞」明治37年2月28日)。
外国人を見たら英国人であろうと米国人であろうとロシア人であろうと、胡散臭い者と見なし、恰もスパイのように扱う愚を戒め、防諜活動とは他人を疑うことではなく、常日頃の自身の言動を慎むことだ。
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2月28日
・週刊『平民新聞』16号発行。
社会主義研究会開催(毎週日曜日夜)と「平民文庫」出版を予告(第1篇は『社会主義入門』定価10銭、以降続刊され8種類、発行部数1万5千余冊となる)。
「社会主義を最も善く、簡短に、明白に、平易に、通俗に、而も面白く説明した小冊子が欲しいとは我等が平生の願いであった。然るに先頃、アメリカのシャトルの『社会党』という新聞が『社会主義のイロハ』A.B.C of Socialismと題した四個の短篇をその紙上にのせた。その筆者はいずれも当代の名士であって、あたかも我等が平生の願いに適った文字である。そこで平民杜の編集局において四人分担でこれを翻訳し、それに『社会主義と中等社会』の一篇を加え、また安部氏がかつて大阪毎日新聞にのせた短篇を乞い得てこれに加え、六篇を合して一小冊子となし、これを「平民文庫」の第一巻と名づけた。その目録左の如し。
共同生産 西川光二郎
階級戦争 堺 枯川
社会党の運動 幸徳 秋水
社会主義のイロハ 石川三四郎
社会主義と中等社会 堺 枯川
社会主義論 安部 磯雄
さて我等は平生思う、社会主義者は常に伝道者たる覚悟をもたねばならぬ。家庭において、近隣において、友人間において、我等は常に一人たりとも多くの同主義者を作るの心がけが無くてはならぬと。・・・」
「早稲田中学における一珍事」
早稲田中学である3名が平生社会主義の見地から非戦論を唱え、倫理学の教師が日露戦争を義軍と称したのを反駁し、また校内の回覧雑誌に社会主義的な意見を発表した。
これが原因でこれら3名が他の生徒から殴打された事件。
暴行の現場に居あわせた校長は制止もせずに傍観し、生徒監督は暴行学生に「殴打せずとも良いかったのに」というにとどまり、生徒が「愛国心発露の結果」と答えたのを聞いて笑ってすませたという。
記者は「少年生徒が戦争の熱に酔ふて浅薄なる愛国心に駆られ、他の反対意見を有せる同学生を殴打したりというだけならば、……吾人は深く意に介せざるべし。然れども校長職員がこれを見て制止せず、これを黙許し或は使嗾(しそう)したる形跡あるにおいては吾人ただ少年の暴行としてこれを看過する能はざるなり」と、学校当局の弁明を要求した。
3名は殴打されても平然として抵抗しなかった。
そればかりでなく、3名が社会主義者たるの故を以て乱打されたのを知って、「然らば予もまた社会主義者なり」と自ら名乗り出で、ために同じく暴行をうけた生徒もあった。
記者はその「操守の厳」なるに感ずるとともに、「学校がその生徒を謀叛者の如く扱い直ちにこれに刑罰を加えんとするは、その野蛮、その無頼、実に言語に絶せり」と糾弾している。
3名のうちの1人は、後年、ドイツ語学者・民衆娯楽研究家として有名となった権田保之助である。
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2月28日
・(露暦2/15)ロシア、ガボン提出「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」設立許可願い許可。
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3月
この月
・北洋常備軍右鎮、整う
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・吉沢商店、日露戦争の撮影班を現地に派遣。
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・東京市街鉄道、浅草まで貫通。馬車鉄道廃止
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・広島鉄山払い下げ。1905年、米子製鋼所となる。
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・紡連、棉花為替に関する請願書提出。
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・吉野作造「露国の満州占領の真相ほか」(「新人」)。
満州は日本の商工業存亡の分岐点、専制・侵略主義ロシアの敗北はロシア人民に自由をもたらしヨーロッパ・アジアに平和をもたらす。
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・坪内逍遥(45)、東京座で「桐一葉」初演。
この年、舞踊劇振興を提唱して、「新楽劇論」「新曲浦島」刊行。
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・山川登美子、上京。
4月、日本女子大学英文科予科に入学。
明治35年12月22日、夫・駐七郎と死別、明治36年生家に復籍。
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初旬
・斎藤緑雨の病状悪化。
3月初、馬場孤蝶への手紙には「諸薬効を奏せずやゝ危険の状態に陥りたる事を御承知置き被下度候」とあり、与謝野寛へも知らせてくれと書いてあった。
翌日、馬場が行って見ると、緑雨は、熱が高く、衰弱し、この先どうなるか分らないと言った。
その後も病状の変化はあったが、馬場は、6月頃か或いは暮れ頃までは何とか持つだろうと思った。
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3月1日
・第9回衆議院総選挙。
政友会133、憲政本党90、帝国党19、甲辰倶楽部39、無名倶楽部25、自由党18、無所属小会派55議席獲得。
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3月1日
・内村鑑三「世界歴史より観察したる日本の外交戦略」(英字新聞「神戸クロニクル」)
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3月1日
・大蔵省、第1回国庫債券1億円発行。
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3月1日
・アメリカ、グレン・ミラー、誕生。
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3月2日
・柳田国男(28)、日露戦争勃発により、横須賀の捕獲審検所検察官となる。
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3月2日
・フィリピン、通貨法制定。
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3月3日
・啄木(18)、『戦雲余録』(『岩手日報』~19日、8回連載)。
「二月に日露の開戦。無邪気なる愛国の赤子、といふよりは、寧ろ無邪気なる好戦国民の一人であった僕は、”戦雲余録”といふ題で、何といふことなく戦争に関した事を、二十日許り続けて書いた。」(41年9月16日「日記」)
後、同年9月5日『時代思潮』掲載のトルストイの日露戦争論(英文)等の影響を受け、好戦思想から転換。
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3月4日
・連合艦隊、第4次旅順口攻撃作戦発動。
この作戦は、「旅順方面ノ敵ハ退嬰シテ出動セザル」ことを前提とした「威圧作戦」。
7日に出撃。
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3月4日
・二葉亭四迷(長谷川辰之助)、論説担当内藤湖南の紹介により大阪朝日新聞東京出張所員として入社。
月給希望通り100円。東シベリア・満州に関する調査とロシア新聞の最新情報翻訳。但し精密過ぎて一般読者には不評。
最初の記事は8月20日。
明治36年7月18日に川島浪速主宰する北京警務学堂の提調を辞職、7月21日に北京を出発。1年3ヶ月足らずの大陸生活。
「真実、提調時代の二葉亭は一生の中最も得意の時であった。俸禄も厚く、信任も重く、細大の事務尽(ことごと)く掌裡に帰して裁断を待ち、監督川島不在の時は処務を代理し、隠然副監督として仰がれていた。(・・・)仮に川島或は僚友との間に多少の面白からぬ衝突があったとしても、其衝突は決して辞職に値いするほどの大事件では無かったらしい。ツマリ二葉亭の持前の極端な潔癖からして夫(それ)ほどでもない些細な事件に殉じて身を潔くする為めらしかった」
<間もなく日露の国交が破裂した。(・・・)予てから此の大破裂の生ずべきを待設けて晴れの舞台の一役者たるを希望していたから、此の国交断絶に際して早まって提調を辞して北京を去ったのを内心窃(ひそ)かに残念に思っていたらしかった。「恁(こ)う早く戦争が初まるなら最(も)う少し北京に辛抱しているのだった」とは開戦当時私に洩らした述懐であった>(内田魯庵『思ひ出す人々』)
二葉亭は外国語学校でロシア語を学び、内閣官報局や東京外語ロシア語教授を経て、北京やハルビンに滞在。
一方で坪内逍遥に師事し、20年近く前、ツルゲーネフの翻訳「あひびき」や小説「浮雲」を書き、文芸界に強い影響を与えた。
だが、「文学は男子一生の仕事にあらず」と考える二葉亭は、ずっと創作の筆を執らなかった。
彼は入社すると張り切ってロシア事情について、資料をあさり、調査に没頭して重厚な記事を書き始めた。
しかし、世間の関心は戦いの行方や出征兵士の安否であり、二葉亭の詳細で重々しい分析記事は不向きであった。
樺太についての続き物用の記事では、その地理、沿革、施設、産物、さらには山に植わっている木の種類まで詳しく書かれ、さすがの三山も「参謀本部か外務省向き」と評したほどで、記事というより論文だった。このため滅多に新聞に掲載されなかった。
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3月4日
・帝国軍人救護会創立。
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3月4日
・「昔の戦争は軍人と軍人との戦争に外ならざりしも、現今は国民と国民との戦争となれり」というが、国民に期待されているのは、募債に応じることにとどまっている(『東京朝日新聞』)。
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3月5日
・トロツキー「われわれの「軍事的」作戦」(新『イスクラ』)。日露戦争への党の態度批判、プレハーノフの不快感。編集部から排除される。
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