江戸城(皇居)東御苑 2013-12-04
*新首相アランダ伯の政令第1号
「爾後、首斬り役人は、ツバ広帽子と長マントを着用すべし」
「首相に就任したアランダ伯・・・
・・の政令第一号は、
爾後、首斬り役人は、ツバ広帽子と長マントを着用すべし。
というものであった。
いかに伝統的服装といえども、首斬り浅右衛門の制服ということにされたのでは、マドリードの人民諸君も、次第に遠慮をして行くであろう。
・・・、服装や頭髪の長さ、短さというものは、つねに階級的、あるいは政治的意味をもつものである。」
第二の仕事は、3日間にわたる大暴動の原因調査:
大量のアジビラが各地で発見される
「そしてアランダ伯の、第二の仕事は、この三日間にわたる大暴動の原因の調査であった。この調査、あるいは捜索をはじめてみると、意外なことに、大量の印刷された宣伝文書、つまりはアジ・ビラが発見された。それもマドリードだけではなく、各地で発見された。
結局、この暴動は、帽子とマントをめぐっての、無邪気な、オペラ・コミック式の、いわば自然発生的なものではない、というのが調査の結論となった。
自然発生的なものでないとなれば、それは陰謀である。計画的な体制顚覆のための大陰謀である、ということになる。
誰が、何のために……? ということが問題になって来る。
しかし、果して陰謀であったか。陰謀をたくらんだのは、誰か? 体制側でないという証拠はない。アランダ伯自体が、そういう文書を秘かに刷らせて、各地にかくしておくためにばらまいたものではなかったか。」
首相としての第三の仕事は、完全な計画的な陰謀であった
「・・・このアランダ伯なるゴヤの同郷人は、マキアヴェルリを思わせるなかなかしたたかな政治家であって、首相としての第三の仕事は、これはもう完全な、計画的な陰謀であった。
その陰謀は、まず文書偽造からはじまる。彼は、仇敵イエズス会総長の職にあったロレンツォ・リッツィなるものの手紙を偽造するのである。しかも、かくするについて、フランス王ルイ一五世の外務大臣ショアズールなる者の諒解をとっている。というのは、その偽造した手紙の内容が、いささかならずブルボン家にとって具合のわるいものであったからである。
この偽造文書の内容は、スペインの現王であるカルロス三世は、父であったフェリーペ五世の子ではない、という、まことにおだやかならざるものであった。要するに不穏文書である。怪文書と言ってもいいであろう。
では誰の子か? それは前に触れた、カルロス三世は、フェリーペ五世の後添いであるイサベラ・ダ・ファルネーゼとねんごろだった、怪憎アルペローニ枢機卿兼首相とのあいだに生れたのだ、と書いたのであった。女王の浮気の結果生れた私生児だというのである。それはひょっとすると本当だったかもしれない。
・・・」
「ではこの陰謀の目的は何であったか。
イエズス会弾圧である。」
1767年4月1日深夜~2日朝、イエズス会追放クーデタ、会士6千人が一斉海外追放
「一七六七年四月一日の深夜から二日の朝にかけて、作戦は全国に発動された。約六〇〇〇人のイエズス会士が逮捕され、兵士の銃剣によって海港へ護送をされた。港口には軍船が待っていて、国外追放である。
体制側のクーデターと言ってよいであろう。作戦は厳秘のうちに準備され、一旦それが敢行されると、スペイン全体は茫然としなければならなかった。
・・・イエズス会は、スペイン国内の、別の一国でもあったのである。
それが革命であったか、反革命であったか、それはこの場合にもどちらとも言えないであろう。
しかし、革命的な時代が来ていたことだけはたしかである。ゴヤは二一歳である。」
あまりに強大で裕福であったが故に追放されたイエズス会
「イエズス会が何故スペインを追われたか。
もし一言だけ言うとすれば、それはあまりに強大かつ裕福であったからである、ということになるであろう。組織としては軍隊式の命令系統をもち、財政的には、たとえば植民地にあっては商社のような機能を果していた。
・・・
この王は、イエズス会追放につづいて異端審問所も廃止するのか、と遠まわしに問われたとき、
「スペイン人たちは審問所の存続を望んでいる、それに、そんなものがあってももうおれの邪魔にはならない。」
と語っている。」
イエズス会追放後は教育(高等教育)は王権によって再組織される
「教育、特に高等教育と称されるものがこの教団によってほとんど独占的に運営されていて、この教育の、時代に対する不適応性と無効性が誰の眼にも明らかなのであってみれば、教育が王権によって組織しなおされることは、啓蒙のためには革命的な効果をもつ筈であった。時代は、ピレネーの向うですでに”啓蒙時代”であったのである。」
衝撃的であった、官憲による聖職者の逮捕と護送の光景
「しかしおそらく、二一歳になる青年ゴヤをも含む一般のスペイン人民にとって、もっとも衝撃的であったのは、官憲による聖職者の逮捕と護送の光景であったであろう。」"
"「昨日までの絶対的権威が、今日は銃剣で追われて行く。一度それを見た人は、決して忘れないであろう。
・・・」
教皇権至上主義は打破されたが、その教皇権至上主義とは・・・。
「教皇権至上主義は打破された。この教皇権至上主義ということばは、英語では ultramontane (スペイン語で ultramontano)というのであるが、これは元来字義通りには、”山向うの人”、つまりは”アルプス南方の人”という意味であり、アルプス南方の人、すなわちローマにいる教皇を意味するという次第であった。
・・・”教皇権至上主義”と訳されるこのことばが本来的にもっている、いわば地理的な具体性、まことにぴったりしたその表現の具体性が、”教皇権至上主義”と訳されたのでは、まるっきり欠落してしまうのである。」
”夜とイエズス会は必ず戻って来る”という諺のあることを覚えておかねばならない
「ほとんど、誰もが動かなかった。聖職者をも含めて、民衆の全体が茫然としてしまった。その措置(*イエズス会追放)が、あまりに迅速かつ出し抜けであり、あまりに全的であったために、ひそかにその専断さ加減と乱暴さを歎く人はいても、抗議に出るということはなかった。・・・
だがしかし、われわれとしてはスペインには、”夜とイエズス会は必ず戻って来る”という諺のあることを覚えておかねばならない……。」
ゴヤが目撃したこと
「二一歳のアラゴンからポッと出の青年に、フランス人の王、カルロス三世とアランダ伯との深謀遠慮のことなどは、どうからみあわせようにもやりようがない。それは無理というものである。
ただこの青年に、単なる、サラゴーサ式の喧嘩傷害沙汰だけではなくて、民衆というものがあること、またこの民衆が民衆規模の喧嘩傷害沙汰を起したとき、それが単なる喧嘩傷害沙汰にとどまるものではなくて、それは暴動という政治のことばで呼ばれるものになる、ということくらいは最小限、教えたであろう……。
また、民衆が民衆規模で動き出したときの、動く深淵のような不気味さというものもまた……。」
彼が見た現実は、心底深くしまっておかなければならない
「・・・こういう街頭風景が、それがいかに歴史的なものであり、かつ画家の興味をたとえ惹くものであったとしても、そういうものを描くことは、あるいは描いてもこの当時にあって絵としては扱われなかった・・・
・・・
・・・現実などが顔を出してはならないのである。自分がわが眼で見たものなどは、いち早く消去してしまわねばならぬ。人間の日常の生活が絵の主題となりうるためには、一世紀過去へ戻るか、それとも一またぎに未来へとび込まなければならない。
彼が見た現実は、心底深くしまっておかなければならない……。」
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